あわいを往く者

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黒の黄昏 第一話 二人の弟子

  
  
  
    三  襲撃
  
  
 ダン・フリアは、郷士の息子である。
 ダンの父親のアーロンは、かつてこの辺りを治めていたサラン領主の右手とまで謂われた男で、「鷹」の異名を持つ人物だった。曰く、鷹のように鋭い目を持ち、よく風を読み、抜け目なく獲物を捕らえる、と。
 十年前、帝国軍が天下平定を旗印にこの辺りに侵攻を始めた時、アーロン・フリアはいち早くサランの劣勢を読み取り、帝国側に寝返った。人々が「裏切り者」と彼を非難する間もなく、サランの町は焼け、城が落ちた。かつての同胞と袂を分かって僅かふた月、彼はマクダレン帝国の式服を身に纏って故郷に凱旋した。
 領主の血をもって争いに幕が引かれたのち、この辺りの町長まちおさに指名されたのは、意外なことに、最後までサランの城を守り、おのあるじの死を見届けた者どもだった。領地再編の混乱の中、造反者では人心を上手くまとめることができない、そう皇帝は考えたのだろう。
 一見、過去の遺恨をそのまま火種として抱え込んだかのように見えた人事ではあったが、それら地方の長達の傍には漏れなく監視役が据えられた。ダンの父親をはじめとする「忠臣」達が皇帝陛下の名の下に、各地の治安を守る任についたのだ。
  
 ――確たる証拠がなければ、ダンとその一味に手出しはできない。
 暗闇の中、シキはそうおのれに言い聞かせると、強く拳を握り締めた。
 すっかり日が暮れた町外れ、道往く人々の姿も消え、辺りに動くものは何もない。大地を渡る風の音だけが、時折もの悲しい旋律を奏でている。
 ひとけの絶えた街道から少し離れた森の中で、シキは昏い眼差しを前方に投げた。そこには、ダンをはじめとする町のならず者が五名、黒々とした影を揺らしながら、今か今かと獲物を待ち構えている。
 イの町の警備隊は当てにできない。シキは憂いを静かに吐き出した。普段町で会う警備隊員らは皆、礼儀正しく正義感に溢れた好漢ばかりだ。だが、彼らはほぼ全員がフリア家子飼いの者であったし、仮に彼らが自らの正義を全うしようとしたところで、最終的な判断をくだすのはダンの父親なのだ。それがどのようなことを意味するか、解らないシキではない。
 まさか自分が、この連中と係わり合いを持つようなことになるなんて。昨日までは想像もしていなかった事態に、シキの溜め息はますます深くなるのだった。
  
 やがて、イの町がある西の方角に小さな影が動くのが見えた。
「時間通りだ。トーマのヤツ、上手く時間を稼いでくれたみたいじゃねぇか」
 得意げなダンの声が、夜のしじまを震わせる。
「でもよ、いくら満月だからって、夜道を独りでよく行くよな。この時間なら普通はイで泊まるだろう?」
「それがよ、どうしてもイを素通りしたいらしいぜ。えらく嫌われたもんだよなあ?」
 何が可笑しいのか大仰に笑い合う一同を軽蔑の目でねめつけてから、シキは周囲に目を凝らした。月明かりに照らされた灰色の世界に存在するのは、自分達の他には件の旅人ただ独りのみ。道行きを相当急いでいるのであろう、胡麻粒のようだったその影はみるみるうちに大きくなり、今やその背格好が判別できるほどになってきた。
 ――なるほどね。
 シキはすぐに納得した。魔術の手助けが必要な理由について、ダンは人殺しを避けるためだの何だの言っていたが、本音は「相手が手強そうだから」の一言に尽きるのだろう。遠目にも判る、上背のある逞しい体格は、ここで手ぐすね引いている悪漢どものうちの誰よりも強そうに見えた。豆の蔓のような夜盗もどきが五人揃ったぐらいでは、あの丈夫に勝てやしないだろう。
「おい、シキ」
 ダンが急いた様子でシキを振り返った。「さっさと呪文を唱えろよ。俺達は、あいつが眠ったのを確認してから突撃する」
 遂に決行の時がやってきたのだ。カラカラに乾いた唇をそっと舌先で湿し、大きく深呼吸をしてから、シキは静かに瞼を閉じた。
 ――全て承知して、ここに来たのではなかったのか。どのような結果になろうと、それを真っ向から受け入れる覚悟で、今この場に立っているのではなかったのか。
 おのれにそう言い聞かせて、目を開ける。それからシキは、ゆっくりと両手を身体の前に差し出した。
 夜目にも白い指が、そっと空中に文様を描く。糸を紡ぐように、布を織るように、複雑な軌跡を描きながら、大気に術の印を刻む。それに合わせて、歌うような旋律が風に乗った。
 ダン達が固唾を呑んで見守る中、早足で進み続けていた旅人の歩みが鈍った。躊躇うように二歩を進んでから、がくりと大地に片膝をつく。
「今だ、行くぞ!」
 得物を手に、勝ちどきの声を上げて、五人が藪を飛び出していった。
  
 賽は投げられた。
 シキは、おのれの術の成果に思わず泣きそうになった。だが、の涙はまだ早い。ここからこそが正念場なのだ。
 もう一度大きな動作で両手を閃かすと、シキは先ほどとは違う呪文を唱え始めた。全身全霊の力を込めて、「睡眠」の術を放つ。狙うは、街道に向かってひた走るダン一味。
 一番後ろを走っていた一人が、ばたり、と倒れた。次いで、二人。驚いた一人が足を止め、そのままぱったりと倒れ伏す。だが、先頭を走るダンに変化はない。
 ――術が届かなかったか!
 舌打ちと同時に、シキも木の陰を飛び出した。悪い足場をものともせずに、月明かりを頼りに街道を目指す。
「な、なんだぁ!?」
 ようやく異変に気づいたダンが、酷く狼狽しながら来た道を振り返った。累々と地に横たわる仲間達を目にし、息を呑む。と、自分の背後に不穏な気配を感じ取ったのだろう、ダンは驚きの表情で再び進行方向を向いた。
 そこには、術をかけられ地に折れたはずの旅人が、膝の土を払って立っていた。
 ダンがすっかり慌てふためいた様子で後ろを振り返った。そして、縋りつくような眼差しをシキに投げつけてきた。
 だが、シキはそれを容赦なく振り払い、新たなる呪文の詠唱を開始する。旅人ではなく、ダンを見据えて。
「シキ、てめぇ、裏切ったな!」
 ダンが絶叫するのとほぼ同時に、旅人が短剣を抜いた。そうして、ゆっくりとダンとの距離を詰め始めた。
 隙のない構えと、全身から放たれる並々ならぬ気迫。鍛え上げられた身体は、外套の上からでも窺い知ることができるほどだ。これまでどれほどの苦難を乗り越えてきたのであろうか、旅人は一切の動揺を見せることなく、じりじりとダンに迫りゆく。
 ――ちょっと待って。
 今まさに呪文を唱え終わらんというところで、シキは慌てて詠唱を止めた。ダンと旅人との距離が近過ぎることに気がついたのだ。
 このままでは、旅人も術の巻き添えになって眠ってしまうことになる。だが、それでは困るのだ。ダンの悪事の証人になってもらうためにも、彼には一部始終をしっかりと目撃してもらわなければならない。
「旅の方、下がってください!」
 シキの叫び声に、おろおろと慌てふためくばかりだったダンが我に返った。及び腰のまま悲鳴とも雄たけびともつかない声を上げて、手に持った剣を出鱈目に振りまわす。旅人が間合いを計るべくほんの少し身を引いたのを見てとるや、ダンはぐるりと勢い良く回れ右すると、これまでとは比べ物にならないほどの俊敏さでシキに向かって突進してきた。
 予想もしていなかったダンの行動に、シキの反応が一瞬遅れた。その僅かな隙を狙って、ダンの体当たりが炸裂する。咄磋のことに受け身も取れず、シキはそのまま一丈ほど後方に思いっきり吹っ飛ばされた。
 星空が暗転したかと思うと、次の瞬間、強い衝撃が背中に襲いかかる。全身を駆け巡る痛みに、悲鳴を上げるどころか息をすることすらできない。喘ぐように喉の奥をせり出しながらも、シキは涙に滲む視界を必死で巡らせた。ダンを逃がすわけにはいかない、と。
 むくり、と目の端でダンが起き上がるのが見えた。
 遅れじと死にもの狂いで立ち上がろうとしたシキを、激しい咳の発作が見舞った。それと引き換えに胸に流れ込んでくる、新鮮な空気。ようやく身体の感覚が戻ってきたと安堵する間もなく、今度はシキの両腕に激痛が走った。
「やい、お前! 刀を捨てろ!」
 背後にまわり込んだダンが、シキの腕をねじり上げていた。体当たりの打撃を真っ向から受けた部分をひねるようにして掴まれて、シキの喉からうめき声が漏れる。
「刀を捨てろってんだよ! こいつがどうなってもいいのか!?」
 月の光を映し込んだ刃が、シキの喉元に突きつけられた。
 旅人は小さく肩をすくめてみせてから、表情一つ変えずに手に持った短刀をそっと地面に落とした。
「へ、へへへ、へへへへ、分かりゃいいんだよ、分かりゃ」
 ダンが笑い声を上げた拍子に、剣の切っ先が僅かに緩んだ。即座にシキは、痛みをこらえて思いきり身をよじる。だが、ダンの手から逃れられたと思う間もなく、シキはあえなく大地に引き倒された。短刀を拾おうと屈みかけていた旅人も、渋々ながら再び身を起こす。
「残念だったな、シキ。俺を甘く見るんじゃねぇぞ」
 虚勢ともとれる嘲笑を吐き出しながら、ダンが剣を構え直した。地に伏すシキの外套を残る左手で器用に肩まで脱がせると、後ろ手に押さえ込んだ両の腕を外套でぐるぐる巻きにして、彼女の自由を奪う。
「さて、仕切り直しだ」
 そう得意そうに胸を張ったダンの眉が、不意にひそめられた。
 腕の痛みに顔をしかめながら、シキも顔を上げた。旅人も、怪訝そうに遥か東の地平線を見やる。
 遠くから微かに聞こえてくるのは、数頭入り乱れる馬の足音、人の声、そして……呼び子の笛の音。
「シキ、お前、まさか……」
「警備隊に密告してもいい、って言ったろう?」
 苦虫を噛み潰したかのような表情で目を剥くダンに、シキは涼しい顔で返答した。「だから、そのとおりにした。ただし、イではなくサランの警備隊に」
「きさまぁ!」
 怒りに拳を震わせながら、ダンはもう一度東を向いた。煌々と降り注ぐ月の光の中、彼方からこちらに向かって着々と何かが近づいてくるのが見える。
 次いで、彼は旅人を見やった。心持ち低い姿勢でダンを睨みつけながら、なお足元の短剣に注意を払い続ける屈強な男を。
「やい、お前、動くなよ! この女の命を助けたかったら、動くなよ!」
 そうがなり立てると、ダンはシキを引き起こした。「俺は本気だからな! お前が動けば、こいつを殺す! 動かなきゃ……、こいつはあとで無事解放されるってわけだ。いいな、解ったな!」
 ダンは外套の戒めごとシキの腕を掴んで、森のほうへと引っ張っていこうとする。全力で抗おうとしたシキだったが、ふと、おのれの目的を思い出して、下唇を噛んだ。
 ――ここで逃げられるわけには、いかない。
 捕り手達が追いつくまでもはや数刻、だが、ダンは足が速い。森の奥深くに逃げ込まれでもしたら最後、明日の朝には、彼は自宅でそ知らぬ顔をして豪勢な朝食を食べていることだろう。
 が、人質を連れて行くとなれば話は別だ。さしものダンの逃げ足も鈍るはず。途中で置いて行かれたとしても、追っ手を導くしるべになれるだろう。シキは意を決すと、ダンに不審がられない程度に抵抗しつつ、彼に従って木々の合間へと分け入った。
  
  
  
 乱暴な音を立てて、小屋の扉が開かれる。
 戸口には、月の光を背に受けた男が一人。両腕に抱えた大きな荷物を乱暴に床に落とし、それから小屋の扉を閉める。
 そこは、人ひとりが住むに丁度良い大きさの、小ぢんまりとした部屋だった。二方の窓から差し込む月明かりが、部屋の内部を淡く浮かび上がらせている。簡素な戸棚に、小さな食卓、優に四人は腰かけられる長椅子の前には暖炉もある。一見きちんと片付けられたように見える室内は、物が無い故と言うべきか、部屋の隅には幾つもの酒瓶が転がっている有様だ。
 やれやれ、と一息吐き出して、男が床に屈み込んだ。荷物の傍らに膝をつき、ポケットからナイフを取り出す。
「もう、いくら騒いでも大丈夫だぜ」
 呻く荷物に向かって、ダンはいやらしい笑みを浮かべた。そうして、ナイフで猿轡を切る。
 ようやく自由を取り戻した口元を確かめるかのように、シキは大きく息を吸い込んだ。
  
 シキがおのれの判断が間違っていたことを知ったのは、森に入ってすぐだった。前方の低木に隠れるようにして、一台の荷馬車が停められていたのだ。
 今回の襲撃にあたって指定された場所に、ダン達が連れだって森から現れたことを思い出し、シキは自分の浅慮を心の底から呪った。もはや、ダンの悪事を白日の下に晒すなどと言っている場合ではない。かつてない窮地に自分が立たされていることに気づき、シキは大慌てで踵を返そうとした。
 だが、シキがダンの手を振り払うよりも早く、足払いが彼女を襲った。草の上に倒れ込んだシキを、ダンが荷台に担ぎ乗せる。鞭をふるう音が慌ただしく辺りに響き、車輪が激しく軋みだす。
 そうして、荷馬車は木立の向こうへと姿を消した。
  
 そして今、どことも知れぬ小屋の中にシキはいた。
 両腕は相変わらず外套でがんじがらめにされており、呪文を唱えようにも指が自由に動かない。冷たい板張りの床に横たわりながら、シキは無言でダンを見上げた。
「お前のせいで、儲けがパァだ」
 忌々しげにそう吐き捨ててから、ダンがシキの上に屈み込む。すかさずその側頭部めがけてシキは蹴りを繰り出した。全体重を右足に乗せるつもりで、ありったけの力を込めて、身体をひねる。
 見事な軌跡を描いて、シキの臑がダンの横っ面を捕らえた。尻尾を踏まれた猫のような声とともに、ダンが床へと倒れ込んだ。間髪を入れずシキは大きく両足を振り上げ、反動をつけて上体を起こす。
「ふ……ふざけんな!」
 シキが立ち上がろうとするよりも早く、怒りで顔を真っ赤にさせたダンがのっそりと身を起こした。
 やはり体勢に無理があったか。シキは小さく舌打ちをした。普通ならばこんな奴、一撃でお仕舞いのはずだったのに。悔しさに歯軋りするシキの眼前、ダンが拳を固めて大きく振りかぶった。顔面めがけて打ち下ろされた打撃をぎりぎりのところでかわしたものの、シキは再び床の上に押し倒されてしまった。
「このお礼は倍にして返してもらうぜ」
 肩で息をしながら、ダンがシキの上にのしかかってきた。両手でシキの両肩を、両膝でシキの両足を、それぞれがっちりと押さえ込んで、会心の笑みを浮かべる。
「あいつらに味わわせてやれないのは予定外だが、仕方ないか」
「予定外!?」
「ああ。一仕事のあと、皆であんたをマワすのを楽しみにしてたんだがよ」
 涎をすする音を漏らしてから、ダンがせせら笑った。「そんなに暴れんなよ。あちこち痛ぇだろ?」
「じゃあ、放して」
「それはできねぇなあ」
 下卑た笑いとともに、無骨な男の手が、シキの胸へと伸びてくる。
 シキの全身が、嫌悪感から総毛だった。痛みに耐えて必死で身をよじるも、押さえられた肩と足首が、ぎしぎしと嫌な音を立てるのみ。背中と床に挟まれた腕はぴくりとも動かすことができず、彼女に打つ手はただ一つも残されていない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう! 恐慌状態に陥ったシキは、ただひたすら思考を空回りさせるばかりだ。
「おもしれぇよな。トーマのところといい、ウェンのところといい、あんたといい、『誰々を仲間から外してやってもいい』って言うだけで、ホイホイ言うことを聞くんだもんな」
 ダンが、至極楽しそうに、くっくっと喉の奥を鳴らした。
「あいつら、自分から進んで俺の傍にいるのに、馬鹿じゃねぇの?」
 その言葉に、シキは大きく目を見開いた。おのれがするべき事が何であったか、今ようやく気がついて。
 ダンを罠に嵌めて、捕縛する。そんなことは最後の最後で良かったのだ。まずは、何が何でもレイを探し出し、彼と話をするべきだったのだ。
 レイと正面きって向き合うこともせずに、短絡的に問題を解決しようとした結果が、このザマだ。そうでなくとも、件の旅人に注進するなりして襲撃そのものを防ぐのが筋だったのだ。決着を急ぐあまりに大局を見誤った自らの愚かさに、シキは思わず泣き出しそうになった。
「いいねぇ、その顔。泣けよ。喚けよ。助けを求めてみろよ」
 ダンはすっかり得意顔で、シキの耳元に顔を近づけてきた。「ま、大声で叫んだところで、誰も助けには来ないだろうがな。ここは俺達の秘密の隠れ家だからな」
 湿気を含んだ息が、シキの頬にかかる。
「い、嫌っ……!」
 必死で顔を背けようとするも甲斐はなく、シキは固く目を閉じた。目の前のこのおぞましい光景が、幻であることをただひたすら祈りながら。
 次の瞬間、轟音が小屋を揺るがした。
  
 一体何が起こったのか、シキにはすぐに分からなかった。
 夜風が頬を撫でたかと思えば、押さえ込まれていた身体が急に軽くなった。おそるおそる視線を巡らすと、激しく揺れる小屋の扉がまず目に入ってきた。次いで、顔面から床に突っ伏すダンの姿。彼は、四つん這いの体勢で痛々しい呻き声を上げながら、頭を押さえて苦しんでいる。
「いい加減にしろよ、コラ」
 凄みのある声は、ダンの向こう側から聞こえてきた。と、思う間もなくダンの身体がぺしゃんと床に伸びた。
「レイ! お前、どうして、ぐあっ」
 ダンの背中に乗せられていた足が消え、鈍い音が響き渡る。ダンは今度は腹を抱えてうずくまった。その横から、漆黒に彩られた人影が姿を現す。黒い髪に、黒い服。レイは両手をズボンのポケットに突っ込んだままの姿勢で、とどめとばかりにダンの尻を軽く蹴った。またも手負いの猫そっくりの声が、暗闇に小さく湧き起こる。
 突然のことに今一つ状況が理解できず、シキは床に転がったまま呆然とするばかり。レイはそんな彼女の傍までやってくると、面倒臭そうに鼻を鳴らしてから彼女を助け起こした。シキの両腕に絡まる布地をぞんざいな手つきでほどき終えるなり、一人さっさと立ち上がる。
「て、てめぇ、術師のくせに、無抵抗の人間に……」
「何が無抵抗だ。つうか、今のは魔術と関係ないだろ。頭ン中腐ってんじゃねーのか」
 思いっきり馬鹿にした口調で、レイが言葉を返す。「この程度で済んでありがたく思え。場合によっては、ぶっ殺してやるつもりだったんだからな」
 夜気をも震わす凄まじい殺気に、ダンが一瞬息を呑む。だが、どうしても腹の虫がおさまらないのだろう、うずくまった状態から顔だけ上げてやみくもにレイに食ってかかった。
「暴力でも同じことだろ! いいのか、魔術師ギルドに言いつけてやるぞ! 『力の行使者』がいたいけな民を怪我させたとな!」
「勝手にしろ」
 レイは盛大に鼻で嗤ってから、ダンの眼前に、ぐいと迫った。
「『より良き世のためにのみその力を行使する』ってか?
 ――くそくらえ、だ」
 ダンばかりかシキも思わず目を丸くする中、レイは低い声で語り続ける。
「俺が魔術師になったのは、力が欲しいからだ。他人のための力じゃない、俺自身のための力だ」
 襟元を掴まれたダンが、体勢を崩して床に倒れ込んだ。
「だから、俺は、躊躇わねえ。あんたをぶっ飛ばしたい時には、遠慮なくぶっ飛ばす。必要とあらば術だって使うさ」
 きっぱりとそう言い捨てると、レイはシキの腕を掴んで立ち上がらせた。そうしてそのまま、無言で扉へと向かう。
 レイの言葉にあっけにとられていたシキも、扉が閉まりかけるのを見て慌ててレイのあとを追った。
  
  
  
 レイは一度も後ろを振り返らなかった。月夜でなければ、シキは道に迷っていたかもしれない。彼女は遥か前を行くレイのあとを必死で追い続けた。何度も木の根に躓きながら木立の中をぬい、小川を越え、牧草地を抜け、どこをどう歩いたのか解らないままシキはようやく家に帰りついた。
 玄関の扉を開ければ、真っ暗な廊下がシキを出迎えた。レイは自分の部屋に行ってしまったのだろう。もしかしたら……またどこかへ……恋人のもとへ、出かけていったのかもしれない。シキは昏い瞳で食堂へ向かった。
 闇に沈む部屋の中、窓から射す月明かりを頼りにランプを見つけ、手探りで調理場に入る。オーブンの種火からランプに火を灯すと、ようやっとシキは心からの溜め息をついた。優しい光がゆっくりと身体を満たし、ずっと張りつめっぱなしだった糸が切れたように、ぐったりと食卓の椅子に身を沈ませる。
 ――なんて一日だったんだろう。
 うっかり、先ほどのあの出来事まで思い返しそうになって、シキは慌てて頭を振った。おのれの行動を反省するにしても、今はもう何も考えたくない……。
 とにかく今日のところはさっさと部屋に戻って休むことにしよう。そうシキが立ち上がった時、扉が開いてレイが食堂に入ってきた。漆黒の前髪から滴る水が、ランプの光をきらきらと反射している。
 しまった、とシキは思った。私も顔を洗ってくるんだった、と。埃と涙の跡で、きっと自分の顔はとんでもないことになってしまっているはずだ。シキがあたふたとレイから顔を逸らせた途端、彼が忌々しそうに舌打ちをした。
「お前、自分が何をしたのか解ってるのか?」
 シキは申し訳なさから身体を小さくして、消え入りそうな声で一言を搾り出した。
「ごめん……」
「余所見するなよ。本当に解ってるのか?」
 怒りを押し殺した声に、急いでシキは前を向く。
「ごめん。余所見とか、そんなつもりじゃ……」
 レイが小馬鹿にしたように、ふんっと鼻を鳴らした。
「お前な、うぬぼれるのもいい加減にしろよな」
 考えてもみなかった言葉がレイの口から飛び出したことに、シキは思わず目を丸く見開いた。
「自分一人で何でもできるって、思うだけならお前の勝手だけどな、後始末に回るこっちのことも考えろよな」
「ちょ、ちょっと待って、私、そんな……」
「一網打尽とか何とか考えたんだろうけどな、あんなヤツにのこのこついていったらどうなるか解らないのか、この大馬鹿野郎!」
 レイのあまりの言い草に、シキは数度まばたきを繰り返した。
 確かに、少しは考えが甘かったかもしれない。うぬぼれがなかったと言えば嘘になる。一網打尽を目論んだのも間違いない。だが、元を正せば、事はレイに端を発しているのだ。今、目の前で他人事のようにシキを糾弾している、レイがそもそもの原因なのだ。
 シキの疲れきった頭に、一気に血がのぼった。助けてもらったことも忘れて、彼女はレイに向かってまくしたてた。
「ちょっと待ってよ! 大体、レイが彼らの悪事に加担するのが悪いんじゃない! それこそ、自分が一体何をしようとしてたのか解っているわけ!? 魔術で眠らせたら紳士的、って、本気でそんな世迷言を考えていたの!?」
 レイが、はっと息を呑んだ。眉間に深い皺を刻みながら、ぐ、と唇を噛む。
 肩で息をしながら、シキはレイを見つめた。こんな恩着せがましいこと、本当は言うつもりなどなかったのに。そう胸の内で悔いつつも、彼女は半ば涙ぐみながら言葉を継ぐ。
「うるさい奴だ、って嫌ってくれてもいい。邪魔だって言うなら私が家を出るから。でも、これだけは言わせて。
 ――お願いだから道を外れないで。どうかその瞳を、曇らさないで」
 辛うじてそれだけを言いきって、シキは身をひるがえした。こぼれ落ちる涙を見られたくなくて、そのまま自室へ戻ろうとレイの傍をすり抜ける。
「シキ……!」
 酷く擦れた声が、シキの背後から追い縋る。次いで、レイの手が彼女の肩を掴んだ。
 強い力で問答無用に振り返らされたシキの目の前、これまで見たこともない真摯な瞳があった。森の奥、木々の葉を映し込んだ泉のように、どこまでも深く、吸い込まれそうな常盤の瞳が。
 次の瞬間、シキはレイの腕の中にいた。
 柔らかいものが唇に触れた感触に、シキは我に返った。目を白黒させながら、大慌てでレイの身体を押しやろうとあがく。
「ちょ、ちょっと、レイ、何を……!」
 無理矢理絞り出したような声で、くそ、と小さく吐き捨ててから、レイがもう一度シキと目を合わせてきた。
「好きだ、シキ。お前のことが、好きなんだ」
 強い眼差しが矢となってシキの胸を貫く。全てを忘れて、シキはその場に立ち尽くした。まるで血潮が沸き立ったかのように全身が熱くなり、身体のあちこちで鼓動が、どきどき、どきどき、響き合っている。
 真っ赤な顔で放心したように突っ立つシキの面前、レイが僅かに瞳を緩め、再びそっと身を屈めてきた。
「ふざけないで!」
 すんでのところで我を取り戻し、シキは思いっきりレイの横っ面を張り倒した。
 打たれた頬を押さえながらレイが愕然とシキを見やる。
「カレンさんがいるのに、何考えてるのよ!」
 レイが何かを言おうと口を開けかけた時、玄関のほうから激しく扉を叩く音が響いてきた。悲鳴にも似た甲高い女の声と馬のいななきが、それにかぶる。
 シキはレイを一顧だにせず、これ幸いと、そそくさ応対に駆け出していった……。
  
「レイ! いるんでしょ! リーナです! 開けてちょうだい!」
「リーナ!?」
 鬼気迫る親友の声に、取るものもとりあえずシキは閂を外した。と、扉が開くのももどかしい様子で、リーナが玄関にまろび入ってくる。
「シキー! 無事だったのー? 良かったー!」
「ど、どうしたの、リーナ?」
「良かった……、シキ、本当に良かった。レイが間に合ったんだね」
「あ、うん」
 涙でぐしゃぐしゃになったリーナに勢い良く抱きつかれ、シキはたたらを踏んだ。良かった、良かった、と繰り返すリーナをなだめながらふと視線を外にやると、馬を引いてこちらへ近づいてくる人影が見えた。
「さらわれた女魔術師というのは、君かね」
 警備隊の制服であるえんじの上着を着、帯剣した壮年の男性が、シキの前に歩み寄ってきた。リーナが慌ててシキから離れて心持ち姿勢を正す。
「本部に書簡を届けてくれたのも、君だね。賊には、逃げられた……ということかな」
「あ、はい」
 サランの警備隊員はしばし何か考え込み、それから静かにシキに語りかけてきた。
「お疲れだろうが、今からサランまでご足労願えないだろうか。幾つかお聞きしたいことがある」
「解りました」
  
 一行が慌ただしく出立し、辺りに再び静寂が戻ってくる。
 一人取り残されたレイは、暗い部屋の中でじっと佇んでいた。拳を硬く握り締めて、いつまでも。