四 逆襲
深夜にもかかわらずサランの警備隊本部には煌々と明かりが灯されていた。
サランはイに比べて随分大きな町だ。そのため、街の治安維持にあたる警備隊の規模も、イのそれとは比べるべくもない。ダン一味の捕り物の余波もあってか、幾つもの影がせわしなく門を出入りしている。
一階の廊下の突き当たり、奥まった部屋、木の軋む音とともに簡素な扉が開いた。
隊員に連れられて部屋に入ってきたシキを見とめて、旅人が椅子から立ち上がった。そうして、すまなかったな、と軽く頭を下げた。
「あの時、俺が前に出なければ、あんたは魔術を使えたんだな」
「いえ、あなたの協力がなければ、私は悪漢どもの手によって、もっと酷い目にあわされていたところでした」
ダンのいやらしい目つきを思い出して、シキは小さく身震いをした。改めておのれの幸運を感謝すると同時に、脳裏にレイの顔が浮かび上がり……、つい短い溜め息が漏れる。
既に時刻は明け方に近い。案内の役を解かれたリーナと彼女の家の前で別れてから、シキはサラン警備隊副隊長とともに愛馬の「疾走」を繰り続けた。速足 でひた走ること三時 、シキは疲れきった身体を引きずるようにして、サランの中央広場に建つ警備隊の本部へと、つい先ほどようやく辿り着いたところだった。
ランプの光のもとで見る旅人は、予想に違わず立派な体格をしていた。その鍛え抜かれた肉体は、襟元から僅かに覗く鋼のような首筋からも窺い知ることができる。ややくすんだ朱の短髪に、よく陽に焼けた肌。彼は口元をほんの微かに綻ばせながら、シキに右手を差し出してきた。
「俺は……サガフィ。……あんたが無事で良かった」
「私はシキと申します」
二人が握手を交わす傍らで、シキを案内してきた隊員が少し慌てて姿勢を正す。と、まもなく、副隊長が戸口に姿を現した。彼は隊員に壁際の机に着席するよう指図して、静かに部屋の扉を閉める。苦い顔で。
「お二方とも、お疲れであろう。どうぞお座りください」
眉間の皺を心持ち緩めつつ、副隊長がシキに布張りの椅子を勧めた。会釈をしてから腰かけるシキに続いて、サガフィも元の長椅子に悠然と腰を下ろす。
「とりあえず、何があったのかを話していただきたい」
「俺の知っている事は、あんたの部下に既に話したが」
「もう一度話していただけないだろうか。彼女の話と合わせてお聞きしたいのだ」
副隊長のその言葉を合図に、隊員がインク壷の蓋を開けた。記録をとるつもりなのだろう。
サガフィは小さく肩をすくめてから、低い声で淡々と語り始めた。
彼がイの西隣の町ナガリャに到着したのは、三日前のことだった。
そもそも今回の旅の当初の目的地は、南方の海沿いの町だったという。ナガリャよりもずっと西で進路を南にとり、州の南部に広がる樹海を迂回する予定だったのだそうだ。
それが、ちょっとした「野暮用」が舞い込み、サランに向かわなければならなくなった。予定外の行程に目算が狂い、路銀が底をついたのがナガリャに着く手前。小さな町で物騒な物を出したくはなかったが、先立つ物が無ければ進むことはできない。サガフィは仕方なくナガリャの道具屋を訪れると、手持ちの貴金属を幾らか金に替えた。
「どうやらそれを、賊の仲間に見咎められたようだった」
苦笑を微かに口元に浮かべてから、サガフィは鷹揚に椅子に背もたれた。「二人がかりで入れ代わり立ち代わり、色んな理由をつけて話しかけてくる。やれいい宿を紹介する、美味い料理屋を教えてやる……」
「時間稼ぎですな」
「どういうつもりかは解らなかったが、せいぜい利用させてもらった。結果として、あの町で金を作る必要はなかったと言えるほどに」
隊員の口笛を小声でたしなめてから、副隊長が話の先を促す。サガフィは大儀そうにまた肩をすくめた。
「挙げ句の果てに、奴らは俺の通行手形を掠めようとまでしたんでな。ひと悶着になって、一人はノしたが一人は逃げていった」
「通行手形?」
なじみの薄い単語が飛び出したことに、副隊長が思わず身を乗り出した。
「ここでの用事が終わったら、すぐに南へと向かうつもりだからだ」
「まさか、東の砂漠沿いに州境を越えるというのか? ……ああそうか、海沿いに出ると仰られていたな……」
顎をさすりながら、警備隊副隊長はまじまじとこの壮健な旅人をねめまわした。ふむ、と一応は納得した面持ちで、姿勢を正す。
「話の腰を折ってすまなかった。続きを」
「……身なりも育ちも悪くなさそうな悪ガキが、まさか夜盗に化けるなどとは思わず、俺はそのまま町を出た。それが昨日の昼過ぎのことだ。お蔭で、イを過ぎる頃にはすっかり日が暮れてしまった」
「どうして、イに泊まらなかったんですか?」
今度はシキが、旅人の語りに口を挟んだ。話の邪魔をしてはいけないと思いつつも、どうしても一言問わずにはおられなかったのだ。見れば、残る二人も彼女をたしなめるばかりか、小さく頷いてさえいる。
サガフィはこれ見よがしに溜め息を漏らした。
「……商売上の都合があってな。とにかくサランまで一気に行きたかったんだ」
今一つ釈然としない表情の三人に、苦笑いが投げかけられる。
「とにかく、俺はイを通り過ぎた。川を越え、丘の麓の切り通しを抜けた所で、彼女からの警告が届いた」
あの時、道行く旅人に「睡眠」の術を使うようダンに急かされた時、シキは別な術を彼にかけたのだ。魔術の風に乗せて、離れた場所におのれの声を届けるという術を。
副隊長が神妙な顔でシキのほうを向いた。
「君が? 警告を?」
「はい。『夜盗があなたを狙っています。少しの間だけ、睡眠の術にかかったふりをしてください』と、密かにそう声を届けました」
いよいよ自分の番がまわってきたのだ。シキは背筋を真っ直ぐに伸ばした。ダンのこと、レイのこと、どこまでを話してどこまでを伏せるべきか、慎重に頭の中を探り続ける。
「最初は何かの罠かと思った。だが、『風声』の術を使える術師なら、他の術だって使えるはずだ。俺を襲うつもりなら、それこそ『睡眠』を使わない手はない。それで信用してみることにした。
俺が地に膝をついた途端、藪の向こうから賊がわらわらと飛び出して来た。五人全員が出揃ったところで、遠いほうからぱたぱたと面白いように連中が倒れていった」
「彼らに『睡眠』の術をかけました」
「四人倒れて、一人だけが術を逃れた。そこへ彼女が走ってきて……、まさか術師が女とは思わなかった。術の邪魔をしてしまって悪かったな」
仕方がない、というふうに、副隊長までもが相槌を打った。
「残った一人が彼女を人質にした。丁度あんた達が東からやってくるのが見え、奴は逃亡した。馬なら人質は置いて行くだろう、徒歩ではとても逃げきれまい、そう思って、あんた達の到着を待っていたんだが……。馬車を隠していたとはな」
淡々とここまでを語って、サガフィは長椅子の背に身体を沈ませた。これで話は終わりだ、と言わんばかりの視線を副隊長に投げつける。
「それでは、今度は君だ。また一体どうして、君はあの場に居合わせたのかね」
副隊長の鋭い眼差しが改めてシキに注がれた。シキは大きく息を吸い込むと、口を真っ直ぐ引き結び、そうしてゆっくりと話し始めた。
「昨日の朝、ダンが私の家にやってきました。彼は、私に今回の襲撃計画を語り、それに加担するように言ってきました。ナガリャで羽振りの良い旅人を見かけた。そいつを町外れで襲うから魔術で眠らせろ、と。言うことを聞かなければ……友人、に危害を加える、と」
「それで、この書面を届けてくれたんだね」
副隊長はそう言って、一通の封書を懐から出した。
「『本日の夜の刻、イの町より二里東の街道にて、アーロン・フリアの息子、ダンが奸計をもって無辜の旅人を襲わんとす』……遂に来たか、というのが正直な心地ではあったが、なにぶん非常に扱いの難しい案件である。実のところ、この書簡が悪戯である可能性も捨てきれず、隊内の調整がなかなかつかずに到着が遅れてしまった……」と、そこで申し訳なさそうに、ふう、と吐いて、「これを届けにわざわざ来てくれたのだから、そのまま直接我々に説明、協力してくれれば、危険な目に遭うこともなかっただろうに……」
「すみません。時間がなかったものですから」
「まあ、ご友人を盾にされたとなれば、表立って動けなかったのも、いたしかたあるまい。とにかくお二人が無事で良かった」
言葉とは裏腹に今一つ晴れぬ副隊長の表情を見て、シキの眉が曇る。サガフィも同様に感じたのであろう、怪訝そうに椅子の背から身を起こした。
「……その、ダン、という奴に何か問題が?」
「あ、まあ、実のところ彼は我々の街では何も揉め事を起こしたことがないのだが……、噂に聞く限り、ゆすりたかりや喧嘩といった騒動を常とする小悪党で……」
躊躇いがちにそこまでを語って、副隊長は意を決したように顔を上げた。
「何より問題なのは、彼のお父上が、旧サラン領の改め役であり、イの町の警備隊の長も兼ねている、ということなのだ」
副隊長の言葉が途切れ、重苦しい沈黙が辺りに降りる。彼は部屋に入ってきた時と同じ、苦渋の表情を浮かべてシキのほうを向いた。
「非常に慎重に、そして迅速に対応する必要があった。それ故、君には無理を承知でその足でここに来てもらったのだが……、どうやら、無駄になってしまったようなのだ」
「……それは、一体、どういう……」
「捕縛された仲間達は一向に口を割る気配がなく、肝心のダン・フリアは未だ確保できていないのだ……。このままでは捜索の甲斐なく夜明けとなるだろう。今更奴を捕まえたところで、確たる証拠がない現状では彼の罪は問えないであろう、というのが我々の見解だ」
「そんな……!」
あまりのことに、シキは思わず立ち上がっていた。
「それに、ついさっき、フリア氏から問い合わせがあったのだ。ご子息のご友人方にかけられた『濡れ衣』について、な」
「私、嘘なんか言ってません!」
声を荒らげるシキに同情の眼差しを注いでから、副隊長は静かに目を伏せた。再度、深い溜め息が彼の口から漏れる。
「ああ、誰も――おそらくはフリア氏すらも――そのようなことなぞ本気で思ってはいないだろう。だが……、解るな?
彼がそう言い張るならば、鶏も鵞鳥となるのだ。毟り取られた羽を、誰かがかき集めてこない限りは、な」
副隊長が大きく肩を落としたその時、扉が控えめにノックされた。
「失礼します、副隊長……」
「なんだね?」
扉を開けた副隊長に、廊下に立っていた若い隊員が、一言二言耳打ちをした。
何度目か知らぬ嘆息が、静寂を震わせる。
「解った。イに残っていた皆に帰還命令を」
それからぐるりと室内を振り返ると、彼はおもむろに口を開いた。
「他の町のことに口を出すな、だそうだ。我々が思っていたよりもずっと、改め役殿は我々から遠いところにおられるようだ。せっかく無理をして夜通し走ってもらったが、無駄足を踏ませてしまって申し訳ない」
口を引き結び黙って頭を垂れる警備隊員達を前に、シキは愕然と立ち尽くしていた。
朝日が、最果ての街 を茜色に染め上げていく。
仮眠をとってはいかがか、という副隊長の言葉を丁寧に辞し、シキは建物を出た。厩から引き出された「疾走」の手綱を受け取り、もう一度ふかぶかとお辞儀をして門をくぐる。
「黒髪か」
一足先に退出していたサガフィが、シキの外套のフードから覗く髪に目を細めた。「橡 か鳶か……、黒く見えるのは部屋が暗いせいだと思っていた」
「あまり驚かないんですね」
苦笑を浮かべながら、シキはフードを目深にかぶりなおした。「この辺りの人でも、初めて見た人はまずぎょっとするのに」
「旅をしておれば、似たような暗い色の髪にも良く出会うからな」
気遣いともとれるサガフィの言葉に、シキはそっと笑みを返した。確かに橡 色も鳶色も、薄闇では同じように黒く見える。だが、ひとたび明るい陽光の下に出れば、シキの髪の異質さは他に類を見ない。まるで無限の闇を覗き込むような、どこまでも深い漆黒がそこにあった。流石にイの町の住民で今更シキ達の髪の色に驚く者はいないが、他の町に出かけるとなると、どうしても帽子や頭巾が必要になってくる。
「おのれの全ては、与えられるべくして与えられたものだ。それは髪の色も同じ。気に病むことはない」
静かな声が、冷え込んだ朝の空気を揺らした。その力強い響きに、思わずシキはサガフィを見上げる。
「……まあ、場合によっては、多少肩身の狭い思いをすることもあるが……、それでおのれの価値が決まるわけではないからな」
なんて深い碧なんだろう。彼の瞳を見つめながら、シキは独りごちた。その底知れぬ眼差しは、この空の下に広がる世界の全てを見通そうとしているように見えた。遥か彼方から久遠の果てまでを、我が眼で見届けんと言わんばかりに……。
「これから、南へ……行かれるのですか?」
「商売のためには、売り物を仕入れなければならんからな」
小さく肩をすくめてみせてから、サガフィはシキに背を向けた。「縁があればまた会おう」
「道中お気をつけて」
目覚め始めた街角、朝靄の向こうへと旅人の姿が消えていくのを、シキはしばし無言で見送っていた。
前夜の騒動に加えて、深夜の強行軍。一晩の間一睡もしていないこともあり、シキの体力はそろそろ限界に達しつつあった。眠気から手綱を取り落としそうになるたびに、シキは何度も必死で意識を手繰り寄せた。
だが、馬の背はひたすら揺りかごのように揺れ続け、うららかな陽光が外套の背中をじんわりと暖める。カッポカッポと蹄鉄が奏でる単調なリズムに合わせて、睡魔は容赦なくシキに遅いかかってきた。
――仕方ない、歩くか。
帰宅が遅くなってしまうだろうが、落馬するよりはずっといい。シキはぼんやりとした頭を振り振り、馬から下りた。「疾走」の頬を優しく撫でてから、手綱を引いて歩き出す。一歩、一歩、大地を踏みしめる感触が、頭に纏わりつく霞を少しずつだが晴らしていった。
『好きだ、シキ』
ふと、あの射るような瞳が脳裏に浮かび上がってきて、シキは思わず足を止めた。
ランプの頼りなげな光を背負った影の、燃えるような双眸が、再びシキの胸を揺り動かす。
『お前のことが、好きなんだ』
……シキは今まであんなレイの表情を見たことがなかった。真面目さや真剣さとは少し違う、もっと切迫した……、強いて言うならば恐怖にも似た……。
シキは小さく息を吐くと、再びゆっくりと歩き始めた。
――あの瞬間、彼は一体何を恐れていたのだろうか。
突然の口づけ、そして告白。その場の勢いで行動を起こし、想いを拒絶されることに怯えていたと考えるのが普通だろう。だが、つい直前まで二人は言い争いをしていたのだ。ましてや、レイはシキのことを嫌っていたのではなかったのか。
ならば残る可能性は、彼がシキをからかっていた、ということだろう。でも、それなら何故、どうして彼はあんなにも追い詰められたような表情を見せたのか。
「ふざけてはいなかった、ってこと?」
思わず口に出したのち、シキは独り密かに赤面した。
レイに限って、喧嘩の続きの意趣返し、ということはないように思えた。どんなに気に食わない人間が相手だとしても、レイがそこまで手の込んだ悪戯を仕掛ける性格ではないのは確かだ。敵を罠に引っかけて陰でこっそり嗤いものにするよりも、公衆の面前で自らの手でこてんぱんに叩きのめすほうが、遥かに彼の性には合っている。
ということは……。その続きを頭の中で呟いて、シキはまた頬を赤くした。心なしか、胸の鼓動も早くなってくる。
あの時、逃げるようにしてレイの傍を離れた時。彼はシキの名を呼んで、その肩を掴んだ。打算も何も無く、ただシキを求めて、力強く引き寄せ、そして……。
「ちょっと待って」
もう一つの口づけの場面を思い出し、シキの口から独り言が漏れた。風にそよぐ若葉と朝焼けに彩られた、金の髪の女性との濃厚な接吻を思い出して。
手綱を握るシキの手に、ぐ、と力が込められた。
逢瀬を重ねる恋人がいるというのに、レイは一体どういうつもりなのか。やはり告白は冗談だったというのだろうか。それとも、あっちも、こっちも、と調子の良いことを考えているのだろうか。
シキの中の記憶が、ゆらりと歪む。昨夜の薄暗い食堂に立つのは、レイと……あのひと。立ち去ろうとするカレンを、強く抱きしめ、彼は静かに彼女の耳元に口を寄せる。うっとりと顔を上げる彼女の頬に優しく手を添えて、それからゆっくりと唇を重ね……。
鼻の奥が、つん、と痛くなり、目頭がみるみる熱くなってくる。シキは慌ててかぶりを振った。艶めかしく絡み合う二人の像を、必死で頭から追い出そうとする。
――考えるな。余計なことを考えるな。レイに嫌われていたわけじゃなかった、その事実だけで良いじゃないか。
たとえ、あの告白が、一時の気の迷いから生じたものだったとしても。自棄気味にそう自らに言い聞かせるシキの背後に、影が立った。
シキが振り返るよりも早く、影の一撃が彼女を打ちのめした。
意識を失って足元に倒れ込んだシキを、ダンは手早く肩に担ぎ上げた。そしてそのまま木立の中へと分け入っていく。
森へ、人目につかないほうへ。血走った目できょろきょろと辺りを窺いながら、ダンは進み続ける。殊更に荒い息は、早足のせいばかりではないだろう。時折ごくりと生唾を嚥下しては、どす黒い笑みを口元に浮かべて、力無く運ばれるばかりのシキに粘ついた視線を絡ませる。
「いい加減にしろよ、ダン」
おのれに投げかけられた低い声に、ダンの歩みが止まった。荒地に突き刺した鋤のように、ぎくしゃくと身体をひねって、声の主を探す。
「……またお前か。お姫様の騎士気取りかよ。ご苦労なこった」
木の陰から姿を現したレイを見て、ダンの面 が憤怒に歪んだ。シキの身体を地面に下ろすと、ゆっくりとレイのほうに向き直る。
「そんなんじゃねーよ。自分のケツは自分で拭く、それだけだ」
ダンの背後、ぐったりと草の上に横たわるシキを見つめ、レイは小さく溜め息をついた。
「大体お前、今度の計画、俺に断られたからってシキに頼むのかよ、情けない奴だな」
「臆病者に情けない奴呼ばわりされる筋合いはねぇ」
盛大に鼻で笑うダンに、レイがむっとした表情を作る。
「勝手にほざいてろ。お前と関わるのは、もうこれが最後だからな」
半ば自分に言い聞かせるように、レイはそう言いきった。そっと視線を伏せ、それから大きく息を吸った。
「シキを返してもらうぞ」
白刃のごときレイの眼差しに、ダンがたじろぐ。レイが殺気とともにおのれに迫り来るのを見て、彼は小さく息を呑んだ。気圧されるがまま、及び腰で一歩を下がる。
表情一つ変えず、レイは悠然とダンの横を通り過ぎた。シキの傍らに膝をつき、彼女を抱きかかえようと両手を差し伸べた。
その刹那、レイの手元に細い影が巻きついた。
「はっはー! 油断大敵だぜ、レイ!」
レイの両手首にかかった輪縄が、濁声と同時に勢い良く締まった。いびつな笑みを顔に貼りつけたまま、ダンが縄を手に勝ちどきを上げる。彼は、怖気づいたふりをしながら、懐から取り出した輪縄でレイの両手を封じたのだ。
レイが戒めを振りほどこうとする間もなく、思いきり縄が引かれた。一気に荒縄が手首に食い込み、彼の口から呻き声が漏れる。なおも手繰り寄せられる手枷に引き倒されまいと、レイは必死に両足を踏ん張り、それからダンを睨みつけた。
「てめえ、良い趣味してるじゃねーか」
「この女に使うつもりだったんだがな」
涎をすするような下卑た声を聞き、レイの頬に朱が入る。締め上げられた手首が痛むのも構わずに、彼は両手をほどこうと力を入れた。
「前からお前のこと、目障りだったんだよ。自分だけ偉そうにすかしやがってな」
レイの努力をあざ笑うかのように、ダンがまた縄を引いた。苦悶の表情で引き寄せられてくるレイを、実に楽しげに見物しながら。
縄の動きに合わせて、何度もレイの顔が痛みに歪んだ。それでも、彼は抵抗をやめようとはしない。固く締まった結び目をなんとかして広げようと、必死で両手を動かしている。
「魔術って不便だよな、両手が使えないと駄目なんだもんな」
あがくレイの面前にダンが勝ち誇った瞳で迫り来る。
「お前に思いっきり土を喰わしてから、この女を犯してやる。好きな女が、自分の目の前で他の奴にぶち込まれるのを見るって、どんな気分だろうなあ!」
勝利を確信した咆哮とともに、ダンの拳がレイの腹部に叩き込まれた。咄嗟に攻撃を払おうとするも、不自由な両手では全てを受けきれず、衝撃を鳩尾に喰らってレイはよろよろと一歩を後退した。激しく咳き込みながら、なおも攻撃的な視線をダンに投げつける。
燃えるような眼光に射抜かれて、ダンがほんの一瞬たじろいだ。だがすぐに、おのれの優位を思い返して胸を張る。左手に巻いた縄を思いっきり引くと同時に、レイの顔面めがけて突きを繰り出した。
気合の一声を上げて、レイは渾身の力を込めて両手を引っ張り返した。まさかの力比べに、ダンの体勢が大きく崩れる。レイはすかさず更に腕を引くと、拘束されたままの両手でダンの一撃を打ち落とした。
ダンがよろめき、たたらを踏む。だが、その拍子に縄が張り、レイの口から押し殺した悲鳴がこぼれた。束ねられた手首に血が滲んでいるのを見て、ダンが歓喜の笑みを浮かべる。
「さっさと楽にしてやるよ」
そう言うなり、ダンは勢い良く地面を蹴った。姿勢を低くして、レイに体当たりを仕掛けた。
手首の痛みに歯を食いしばりながらも、レイは大きく振りかぶった。気合を込めるように短く鋭く息を吐き、両手を振り下ろした。
ダンの頭突きが決まるよりも早く、レイの拳がダンの背中を打った。耳障りな悲鳴を上げて、ダンが地面に倒れ伏した。彼の手から縄が離れ、レイは大きく後ろに飛びずさった。
「逃がすかぁ!」
両手の拘束をほどかせまいと、ダンがむやみやたらに両手を振りまわして突進してきた。対するレイは痛みに顔をしかめながらも、幾分余裕のある動きでダンの攻撃をかわしていく。依然として両手は封じられたままだが、先刻までとは違って、今は間合いを自分で取ることができるのだ。次々と繰り出されるダンの強打も、当たらなければどうということはない。一打一打を確実に払いながら、レイは縛られた縄を外す機会を窺い続けた。
だが、さしものダンもまるっきりの馬鹿ではない。レイの意図を察して、間断なく攻撃をかけ続けた。牽制を交えつつレイの全身をくまなく狙い打つ。
左から、右から、右手で、左手で。頭、腹、肩、また頭を狙い、次に胸。
レイの呼吸が次第に乱れ始めた。肩を大きく上下させながら、不規則なリズムで、何度も細かく囁くように息を吐いていく。時折苦しげに喘ぐ様子を見とめて、ダンが満足そうに口の端 を引き上げた、その時、久方ぶりにレイが言葉を発した。
「……なあ、一つ、訊きたいんだ、けどさ」
呼吸を整えようというのか、言葉の合間に短く息を吐き出しながら、「ダン、お前、親父さんに、たんまり小遣い、貰ってンだろ? どうして今更、夜盗の、真似事だ?」
「ふん、それをお前が訊くか?」
大きな動作で振り出されたダンの右手が、レイの頬を掠めた。
「この間の、鳴鶏亭の騒動で、謹慎くらってんだよ! お蔭様でスッカラカンだ」
「それで、金目の物狙って、旅人を襲おう、ってか」
「護衛も雇わないドケチ野郎に、大した金の使い道なんてないだろ。俺様が代わりに使ってやったほうが、何倍も金が喜ばぁ」
「失敗したくせに」
「次は成功させてやらぁな!」
自信たっぷりに叫ぶダンに、レイが肩で息をしながらもニヤリと笑う。
ムッとした表情ののち、ダンもまたレイに向かって嗤い返した。
「へっ、偉そうな口を利く割に、もう息が上がってるぜ。シューシュー、シューシュー、まるで割れた釜の蓋だな」
「うるさいな。動きながら術かけるのは、大変なんだよ」
「術?」
思わぬ単語に、ダンが目を丸く見開いて動きを止める。と、幾度目かの擦過音がレイの唇から漏れた。短く、長く、囁くような呼吸音が。
息を凝らし、耳を澄ましたダンの顔色が変わった。
「お前、何か呪文を……!」
「残念だったな。魔術を封じるには、指を固定しなきゃ意味ないんだよ、ばーか」
会心の笑みを浮かべてレイが背筋を伸ばす。痛みを耐えつつ、戒めを緩ませようと両手をひねる。
一方、ダンは滑稽なほど慌てた様子で、きょろきょろと辺りを見まわしていた。ややあって、おどおどしながらも虚勢を張って肩をすくめる。
「へ、へへへへ、何も起こらないじゃねえか。ヘッポコ術師が驚かせるんじゃねえよ……」
「『風声』の術って言ってな、声を遠くへ届ける術さ。ちょっと工夫すれば他人との会話もそのまま運べんこともない」
かなり力技だけどな、とつけ加えるレイの額を脂汗がつたった。そして、また微かな息が魔術の調べを紡ぎ出す。
「ま、まさか、まさかお前……」
「ああ、素敵な告白を、中央広場にお届けだ。親父さんも大喜びじゃねーの?」
大きな溜め息がレイの口から漏れると同時に、縄がぱさりと地に落ちた。自由になった手をさすりさすり、まだ気絶しているシキのもとまで行くと、よっこらせ、と彼女を肩に担ぎ上げる。
「ま、待ってくれ! レイ! いや、レイさん! 今のは嘘だった、ってもう一度頼む!」
仕上げとばかりにこれ見よがしに指を空中に閃かせて、レイは術を終えた。
「一生謹慎くらってろ」
そう言い捨てて、レイは森の入り口を目指す。背後から追い縋る、ダンの懇願の叫びを容赦なく振り払いながら。
真っ赤な色彩の中、シキは目を覚ました。
何が起こったのか、どこにいるのか、理解できないままにシキは勢い良く飛び起きた。目の前の窓の向こうに、茜色の太陽が大地に沈みゆくのを見て、数度まばたきを繰り返す。
慣れ親しんだ我が家の居間、その長椅子の上にシキは起き上がっていた。あろうことか外套を着たままで、しかもその身ごろにはあちこちに枯れ葉がついているばかりか、袖口が泥で汚れてさえいる。
茫然としながら、シキは椅子から立ち上がろうとした。途端に、後頭部が鈍く痛みだす。ずきずきと疼く痛みに、シキの記憶がゆっくりと甦ってきた。
ダンの悪事を告発すべく、深夜にサランに行ったこと。だがそれは無駄に終わり、失意のままに帰途についたこと。
馬を引いて歩いていた時に、背後に不穏な気配を感じたのだった。だが、振り返る間もなく、一撃を喰らって……。
ふと室内を見渡せば、低いテーブルを挟んだ向かいの長椅子で、レイが眠っていた。座面からずり落ちた左足が力無く床の上に投げ出され、同じくだらりとぶら下がっている左手が、規則正しい寝息に合わせてゆったりと揺れている。眩い西日を顔面に受けてもピクリともしないところを見れば、相当眠りが深いのであろう。
痛む頭をさすりながら、シキはレイの傍に寄った。そして息を呑んだ。
彼の両手首には、生々しく赤剥けた傷跡が残されていた。見れば、頬や腕のあちこちにも、擦り傷や打ち身が見受けられる。こんな傷は、昨日は無かったはず。驚きのあまり声も無く立ち尽くすシキの視線が、レイの髪に絡まる枯れ葉に止まった。自分の外套に付着したのと同じ枯れ葉に。
窓の外、どこか遠くから家路に急ぐ鳥の声が微かに響いてくる。
夕焼けを頬に映して、シキは静かに目を伏せた。それから、脱いだ外套をそっとレイの身体にかけた。