二 告白
「レイと喧嘩してんの?」
うららかな陽光の下、教会の裏手にある井戸端、リーナがよっこらせと立ち上がって大きく伸びをした。
「怒られたんでしょ。あんなヤツに関わるなんて、何考えてるんだ! とか何とか」
伸ばした腰をとんとんと叩くリーナの横では、シキがひたすら無言でガーゼを洗い続けている。
勢い良く家を飛び出したものの行くあてもなく、シキはリーナの手伝いをしに治療院にやってきていた。折しも癒やし手が一人今日はお休みだということで、掃除に洗濯にとシキの助けは重宝がられた。無我夢中で作業に没頭すること数刻、ようやくシキの気持ちが落ち着き始めたのを察したリーナが、あっさりと容赦なく話の核心を突いてきたというわけだ。
「息をすっごい切らして教会に飛び込んできてさ、『シキを見なかったか?』って、それはもう、すっごい取り乱しようでさ。丁度サランの人達がやってきて、ダンの馬鹿が女魔術師をさらったらしいとか何とか言ったら、レイってば、また物凄い勢いでどこかへ飛び出していってさ」
リーナの癖であるところの派手な身振りで、臨場感たっぷりに語ってから、彼女はふっと眼差しを緩めてシキを見つめた。
「心配してくれてるんだよ。嬉しいじゃない」
そうかもしれないけれど。とシキは溜め息をついた。
襲われたのが誰であろうと、レイは同じように身を挺して悪漢の手から守ろうとしただろう。ああ見えて、レイは意外と他人に対して優しいのだ。普段意地悪な態度をとっていても、ここぞという時には助けてくれる。学校でもそんな彼を悪しからず想う者は決して少なくなかった。
そもそも、利他心が強いということも、魔術師になるための重要な条件の一つなのだ。もしもレイがおのれのことしか考えない人間だったならば、先生は彼を弟子にはしなかっただろう。
『俺が魔術師になったのは、力が欲しいからだ』
唐突に一昨日のレイの台詞が脳裏に甦って、反射的にシキは身震いをした。
『他人のための力じゃない、俺自身のための力だ』
それは、禁忌とも言える発言だった。
魔術を学ぶ者は、何よりも先にその規範を叩き込まれることになっている。曰く、求めるべきは真理であり決して力に溺れてはならない。曰く、より良き世のためにのみその力を行使する。――それら七つに及ぶ条項をギルドの長の前で宣誓して初めて、正規の魔術師として認められるのだ。
シキは心配そうにそっと眉を寄せた。レイのあの言葉を先生の耳に入れるわけにはいかない。絶対に。幸いにも、あれを聞いていたのは自分の他にはダン一人だけ。あのうつけ者のことは気にしなくともよいだろう。
そこまで考えて、シキの手が止まった。
――「俺自身のため」ということは、やっぱり、レイが私を助けてくれたのは、規範とか大義とかとは関係なくて……?
やはりリーナの言うとおり、レイはシキのことを大切に想ってくれているんだろう。シキは知らず顔を赤くした。彼の真っ直ぐな瞳が瞼の裏に浮かび上がり、つい手の中のガーゼを握り締める。
「でも、だからって、あんな乱暴な……」
よりによって知識の象徴とも言える図書室で、力任せに本棚に押しつけて、無理矢理迫ってくるなんて。先刻の出来事を思い出したシキは更に頬を赤く染めた。
荒々しく重ねられる唇。突然のことに為すすべもなく、シキはただひたすらレイの口づけを受け入れ続けた。何度も激しく口接を貪られ、シキの意識はどんどん曖昧さを増していく。身体の奥に生じた熱を持て余しながら、シキはぼんやりとレイのされるがままになっていた。冷たい風を胸元に感じて、ふと我に返るまで。
シキの背中を優しく撫でまわしていたはずのレイの左手が、いつの間にか彼女のシャツのボタンを外しにかかっていたのだ。がっしりとシキの肩を押さえ込む右手とは別に、片手で器用に着々と前合わせを開いていく、そのあまりにも手馴れた様子に、シキはすっかりおのれを取り戻してしまったのだ……。
「あー、まあ、昔からあやつは、そういうところ粗暴ってか、配慮に欠けてるからなあ」
訳知り顔で空を見上げるリーナには、シキの上気した顔は見えていない。シキがレイの態度に憤っているのだと思い込んだまま、うんうんと相槌を打つ。
「それに、今まで兄弟同然に暮らしてきたわけでしょ? そりゃ、口調もキツくなるわよ。遠慮もないだろうしね。家族なんだから」
「遠慮しなくていいからって、あっちも、こっちも、ってそれは酷いよ」
そこでやっと話題が噛み合っていないことに気づいたリーナが、盛大に首をひねった。
「え? ナニ? あっち? こっち?」
「え、あ、いや、そのぅ……、何でもないよ、こっちの話」
慌てて両手を振って誤魔化そうとするシキに、リーナが今一つ釈然としない表情を向ける。
「? ……まあいいや。でもさ、これを機会に、お互いのことをよくよく考えてみるのもいいかもね。いつまでもこのまま宙ぶらりんな関係のままでいるわけにはいかないでしょ? 何らかの形でケリつけないと」
「ケリ?」
シキがきょとんと顔を上げるのを見て、やれやれ、とリーナが肩をすくめた。
「周り見てみなよ。ティナにカナンに同い年の子ら、みーんな身を固めてきてるじゃない。レイとひっつくにせよ、別れるにせよ、そろそろ答えを出さなきゃ、ってこと」
「そういうものかなあ」
ふう、と肩を落とすシキの横で、リーナもまた大きく嘆息した。
「そういうものなのよ。窮屈だけど。なんならシキ、今度一緒にうちの母さんにお説教されてみる? 『誰かいい人はいないの?』『このままじゃすぐに行かず後家よ』って、すっごいシツコイよー」
日暮れとともに降り出した雨は、シキが家に帰り着いた時にはすっかり本降りとなっていた。全身濡れ鼠となったシキは、玄関の軒先で外套のフードを脱ぎ、恨めしい表情で夜空を見上げた。
鍵を開け玄関扉を入れば、無人の空間がシキを出迎えた。ホッとしたような、でも少し拍子抜けしたような、なんとも言えない心地でシキは滴のしたたる外套を洋服掛けに干した。それから、暗い廊下の先、図書室のある方角をじっと見つめた。
『シキ、お前、俺のこと……嫌いか?』
そう問いかけてきたレイの顔を思い出して、シキは息を呑んだ。あの時は自分のことで手一杯で気がつかなかったが、よくよく思い返せば、彼は酷く傷ついたような表情を浮かべていた。まるで痛みに耐えるかのように、一言一言噛み締めるようにしてシキに語りかけてきた。
その、彼が身を切るような思いで吐き出した言葉を、自分は容赦なく叩き落したのだ。深い自己嫌悪に陥りながら、シキはもう一度溜め息をこぼした。
「謝らなきゃ」
決意を言葉にして、シキは両の拳を力一杯握り締めた。
食堂には、朝食の鍋がそのまま手つかずで残っていた。レイが食べた様子もなければ、別に調理をした様子もない。シキが出ていったあとすぐに、彼もまたどこかへ出かけてしまったのだろう。
溜め息また一つ、窓に鎧戸を下ろそうと食卓を回り込んだシキは、窓辺の木の長椅子の上に綺麗に畳まれた洗濯物が並べられているのを見つけた。ふんわりとふくらんだタオルからは、まだ微かに太陽の香りが感じられる。
ああ、とシキは思わず声を漏らした。きっと、夕方の飼いつけ(馬の餌やり)も、レイはきちんとこなしてくれたに違いない。いくら本来の当番がレイだったにせよ、シキが半ばで放り出した仕事を、彼は放棄することなくしっかりと始末してくれたのだ。
――レイに謝って、それからきちんと話し合おう。
これまでのことを。そして、これからのことを。
ランプの炎が、まるでシキを励ますかのように大きく二度揺らめいた。
雨はどんどん激しさを増してきた。
夕食代わりに朝の残り物を片付けたシキが、鍋や食器を洗い終った頃には、屋根を打つ雨音に風の音が混じり始め、嵐とも言うべき様相を呈してきた。
レイは今どこにいるのだろうか。シキは心配そうに窓の外を見やった。友達のところか、それとも……。
流石にダンのところではないだろう。あの一味と関わっていないのならば、どこにいても構わない。そう心の中でシキは呟いた。たとえカレンのところだったとしても……構わない。レイが冷たい雨に濡れずに済むのならば。
窓に映る自分が、静かな眼差しを返してくる。自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、シキはそっと頷いた。
いよいよ激しくなってきた雨風に、シキは家中の窓の鎧戸を閉めて回った。厩を見回り、しっかりと小屋に鍵をかけ、最後にもう一度食堂に戻ってオーブンの火が完全に消えていることを確認してから、シキは自室に戻った。
部屋の扉を閉めたシキは、戸に背もたれて大きな溜め息を一つついた。
昨日といい、今日といい、なんて長い一日だったんだろう。シキは上着を椅子の背に引っかけると、そのまま寝台に倒れ込んだ。
――ケリをつける、か……。
シキの頭の中で、この三日間の出来事が断片的なカケラになって、ぐるぐる、ぐるぐる渦巻いている。
レイが、私のことを好きだと言った。
でも、レイは、カレンさんと付き合っていて……。
レイは彼女のことをどう思っているのだろうか。
彼女はレイのことをどう思っているのだろうか。
そして、私は……?
答えの出ない、出しようのない問いを、シキは何度も胸の中で繰り返す。ランプが暗い天井に映す淡い光の輪、その影と光が織り成すどこか幻想的な模様を、シキはぼんやりと眺め続けた。
そうやってどれぐらいの間寝台に横たわっていただろう。
ふと、嵐の音に混じって、木の軋む音が聞こえたような気がした。シキはそっと身を起こすと、静かに扉のほうへと向かった。
微かに聞こえてきたのは、玄関扉の閉まる音。かそけき金属音は、鍵をかける音か。それから、鈍い、閂をかける音。
また雨の音が激しくなり、全てが闇に呑み込まれた。ごうごうと唸る風の音に苛立ちながら、シキは息を殺して耳を澄ます。
やがて、躊躇いがちな足音が、シキの部屋の扉を通過していった。
「レイ?」
シキの呼びかけにやや遅れて、足音は止まった。
逆巻く風が家全体を揺らしているにもかかわらず、痛いほどの静寂が辺りを支配していた。
「……レイ、その……、お帰り……」
「…………ただいま」
扉の向こうから、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
シキは気力を振り絞って、嵐に負けじと腹に力を込めた。
「あの、レイ、……今朝は、ごめん。急に色んなことが起こって、ちょっと混乱してて……。だから……」
「わかってる」
少しだけ、レイの声が近くなった。
「つもりだったんだが、……俺も混乱してたんだと思う」
扉のすぐ向こうにレイの気配を感じ、シキは知らず安堵の息を吐いた。
「あの馬鹿に聞いたのか?」
「何を?」
「……俺がカレンと会ってたって」
「…………見せられた」
あの野郎、と押し殺した声が微かに響く。
でも事実は事実なんじゃないの? ついそう問いかけたくなるところをグッと堪えるシキの耳に、力強い声が飛び込んできた。
「カレンのことは、もう俺とは何の関係もない。別れてきた」
「えっ?」
予想もしていなかった展開に、シキの目が丸くなる。
「前からそういう話をしてはいたんだ。でも、何か成り行きでずるずる来てしまってた。だから、はっきり別れるって言ってきた」
まるで自分に言い聞かせるかのように、レイは一言一言を吐き出していく。
「とにかく一度振り出しに戻って、それから落ち着いてお前と話をしようと思ってた。だから、本当は、今日は帰らないつもりだったんだ。こんな嵐になりさえしなければ」
絞り出すようにそこまでを語ると、レイは再び黙り込んだ。「じゃあ」と軽い挨拶一つ残して、靴の音がまた遠ざかり始めた。
「待って、レイ!」
「無茶言うな」
苦笑するレイの顔が、シキの瞼の裏に浮かび上がる。「お前と二人きりでいたら、また襲ってしまいそうになるだろ」
昼間の、図書室での出来事を思い出し、シキは思わず足を止めた。
「もう歯止めなんて効かねーよ。今まで我慢していた分、お前を無茶苦茶にしたくなる。だから……」
レイの声が、ゆっくりと小さくなっていく。嵐の音が、彼の存在を呑み込んでいく。
気がついた時には、シキは扉を開け放ち、廊下に飛び出していた。
その一瞬、風が僅かに凪いだのか、廊下の窓を打つ雨音が少しだけ弱まった。
「レイ……」
「って! この会話の流れで、どうして部屋から出てくるかな!」
部屋から漏れるランプの光が、シキの周囲を朧かに照らす。闇に沈む廊下の少し先、驚いたように立ちすくむ人影がぼんやりと浮かび上がった。
シキは、胸の前の右手を強く握り締めると、一言、一言、噛み締めるように吐き出した。
「私、てっきり、レイは私のこと嫌いなんだと思ってた」
「シキ……」
「レイに避けられてると思ってた。それでも、一緒にいれたらいいって思ってた。でも、付き合っている人がいるって知って、もう駄目なんだって思った」
「避けてたさ。この家を出ていかなきゃならなくなるのが、嫌だったからな」
僅かに顔を背けて、レイは語気を強めた。
「自分を抑えきれる自信がなかった。早まったことをしてしまったら、もうここにはいられない。だから避けてたんだ。
悶々としていた時に、カレンに誘われた。気を紛らわせることができるなら、誰でも良かった。あいつ自身も、暇つぶしだと言っていた……し。だから、あいつとは本気でもなんでもなくて、それで……、あー、もう、何言ってんだ、俺」
しどろもどろになりながら、レイが頭を掻き毟った。それから舌打ち一つ、勢い良く顔を上げた。
一陣の風がシキの髪を揺らしたかと思えば、次の瞬間、シキはレイの腕の中にいた。
壁が風に軋み、大粒の雨が一斉に屋根を震わす。
逞しい腕が、シキの身体を強く抱きしめていた。
シキの鼓動がみるみる早くなる。早鐘のような心臓の音に、きっとレイは気づいているに違いない。そう思うと、恥ずかしさから余計にシキの身体は熱くなってしまうのだった。意識すればするほど激しくなる胸の高鳴りに支配され、シキはもはや身動き一つとれない。
立ち尽くすシキの首筋に、息がかかった。
レイがゆっくりと身を屈めてくるのが分かった。そうして彼は、シキにそっと頬を寄せてきた。雨に濡れたせいだろうか、とても冷たい頬だった。
「止めるなら、今だぞ」
背中にまわされたレイの手のひらから、じんわりと熱が伝わってくる。シキは返事の代わりにレイの身体に両腕をまわした。おずおずと……、だが、しっかりと。
感極まったような唸り声がシキの耳元で響いた。レイの腕が、更に強くシキの身体を抱き寄せた。広い胸にすっぽりとくるまれて、シキは陶然と目を閉じた。
――なんだろう、とても、懐かしい……。
遠い昔、誰かがこうやって自分を抱きしめてくれたっけ。そうぼんやりと考えながら、レイの胸元に顔を埋 める。レイの心臓が自分と同じように激しく脈動しているのを聞き、シキは思わず嬉しくなってそっと微笑を浮かべた。
シキの頬に、レイの手が添えられた。
熱の籠もった燃えるような指先が、シキの顎をゆっくりとなぞる。その動きに誘 われるようにして、シキが静かに顔を上げる。
二人は、ただ無言でしばし見つめ合った。それから、どちらからともなく唇が重ねられた。
そっと、優しく。躊躇うように、二度、三度と。
何度も交わされるうちに、口づけは次第に深さを増していった。始めはぎこちなかったシキの動きも、レイに導かれるままどんどん熱を帯びてくる。
シキの部屋から漏れる淡い灯りが、固く抱き合う二人の影を艶めかしく揺らめかせる。雨の音も風の音も、もはや二人の耳には届いてはいなかった。