三 帰還
眩暈にも似た浮遊感ののち、シキの背中を柔らかい感触が包み込んだ。
はっと我に返れば、満足そうな表情で自分を見下ろすレイの顔があった。すぐ横の机に置いたランプの光を受けて、その瞳がぎらぎらと輝いている。
寝台の軋む音がして、レイがシキの身体に覆いかぶさってきた。目の前に迫るレイの眼差しに耐えられずに、シキは固く瞼を閉じた。
そして、再び口づけ。レイの気持ちになんとかして応えようと、シキは見よう見まねで彼に倣 う。時折そっと唇が離れるたびに、微かな水音がシキの鼓膜をくすぐった。
と、突然、弾かれたようにレイが顔を上げた。
驚いて瞼をあけたシキの目の前、レイが、ぎこちなく身を起こす。驚愕よりも恐怖に似たその表情に、シキの中の熱気が急速に引いていく。
「……れい?」
すっかり力の抜けてしまった身体を鞭打って、シキも上体をゆっくりと起こした。
「どうしたの?」
「……誰かが来る」
レイの言葉に、シキの身体を緊張が走った。ごくりと唾を呑み込んでから、シキは慌ててレイの視線を辿る。
窓の外、道の方角から、何かが雨に打たれながら近づいてくる気配があった。
知らず二人は息を潜めて身を固くした。
それは、微かな微かな音だった。屋根を、壁を、窓を打つ雨音の中、何ものかが歩く音がする。やがてその音は次第に大きくなり、遂には水溜りを踏む音も加わった。そしてシキの部屋の外を通り過ぎると、真っ直ぐ玄関のほうへと消えていった。
圧倒的な「気配」が、激しい風雨を突き抜けて感じられる。そう、魔力の気配が。
「……先生だ……」
搾り出すように、レイが呟いた。シキは返事の代わりに生唾を飲み込む。
普通に考えるならば、今のこの状況に何もやましいことなどあるはずがなかった。シキもレイももう十八を超え、同い年の学友には生涯の伴侶を得て所帯を構えた者も少なくない。想いを通じ合わせた男女が二人、おのれの部屋で何をしていようが、誰に咎められることもないはずだ。
だが、ここは彼らにとってはなによりもまず「師の家」だった。厳粛なる修行の場であるこの場所で、一時 とはいえ全てを忘れて快楽に耽るなど、果たして弟子である自分達に許されるのであろうか――
「……どうしよう、レイ」
「落ち着け。玄関の閂は閉まってるんだ」
――許されないかもしれない。そう考えたのはシキだけではなかったようだった。レイの声が微かに震えているのを聞き、シキは思わず生唾を嚥下した。
「とにかく俺は部屋に戻る」
レイは努めて平静を装いながら、扉に手をかけた。「シキは呼び鈴が鳴ったら……」
と、その時、玄関の方角で術を使った気配がはぜた。次いで、微かに鈍い響き。
「何だ?」
「たぶん『飛礫』の応用だよ。つぶての代わりに閂を動かしたんだ」
比類なき大魔術師、ロイ・タヴァーネス。
魔術師ギルドに出入りするようになって、彼らは自分達の師匠の偉大さを改めて認識する羽目になった。サラン近郊において高位の術を使う者は数あれど、ロイにかなう者は誰一人としていなかった。術の正確さや速さ、効力は勿論のこと、ロイは教本にある呪文を組み替え、自由に応用することができた。そして何よりその圧倒的な威容は、まさしく元・宮廷魔術師長の肩書きに恥じぬものであった。
レイは慌ててドアノブから手を離した。それから、音がしないように細心の注意を払って掛け金をかけた。
「ね、何か別の用があって私の部屋に来てた、ってことにすれば……」
「駄目だ。俺はここにはいてはならない」
レイの脳裏に、桑染の瞳が浮かび上がる。銀縁眼鏡の奥から全てを見通すかのような、師の瞳。
初めて会ったあの時も、彼はその深い眼差しで自分達をじっと見つめていた……。
「やー、これはまた、見事に真っ黒になっちまったなあ、ボウズ!」
鍛冶屋の店先、カウンター越しにちょこんと覗く小さな頭を、店の主人が豪快な手つきで撫でた。くしゃくしゃに乱された髪を手櫛で直しながら、レイは小さく唇を尖らせる。
「うるさいなぁ。そんなこと言うなら、これ渡さねーぞ」
そう言いつつ、レイは持ってきた麻袋をよっこらしょ、とカウンターの上に持ち上げた。「畑で昨日取れたんだ。鍬を直してくれたお礼に、司祭様がどうぞってさ」
「おう、ありがとうな」
役目を果たして満足げに踵を返したレイを、少し躊躇いがちに鍛冶屋が呼び止めた。
「……シキちゃんは、元気かい?」
レイの足が止まる。小さな背中が何かを必死に堪えている様子に、鍛冶屋の眉が曇った。
「そうか。早く元気になったらいいな」
「……うん」
声だけで頷いて、レイは店を出た。
二人の孤児が黒髪となってから、一ヶ月が経とうとしていた。
長かった冬も終わりに近づき、町は混乱からゆっくりと立ち直り始めていた。帝国騎士達の代わりに新しく寄越された役人が町に駐留するようになり、人々は着々と「マクダレン帝国」という社会に組み込まれていった。身近なところでは、五年間の初等学校を修了することが民に義務づけられた。租税の仕組みも大幅に変化し、小作達は各々の生活を守るために何度も寄り合いを開いては、郷士達と交渉を重ねていた。
レイが教会の傍まで戻ってくると、裏手の土手のほうから賑やかな声が聞こえてきた。ひょいと川辺を見下ろせば、町の大人達が治水工事の準備に大忙しの様子だった。灌漑についての新しい取り決めが未だ確定していないらしく、いい年をした大人が数人、今も眼下で言い争いをしている。レイは、ふんっ、と鼻を鳴らしてから教会の木の柵を飛び越した。
「ただいまー」
「おかえり、レイ」
年老いた癒やし手が、破顔してレイを出迎える。「お使い、行って来てくれたんだね」
「うん。ところで、シキは?」
レイの問いに、癒やし手の表情が翳る。
「……変わらないね。ずっとぼんやりと座ったままさ。もしかしたら、もう……」
「大丈夫だって! 最初は寝たままだったのが、ご飯も食べるようになったし、動けるようにもなったし!」
それは、司祭がレイを励ます時にいつも言う台詞だった。
「だからさ、そのうちまた話せるようにもなるさ!」
「ああ、そうだねえ」
癒やし手が、震える声でそう頷きながら、目元をそっと押さえた。レイはそれを見なかったことにして、元気良く胸を張る。
「大体さ、部屋に閉じ籠もってばっかりだから余計に悪いんだ。おーい、シキー! 表出ようぜー! 何か川で大人が騒いでるぞー!」
どたばたと奥へと向かうレイを見送って、それから癒やし手は小さな声で神に祈りを捧げた。
近所の小母さんに貰った耳あてつきの帽子をシキにかぶせてから、レイは自分も同じものを用意した。今日はいい天気だが、川べりの風は切れるように冷たいはず。仕上げに大きめのショールをシキの肩にかけて、レイは彼女を支えて窓辺の椅子から立たせた。そうしてそのままゆっくりと扉に向かって歩かせていく。
レイが意識を取り戻したのは、黒髪で発見された次の晩だった。だが、シキはそれから更に二日もの間、昏々と眠り続けていた。三日目の朝、ようやく目を覚ましたシキは、全てをどこかへ置き忘れてしまったみたいだった。言葉もなく、感情もなく、ガラス玉のような瞳が、必死にシキの名を呼び続けるレイの顔をただ静かに映していた。
司祭を始めとする皆の献身的な看病のお蔭か、やがてシキは自分で食事を摂ることができるようになった。手を貸して促せば、最低限の日常生活もできるようになった。
だが、その心は、どこか分厚い壁の向こうに厳重に封印されたきりだった。誰の呼びかけに答えることもなく、何も喋らず、放っておけば何時間でも彫像のように動くことはない。そんなシキに、レイだけは頑なに回復を信じて、毎日ずっと言葉をかけ続けていた。
「なんかさ、畑に新しくどこから水を入れるかで、いい大人が本気でけんかしてたりするんだぜ。これまで上手く皆で仲良くやってたんだから、前のままでもいいんじゃねーのって思うよなー?」
シキの手を慎重に引きながら、レイは殊更に大袈裟な調子で彼女に語りかける。と、礼拝堂の前を過ぎて門の前まで来たところで、土手の向こうのほうで、ごろんごろんと大きな音が響いた。
積んであった材木が崩れたんだな、とレイは先刻見た川原の風景を思い出した。怪我をした者はいないのだろうか。心配そうにレイが川の方角を見やった時、土手の陰から黒い大きなものが躍り出てきた。少し遅れて、幾つもの叫び声が辺りに響き渡る。
「馬が逃げた!」
「誰か! 止めてくれ!」
「危ないぞ!」
黒い影は、狂ったようにたてがみを振り乱して、土煙を巻き起こしながら跳ねている。後ろ足の付け根、尻に近い部分に大きな傷があり、そこから赤い雫が幾つも辺りに飛び散っていた。少し遅れて持ち主と思しき男が土手を駆け上がってきて、鞭のごとく空を打つ手綱を必死で掴もうとするものの、馬に蹴られぬようにするのが精一杯の様子だ。
と、不意に馬が高くいなないた。それから、物凄い勢いでレイ達のいるほうへと向かってきた。
――逃げなきゃ。
慌ててシキを見やったが、彼女は相変わらず人形のように無表情で立ち尽くすばかり。こんな状態のシキを連れてはとても逃げられないだろう。だが、シキを置いて行くわけにもいかない。どうすればいいのか分からずに、レイもまた茫然とその場に立ちすくむ。
遂に馬が、教会の敷地を囲む簡素な柵を蹴散らした。砕け散った材木の破片が、空中高く舞い上がる。
意を決してレイは大きく息を吸った。そうして歯を食いしばってシキの前に出ると、彼女を抱きかかえるようにして、迫り来る巨体に背を向ける。
次の瞬間、大きな打撃音がレイの鼓膜を震わせた。
衝撃は、無かった。おずおずと背後を振り返れば、すぐ目の前に、不自然なさまで空中に静止する馬の姿があった。何かに突き当たったような馬の身体のところどころで、青白い光が見えない障壁の存在を浮かび上がらせている。
魔術の「盾」に行く手を阻まれ、ずるずると崩れ落ちる馬の向こう、黒い外套を纏った人影があった。
「君達はここの子かね」
年恰好に似合わぬ落ち着きと威厳をもって、その銀髪の若者はレイに語りかけてきた。「齢 七つで魔術を使うことができるというのは、君か」
鈍い地響きを立てて、馬が大地に倒れ伏す。周囲の騒ぎを微塵も意に介せずに、ロイ・タヴァーネスは静かにレイを見つめ続けた。
――あの眼差しが、そっと緩む瞬間を俺は知っている。
レイは、ちらりと背後を振り返った。寝台に腰かけたシキが、困惑の表情を浮かべて自分と扉を見比べている。レイがこうも頑なに、シキの部屋に入った事実を隠そうとしているのは何故か、彼女には解っていないのだろう。
ロイが二人を引き取り、この町に居を構えて以来、彼ら三人はとても上手くやってきた。最初の頃こそ、双方ともに手探りの状態であったが、彼らは月日をかけて単なる師弟から盟友とも言える間柄へと一歩一歩を歩んできたのだ。
そうやって築かれた関係が、近年また少し変質し始めているのを、レイは感じ取っていた。時折感じる、自分と彼女とに対する師の対応の違い。それは贔屓というよりも、むしろ……。
シキに近づき過ぎてはいけない。レイはほどなくそう直感した。深い淵のような師の瞳が、シキを見る時だけ僅かに和らぐのだ。その視線を邪魔する者を、彼は躊躇いなく排除するだろう。そう、適当な理由をつけてレイをこの家から追い出すことなど、彼にとっては朝飯前だ。
「家事を当番制にしよう」
これ以上シキと二人きりでいたら、近い将来にきっと自分はシキに対する気持ちを隠しきれなくなるに違いない。そうなれば、良くて勘当、最悪の場合、師の手にかかって命を落とすことになる。シキにこの想いを伝えることができる日まで、距離をおき頭を冷やす必要があった。
それに、レイは見たくなかったのだ。嬉々としてロイに教えを請うシキの姿を。
十年前、心を閉じ、目の前に迫る暴れ馬にすら何の反応も見せなかったシキ。強固に封印された扉を開き、彼女をこ ち ら に連れ戻したのは、他でもないロイだったのだ。
銀の髪の男が紡ぎ出した「盾」が放つ光に、シキはゆっくりまばたきを繰り返すと、レイの身体の陰からそっと右手を差し出した。見えない壁を確かめるかのように。
――そっちじゃない!
シキを抱きしめながら、レイはそう叫びたいのを必死で我慢した。おれがいるのはそっちじゃない。あんなにシキのことを心配して世話してくれた、司祭様だって、治療院のおばあだって。あそこにいるのは、どこから来たのかも解らない、氷のような瞳の男だけだ、と。
シキの指が「盾」に触れた瞬間、青白い光が弾けるようにして辺りに飛び散った。
「そうか、君のほうだったのか」
ロイが黒い外套をなびかせながら悠然と、倒れた馬を回り込んで来る。太陽を背負った逆光の姿で、彼は遥か高みからシキを見下ろす。
「君、名前は?」
呆然と二人を見比べるレイの面前、シキの唇が静かに動いた。
軽いノックの音が、レイの回想を破った。
「シキ、まだ起きているのかい」
柔らかな低い声が、扉の向こうから空気を震わせる。イの初等学校で魔術を教える教師にして、自分達が師事する師匠、ロイ・タヴァーネスの帰還だった。
若くして宮廷魔術師長という要職中の要職に登りつめ、東部平定とともに引退して、辺境の町に引き籠もってしまった変わり者。彼にとって研究は娯楽であり、教職ですらその息抜きに過ぎない。
常に自分のペースを崩さず飄々と我が道を行く彼が、このような夜中に嵐をおしての強行軍をとるというのは、俄かには考え難きことだった。一体何をして、彼を荒れ狂う夜道に踏み出させたのか。ふと、今自分が置かれている状況を思い返したレイは、あの茶色の瞳が本当に全てを見透かしているように思えて、密かに背筋を震わせた。
「……あ、はい、今お帰りですか? 先生」
「まいったよ。明日に予定があるから急いで帰って来たんだけどね。こんな嵐とはなあ」
ばさばさと厚手の布地を払う音がした。
「嵐は大丈夫でしたか」
「まあね。留守中変わりはなかったかい」
「あ、はい」
「レイは……真面目にしていたかい?」
その名を言う瞬間、きっと師の眼差しは翳ったに違いない。そうレイは思った。
「え、レイですか? ……いつもどおりです。当番じゃなければ、家に寄りつきもしません」
レイの目配せに応えて、シキが見事なまでにすらすらと愚痴をこぼす。
「そうか……。彼ももう少し落ち着いてくれたらいいんだけどね……」
やれやれ、と溜め息をついたものの、師匠の口調は先ほどと比べて明らかに軽かった。
「そうですよ。先生からも何か言ってやってください」
そう言ってから、シキはレイにそっと微笑んでみせた。これならなんとか上手く遣り過ごせそうだ、とレイも小さく頷き返す。
だが、その安息は長くは続かなかった。
「……入っても良いかな?」
「えっ?」
二人の間に、緊張が走る。
「あっ、あの……! 今着替えているところなので……」
「……ああ、それは悪かったね」
「そのぅ、何か……?」
「ああ、いや、久しぶりだからちょっと顔でも、ってね。大した用があるわけじゃあないんだ。すまなかったね」
どうやら部屋に入ることを諦めたらしい師匠の口調に、シキは大きく胸を撫で下ろした。
だが、レイは依然として苦い表情のまま、両の拳を固く握り締め続ける。
果たして、レイの部屋に明かりが点いていたとして、彼は同じように声をかけただろうか。いや、声ぐらいはかけるかもしれない。だが、顔を見ようと、部屋に入ろうとするだろうか。
――やっぱりそうだ。
これまで自分が抱いていた疑念が真実であろうことを、レイは確信していた。おそらく師匠は、シキを異性として見ているのだ。そして、機会があれば彼女をおのれのものにしようと考えている。余計な虫がつくことのないように見張っている……。
そしてシキは、そんなことを夢にも思わずに、純粋に彼のことを師と仰ぎ、尊敬し、敬服しているのだ。遣りきれない感情が、レイの中で波立ち始めた。
「そうだな、もう休むとしよう。明日はまたちょっと遠出せねばならないんだよ」
「帰ってきてすぐなのに、また遠出ですか?」
「と言っても、サランに行くだけなんだけどね。そのためにこんな雨の中帰ってきたんだ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
気配が扉の前から消え、シキが大きく肩を落とす。
足音が遠ざかる方向へ、レイは昏い眼差しをいつまでも向けていた。