あわいを往く者

   [?]

黒の黄昏 第五話 引き裂かれた二人

  
  
  
    第五話   引き裂かれた二人
  
  
  
    一  奪取
  
  
 その場に座り込み泣きじゃくるカレンを、レイはただ黙って静かに見下ろしていた。
 カレンが、こんなにもこの自分に執着しているということが、レイには不思議で仕方がなかった。そもそも遊びと割りきるよう声をかけてきたのは、他ならぬカレンのほうだったし、この一ヶ月の間だけでも、彼女が他の男と会っているところを、一体何度目撃したことか。
 そんなに、他人が自分の思い通りにならないのが、腹立たしいのだろうか。そう眉をひそめる一方で、レイは首をひねった。これまで、カレンがこんなわがままを言うところを見たことがなかったからだ。
 確かに、情事のさなかのカレンの、いかにも年上ぶった態度は非常に面白くないものだったが、それはあくまでも自分自身の好みの問題だとレイも認識している。そして何より、普段のカレンは、他人に何かを強制するような女ではなかった。レイは何度か、逢瀬の約束をすっぽかされたと言うカレンに会ったことがあるが、そんな時も彼女は相手の男に対して文句一つ言わず、ただ少しだけ寂しそうな眼差しで苦笑を浮かべているばかりだった。
 ならば、どうして今、彼女はこんなに取り乱しているのだろうか。レイはひたすら困惑しながら、カレンを見つめ続ける。
 やがて泣き声は次第に小さくなって、しゃくりあげる音だけが頼りなげに辺りに響き始めた。
「……媚薬をね、盛ったのよ。あの娘が薬を買いに来た時に」
「なんだって?」
 唐突にぽつりとこぼされたカレンの台詞に、レイは驚いて聞き返した。
 カレンはレイから顔を背けたまま、訥々と言葉を継いでいく。
「……貴方が生き埋めになった、あの嵐の日、熱さましを買いに来たの。先生が熱を出した、って」
 そう言って、カレンは自分の手元を見つめたまま、どこかいびつな笑みを浮かべた。
「雨に濡れて寒そうだったわ。だから、熱いお茶を出したの。媚薬入りの」
 次の瞬間、レイは思わずカレンの胸倉に掴みかかっていた。床に座り込む彼女を無理矢理に引き立たせると、憤怒の形相で声を荒らげる。
「……俺が留守だということを知っていてか!」
「そうよ!」あくまでもレイから顔を背け、カレンは吐き捨てるように先を続けた。「あの子がいなければ、あの子が他の男とくっついてしまえば、貴方はきっと私を見てくれる、そう思ったのよ!」
 そこでようやく、カレンはレイの顔を見た。
「貴方のことが好きなの。貴方に傍にいてほしいの、ずっと」
 視線と視線が、真っ向からぶつかった。縋りつくようなカレンの瞳が、レイの心臓を鷲掴みにする。
 レイは知らず息を呑んだ。
 ――同じだ。
 二週間前のあの夜、思いあまってとうとうシキに想いを告げた、あの時の自分と同じ瞳が、そこにあった。この想いをどうか受け入れてくれ、と、祈るような心地で「好きだ」と吐き出した、あの時の……。
 カレンの襟元を掴む右手が、急に重さを増したようにレイには感じられた。
 レイは深く嘆息すると、そっとカレンから手を放した。それから拳を握り締め、絞り出すような声でカレンに語りかけた。
「……冗談なんだろ? 全部、何もかも」
 カレンの顔を見ていられなくて、レイはきつく目を閉じた。自分が今吐き出した言葉が、どんなに身勝手で自己中心的なことなのか、彼には分かっていた。解っていて、口にしたのだ。
 息を呑む気配に続き、大きな溜め息が聞こえた。
「そうね、少なくとも、媚薬の話は冗談なんかじゃないわ」
 穏やかな声音に、レイがおずおずと目を開けば、カレンが力無く微笑むのが見えた。
 レイは、再度拳に力を込めると、「本題」に話を戻した。手のひらに爪を深く喰い込ませながら。
「だって、シキも先生も、何も変わらなかった」
「邪魔が入ってしまったんですって。崖崩れの一報で」
 カレンは呟くようにそれだけを言い、ふらりと壁に背もたれた。
 くだんの薬は、レイも一度味わったことがあった。ちょっと趣向を変えてみましょうか、とカレンが差し出した一杯の珈琲。妙に甘ったるいそれを飲み干して間もなく、気が狂わんばかりの淫猥な渇望感がレイを襲ったのだ。
 朦朧とした意識の下、レイは夢中になって快楽に耽り続けた。次に我に返った時には夜はすっかり明け、とても満足そうなカレンの笑顔と、かつてないほどの疲労感が、レイを出迎えてくれた。
『凄かったわ……』
 カレンは、レイの胸元を指でなぞりながら、うっとりと囁いた。
『たまには、強引にされるのもいいわね……』
 ――あの薬を、シキが、飲んだ。
 レイは、口の中に溢れる生唾を嚥下した。
 色事に耐性のないシキのことだから、あっさり意識が吹っ飛んだに違いない。虚ろな瞳でロイにしなだれかかるシキの姿が、レイの脳裏に生々しく思いえがかれた。女が男を無理矢理襲うというのは、身体の構造上なかなか難しい作業ではあるが、迫るのがシキで、それを受けるのがロイとなれば、据え膳を阻むものなど何もないはずだ。
 崖崩れの報せが彼女を救ったとは、世の中、何が幸いするか分からない。レイはほっと肩を落として、そして……、気がついてしまった。
「ちょっと待て。邪魔が入ったとか、なんでてめえが知っている」
 依然としてカレンは俯いたままだ。
「今日のお昼、先生が来たのよ、うちに。その時に聞いたわ」
「ロイが? 来た? ここに? 何のために? ……そうだ、さっきの手紙! 何のために俺はここにいるんだ?」
 懐から先刻の手紙を出し、カレンは虚ろに微笑んだ。力の抜けた指先から、ひらりひらり、と白い紙が床に落ちていく。
「……取引なんですって。私に貴方との時間を、そして先生には媚薬を……」
 床の上で広がった便箋には、たった一文だけが記されていた。見慣れた筆跡で、僅か一行、『お互い、至福の夜を』と。
  
  
  
 肘掛け椅子に深く腰かけて、ロイは居間の扉が開くのを待っていた。やっと、やっと解放される、その期待を胸に抱いて。
 そもそも、ロイという人間の中における愛欲の地位は低い。無理矢理に順位をつけるならば、一番に来るのはやはり知識欲。そして、力欲、自己顕示欲……とくだっていく。生きていくために必要なレベルの食欲、金銭欲は当然のことながら持ち合わせてはいたが、仮にそれら全てを犠牲にすることはあったとしても、知識と強さを求める心だけはどうしても譲ることができなかった。
 勿論、三十余年という人生の中、彼も女性と深い関係を持ったことは何度かある。だが、一度として、それらの関係が長続きすることはなかった。心ときめく出会いから甘い蜜月に至れども、やがて彼女達は判を押したように、あまりにも身勝手な要求をロイに突きつけてきたのだ。
『私のことを一番に考えて』
『私だけを見て』
『私と魔術とどちらが大切なの?』
 その問いは、あまりにも非論理的過ぎた。誰が彼女達に「恋人と食事とどちらが大切なのか」と問うだろうか。「恋人と空気と」でもいい。そして、ロイがそのことを指摘しても、彼女達が自らの不明を改めることは一度もなかった。
 いつしかロイの中では、煩わしさが人恋しさに勝つようになった。どうしようもなくなった時は、金さえ払えばなんとでもなる。そうやってロイは今まで生きてきたのだ。
 ――だが、シキはそんな愚かしい女達とは違う。十年間をともに過ごした、我が忠実な愛弟子よ。
 喉の奥で小さく笑って、ロイはゆったりと椅子に身を預けた。そう、もはや何も思い悩むことはない、と。彼女とロイは同じものを見て、同じ所に立って、同じ道を歩んでいるのだから。
  
 静かな室内にノックの音が響く。ゆっくり扉が開き、お盆を持ったシキが顔を出した。
「お待たせしましたー」
「ああ、待ちかねたよ」
 心の底からそう頷きながら、ロイは自分の向かいの長椅子をシキに勧めた。
 背の低いテーブルの上にカップが二つ並べられ、甘い肉桂の香りが辺りに充満した。
「そうだ、砂糖を貰おうか」
「あ、はい。ちょっと待っててください」
 シキがバタバタと部屋を出ていくのを見送って、ロイは懐からガラスの小瓶を取り出した。瓶の蓋を開け、透明な液体をシキのカップに落とし入れる。
 遂に始まるのだ。至福の夜が。
  
  
  
 レイは扉を蹴り破らん勢いで薬草屋を飛び出した。三段のステップを一気に飛び降り、そのまま靴音も高く石畳の街路を走り抜けていく。
 家を出てから、どれぐらい経った?
 ここから家まで、どれぐらいかかる?
 余計な自問を振り払い、レイは夜道をひた駆けた。悩んだり考えたりしている暇はない。とにかく、全ての身体能力を走ることだけに費やすのだ!
 そう自分に言い聞かせる一方で、レイの脳裏にはこれまでの思い出が、川に浮かぶ木の葉のように次々と流れては消えていった。
  
 先生と出会い、教会を出て、新しい家族と新しい生活を始めたこと。空き家を皆で力を合わせて改修したこと。
 魔術を教えてもらったこと。勉強を教えてもらったこと。体術や剣術までも教えてもらったこと。
 一緒に掃除洗濯をし、料理をし、食卓を囲んだこと。最初の頃は、火の扱いだけは先生の役目と決まっていたっけ。
 学校に行き始めて、先生の授業を受ける時は、なんだか少しだけ気恥ずかしかった。だが、同時にとても誇らしく思えて……。
  
 記憶の中の「彼」は、時には厳しく、時には優しく、そして常に温かく自分達を包み込んで、育んできてくれた。
 走り続けるレイの胸に、不意に熱いものが込み上げてきた。思わず泣きそうになって、レイは目元に力を込めた。
 ――今まで三人で上手くやってきたじゃないか……!
 そう、今まで三人はとても上手くやってきた。だが、時が流れ、二人の弟子は大人になり、「彼」は今までの関係では我慢できなくなった。……まさしく、レイがそうだったように。
 ばくばくと暴れる心臓の音に合わせて、家々の壁が矢のように背後へと飛び去っていく。石畳を蹴る足音があちこちにこだまして、まるで怪物の笑い声のようだ。
 あの異教の呪文書、そして今回の媚薬。清廉を装った師の表情を思い描いて、レイは歯ぎしりをした。先生は……ロイは、シキが自分に寄せる信頼や尊敬といったものの上に胡坐をかいているのだ。そのくせ、正面から体当たりして拒絶されるのを怖がっている。
 ――へっ、確かに俺と良く似てるぜ。
 怒りと、焦りと、自己嫌悪と、そういったものがない交ぜになってレイを苛んだ。ぎり、と歯をくいしばって、小さくかぶりを振る。
 ――いや、違う。俺なら、そんなものに頼らない。無理矢理シキを自分のものにするなんて、絶対にしない!
「見損なったぜ……」
「……誰を?」
 独り言に返答があって、レイは息が止まるほどに吃驚した。驚きのあまり一瞬足をもつれさせるが、なんとか体勢を立て直し、走り続ける。
 レイの左側を、サンが息せき切って走っていた。
「おーい、無視は、ない、だろう」
「るさい」
「昼の話、考えて、くれた?」
「邪魔するな」
 だが、レイの心中を知ってか知らずか、サンは並走体勢を崩さない。
「……緊急事態?」
「そうだ」
「俺に何か手伝える?」
 サンと言葉を交わしているうちに、少しだけレイの頭が冷静さを取り戻してきた。
 家に帰りついたあと、ロイの計画をどうやって邪魔すればいいのだろうか。シキが未だ薬を飲んでなければ良いが、もしも既に罠に嵌まっていたら、どうすればいい? 相手はあの大魔術師、ロイ・タヴァーネスだ。レイごときヒヨッコ一匹、片手の一閃であっさり返り討ちにあうのが落ちだろう。
 それに、併走者がいるほうが、闇雲に独りで走るよりも速度を維持できるかもしれない。そうと決まれば、と、レイは大きく息を吸い込んだ。
「……よし、競走だ、サン。ゴールは、俺の家!」
  
  
  
 お茶に浮かべた桂皮を、シキは軽くスプーンで突っついた。肉桂独特の甘い香りが、湯気と一緒に立ちのぼる。
 ――遅いな、レイ。
 レイの身を案じて注意が逸れたシキの手元で、スプーンがカップの縁とぶつかった。大きく波立つ器の中、渦にまかれる桂皮のかけらをシキはしばしぼんやりと眺め続ける。
 胸の奥を大きな手で鷲掴みにされたような、何か得体の知れぬ胸騒ぎがしてならなかった。大体、夜道が危険なのは、別に女子供に限った話ではない。それに、最近は物騒な連中がこの辺りをうろついているらしいと言うではないか。
 そうでなくとも、最近レイの様子が変なのに。シキはそっと唇を噛んだ。
 腰を痛めた鍛冶屋の手伝いに行くんだ。彼がそう言って、当番を代わるよう頼んできたのは、崖崩れの三日後だった。生還祝いの酒盛りの次の日、眠りこける客人達を残したまま姿を消したレイは、翌朝になって「しばらく当番を代わってくれ」と、シキを拝まんばかりに頼み込んできたのだった。
 それから毎日、遅くまでレイは家を空けた。シキも家事に追われ、二人はすれ違い続けた。特に最初の一週間は、エイモスの容態がよほど芳しくないのか、レイはとてもピリピリした様子で、朝食も食べずにパンを三つ鞄に放り込むだけで出かけていったものだった。
 一週間が過ぎて諸々に余裕が出てきたのだろう、レイは朝食を食べてから家を出るようになった。それでも、シキが全ての配膳を終えて先生を呼ぶ頃には、レイの姿は食卓から消えているという有様だった。昨日の朝、あんなにもレイが苛々した様子を見せていたのは、リーナのせいで出かける予定が狂ってしまったからだろう。
 結局、昨夜のあのひとときまで、シキはレイと二週間近くもの間、まとまった会話を交わしていなかったことになる。夜遅くに帰宅したレイがシキの部屋の扉の前で「ただいま」「おやすみ」と優しい声で足を止めることがなければ、シキはあの告白のことを幻と思ってしまったかもしれない。
 ふう、と溜め息をついてから、シキはもう一度昨晩のことを思い返した。
 先生が異教について言及した時、レイは明らかに何か含みのある様子だった。あの日治療院で、彼は確かにこの黒髪が異教に関わるかもしれない可能性について語っていたのだから。なのに、どうして彼は強引に話を切り上げたのか。推論とはいえそれを先生の耳に入れることで、何か新しい事実が分かるかもしれなかったのに。
 そういえば、とシキは更に記憶を掘り返した。前にも同じようにレイが話を打ち切ったことがあったのを思い出したのだ。あの時、治療院の先生の寝台の前でシキの言った軽口に、彼は過敏とも言える反応を見せていた。
『隠れて特訓でもしてたんじゃない?』
『そんなわけねーだろ』
 彼の口調は不自然なほどに刺々しかった。何より、シキの言葉を聞いた刹那、彼は、はっとしたように息を呑んだのだ。
 ――レイは何を隠しているんだろう。
 考えれば考えるほど、不安がシキの胸に押し寄せてくる。
 暗い気持ちを振り払うようにしてシキが顔を上げれば、自分を食い入るように見つめる師と目が合った。
  
  
「……どうかしましたか? 先生」
「いや、別に。なんでもないよ」
 真正面からシキと視線がぶつかって、ロイは少しだけたじろいだ。澄んだ眼差しに、心の奥底を見透かされてしまいそうな気がしたからだ。
 身体の奥から淫らな妄想が、次から次へと湧き上がってくる。それらが現実となるのが、ロイは待ち遠しくてたまらなかった。ごくり、と、生唾を飲み込むのも、先刻からこれで何度目だろうか。取り繕うように姿勢を正し、大きく息を吐いてから、ロイはできるだけ不自然にならないように気をつけながら、シキのカップを指し示した。
「お茶が冷めてしまわないかね?」
「冷ましているんですよ」
 シキが小さくはにかんだ。
「私、猫舌だから。レイにはお子様だってバカにされますけど」
 もう一人の弟子の名に、ほんの瞬間ロイの意識は現実に引き戻された。
 だがすぐに、ロイは目前に迫る至福の時へと頭を切り替える。そう、彼らはもう子供ではない。甘い夜を過ごすのは、自分とシキだけではないのだ。
 また、ごくり、とロイの喉が鳴った。
 ――早く。早く口をつけるんだ、シキ。
 カップ一杯のお茶を飲むのに、何をもたもたしているのだろうか。ロイははやる心を自制して、必死に平静を装った。彼のそんな焦りを知るよしもないシキは、カップに触れようとすらせずに、お茶が冷めるのを暢気に待っている。ロイの苛立ちは、ただつのるばかりだ。
 ――いっそのこと、実力行使といくべきか。
 だが、シキは腕の良い魔術師だ。下手に抵抗されると大変なことになる。ロイは心を決めかねて、下唇を噛んだ。
  
 ロイにとって拷問のような時間が、刻々と過ぎてゆく。
 やがて、とうとうシキの手がカップへと伸びた。
 細い指が軽く陶器の側面に触れる。温度を確かめているのか、指先で軽く二、三度カップを撫で、それから彼女はゆっくりと両手でカップをすくい上げるようにして持ち上げた。
 ロイの喉で、生唾を嚥下する音が鳴る。
 カップは、そのまま静かに胸元まで運ばれた。香りを楽しむかのように、シキは軽く目を閉じて動きを止める。
 もう少し。
 さあ、飲め。
 飲むんだ。
 シキの形の良い唇が綻んだ。カップの縁が、唇に…………
  
 その瞬間、大音響が家を震わせた。
 反射的に身をすくめたシキの手から、あろうことかカップが滑り降ちた。淡黄の液体がゆっくりと弧を描いて床に飛び散るさまを、ロイは茫然と見つめ続けた。
「すみません、あとで片付けますから」
 その視線に気づいたシキが、申し訳なさそうな表情を作った。だがすぐに真顔となって、音のしたほうを振り返る。「それよりも、先生、今のは……?」
 シキの手元に全意識を集中させていたロイに、そんなことが判るはずがなかった。あまりの悔しさに、濡れた床から視線を外すこともできないまま、ロイは辛うじて一言を返す。
「分からない」
「玄関……ですね」
 囁くようにそう言って、シキがそっと立ち上がった。気配を殺しながら、慎重に扉へと向かっていく。
 シキの後ろ姿を見送るロイの内部で、ぐつぐつと怒りが沸きかえった。ロイは憤るがままに勢い良くテーブルの上のランプを掴むと、シキを押し退けて居間の扉を開けた。
  
 腹立たしさで煮えくり返るはらわたを抱えながら、ロイは廊下へ出た。ランプの光を玄関のほうへと向ければ、未だ激しく揺れる両開きの扉が目に入った。
 鍵も閂もかけていたはずなのに。愕然と目を見開くロイの脳裏に、ある映像がまざまざと浮かび上がってきた。砂糖を取りに台所へと戻ったシキが、玄関に立ち寄って鍵を開ける姿が。おそらく、レイが帰ってくると信じた彼女が、玄関扉が閉まっているのを見て、密かに錠を外しておいたのだろう。
「……勝った……」
 地獄の淵から響いてくるような、擦れた声が聞こえた。ぎくりとしてロイが視線を下方へとやると、玄関の床に膝をつく人影が見えた。
 見まごうことなき、黒い髪、黒い服。荒い息でそこにうずくまっていたのは、誰あろうレイだった。ロイは自分の頬が一気に熱を帯びるのを自覚した。怒りのあまり身動き一つできずに立ち尽くしていると、今度は別な声が暗闇から湧き起こった。
「違う、って。同着、だぞ」
 その声は、レイの後方から聞こえてきた。闇に慣れた目が、玄関扉のすぐ近くに座り込む長身の影を捉える。人影は大きく肩を上下させながら、訥々と言葉を吐き出した。
「あ、先生、お久し、ぶり、です」
「え、もしかして、サン?」
 シキの声を聞いて、ロイの呪縛が解けた。声が震えるのも構わずに、ロイは心の底からの怒号を発した。
「どういうことだ、レイ!」
「帰りに、たまたま、サンと、会って」
「競走、して、ました」
「……なんで競走?」
 ロイの背後でシキが首をひねる気配がする。
 全ては、水泡に帰してしまった。絶望にも似た憤怒を押し殺して、ロイは静かに口を開いた。
「レイ、使いはどうした」
「ちゃんと、手紙、渡して、きまし、たよ。手渡し、で」
 何か言おうとしたものの、ロイはその言葉を呑み込んだ。その代わりに震えるほど力を込めて拳を握り締め、そのまま無言できびすを返す。
  
 立ち去る師を見送りながら、レイがもう一度呟いた。まだ収まりきらない息の下で、それと分からないように小さく笑いながら、「勝ったぞ」と。