あわいを往く者

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黒の黄昏 第五話 引き裂かれた二人

  
  
  
    二  決意
  
  
 木漏れ日がちらちらと風に揺れている。
 東の森の中心部、レイの秘密基地が穿たれている片丘。その洞の入り口の前にある、寝台ほどの大きさの平たい石に腰かけて、レイは習得し終えたばかりの呪文を呟きながら、一心不乱に木の枝をナイフで削っていた。
 彼の足元には、鍬の柄程度の太さの枝が全部で十一本転がっている。それらの枝の側面には、レイの手によって古代ルドス文字がびっしりと刻みつけられていた。
 ナイフの切っ先が描き出す軌跡は、一つ一つは単なる記号に過ぎないが、それらがある法則の下に並べられることで、文字は言葉となり、言葉は呪文を生み、そうして遂には山をも動かす力にさえなり得るのだ。
 ふう、と一息をつくと、レイは枝とナイフを持ったまま大きく伸びをした。すっかりこわばってしまった身体をほぐすべく、二度三度と肩を回してから、また再び作業を再開する。
 早朝、まだ夜が明けやらぬうちに家を出たレイは、東の森へと真っ直ぐにやってきた。そうしてそれからずっと、何も食べず、何も飲まず、少しも休むことなくこの作業を続けている。
  
 フォール神神聖魔術「半身」。これが、今レイが構築しようとしている呪文の名だ。レイが手に入れた呪文書の巻末にひっそりと付記されていたこの術は、フォール神からより大きな恵みを得るための、特別な呪文ということだった。
 そもそもフォール神とは何者なのか。呪文書に記された術の内容から推察する限り、恐らくは農耕に関係する神なのだろう。その加護を受けるには、男女の術者一人ずつが組となる必要があるとのことだった。術者二人が向かい合わせに立ち、お互いに両手を繋いで、心を合わせて呪文の詠唱を行わなければならない、と、そこにはそう記されていた。心を通じ合わせた男女が手を取り合って、大地の恵みを神に祈る。そこに描かれているのは、邪教という言葉からはほど遠い、穏やかで平和な情景だ。皇帝陛下は一体何の意図があって、アシアス以外の神を葬り去ろうとしているのか。レイは呪文書を読みながら何度も首をひねったものだった。
 そして「半身」の術は、それを確固たるものとするための呪法として記されていた。
 愛し合う二人を、更に結びつけるもの。その一文で付記は始まっていた。二人一組で施術しなければならないフォール神の術において、何よりも大切なのは、術者二人の絆である。二人の間に余計な邪魔者が介入するようなことは、あってはならない禁忌だった。「半身」とは、そのような問題が起こらないように、男女二人の術者の関係を意図的に固定するものであったのだ。
 この呪文によって、二人の術者はそれぞれの「性」を外部に対して封印するのだという。判りやすく言い換えるならば、この術をかけられた女性は、術者以外の人間には性的な魅力を一切認識させなくなる、ということらしい。一方、術をかけた男性のほうにも、制約は課せられた。この術を使用した術者は、被術者以外の人間と性的な交わりを持てなくなってしまうというのだ。施術者がひとたび不義を働こうものなら、たちまち苛烈な苦痛が彼を襲うことになるだろう、と。
 お互いがお互いの支配下に入ることによって、術者二人と外界の間に超え難き境界を築き上げる。それが「半身」の役目であり効果であった。
  
 レイの口から、大きな溜め息が漏れた。
 ロイが手に入れたかったのは、間違いなくこの「半身」であったはずだ。昨日までは半信半疑だったが、今ならそう断言できる。レイは胸の内でそう呟くと、ナイフを握り締めた手に力を込めた。一切の「悪い虫」を、彼女の周囲から強制的に排除する。ロイにとってこんなに美味しいことはないだろう。
 ――呪文書が手に入らなかったら、次は薬だと?
 ふざけるな、とレイは思った。いくら拒絶されたくないといっても、やっていい事と悪い事がある。そもそも、魔術の力で彼女を我が物とするなんて、虚しいとは思わないのか!
 そう憤りつつも、レイもロイの考えが全く理解できないわけではなかった。彼女を手に入れられるのなら、姦計だろうが陰謀だろうが幾らでも企ててやる、そんなことはレイだって何度も考えた。
 だからといって、それらを実行するか否かと問われれば、それはまた別の問題だ。レイは眉間に深い皺を刻んで、手に握ったナイフを見つめた。
 ――だが、奴は本気だ。本気でシキをモノにしようと考えている。
 自分がシキの傍に四六時中ついていてやるなんてことは、絶対に不可能だった。このままでは、いつかロイはシキをレイの手から奪い取るだろう。それも卑怯な手で。
 力が入るあまり震える右手を落ち着かせるように、左手をそっと添えながら、もう一度レイは溜め息を吐き出した。
 二人でロイの下を去る、という選択肢もないではなかった。折しもサンに「あんなこと」を持ちかけられたあとだ。
 だが、とレイは考える。より高みを、より知識を求めているシキにとって、それは最善の道なのだろうか、と。
 天才魔術師、ロイ・タヴァーネス。それは決して誇張ではない。彼の傍で彼に師事するということがどんなに誇らしく素晴らしいことか、それはレイにも良く解っていた。そう、ロイの下から離れたくないと考えているのは、レイも同じなのだ。何より、これまで十年もの間、自分達を手厚く育ててくれた彼のことを思えば、恩知らずな真似は絶対にしたくない。
 それに……、レイは怖かったのだ。仮に家を出ようとシキに持ちかけた場合に、彼女が自分ではなく魔術を、ロイを選ぶのではないかということが。
 ならば、残された道は一つ。
 先手を打つしかない。
  
 そろそろ日が傾き始めていた。
 薄暗さを増した手元に難渋しながら、レイは出来上がった十二本の杭を順番に地面に打ち込んでいった。木槌の奏でる規則正しい音が、鬱蒼と茂る木立の中へと吸い込まれていく。
 石の台を中心に描いた正円に沿って、木杭は立てられていた。円周を十二等分する杭は、どれも正確に十二方位を示している。更にその内側には、赤黒い印をつけられた拳大の石が、やはり十二個、綺麗な円を描いて草むらに置かれていた。
 これらは、「半身」を起動するための力場となる魔術陣を形作っていた。地面や床に直接陣をえがくことができるのなら、作業はもっと楽だったんだけどな、とレイは大きく息を吐いた。
 とはいえ、家の中に描けば、準備の段階でロイに術のことがばれてしまうだろうし、ことが「邪教」にかかわるだけに、家の外に場所を探すのも難しい。
 それに、レイにとって、この場所こそがこの術にふさわしいような気がしたからだ。誰も立ち入らない東の森、二人だけの秘密の遊び場。シキと契りを交わすのに、おそらくここ以上の場所はないだろう。
 レイは慎重に水平面を測り出すと、木綿の糸を杭から杭へと張り巡らせた。そのところどころにも、赤の印がついている。最後に、レイは石の台の横にしゃがむと、右手人差し指のまだ新しい傷を爪で扱き、溢れ出す血で石の側面にも文言を記した。
 体力と魔力を使いきったレイが、やっとのことで陣を完成させた時には、空はすっかり赤錆色に染まっていた。
  
  
 帰宅したレイが「疾走」を繋ぎに向かうと、丁度ロイが厩から出てくるところに鉢合わせた。
 ちら、とレイのほうを見やったその茶色の瞳が、まだなみなみと怒りの色をたたえている。今日のロイの授業はさぞかし厳しかったことだろう、と見知らぬ後輩達に激しく同情しながら、レイはとりあえず反省の表情を作った。
「昨晩は騒がしくしてすみませんでした」
 ロイは無言で、軽く頷いた。
 邪魔が入るとは微塵も考えていなかったんだろうな。胸の内で呟きながら、ふと、レイは悪戯心を出した。神妙な表情のまま、心にもないことを白々しく口にする。
「その……、何かマズかったですか?」
 その瞬間、ロイの表情が更に険しくなった。そうして大きく息を吸い込んで……押し殺した声で吐き捨てる。
「……読書の邪魔をされたんだ。機嫌だって悪くなるだろう」
 足早に母屋へ去っていくロイを見送りながら、レイは不敵な笑みを浮かべた。
 ――絶対お前の思う通りにはさせないからな。シキは俺のものだ。これまでも、これからも。
  
  
  
 ――カレンの奴、一体どういうつもりだ。
 ロイは先ほど帰りがけに寄ってきた薬草屋でのことを思い出して、余計に怒りを増幅させていた。
 ドアノブにかかる臨時休業の札。気配から家にいるのは間違いないのに、いくら呼んでも出て来ようとしないカレン。やはり、あんな奴を信用するべきではなかったのか。
 ――この期に及んで、まさかシキに秘密を漏らすことはないだろうか。
 唐突に湧き起こる不安に、ロイは大きく息を呑んだ。それに、レイのことも気にかかる。カレンは、レイがシキを狙っていると言っていた。それが事実かどうかは別にしても、奴は昨晩、絶妙なタイミングでロイの邪魔をしたのだ。
 ――まさか奴に自分の計画がばれてしまったなどということはないだろうか。
 これは、なんとしても早急に事を運ぶ必要があるな。そう決意新たに玄関扉に手をかけたところで、ロイは動きを止めた。それから、なんでもないような素振りで、ゆっくり辺りを見まわした。
 ――二人……いや、三人……?
 誰かがこの家を見張っている。こちらを注視している気配がする。
 ロイはそっと眉をひそめた。そういえば、昨日帰宅した時も何か違和感を覚えたような気がした。例の薬を手に入れて気が昂ぶっていたこともあって、単なる気のせいだと片付けてしまったが、もしかしたらその時から既に何者かがこの家を監視していたのかもしれない。
 そうこうしているうちに、その視線はふっと消えた。更なる気配を読み取ろうと意識を集中させていたロイは、忌々しそうに舌を鳴らした。
 どうやら、相手はかなり慎重な連中らしい。誰が一体どういうつもりなのかは知らんが、今は様子見だ。ロイはそう軽く鼻を鳴らすと、家の中へ入っていった。
  
  
  
「そうだ、レイ。サンって今何してるの?」
 夕食の席で突然シキにこう訊かれて、レイは口の中の食べ物をふき出しそうになった。なんとか慌てて飲み込んで、更に水を流し込む。
「なっ、何って、どうして?」
 予想もしていなかった話題に、レイの声は滑稽なほどに上ずってしまっていた。だめだ、落ち着け、とレイは自分を叱咤する。
「今日、厩の掃除を手伝ってくれたんだけど、サンって帝都に行ってたでしょ? 休暇か何か?」
「本人に訊けよ」
「訊こうと思ったんだけど、訊きそびれたんだ。レイ知らない?」
 レイは、視界の端でロイの様子をそっと窺った。
「……仕事は辞めたって言ってたぜ」
「えー! 近衛兵って、そんな簡単になれるものじゃないでしょ? なんで?」
「それは俺のほうが訊きたい」
 食事に意識を集中しているようなフリをして、レイはそっけなく答えた。
「じゃ、こっちで何か仕事を見つけるつもりなのかな」
「そうじゃねーの?」
 暴れる心臓を必死で抑える一方で、だんだんレイは腹が立ってきた。なんで、この俺がサンの奴にこんなに気を遣ってやらなけりゃならないんだ? と。
「サンと話すのって三年ぶりぐらいだったかな、私は。彼、全然変わらないね」
 ――全然変わらない? そうなのか?
 にこやかに語るシキの顔をぼんやりと見つめながら、レイはかつての親友との距離を測りあぐねていた。
  
  
 ごちそうさま、とシキがフォークを置く。その向かいで、ロイはそっと背筋を伸ばした。
 昨晩、シキは当番だったレイの代わりに後片付けをしてくれている。それを理由に今晩の仕事をレイに肩代わりをさせようと、ロイは考えていた。そうして、適当な理由をつけてシキを自分の部屋に誘い入れ、そのまま昨夜の続きを果たしてしまおうと画策していたのだ。
 部屋の扉や窓を術で封印してしまえば、「封印解除」を使えないレイにはどうすることもできないだろう。シキの喘ぎ声は「沈黙」の術で消し去ることができる。交合も魔術もとなればかなりの負担ではあるが、とにかく今は、一刻も早く既成事実を作り上げることが大切だろう。極論を言えば、実際にシキを抱けなくとも良いのだ。彼女が自分から進んでロイを求めたという事実を、彼女自身が明確に意識することさえできればそれで良い、とまでロイは考えていた。
 さて、と居住まいを正してロイが口を開きかけた時、レイがシキの名を呼んだ。
「昨日の埋め合わせに手伝ってやるよ」
 予想外のレイの発言に、ロイは一瞬虚を突かれた。言葉に詰まった彼の見ている前で、シキが少しおどけたふうに眉を上げる。
「埋め合わせって言うなら、代わってくれるんじゃないの?」
「俺だって遊んでいたわけじゃないからな」
「競走してたじゃん。サンと」
「贅沢言うなら手伝わねーぞ」
 そう言いつつ、レイはシキを退かせて流し台へと向かっていった。ロイは言葉もなくただそれを見送るばかり。
「食器、下げて来てくれ」
「了解」
 そうして、シキはてきぱきと食卓の上を片付け始めた。
 言葉をかける機会を窺いながら、ロイはじっとシキを見つめ続けた。その間も、彼女は厨房と食堂とをせわしなく往復しては、食卓の上を綺麗に空けていく。
 やがて、シキが自分のすぐ傍にやってきた。
「お皿、お下げしてよろしいですか?」
「ごちそうさま。美味しかったよ、シキ」
 その言葉に、シキがぱあっと顔を綻ばせた。
 今だ、とロイが静かに息を吸い込んだところで、無邪気な声がロイを打つ。
「良かった! 先生ってば、ずーっと黙ったままだったから、何か問題でもあったかな、って思ってたんですよ」
「ああ、すまないね。ちょっと考え事をしていたものだから」
 狼狽しつつも吐き出した弁解に、シキはにっこりと微笑み返した。そうしてロイの皿を手に、さっさと台所へと踵を返す。
 大きく肩を落としてから、ロイは立ち上がった。
「……今晩は、無理だな」
 無理を押せば、勘の良いレイに計画を見抜かれてしまうかもしれない。ここ一番の大勝負に焦りは禁物だ。
 それに、二人っきりになれるのなら、別に家でなくとも構わないのだ。そう、例えば……、学校の教官室に呼び出すという手もある。今まで散々待ったんだ、慌てることはない。そう自らに言い聞かせながら、ロイは静かに食堂を辞した。
  
  
 廊下の途中で、ロイは足を止めた。
 やはり、何者かがこちらを窺っている視線を感じる。夜陰に油断しているのか、彼らの気配は夕方の時よりもはっきりと解った。
 一人、二人、全部で三人。
 ロイの眉が、ゆっくりとひそめられる。彼の脳裏に、朗らかに笑う長身の教え子の姿が浮かび上がってきた。
 ――彼の身に、一体何があったというのだろうか……。
 とりあえずは、向こうの出方を待つとするか。ロイは軽く頭を振ると、自室に向かって再び歩き始めた。
  
  
  
 深夜、明かりの消えた自室の寝台に腰かけながら、シキはまんじりともせずにいた。
 彼女は、先刻食堂で交わしたレイとの会話を思い出していた。
  
「……シキ」
 窓に鎧戸を閉め終わったシキの耳元で、レイが囁いた。その甘い声音に、シキの鼓動が跳ね上がる。
「余計なことせずに、今日はさっさと部屋に引っ込めよ」
 いつぞやの続きかと思いきや、愛想の全くない台詞に、シキはあからさまな険を眉間に刻んだ。
「……なんで?」
 ……少し、否、かなり期待していた自分が、なんだかむしょうに惨めに思えて、シキはわざとつっけんどんな訊き方をした。もしかしたら、本当にあの告白は幻で、私が一方的に片想いをしているだけなんだとしたらどうしよう、と恐れつつ。
 そんなシキの様子に気づいているのか否か、レイは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて静かに言葉を継いだ。
「寝たふりをして待っててくれ。鎧戸は閉めずに。迎えに行くから」
  
 ――「迎え」だって。迎えに来てくれるんだって。
 暗闇が隠してくれるのをいいことに、シキは顔を緩ませた。熱くなった両頬を手で押さえながら、高鳴る胸でレイを待つ。どこへ行くのかは知らないが、とうとう今夜は彼に置いて行かれずに済むのだ。
 満月が中天にかかる頃に、窓ガラスに何かが当たる軽い音が響いた。慌てて窓辺に駆け寄れば、すぐ外に佇むレイの姿。月光に照らされたレイの凛々しい顔に、シキの胸はいよいよ高く鳴り響く。
「行こうぜ」
「え? 窓から出るの?」
「脱走ってな、窓からって決まってるんだよ」
  
 シキの手を引いてレイは厩へと向かい、静かに「疾走」を牽き出した。手綱を取るレイに促され、シキがその背にしがみつく。
「どこに行くの?」
「いいとこ」
「何しに?」
「いいこと」
 夜の道に、二人を乗せた馬が走り出た。
  
 それを見て、家の裏手に広がる森の陰から、人影が三つ姿を現す。
「まさかまたあの森に行くのか」
「だとしたら、この暗闇では追跡は不可能かと」
「そうも言ってられないだろう。サン、あの二人をつけろ」
「分かりました」
 無表情なサンの顔が、冴え冴えとした月明かりに浮かび上がった。