あわいを往く者

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黒の黄昏 第六話 虚空を掴む指

  
  
  
    四  儀式
  
  
 綺麗に片付けられた書斎の床一面に、白墨で魔術陣がえがかれている。
 部屋の中には、息苦しいほどの香がたきしめられていた。机の上で揺らめくランプの光が、この世のものならざる雰囲気を更に盛り上げている。ロイは足元の白墨の線を消さぬように注意をしながら、抱きかかえていたシキを陣の中央にそっと横たえた。
 半年前にロイがあれほどまでに切望した「至福の時」、そこへ至るための重い扉が、今ようやく開かれようとしているというのに、彼の表情は晴れなかった。深く溜め息をつき、ぎりりと歯を食いしばる。これからおのれが為すべき事を考えれば考えるほど、破戒に対する嫌悪感が胸の中から湧き上がってくるのだ。
 形相が変わるほどに奥歯を噛み締め、ロイは机に寄りかかった。ふう、と大きく息を吐き出して、額の汗を拭う。そうして机の上の呪文書を覗き込んだ。
 古代ルドス魔術において、陣を使う魔術は一般的ではない。例えば「偽装の指輪」のように、物に呪文を込めていわゆる魔術道具となすためには陣が不可欠だが、その技を持つ者はロイの知る限り帝国に一人だけ。それは他でもない彼自身だ。レイがこの「半身」の術を成功させたという事実を思い返して、ロイは素直に悔恨の情をいだいた。余計なことさえしなければ、この私が最高の術者に育て上げてやったのに、と。
 魔術陣に決まった書式はない。術の理論、組成を読み解いて、起動に必要な力場を構成する作業は、決して簡単なものではなかった。
 ――奴は、どのような陣を展開したのだろうか。そもそもどこに、どうやって……。
 そこまで考えて、ロイは固く目をつむると頭を激しく振った。
 どうしても、意識が施術から逸れてしまう。
 自分が今為すべき事は、シキにこの術をかけることだ。彼女の身体に絡まるレイのくびきを引きちぎり、代わりにおのれの術で彼女を我が物とするのだ。
 無理矢理に心を奮い立たせようと、ロイは床に横たわるシキを注視した。黒髪が飾る形のよい額、柳の葉のような眉、長い睫毛、通った鼻筋。ほんのりと上気した頬は薔薇の花びらのごとく。呼吸に合わせて微かに震える唇の、みずみずしさといったら。襟ぐりからちらりと覗く鎖骨、規則正しく上下する胸元、すらりとした手足がなんとも無防備に床に投げ出されている。
 ロイの口から、知らず、大きな溜め息が漏れた。
 大した術だ、とロイは独りごちた。この状況に至っても、ひとかけらも意欲が湧いてこない。ロイはもう一度溜め息をつくと、「抗魔術」の呪文を詠唱し始めた。少しでもこの忌々しい呪縛から逃れることができるように、魔術の効力に抗う力を我が身に纏おうというのだ。
 ランプの炎が不意に揺らめいて、床に落ちるロイの影が大きく波打った。
 術の効果が現れてきたのだろうか、ロイの胸の奥に詰まっていた何かが、ほんの僅か溶け始めたような気がした。ここぞとばかりに、ロイは意識を床に横たわるシキへと向ける。
 ――思い出せ、あの、狂おしいほどの渇望感を。
 ロイの拳が固く握り締められた。おのれがどんなにシキを欲していたのか、何としてもそれを思い出すのだ、と。
 柔らかそうな身体を、この腕でしっかりと抱きしめたかった。温かい頬に、首筋に、そして唇に、接吻の雨を降らせたかった。たっぷりと勿体をつけてその衣を剥ぎ、全身くまなく愛したかった。羞恥に震える彼女を、快感に酔わせてみたかった。
 相手は自分を師と慕ってくれている女だ。慎重にさえ事を運べば、望む結果は順当に得られたことだろう。だが、彼女の傍には常にあの忌々しい幼馴染みの姿があった。自分と比べて、より彼女に近い立場で、より多くの時間を共有してきた男の存在に、ロイは密かに嫉妬した。なんとかして、彼を出し抜いてしまいたかった。
 そう、ロイは彼女をおのれだけのものにしたかったのだ。自分の声だけを聞き、自分だけを見つめて、自分だけに笑いかけてほしかったのだ。
 ――これはシキに対する情欲なのか、それともレイへの対抗心なのか……?
「どちらでもいい」
 ふと生じた問いかけに自ら即答してから、ロイは昏い瞳で呪文書を手に取った。
  
  
  
 突然耳に飛び込んできた歓声に、シキはハッと我に返った。
 煤けた板壁の広い部屋に、幾つもの長机と椅子が並んでいる。端材で作られたそれらは、帝国領となって義務化された初等学校用にと、町の大人達が急ごしらえで用意したものだ。
 懐かしいイの町の、懐かしい学び舎。その廊下寄り最後列の席に、シキは座っていた。机の上には、数学の帳面が広げられている。
 どうやら授業の復習をしていて、うっかりうたた寝してしまっていたようだった。まだ目覚めきっていないのか、頭の中にぼんやりと靄がかかってしまっている。シキは漠たる心地で、ゆっくりと頭を振った。
 ――何だか随分長い間夢を見ていたみたいだ。
 しかも、とんでもない悪夢を。気持ちを切り替えるべく、シキは大きく伸びをした。ぐるりと周囲を見渡せば、級友達が窓際に集まって、外を見て騒いでいる。もうすぐ午後の授業が始まるというのに、一体何が起こっているのだろうか、そう眉間に皺を寄せたところで、朗らかな声が降ってきた。
「剣術の手合わせだってさ」
 リーナが、にやにや笑いを浮かべながら、机の前に立っていた。「ライン先生が昼休みに男子の相手をしてたらしいんだけど、その流れで、レイがサンと練習試合するんだってさ」
 そうだよ、やっぱり夢だったんじゃないか。レイはちゃんと生きている。シキはそっと安堵の溜め息を吐き出した。
「……ふーん。それで、この騒ぎ?」
 努めて冷静に言葉を返せば、リーナがこれ見よがしに目を剥く。
「ウチの学校で一、二を争う腕前の奴らの一騎打ちだよ? 盛り上がらないほうがおかしいって! ほら、シキ、レイを応援しに行ってあげなきゃ!」
 なんで私が、との抗議の声も虚しく、シキはリーナに校庭へと引きずられていった。
  
 真っ直ぐに削り出した木の枝を三本束ねて作られた、練習用の剣を手に、二人は微動だにせず対峙していた。
 長身を生かした余裕のある構えを見せるサンに対して、レイは幾分腰を落とし、身体のすぐ前で小さく剣を構えている。サンの攻撃を警戒しているのだろう。だがあの構えでは、突くにしろ薙ぐにしろ、いざ攻めかかる際に動きに無駄が生じてしまう。サンの懐に飛び込む前に返り討ちにあうのが落ちだ。そうシキが眉をひそめたその瞬間、一切の予備動作も見せず、レイの身体が前方に飛んだ。
 驚くべき跳躍を見せて、レイがサンの至近に迫る。剣を振り上げる間すら惜しみ、そのまま逆手で剣を一閃させるレイに、サンの目が見開かれた。
 だが、流石は校内一の剣の使い手。サンは即座に右足を引き、レイの刃を跳ね上げた。そのまま返す刀でレイの胸を突く。
 レイが、身をひるがえす。サンの突きを剣で叩き落す。
 シキは、息を詰めながら、試合の行方を見守り続けた。
 切り結んでは離れ、打ち込んでは引き、二人の剣士は、息をつかせぬ勢いで打ち合いを続ける。
 やがて観衆から一際大きなどよめきが沸き起こり、一本の木の剣が宙に舞った。
 それがサンの剣と分かった瞬間、シキは思わず歓声を上げていた。あのサンに、レイが勝ったのだ。日頃、どうやってもサンには敵わない、と悔しそうに漏らしていたレイの顔を思い出し、シキの胸の奥が熱くなる。
「シキ!」
 と、人波をかき分け、レイがシキのもとに駆け寄ってきた。満面の笑みで、正面からシキを抱きしめる。
 突然の、しかも大勢の面前での抱擁に、シキの思考は一瞬にして真っ白になった。
「れ、れれれれレイ?」
「好きだ、シキ」
 甘い囁きが、シキの耳元を震わせる。思わずうっとりとしかけたものの、周囲の状況を思い出し、シキは慌ててレイの身体を押しのけようとした。
 が、レイの腕は僅かとも緩まない。
「は、放してよ、レイ」
「好きなんだ、シキ」
 レイは表情を変えることなく、ゆっくりと顔を近づけてくる。
 その瞳に湛えられた欲情を読み取って、シキは大きく息を呑んだ。皆が見ている前で、彼は一体何をするつもりなのか。いや、それよりも、どうして誰も何も言わないのか。
 シキはぎょっとして、辺りを見回した。
 レイの肩越し、リーナが、サンが、級友達が、穏やかな笑みを顔に貼りつけたまま、じっと佇んでいる。
 何が起こっているのか全く理解できないまま、シキは必死で身体をよじり続けた。
 だがその甲斐もなく、レイの顔は着々とシキへと迫ってくる。諦めきれずに頭を振りたくるシキだったが、ほどなくレイによって頬を押さえられ、問答無用に唇を奪われてしまった。
 拘束が解かれたにもかかわらず、身体の自由が全く効かない。白昼の校庭、大勢の見ている前で、こんな深い口づけを披露させられているなんて、羞恥でシキは気が変になってしまいそうだった。いっそ全てが夢であってほしい、と、祈るような心地で目をつむる。
 しかし、視覚を遮断したことによって、他の感覚が前にも増して鋭敏になってしまったようだった。柔い感触が絡み合うたびに、シキの背筋を何度も震えが走った。身体の奥底がじんじんと熱くなると同時に、頭の芯が鈍く痺れ始める。
 ――やだ、やめて、レイ!
 心の中でそう懇願するも、自分の言葉によって余計にこのあとの展開を意識してしまい、シキの体温はますます上昇した。
 ――レイ、お願い、こんな……。
 口づけは、ますますその激しさを増していく。
 喘ぐように息を継いだシキは、ふと、ぎくりとしてその動きを止めた。
 いつの間にか自分達が、瑞々しい森の香に包まれていることに気がついたからだ。
 足元から立ちのぼる、湿気を含んだ土の匂い。風が頬を撫でるたびに、木の葉の香気が辺りの大気を揺らす。それらは間を置かず不安感となって、シキの肌にべったりと貼りついた。
 シキは驚いて目を開いた。
 気配を察知したのか、レイもまたそっと瞼を開き、それから静かにシキの口を解放した。
「シキ、好きだ」
 ――長い夢を見ていた……? 違う。
 シキの額で、あの異教の印が、じくじくと疼いている。
 そうだ、これは、あの時の記憶。懐かしい森の中で、シキを抱きしめ、キスの雨を降らせ、溢れんばかりの熱を分け与えてくれた、あの時のレイ。
 シキは茫然と息を呑んだ。
  
 違う。今まさに、これが、夢なんだ。
 レイはもうどこにもいなくて。
 サンは皆の前から姿を消して。
 リーナの居る故郷を離れて。
  
 いつしか、シキは何処いずことも知れぬ闇の中を漂っていた。懐かしい校舎も、級友も、親友も、仇も、全てが消え失せ、シキを抱きしめるレイの感触だけが、彼女の輪郭を支えている。
 ――ほらね。やっぱり夢だったんだ。
 冷笑を浮かべるシキの頬を、あの時と同じように、レイの指がそっと撫でた。熱の籠もった指は頬からおとがいへと、愛おしそうになぞっていく。
 ――でも、夢でもいいや。
 夢だとしても、こうやってレイに会えるのなら。こんなに優しく抱きしめてくれるのなら。溢れる涙を拭おうともせず、シキは精一杯の笑顔を作った。
「レイ、……あいしてる」
  
  
 足元に横たわるシキの口から、その名が零れ出した刹那、ロイは自分の視界が真っ赤に染まったような気がした。
 辛うじて残った理性のかけらが呪文の詠唱を続ける一方で、ロイの大部分は、憤怒のままに、声無き叫びを上げていた。
  
 忘れろ、奴のことなんか忘れてしまえ。
 忘れさせてやる! この、私が……!
  
 呪文の詠唱が終わり、術が起動し始める。
 魔力を使い果たしたロイは、肩で息をしながら傍らの長椅子に倒れ込んだ。
「……これで、シキは私のものだ」
 ざまあみろ、と呟いてから、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
  
  
 どれくらいまどろんだのだろうか。いつもの寝台とは違う感触に、ロイは目を覚ました。
 ランプの炎がすっかり小さくなって、部屋中を闇の中に沈ませている。ロイは机の上のランプに手を伸ばして芯を迫り出した。
 室内にゆっくりと明るさが戻ってくる。
 疲労感にふらつきながらも、ロイは長椅子から立ち上がると、シキの傍に膝をついた。
 穏やかな寝顔を眺めているうちに、どんどんロイの気持ちが昂ってくる。そうだ、これが本来の状態だ。遂にシキはレイの支配から脱したのだ。
 盛り上がる気持ちとは裏腹に、ロイはすっかり疲弊していた。「半身」の呪文を習得するために、彼は昨日から一睡もしていなかったのだ。術で力を使い果たした今、彼の体力はもはや限界に達していた。
「続きは明日……かな」
 シキの髪を優しく手でくしけずりながら、ロイは幸せを噛み締めた。遂に、遂にこの日がやって来たのだ、と。
 だが、次の瞬間、ロイの手が止まった。
 ――無い。
 シキの額の印が、無い。
「半身」の術は術者以外には解除は不可能、上書きすることでしかその効力を奪えない。その記述どおり、ロイはレイの術を破ったのだ。その結果、シキの額のフォール神の印は消え去った。
 ――ならば、私の術は……?
 上書きしたはずのロイの術は、一体どこへいったというのか。ロイは身動きすることもできずに、愕然とシキを見つめ続けた。
  
  
  
 早朝、いつもどおりの時間に、シキは目を覚ました。
 屋根裏部屋の窓の向こう、見事な青空に雲が幾筋も走っている。清々しい気持ちで寝台に起き上がったシキは、自分が外出着のままであることに気がついて、首をかしげた。昨夜に何があったのか、記憶を辿るべく目を閉じる。
 ――レイのことを先生に問いただそうと決意して、帰ってきた。遅い夕食を摂って、珈琲を飲んで、意を決して話を切り出した。
 そこから先の記憶が……無い。
 脳裏におぼろげに浮かぶのは、先生の優しい笑顔と、柔らかな声。
『術を解いてあげよう――』
  
 シキは寝台から立ち上がると、鏡の前に立った。そうして指から「偽装」の指輪を抜き取った。
 深い茶色だった髪が、黒に染まる。
 そして、額には……何も浮かび上がらない。
 ――レイの術が、解けたんだ。
 あれから半年も経った今になって、何故先生は今更術を解除しようとしたのだろうか。どうせ髪の色を変えるためにこの指輪は使わなければならないのだから、わざわざ額の印を消す必要はなかったのではないだろうか。そう疑問をいだきつつも、シキにはなんとなくその答えが解るような気がした。おそらく先生は、くだんの呪文をその手中に修められたのだろう、と。習得したからには、実践してみたくなるのは当然の流れであろうことも。
 レイが自分にかけた術は、一体どのようなものだったのだろうか。どのように施術して、どのように解除を……。そこまで考えを巡らせたところで、シキは昏い瞳で首を振った。そんなことを知ったからといって、事態が変わるわけではないのだから、と。
 ――そう、どうあがいたところで、死者が甦ることはない。
 深い溜め息一つ、勤めに出るための準備を始めたシキの頬を、一筋の涙がつたった。