あわいを往く者

   [?]

黒の黄昏 第七話 古都の収穫祭

  
  
  
    第七話   古都の収穫祭
  
  
  
 家々の軒先には提灯が灯され、空を仰げば、通りに渡された色とりどりの旗が、闇空を背景に楽しそうに風に揺れる。
 年に一度の収穫祭を明日に控えた州都は、夜が更けるにつれますます活気に満ち溢れてきた。街中はどこもかしこも祭りの準備に大わらわで、あちこちから怒号とも悲鳴ともつかない声が、絶えることなく街路にこだましている。
 そんな喧騒の中、頭巾を頭に巻いた一人の若者が、大きな荷物を肩と背中にかついで黙々と通りを進んでいた。と、突然、路地裏から伸びてきた手に袖を掴まれて、若者はぎょっとしたように振り向いた。
「兄さん、宿は決まってるのかい?」
「決まっておるのだ。すまんね」
 その傍らを歩いていた小柄な初老の男が、若者の代わりに客引きの少年に小さく手を振る。少年は大きな溜め息をついてから、それでもなおも食い下がってきた。
「爺さん、ウチの裏の屋根からだと大通りが見えるから、パレード見物も楽だよ? 安くしとくからどうだい?」
 男は、慣れた様子で少年をすげなくいなし、そのまま雑踏の波に乗る。取り残された若者は、唇を尖らせる少年に一言「悪ぃな」と言い残してから、慌てて男のあとを追った。
「安くしとく、って、実際どんなもんなのかな」
「碌なものでないのは、確かだろうがな」
 興味深そうに背後を振り返る若者を、男はきっぱりと切って捨てた。「祭りの前夜になってもまだ空き部屋があるということだけで、どのようなものか想像がつくというものであろう」
「う、そうか。……すると、大通りが見えるってのは……」
「宿とやらの裏に、何か大きな建物がそびえておるのだろう。そこにどうやって上がるかは、別問題ということなのじゃないかね」
 幼子を諭すような男の口調に、若者はがっくりと肩を落とした。潔く自らの不明を嘆いたのち、恨めしそうな視線を後方に投げる。
「ったく、子供のくせに、大人を騙そうとすんじゃねーよ。可愛くない」
「客を連れて帰らねば雇い主に殴られるとなれば、嘘も並べ立てるだろう」
 若者は思わず足を止めた。その拍子に、肩にかけていた大きな鞄が勢い良く石畳に落下する。
「殴る、って」
「街の人口が増えれば、相対的に困窮層の人数も増える。おぬしの故郷のように孤児が一人二人で済めば、教会も手厚い救いの手を差し伸べることもできようが、その数が十倍、二十倍ともなればどうしても無理が生じるからな」
 淡々と語ってから、男は再び視線を前方に向けた。
「ほれ、あの角が問題の辻ではないかな。あそこを曲がれば、目的の宿までもうすぐだ。もうひとふん張り頼むぞ」
「了ー解」
 大きく息を吐いてから、レイはえいやと鞄を肩にかつぎ直した。
  
  
    一  巫子
  
  
「あー、もう、一歩も歩けねー」
 宿の部屋に入るなり、荷物を放り出してレイは長椅子の上に倒れ込んだ。その様子を連れの男がほほえましそうに眺めている。
「確かに、長い一日だった。おぬしが荷物を持ってくれて助かったよ」
 老人と呼ぶにはまだ少しだけ早かろうその男は、ザラシュという名を名乗っていた。たいしゃ色の短い髪が、顔立ちの精悍さを際立てている。
「ご苦労だった」
 奥の寝室の扉が開いて、上背のあるがっしりとした体つきの青年が姿を現した。暗色の長髪を揺らしながら、皮肉ありげな視線をレイに投げかける。「……だが、この程度で根を上げるとはな。口ほどにもない」
 彼の名は、ウルス。「黒の導師」を自称する、反乱団「赤い風」の重鎮だ。だが、レイはそんなことを少しも気にすることなく、正面きって彼に食ってかかった。
「この程度? 人に荷物全部押しつけた奴が言う台詞か? 宿が決まってるんだから、さっさと部屋に置きに来たら良かったんじゃねーか。大荷物抱えて一日中あっちこっち歩き回らされた俺の身にもなってみろってんだ」
「祭りの人出に紛れたとはいえ、万が一ということがある。警備隊を引きつれたまま仲間と合流することになったら、なんとする? 二手に分かれて、時間をかけることにこそ意義があったのだ」
 尊大な態度を崩さないウルスに、レイの顔がみるみる赤くなる。しかし、ウルスはそのことを気にとめた様子もない。
「一日街中をうろうろするなんて機会も、そうそうないことだしな。どうだ、尋ね人は見つかったか?」
「そんな余裕あるわけねーだろ! て言うか、州都は一番に調べたはずだったろ?」
「祭りのために周辺の町や村からも大勢が出てきているからな。普段の比ではない。それに入れ違いという可能性もある」
「よく言うよ」
 レイは呆れたような声を出してから、ふと、怪訝そうな表情で首を巡らせた。
「そういや、サンは?」
「明朝会えるだろう」
「なんであいつだけ、とことん別行動なんだ?」
「奴は、近衛兵時代にも、休暇を使って何度かこの街を訪れることがあったらしい。我々と違って土地勘があるから、色々と重宝がられているのだ」
 まるで自分のことのように、ウルスは誇らしげにサンのことを語る。
「すみませんねー、お役に立たないお荷物で」
「気にすることはない。明日の早朝にはお前にも一緒に来てもらう」
 皮肉を正面から返されて、レイは面食らった表情を作った。
「って、俺はまだお前らの仲間になったわけじゃねーぞ」
 半年前の東の森でレイを助けたあと、仲間になれ、と彼らは言った。その言葉に、レイはこう応えたのだ。「シキを取り戻すことができたならば」と。
「お荷物なのが嫌じゃなかったのか?」
「取引は取引だろ。お荷物上等。て言うか、いつも荷物持ちとかしてるじゃねーか、俺」
 傍らの床に放り出したままになっている大きな鞄を恨めしそうに眺めてから、レイは左の口角を引き上げた。
「大体、任せておけ、って胸を張った割に、もう半年だ。仲間が沢山いる、って嘘なんじゃないのか? 稀代の大魔術師と黒髪のなんとかだぞ。目立つどころの話じゃないだろ」
 滔々と文句を垂れるレイを、何か面白いものでも見るような目つきで見物していたウルスだったが、ある単語を耳にした途端、真顔になって鼻を鳴らした。
「黒髪、か」
 そう言って、青年は鷹揚な態度でレイのほうへと手を伸ばしてきた。束ねられた長い髪を手にとり、そっと目を細める。
「確かに、俺の『まがい物』とは比べるべくもないな。実に美し……」
「放せよ」
 手を払いのける乾いた音が部屋に響いた。ウルスは右手を押さえながら、小さく舌打ちをした。
 おそらくウルスは元々赤毛なのだろう。染料を根気良く重ねて作られた、まるで凝固した血液のような鉄錆色の髪が、ランプの灯りを鈍く反射しながら軽いウェーブを肩口に描いている。
 彼の「まがい物」と比べても、確かにレイの髪は異質であった。一切の光を映し込まぬその髪は、真に「漆黒」と言うべきもので、見る者に無限の星空を思い起こさせる。
「……実に禍々しい色ではないか。全ての光を飲み込んでなお、更なる何かを求め続ける貪欲な黒。流石は『黒の導師』。破滅の啓示に登場するだけのことはある」
「兄帝がそう仰られたに過ぎぬがな」
 ウルスの意趣返しをたしなめるように、ザラシュが久方ぶりに口を開いた。「太古の文献に、神に仕える黒髪の巫子について書かれたものがある。兄帝の仰る『黒の導師』がその者どもを指すのであれば、宗教改革の邪魔になるとお考えになっても無理はない」
 そうして、深い眼差しをレイに向ける。
「暗黒魔術を喰らい、更に『天隕』の直撃を受けてなお生き永らえる……。おぬしのあるじはおそらくくだんの像にかたどられている神なのだろう。そうでなければ、おぬしは粉微塵であったに違いない」
 あの時、東の森にウルス達が駆けつけた時、巨大なすり鉢状の穴の底には、レイと、レイを守るかのように立つ小さな神像があった。
 その高さ、約十寸。黒曜石に刻まれていたのは、優しげな顔の女神だった。左肩のところでまとめた長い髪が、優雅に胸元を飾っている姿を思い出して、レイの瞳が懐かしさに緩む。
『……ね、おかあさんにそっくりでしょ?』
 幼い頃のあどけないシキの笑顔が、レイの脳裏に浮かび上がって来た。
  
  
 たぶん、シキは泣くことのできる場所が欲しかったんだと思う。十年前のあの日のことを思い出して以来、レイはそう考えていた。
 シキとレイ、連れ立って二人で遊んでいても、いつも羽目を外して大人に怒られるのはレイだった。レイの母も、我が子達が遊びに出る時には、決まってシキに「レイが馬鹿をやったら、叱ってやってね」などと頼み事をする有様で、そのためだろう、シキも自分がレイの世話をしなければならない、と思っていた節があったのだ。
 両親の訃報がもたらされた時、真っ先に泣き声を上げたのはレイだった。あの瞬間、シキは出遅れてしまったのだ。先にレイに泣かれてしまったことで、彼女はきっと思いっきり泣くことができなくなったに違いない。その胸中を思うと、今でもレイの心はチクチクと痛む。
 そのあとも、泣くレイを見るたびに、シキはその面倒をみるべく一人頑張っていたのだろう。
 そうして、彼女は見つけたのだ。誰も立ち入らない禁断の森に、自分一人で思いっきり泣ける秘密の場所を。
  
 その日、掃除を終えてこっそりと治療院を抜け出そうとしていたシキを、レイはとうとう捕捉することができた。彼はすっかり得意になって、意気揚々とシキを問い詰める。
「どこ行くつもりだったんだ?」
「……森。東の森」
「って、しばらくは町から出ちゃいけないって、司祭さまが言ってたじゃないか」
 もしかしたら、と想像はしていたものの、本当にその単語がシキの口から出たことに、レイはびっくりして目を見開いた。
「だって、とってもすてきなものを見つけたんだよ……」
「すてきなもの? 何だ、それ」
「もう少しないしょにしておくつもりだったんだけど……、ちょうどいいや。とくべつにレイだけに教えてあげる」
 心の中で歓声を上げながら、レイはわざとらしく考え込む素振りを見せる。
「……しかたがないなあ。昼めしまでに帰ってこられるなら、とくべつについていってやってもいいぜ」
  
 丁度戦争が終結し、帝国軍が町にやってきた頃だった。
 旧権力者達の財産の没収と、邪教狩り。先鋒として各地に入った彼らの目的を知ったのは、レイ達がもっと大きくなってからのことだ。
  
「どこまで行くんだよ?」
 昼なお暗い東の森をシキに手を引かれて進みながら、レイはわざと不機嫌そうな声を出した。
「もう少しだよ」
 やがて、森の真ん中辺りまで来たところで、二人は少し開けた場所に出た。大人の背丈の倍以上ある高さの、急な斜面が目の前に立ち塞がっている。手前には平たい大きな石が横たわり、その向こう側に黒い空間がぽっかりと口を開けていた。
「すげえ!」
 にやにやと笑いながら、シキがレイを見る。うっかり目を輝かしてしまっていた自分に気がついて、レイは慌ててそっぽを向いた。
 だが、彼はすぐに観念して再びシキのほうに向き直る。秘密の洞窟だ。意地を張るのはあまりにも勿体ない! おそるおそる入り口に近づきながら、レイはごくりと唾を飲み込んだ。
「宝物、とかあるんじゃないのか?」
「無かったよ」
「ええええー! お前もう探検したのかよ! ズルいぞ!」
「だって、見つけたの、先月だもん」
「なんですぐに教えないんだよ」
「だって、町から出るなって言われてたし」
「だからって、自分だけズルいぞ」
 唇を尖らせて文句を言ったのち、レイは真剣な表情になると暗い洞窟の中を覗き込んだ。
 大人二人が並んで通れるぐらいの空間が奥のほうまで続いている。自然にできたものではない、人工の通路だ。レイは高鳴る胸を抱えながら、暗がりへとゆっくり足を踏み出した。
 シキが何かをぶつぶつと呟いたかと思えば、辺りがほんのりと明るくなった。見れば、彼女の指の先で手のひら大の光が優しく揺れている。彼女が亡き父親から教わったという「灯明」の呪文。レイにとって、シキの術を見るのはこれが初めてではなかったが、彼はつい息を呑むと、次に大きく溜め息をついた。
「やっぱ、すげえよ、お前」
「えへへ、そうかな?」
 得意そうなシキの笑顔が眩しくて、レイは早足で暗闇の中へと歩みを進める。
 揺らめく魔術の光に照らされた洞内は、思ったよりも歩き易かった。
「最初はもっと石とか木とか落ちてたんだけどね……」
 歩きながらシキがぐるりと辺りを見まわす。「そうじしたんだ」
「よくやるよ」
「だって、ひみつの部屋だもん。キレイなほうがいいじゃん」
 ひみつのへや。なんてステキな響きなんだろう。
 自分がその秘密の共有を許されたということに気がついて、レイは知らず顔を緩ませた。
  
 真っ直ぐ伸びる通路は、五丈ほど奥で少し広い部屋のような所に繋がっていた。どうやらここが洞窟の終点らしい。
 部屋の中央には、表にあったものと同様な石の台が据えつけられていた。奥の壁には棚のようなものが掘り込まれており、そこには何かこまごまとした物が並べられている。
 祭壇、おそらくはそういった類のものなんだろう。ただ、その時のレイ達には知るよしもなかったわけだが。
「これだよ、これ。ほら!」
 巨石を回り込んで、シキが祭壇の中央を指差す。レイも遅れじと駆けつけ、シキの指差した物を見た。
 それは十寸ほどの高さの、黒い石の人形だった。それが「灯明」の光を反射して、きらきらと光っている。
「ね、おかあさんにそっくりでしょ」
 肩の所で一つに束ねられた長い髪、通った鼻筋、優しげな瞳。「ご飯の時間までには帰ってくるんですよ」そう笑いかけて戸口でシキを見送る姿。もう、二度と見ることの叶わない、失われた風景がそこにあった。
「……びっくりした?」
「あ……うん。本当だ。おばさんにそっくりだ……」
 泣きそうになっている自分に気づき、レイはきつく下唇を噛んだ。
「来て良かった?」
「まあな」
「ホントはもっと早く教えたかったんだけどね。司祭さまに見つかっておこられるのは私だけでいいかな、って」
  
 その時だ。
 災厄がやって来たのは。
  
 重い、金属のぶつかり合うような音が、入口のほうから響いてくる。
 数人の大人達の話し声、土を踏みしめる重たい足音、それらがぼんやりと土壁に反響しながら、レイ達のいるほうへと近づいてきた。
 二人は声を出すこともできずに、お互いの腕を掴むと、暗い通路をただじっと見つめ続けた。
 やがて、通路の奥が明るくなったかと思えば、松明を持った腕が暗闇から現れた。続いて、鎧を身に着けた騎士の全身が部屋の中へと踏み込んで来る。一人、また一人。全部で五人の騎士が姿を現し、部屋の中は一気に狭苦しくなった。
 一同を先導していた赤い鎧の騎士が、レイ達を一瞥する。
「お前達、どこの者だ?」
「イの町、です」
 レイの肩越しにシキが答える。
「ここは子供の遊び場ではない。立ち去れ」
 そう言う間も部屋を見渡していた赤い騎士は、ほどなく奥の祭壇に目をとめた。
「あったぞ、ここで間違いない」
「よし、油を運び込め」
 一人の騎士がレイ達のほうにやってきて、二人の腕を掴んだ。
「さ、ここは危ないからね。お兄さんと外へ出よう」
「……何するの?」
「ここは、悪ーい神様のおうちなんだよ。僕達がそれをやっつけに来たから、もう大丈夫。さ、こっちへおいで」
  
 どうして、彼女を止められなかったのだろう。
 だが、その時レイはただ事ならぬ雰囲気にすっかり呑まれてしまっていて、シキの叫びを聞くまで、彼女が若い騎士の手を振りほどいたことに気がつかなかったのだ。
  
「だめ!」
 丁度、赤い鎧を着た騎士が神像を狙って剣を振り上げたところだった。
 両手を広げて飛び出したシキの背中に、銀の刃が鮮血を散らす。
「……シキーーーーッ!」
 レイは、掴まれていた腕を振りほどくと、地に倒れ込むシキに駆け寄った。
 シキの金の髪が、白い服が、血に赤く染まっている。鮮血が、シキの身体を中心に、じわりじわりと地面の上を広がっていった。
 必死でシキの身体を助け起こすも、手ごたえのない、まるで人形のような感触に、彼の心臓は凍りつきそうになった。そうこうしている間にも、シキの小さな身体は、どんどん冷たくなっていく。
「おい、シキ、シキ……」
 レイの視界の端が、黒いものを捉えた。今の騒ぎで地面に転がり落ちたのだろう、「悪い神様」の像だった。
 ――こんなもの。こんなもののせいで。
「くっそう!」
 レイは拳を力一杯地面に打ちつけた。「仮にも神様なんだろ! 助けろよ! シキを助けてくれよ! あんたを守ろうとしたんだぞ!」
 絶叫するレイの背中に、灼熱が突き立てられた。
 次の瞬間、レイは背後から自分の胸部を突き破った切っ先を見た。
  
「邪教徒め」
 冷徹な騎士の声。
 痛みよりも、吐き気がレイを襲う。そして強烈な眩暈。
 シキの上に折り重なるようにしてレイは倒れ込んだ。
 暗闇の中、揺らめく松明の光。騎士達の足。血塗られた切っ先。それらがゆっくりと霞んでいく。
 ――おれはここで死ぬのだろうか。
 ――シキはもう死んでしまったのだろうか。
  
 彼此ひしともつかない場所を漂いつつあったレイの意識を、鈍い地響きが引き戻した。
 穏やかな光が、洞窟内に静かに満ち溢れる。
「何だ」
「うわっ」
「これは……」
 騎士達が色めき立つ声が、突然止んだ。静寂の中、がしゃん、がちゃん、と次々に金属質の物が地面に落ちる音が響く。
 レイが重い瞼をうっすらと開くと、地面にばらばらと積み重なった鎧や剣の上に、さらさらと白い粉が降り積もるのが見えた。
 そして、ゆうるりと崩れ落ちていく洞窟。
  
「人の子よ」
 瓦礫が降りしきる中、レイの心に響く声なき声。
「我が祝福を受け取るが良い」
 それは、柔らかな女の声だった。レイの手足が、身体が、温かい光に呑み込まれていく。まるで母の腕の中にいるかのような温もりが、やがてレイの全身をそっと包み込んだ。
「この瞬間より、そなたは我のものであり、我はそなたのものでもある」
 自分の身体の下で、シキが軽く身じろぎするのが感じられた。
 レイはこれまで感じたことのない満ち足りた気持ちで、深い眠りへと落ち込んでいった……。
  
  
 半年前、東の森でロイに完膚なきまでに打ちのめされた時、レイはとうとう「あの日」の全てを思い出した。
 あの洞窟で二人は帝国の「邪教狩り」に遭遇し、彼らの刃に倒れた。だが、命の炎が消える直前、何ものかが二人を救ってくれたのだ。
 ――黒髪は、その奇跡の証だったんだ。
 視界の端にかかる漆黒の前髪を意識しながら、レイは感慨深げに目を閉じた。あの優しい声の主が、自分達を助けてくれたのだ、と。シキの母親にそっくりな、温かい眼差しのあの女神が……。
「何をぼんやり突っ立っている。明日は早いぞ、さっさと寝床につけ」
 無粋なウルスの声とともに、柔らかい塊がレイの顔面を直撃する。一気に現実に引き戻されたレイは、足元に落ちた毛布を慌てて拾い上げた。
「……祭り見物でもするのかよ?」
 なんとか一矢報いたいと願うレイの望みも虚しく、どうやらウルスには皮肉が通用しないらしい。
「残念ながら、見物している暇はない。パレードにセルヴァントがやってくるのだ」
「セル……? ……誰だ、それ?」
「セルヴァント男爵、帝国の貴族だ。そして……」そこで、ウルスの顔が急に赤みを増した。凄惨な声で、吐き捨てるようにつけ加える。「そして、カラントの裏切り者」
 ――カラント?
 聞き覚えのない言葉を問い質そうとした瞬間、レイの身体を激しい衝撃が打った。
 針に串刺しにでもなったかのように、脳天からつま先までを痛みが一息に駆け抜ける。あまりのことに、レイは呻き声を上げるとその場にうずくまった。
「どうしたね!」
「何事だ」
 しばしのち、レイは喘ぐように息をついてからゆっくりと顔を上げた。全身を貫く痛みは無くなったものの、心の臓は未だ早鐘を打ち続けている。息苦しさに胸を押さえながら、レイはのそりと身を起こした。
「大丈夫かね」
 自分を助け起こすザラシュの手を、レイは静かに退けた。
「……大丈夫です」
「本当かね? 顔色が真っ青だぞ」
「ちょっと目眩がしただけです」
 大きく息をついたレイは、よろめきながらもなんとか立ち上がる。
 心配そうに眉をひそめるザラシュの傍らで、ウルスが床の毛布を拾った。そうして、ふん、と鼻を鳴らしてから、一人さっさと長椅子に横たわる。
「え? あ、おい……」
「お前はザラシュ殿と奥の寝台を使え。今夜は俺が長椅子で寝る」
「何だよ、突然。らしくねーな」
「いいから寝台で寝ろ。そんなやつれた顔をいつまでも人目に晒すな。見苦しい」
 そう言い捨てるや、ウルスはさっさと毛布をかぶってしまった。黙ってレイを見つめていたザラシュも、小さく肩を落としたのち、大鞄から自分の荷物を出し始める。
 レイは、その場に立ち尽くしたまま、ぎゅっと両手を固く握り締めた。
 ――「半身」の術が破られた。たった今。
 絶望の色を瞳に浮かばせながら、レイは呆然とおのれの手を見る。
 シキが命を落とした、という可能性もあるにはあるが、レイはそれだけは断じて考えたくなかった。シキは生きている。それは絶対の前提条件だ。
 ならば……あの術を破ったのはロイに違いない。禁忌のくびきを引きちぎり、ロイはとうとうレイの術を打ち砕いたのだ。
 ごくり、とレイは生唾を呑み込んだ。ロイは術の上書きに成功したのだろうか、それとも、レイの術を滅するだけにとどまったのだろうか、と。
 たとえロイの施術が失敗に終わったのだとしても、ロイが「半身」を会得してしまった今、彼が再び術をかけ直すのは時間の問題と思われた。なんとかして、それまでにシキを見つけなければ……!
  
 神像にかたどられている女神よ。
 真に我らのあるじならば、何卒シキを護りたまえ。
 レイは生まれて初めて、「神」というものに祈りを捧げた。