あわいを往く者

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黒の黄昏 第九話 求める者、求められる者

  
  
  
    第九話   求める者、求められる者
  
  
  
    一  命令
  
  
「サラナン先生連れてきたっスよー」
 相変わらず飄々とした風体で、ガーランが談話室に入って来た。広い室内にいるのが同僚二人だけと知り、彼はきょとんと足を止める。
「あれ? 隊長は? 部屋にいなかったからこっちだと思ったんだけど」
 一昨日の皇帝陛下暗殺未遂の件もあり、隊員達のほとんどが街中に繰り出している。おそらく、皇帝陛下がルドスを離れるまで、休日返上の勤務体制は続くのだろう。ガーランはかなりゲンナリしながら、二人の傍へと近づいていった。
 テーブルの上には、人相書きが三枚並べられている。一枚は資料室で埃をかぶっていた半年前の脱走近衛兵のもの。もう一枚は昨年から訓練場の壁を飾っていた黒髪の男。ガーランは最後の一枚を手にとりながら感心したように鼻を鳴らして、傍らの椅子に座った。
「上手いもんだよなあ。天は二物を与えまくりかよ」
 目撃者自らが筆をとった人相書きは、異例の速さで版木が彫り上げられ、昨日の夕刻には既に隊員達の手元に配られていた。ガーランはもう一度、ふん、と息を吐くと、皇帝陛下の作品を指で弾いてテーブルに戻す。
「それにしても、お前ら随分真面目じゃん。談話室でも作戦会議?」
「いや、これはシキのだ。ほら、彼女昨日早く帰っただろ」
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる二人の様子に、ガーランは、すっと表情を引き締めると、彼らしからぬ鋭い声音で低く語りかけた。
「……どうした?」
 しばし二人は何か言いにくそうに顔を見合わせていたが、やがて肩で大きく溜め息をついてから、一人が重い口を開いた。
「いや、それが、しばらく前に副隊長が、シキを呼びに来てな」
「ふん、それで?」
「入れ違いに、こいつが丁度コレを」と、テーブルの上の人相書きを顎で示して、「資料室から取って戻って来たから、早いとこシキに渡そうと思ってさ、追いかけたら……」
「追いかけたら?」
「……副隊長、あの子を三階に連れて行ったんだ……」
 がたん、とガーランは思わず椅子を蹴って立ち上がった。一瞬にして深い皺が彼の眉間に刻まれる。
「……あンの姐さん、何考えてんだ……。おい、副隊長はどこだ」
「それが……あれから降りてこないんだよ。二人とも」
 ガーランは下唇を噛んだ。絞り出すように息を吐いてから、頭をがしがしと掻き毟る。
「このことを知っているのは?」
「今のところ俺達だけだが……」
 ガーランは、滅多に見せることのない険しい表情で、同僚二人を振り返った。
「……誰にも言うな。いいな。頼むぞ」
「……解った」
  
  
  
 優秀なるルドス警備隊隊長にして、峰東州知事サベイジ公爵の三男。
 数多あまたの女性達を蝶のごとく渡り歩く漁色家。
 エセル・サベイジに対する世間の評判はそのどちらかに限られている。
 だが、実際に彼の下で働くようになって、インシャはエセルに常に纏わりついている寂寥感に気がついた。それは他の隊員達も、多かれ少なかれ感じているようだった。隊長によく口喧嘩をふっかけているガーランなどは、特にそれを強く意識しているに違いない。
 彼は一体何を切望しているのだろうか。羨まない人はいないといわれるその境遇の中で。
  
 噂に違わず、エセルは紅一点のインシャをよく口説いた。だが、その口調は軽く、本気でインシャをおとそうとしているというよりも、ガーランとのように、ただ言葉の応酬を楽しんでいるような節があった。だから、インシャも遠慮なくエセルをやり込めて、そのやりとりを楽しむことにしていた。
 男と女、上司と部下、そういった枠組みを越え、それぞれ警備隊員という仲間として、彼らは同じ時間を共有した。事務能力を買われてインシャが副隊長として隊長補佐の役に抜擢されてからも、その構図は変わらなかった。
 そう、インシャが入隊してからの三年間、彼ら二人の間には職場上の関係以上のものが築かれることはなかったのだ。――あの時までは。
  
  
 今から二年前のその日、インシャは巡回中に、女性を連れて出会い茶屋から出て来た上司にばったりと出くわした。
 見慣れた黒い外套に纏わりつく、金ボタンと金のリボンをあしらった外套。艶やかな羽飾りのついた帽子、スカートの裾から覗く上品な編み上げブーツ、そして鈴を転がすような笑い声……。おのれの属する世界とはかけ離れた風情に、インシャの胸がちくりと痛んだ。
「隊長、職務中のはずですが」
 一緒に任務に当たっていた同僚が見て見ぬフリをしてその場を立ち去ったのに、どうしてインシャはそうすることができなかったのだろうか。
 いつになく狼狽の色を瞳に浮かべるエセルの横で、華やかな衣装を身に纏った女は、鼻にかけるような声で囁いた。
「あら、こちらの方、どなた?」
「ああ、私の……部下だ」
 ちくり。
 ……気のせいだ、と、インシャは無理矢理その痛みをなかったことにする。
「あら、警備隊の。でも……女性、ですわよね?」
 無遠慮に、彼女はインシャの全身をねめまわした。
 固く結い上げられたポニーテール、化粧っ気のない顔。男物のえんじのジャケットの下に着込まれたのも、機能性重視の飾り気のない服だった。言わずもがな、動き易いようにボトムはズボンである。
 女性は、エセルの肩へ顔を寄せた。優越感をたたえた瞳をインシャから外さずに、勝利の笑みを浮かべる。
「ふふ、変わった方……」
 敵意を剥き出しにしたその台詞に、最初に反応したのは意外にもエセルだった。
「メルサ。失礼だぞ」
「だって、本当のことじゃない」口元を手で軽く押さえながら、メルサと呼ばれた女性はころころと笑った。「悪党相手に剣をふるったりするのでしょう? おお、恐ろしい」
 ――何故、この女性は私に突っかかってくるのだろうか。それもこんなに下品に。
 インシャの心は、自分でも信じられないほど、冷めていた。
 ――隊長は、このような女性が好みなのか。……いや、それとも、女ならば誰だって良い、そういうことなのか。
 つい漏れそうになる溜め息を、インシャはなんとか押し殺す。やはり、最初からこの場を立ち去るべきであった、と……。
「ふふふ、それに、こんな格好、私にはとても恥ずかしくてできないわ……」
「メルサ!」
 咎める声とともに、エセルが手を振り上げる。咄嗟にインシャは、彼らのほうへ一歩踏み出した。
  
 手首を掴み止められたエセルが、愕然とした表情でインシャを見つめている。
「隊長ともあろう方が、女性に手を上げるとは、らしくありませんね」
「……侮辱されたのは君だぞ」
「侮辱とは思っておりません。事実ですから」
 インシャはそっとエセルの手を放した。そして再び一歩下がる。
「ちょっと貴女、エセル様が折角優しく言ってくださっているのに、何よ、その態度」
 火種が自分であることを棚に上げて、メルサは、ここぞとばかりにインシャを攻撃し始めた。
「ちょっとお仕事が一緒だからって、いい気になっているのではなくて?」
「いい気、というのはよく解りませんが……」思わず漏れた溜め息を誤魔化すべく、インシャは言葉を継いだ。「同じ仕事……つまり上司と部下という関係は、貴方が望むものではないのではありませんか?」
 ――私は何を言っているのだろうか。
 インシャは頭痛を感じていた。そう、これではまるで、痴話喧嘩のようではないか、と。
「……ええ、そうよ。私は女ですもの。そう、……そうよ、上司と部下……。貴方は部下なのよね?」
「はい」
 ちくり。
 ……この痛みに、慣れなければ。インシャはそっと唇を引き結んだ。
「そうよ。やだわ……、私ったら、何をムキになっていたのかしら……」
 メルサは再び艶のある笑顔を満面に浮かべると、エセルの腕にしがみついた。そうして、媚びた瞳でエセルを見上げる。「だって、エセル様が随分この方にお優しいのですもの……」
「私は部下です。ですから、優しい言葉など必要ありません。部下に必要なのは……、命令です」
 ――何てつまらないプライド。私はこの女とは違う、と。
 エセルの表情を見るのが怖くて、インシャは、すっときびすを返した。
「出過ぎた真似をしてしまいました。失礼します」
 ひとけの無い通りで良かった。そう思って足早に立ち去ろうとするインシャの背中に、エセルの声が突き刺さった。
「インシャ」
「なんでしょうか」
 振り返ったインシャは、暗い光をたたえる上司の瞳に捉えられた。
「あとで、本部の三階に来い。一番奥の部屋だ」
「……命令ですか?」
「そうだ、命令だ」
  
 警備隊本部となっている屋敷は、元々サベイジ公爵のものであった。警備隊にそれを譲ったあとも、三階だけは公爵家のものとして他の者が立ち入るのは禁じられている。そして、その一番奥の寝室は、エセルが隊長の位に任命されてからは、彼専用の宿直室として使用されていた。
 巡回から帰投したインシャは、初めて三階に上がると、命令どおりにその部屋をノックした。
 抑揚のない声が、一言「入れ」と告げる。
 エセルは、奥の寝台に腰かけていた。
 西側の窓から、痛いほどに眩い夕日が差し込んでいる。茜色に染まる部屋の中、俯き加減なエセルの顔だけが、昏い影を纏っていた。
  
 どれぐらいの時が過ぎたのだろう、沈黙にインシャが耐えきれなくなってきた頃、エセルは静かに立ち上がった。そして、ゆっくりと彼女に近づいてきた。
 インシャは目を閉じた。
 淡い想いがなかった、と言えば嘘になる。
 だが、入隊して三年、彼の補佐役となって半年。これだけ身近なところに居りながら、エセルが本気でインシャを求めることは一度としてなかった。
 だから、諦めたのだ。心の奥底にうずめて、何も無かったことにして。女としての自分は必要とされなかったのだから。
 ちくり。
 ――そうだ、この痛みには、とっくの昔に慣れていたはずではなかったか……。
 エセルはインシャの背後にまわり込むと、耳元で囁いた。
「命令すれば、君は私に抱かれるのか?」
 それは、インシャにとって、まさしく最後通牒であった。
 彼が欲しているのは、インシャではない。インシャという、人格を持った存在は、求められていないのだ……。
「ああ、私の仕事環境を整えるのも、君の仕事だったな? え? 副隊長」
「……はい」
「私は今、非常に機嫌が悪い。仕事が手につかないほどに、な」
 エセルはインシャの長い髪を手にとると、そっと口づけした。
「……さて。慰めてもらおうか」
 甘い声が、みるみるインシャの脳髄に染み込んでいく。ごくりと生唾を嚥下してから、彼女はそっと瞼を閉じた。
  
  
  
 自分こそが一番彼を愛している、自分こそが一番彼に愛されている、そう夢を見て順番を待つ女達。インシャは、その中に埋もれてしまうことだけは絶対に嫌だった。どんなに醜くとも、どんなに情けなくとも、それはなけなしのインシャの矜持だった。
 それに、巷の噂に聞く限り、彼はとても紳士的だということだった。沢山の女性を乗りこなそうというのだから、余計な恨みを買わないようにしているのだろう。
 しかし、インシャが知る彼は違った。
 二年前のあの時から、ずっと、そこにあったのは、愛の囁きも、ひとかけらの思いやりもない、ただ欲望を吐き出すだけの交わりだった。
 ――この人は、数多あまたの女性達の前ですら自分を偽っているというのだろうか。閨房ですら孤独を感じているというのだろうか。
 過ぎ去りし時から意識を引き剥がして、インシャは静かに息を吐いた。そうして、眼前のエセルを真正面から見つめ返した。
 エセルが冷たい笑みを浮かべる。
『部下に必要なのは、命令です』
 ――あの一言で、私は彼の仮面を剥ぎ取ってしまったのかもしれない。
  
 彼が睦言を囁く相手は山と存在するだろう。だが、命令をくだす女は……私しかいない。
 私だけだ。
  
 それはちょっとした優越感だった。
 たとえ、そこに心は無くとも。