あわいを往く者

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黒の黄昏 第十話 死が二人を別つまで

  
  
  
    二  吐露
  
  
 昼下がりの談話室。
 二十人ぐらいは裕に座れそうな、長いテーブルの一番端に着席して、シキは昼食に持参したパンを頬張っていた。椅子一つ空けて左に、インシャが弁当箱を広げている。その向かいにパンをがっつくガーラン。更に少し離れて、玄関ホールへと続く扉に近いところでは四人が珈琲を飲んでいた。
 職務の性質上、隊員全員が同時に食事を摂るということはありえない。常にそのほとんどは市中に警邏に出ているし、残りの人員もいつでも出動可能な状態で待機しておかなければならないのだ。そのため、食事中の者ほど無駄口を叩かない。何やらふざけあいながら珈琲を楽しむ同僚達を尻目に、シキ達三人は黙々と食べ物を口へ運び続けていた。
  
 ――警備隊を辞める、ということを、皆にはいつ切り出したらいいのだろう。
 シキはこれからのことを考えながら、最後のパンを口に含んだ。
 ――やはり、相方のガーランには、予め言っておくべきなのだろうか。それとも、隊長、副隊長にまず言うべきなのだろうか。
「旅の支度については、全て任せておきたまえ」と胸を張った師匠の姿を思い出し、シキはそっと笑みを浮かべた。あんなに上機嫌の師を見るのは、一体いつ以来のことだろう、と。
 師曰く、兄帝がここルドスにいるから、大した手間もかからずに除隊手続きがなされるだろう、とのことだった。それならば、早めに皆の耳に入れたほうがいいのかもしれない。では、いつ切り出したら……、と、再び思考が堂々巡りを始める。
  
 部屋の北側の扉が静かに開いた。雑談に花を咲かせていた四人の隊員が黙り込む。
 軽い靴音が、彼らの横を通り過ぎて、テーブルに沿って奥へと進んでいく。
 インシャが顔を上げた。はっと息を呑んで……それから下を向く。
 その様子を見てガーランが振り返る。足音の主の張りつめたような気配に、彼もまた口をつぐむ。
 その場に居合わせた全員の視線を一身に受けながら、彼はテーブルを回り込んだ。
  
「シキ」
 思索に耽っていたシキは、声をかけられてはじめて、自分のすぐ右にエセルが立っていることに気がついた。慌てて背筋を伸ばし、お茶で口の中のパンを喉の奥に流し込む。そうして見上げたエセルは、酷く冷たい目をしていた。
 ふと、ガーランの台詞がシキの脳裏に蘇る。
『隊長の本当の目当てはお前じゃない――』
 彼がそう言うのなら間違いないはずだ、とシキは思った。目の「良い」ガーランが言うのならば。ほら、今だって彼は、隊長のこの異様な雰囲気を充二分に感じ取って、つらそうな視線を副隊長に絡ませている。
「シキ」
 エセルはもう一度静かに名前を繰り返した。
「食事が終わったら三階に来い」
  
  
 最初にその言葉に反応したのは、インシャだった。微かに身体を強張らせて、一瞬動きを止める。
 同時に、扉近くの同僚達がざわめきだし、ガーランは舌打ちをした。
 待機中に、休憩中に、隊長が「ちょっとした息抜き」をするのは、決して珍しいことではない。しかし、隊員達に「色ボケ」とも「たらし」とも揶揄される上司だったが、ひとたび有事の際には、誰もがお相手のことを心配してしまうぐらい迅速に職務へと戻って来て、文句のつけようのない完璧な仕事をこなしていた。
 ――仕方ない。あれは「病気」だから。
 そこにあるのは、諦観よりも信頼であった。色事に多少の目をつむることで、我らが上司がその実力を充二分に発揮できるのならば、それでも良いじゃないか、と。彼らはエセルの戦士としての能力や指導者としての才覚に、色好みという悪癖をも含めて、一切を呑み込み、受け入れてきたのだ。
 しかし、今は、皇帝陛下暗殺未遂を受けての非常事態である。そのさなかにあろうことか部下である隊員に食指を伸ばそうというのだ。許されるはずがない。
 明らかに不信の色を増す同僚達を目の端に意識しながら、ガーランはゆっくり立ち上がった。
「隊長……」
 だが、エセルはその声を無視して、なおも言い募る。
「解ったか、シキ」
 ガーランは、拳を固く握り締めた。
 ――壊れるというのなら、勝手に壊れてしまえばいい。俺がアンタを買いかぶり過ぎていた、ただそれだけのことだ。
 ならば……、彼女を道連れにするのはやめてくれ。
 そこまで考えて、ガーランはきつく目をつむった。……だめだ。道連れにされなくとも、彼女は勝手に自滅してしまうだろう……。
 絶望に押し潰されそうなガーランの耳に、澄んだ高い声が飛び込んできた。
「解りません」
 シキが立ち上がって、真っ向からエセルをねめつけていた。
  
 天啓だ。心からガーランはそう思った。
 シキの一声に、同僚達がどよめく。エセルは一瞬怯んだが、再び不必要な威厳を声に込めて、言い放つ。
「命令だ」
「私用は命令に含まれません」
 再度、エセルは言葉に詰まった。
「……言うことが聞けないというのか」
「聞・け・ま・せ・ん」
 おお、と同僚達が感嘆の声を上げた。
 今だ、今しかない。ガーランはすかさず口笛を鳴らすと、殊更に軽い調子でシキに声をかけた。
「言うじゃん、シキ」
 ガーランの言葉が呼び水となって、同様なヤジがエセルに投げかけられる。
「良く言った、シキちゃん」
「隊長、負けてるぞー」
 場の雰囲気が一気にほぐれたことに、ガーランは密かに胸をなでおろした。さて、あとはこの場をどう収拾つけるかだが……。
 外野の喧騒を気にすることもなく、シキは、強い光を目にたたえながら静かに話し始めた。
「公務以外なら、いくら隊長でもそれは『命令』でなくって『お願い』です。『お願い』なら、聞くか聞かないかは私の自由です」
 ガーランが息を呑む。シキの決意を読み取って。
 シキは、少し息を継ぐと、ゆっくりと自分の左側に座る人物を見下ろした。
「そうですよね、……副隊長」
 その一言で、談話室の中は水を打ったように静かになった。
  
「おお、そうだ!」
 重苦しい沈黙の中、ガーランは大袈裟に膝を打った。「おい、野郎ども、便所の掃除を頼まれていたんだ。行くぞ!」
 その場にいた誰もが、シキが禁忌に触れてしまったということに気がついていたようだった。この、実に白々しいガーランの人払いに、全員がおとなしく従って席を立つ。
 これまでが長過ぎたのだろう。彼ら二人のいびつな関係は、ガーランが知る限りもう二年も続いている。器の縁から溢れんばかりに溜まってしまったその澱に、シキという石が投げ込まれてしまったのだ。吉と出ようが凶と出ようが、このまま放っておくわけにはいかない。
 ――頼むぜ、シキ。彼女を助けてやってくれ……。
 扉を閉める瞬間、ガーランの瞳が、切なそうに揺れた。
  
  
  
 残された三人は、しばらくの間、ただ沈黙していた。
  
 シキは、明日にはこの古都を去る。一夜明ければ、もう何もしなくとも、彼らのこの馬鹿げた関係から逃れてしまえるのだ。
 だが、互いに絡まってただ疲弊するだけの二人を、このまま捨て置くわけにはいかない。そうシキは考えていた。そして、それをなんとかできるかもしれないのは、自分だけであろう、とも。
 皇帝陛下の任命状を領主から受け取って、半年。結局自分は見習いで終わったようなものだ。仕事を教わるために、ほとんど全員の手を順番に煩わせた。巡回の輪番に加わるようになってからも、それとない気遣いをシキは感じていた。平隊員頭とも言えるガーランが相棒に宛がわれたということからも、それは窺えよう。それに、交代勤務においても、夜勤がシキに割り当てられることはほとんどなかった。
 一方的に迷惑をかけ続けながら、何もそれに報いることなく隊を去らねばならないということに、シキはほぞを噛む思いであった。
 ――ならばせめて、最後に、私にしかできない事を。
 それに、シキはインシャのことが好きだった。飾り気のない、少し不器用な、でも頼りがいのある姉みたいな存在に、シキはどれぐらい助けられていたか。隊長にしたって、こんなことになるまでは、とても尊敬していたのだ。カッコイイな、と思ったことだってあったんだから。
 ――だから。
 だから……お願い。シキは、縋るような気持ちを視線に込めて、彫像のように微動だにしない二人を交互に見つめ続けた。
  
「なるほど、私用、か。違いない」
 絞り出すような声が沈黙を破る。エセルがやっとインシャのほうを見やった。
「インシャ。君ともあろう者が気づかなかったのか」
 インシャは、椅子に座したまま、正面を、虚空を見据え続けている。
「それとも……」
 エセルはそう言いかけてから、喘ぐように息を継いで、唾を飲み込んだ。
 ゆっくりと口を開き……だが、彼の喉から漏れたのは、声にならない溜め息だけだった。
「……いや、いい。そんなはずはない、か」
 途切れ途切れにそれだけを呟くと、エセルはテーブルから離れて、廊下に続く扉へと足早に向かおうとする。
「隊長、逃げないでください!」
 シキは思わず叫んでいた。
 普段の様子からは想像もつかないほど弱気な上司の姿に、怒りよりも憐憫の情が湧き上がる。その気色けしきを感じ取ったのだろうか、エセルは振り返ろうともせずに、抑揚を殺した声で返答した。
「……負け戦はしない主義なんでね」
「ルドス警備隊隊長ともあろう方が、笑わせないでください」
 踏み込んでしまった以上、もうあとには引けない。シキは語気を荒らげたままで、エセルに噛みつく。
「戦ってもいないのに、なんで負けるって分かるんですか」
「分からいでか!」
 エセルが勢い良く振り返った。その燃えるような双眸に、シキは一瞬気圧されそうになる。
「インシャが私を嫌っていることなど、見ればすぐに判るだろう!」
 そこまで一気に吐き出してから、彼は、はっと息を呑んだ。
「そうだ……昔は笑ってくれていたな」
 その声に、インシャが静かに立ち上がった。ゆっくりと後ろを、エセルのほうを、向く。
「ああ、そうか。私が、自分で壊したんだったな、君の笑顔を」
 エセルは右手で顔を覆うと、くつくつと自嘲した。
  
  
 そう、彼女の顔から微笑みを剥ぎ取ったのは、紛れもなく自分なのだ。
 二年前のあの時、どうしようもない衝動から無理矢理インシャを犯して。
  
 家名というくびきから解き放たれることのできる場所は、閨房だけだと思っていた。
 それが、警備隊隊長の任に当たって半年も経った頃には、隊員達は、ある者は渋々、ある者は驚きとともに、エセル自身の力を認め始めるようになっていた。特に、騎士団組ではない、叩き上げの猛者揃いの専任隊員達が呼ぶ「隊長」という声は、単なる肩書きにもかかわらず、エセルの心を揺さぶった。
 初めて体験する、自分自身に向けられる瞳。それはエセルを有頂天にさせた。仲間との軽口の応酬も、冗談のかけ合いも、力を合わせて危険な任務に当たることも、全てが心地良かった。
 そして、その中の紅一点であるインシャに、特別な感情をいだくようになるのは、当然のことともいえた。なにしろ、彼女は閨以外で彼を「見つけた」初めての女性だったのだから。
 その、澄んだ瞳を失うことが怖くて、エセルは行動を起こせずにいた。自分に魅力がない、とは微塵も思っていなかったが、それでも、インシャの前に立つと、エセルは酷く臆病な心持ちになったものだった。
  
 あの時、同伴の女性よりもインシャのことが大切なのだと、そういう意味を込めてエセルは手を振り上げた。あの時のインシャは、明らかにその女性に嫉妬しているふうだった。だから、喜んでくれるだろう、そう心から確信していたのだ。
  
『優しい言葉など必要ありません』
  
 自分は思いあがっていたのだろう。
 今でも忘れられない、あの軽蔑の眼差し。あの時の彼女の冷たい瞳は、エセルの心を一瞬にして凍りつかせた。それまで、エセルがどんな冗談を言おうとも、一度たりとも彼女の瞳は温かな光を失わなかったのに。
 ――もう、届かない。
 この手は、どんなに伸ばそうと、彼女には届かないのだ。
 ならば――
「……貴方が私に求めているのは、部下としての私。違いますか?」
 真っ直ぐエセルを見つめながら、インシャが囁くような声で言った。
「それは君が言ったことだ。違うとは言わせんぞ。優しい言葉など要らない、と」
「それは……」
「――ならば、命令するしかないではないか。君を手に入れるためにはな!」
 顔を押さえていた右手を大きく振り開いて、エセルは吼えた。
 無駄なことだと解っていても、いや、解っているからこそ、彼女を屈服させたかった。力でねじ伏せ、彼女をおのれのものにしたかった。
 女としての悦びは、全て自分が教え込んだ。まさか初めてだとは思いもしなかったが……あれから他の男が彼女に近づく余地は与えていない。彼女が自分のものにならないというのなら尚更、他人にくれてやるつもりなど、エセルにはなかった。
 もしかしたら、自分の気を引くために、彼女はわざと頑なな態度を崩さないのかもしれない。肌を重ねる回数が増えるにつれ、つい湧き上がる都合の良い夢。しかし、そんな淡い期待も、インシャと目を合わせれば最後、全てが無残に吹き飛んでしまった。
 真っ直ぐにエセルを貫く、碧の瞳。ここに浮かぶ色は、嘲りであり、軽蔑に他ならない。エセルが彼女に為した事を考えると、それは当然のことに思えた。そして、その瞳に吸い寄せられるようにして、エセルは更にインシャに酷い仕打ちをしてしまうのだ……。
 だが、もう、後戻りはできない。彼はぎらぎらと光る目でインシャを、彼女の瞳を、見据える。
「君が。君が欲しかったのだ。他の誰でもない、君のことが。……どんなに憎まれようとも、君の心におのれを刻みつけたかったのだ……!」
  
 その瞬間、二人の視線が強く絡み合った。
  
「私は……強欲ですから」
 ふと、インシャが目線を落とす。ポツリ、と漏らした呟きは、まるで独白のようだった。
 言葉の意味をはかりかねて、エセルは怪訝そうな表情を浮かべる。
 長い沈黙を経て、インシャは静かに言葉を継いだ。
「私は、隊長の周りにおられる他の女性のようにはなれません……」
 淡々と。
 震える声で。
「女らしい仕草も、甘い言葉も、殿方を喜ばせる技も、身分も……何も持ち合わせておりません」
 唇を噛み締めて、インシャはゆっくりと顔を上げた。
「それなのに、私は、貴方の、ただ一人でありたいと……」
 エセルが息を呑む。
 インシャの磁器のような頬を、涙が一筋つたい落ちた。
「ただ一人の特別な女性になれないのならば、せめて、ただ一人の特別な部下として……」
 もう、言葉は必要なかった。
 エセルがインシャのもとへ駆け寄り、彼女をきつく抱きしめる。
 それを見届けてから、シキは静かにその場を辞した。
  
  
  
 廊下に出たシキは、頬を染めながら閉めた扉にもたれかかった。想像以上の情熱的な告白にあてられて、彼女の胸も高鳴っている。
 ――隊長も、副隊長も、本っ当に馬鹿なんだから。最初っからああ言えば良かったのに。
 高揚する気持ちを落ち着かせようと心の中でわざと毒づいたあとで、シキは思わず溜め息をついた。
 ――相思相愛……か。
 自身の遠い記憶が去来する。
 シキは目をつむって、軽く頭を振った。振り返っては、いけない。前を……前を向かなくては、と。
 もう一度溜め息をついてから、シキは扉から離れて歩き始めた。特に行くあてもなく、廊下を真っ直ぐ階段のほうへと進もうとした彼女だったが、玄関への岐路でぎょっとして足を止める。
 通路の曲がり角に、ガーランをはじめとする隊員たちが鈴なりになっていた。
 先ほど、談話室にいた五人以外に、巡回から帰投したと思しき二名が加わっている。大の大人が七人も団子状に固まっている光景は、暑苦しい以外のなにものでもない。
 一同を代表する形で、ガーランがずいっと一歩を踏み出してきた。身を屈めて、目線をシキに合わせてくる。
「……どうよ?」
「たぶん……もう大丈夫なんじゃないかなあ、と」
「よっしゃ! ダメなほうに賭けた奴、とっとと出しやがれ!」
 喜色満面でガーランは同僚達を振り仰いだ。即、その声に、悲喜こもごもな叫びが重なる。
「やったー!」
「ぐあああっ」
「マジかー!」
「くっそー」
 大騒ぎの一同を満足そうに眺めながら、ガーランは身を起こした。喧騒の輪から少し離れて、シキの横にそっと移動する。
「……お前は大丈夫か?」
 正面を向いたまま、ガーランが小声で囁いた。「その、何と言うか……災難だったな。今度あの二人に何か奢ってもらえ。思いっきりドカンとな」
 彼らしい物言いに、シキはくすりと笑った。ガーランに倣って、彼女も前を向いたまま返答する。
「……確かに、ちょっと大変でしたけど、もう大丈夫です」
「強いな」
「そんなことないです」
 晴れ晴れとしたシキの声に、ガーランも小さく笑ったようだった。更に空気が動いたのを感じてシキが横を向くと、ガーランと正面から目が合った。
「いいや、強いよ。それに……イイ女だ」
 思いもかけないその言葉に、シキが目を丸くする。
「……よし、俺、立候補しようかな」
 目を丸くして、それからシキはふんわりと微笑んだ。
「ダメですよ、失恋したばっかりの人が、何言ってるんですか」
 今度はガーランが驚く番だ。口をあんぐりと開けて、廊下の壁に力無くもたれかかる。
「……敵わねえなあ」
 そして、彼は自分の頭をがしがしと掻き毟るのだった。