あわいを往く者

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黒の黄昏 第十話 死が二人を別つまで

  
  
  
    三  餞別
  
  
 ――夢、かもしれない。
 エセルに力強く抱きしめられながら、インシャは目を閉じた。
 今、背中にまわされているのは、自分を求める彼の腕。
 彼の口から漏れるのは、間違いなくこの自分を求める声。
 ――たとえこれが、この人にとって一時いっときの気紛れだとしても、もう構わない。
 いや、「たとえ」どころではない……。この五年間を知るインシャには、エセルがただ一人で我慢ができるなどとは、到底思えなかった。
 ――夢、なのだろう。
 そっと自嘲の笑みを口元に浮かべ、インシャはエセルの身体に腕をまわした。そうして、ぎゅ、と力を込める。
 ――それでも、……構わない。やがては飽きられ、その他大勢にうずもれてしまうのだとしても、今は……今だけはこの人は私を求めてくれている……。
「目を……開けてくれ。私を、見てくれ、インシャ」
 言われるがままに瞼を開くと、目の前にあるのは、潤んだ濃紺の瞳。見たこともないような穏やかな光をたたえて、エセルがインシャを見つめていた。
「ああ、その目、だ」
「……目?」
「あの冷たい軽蔑の色ではなく……。もう、その温かい眼差しは望めないと思っていた……」
 そう言って、エセルはインシャの額に口づける。インシャは、今までの齟齬にやっと気がついて、思わず声を震わせていた。
「……違います……。私が蔑んでいたのは、私自身です……」
「何故」
 驚いたエセルの声に、インシャは逡巡しながら、目を伏せた。
「……身のほど知らずな矜持に……私は他の女性達とは違う、と……」
 その言葉が終わりきらないうちに、エセルの唇がインシャの口を塞いだ。荒々しい、いつもどおりの口づけ。だがそれは、これまでとは違って途方もなく甘かった。
 二人の心が、柔らかく絡まり合う。
 エセルの大きな手のひらがインシャの頭の後ろを鷲掴みにし、更に強く唇が押しつけられる。インシャも両腕をエセルの首にまわし、濃厚な口づけを貪り続けた。
  
 と、びくん、とインシャの身体が震えたかと思うと、彼女は慌てて唇を離した。
「逃げるな」
「……ちょ、ちょっと、何を」
 エセルの手が、インシャの胸を撫で始めたのだ。彼女を包んでいた甘い霧が一気に散する。
「何を、って、決まっているだろう?」
「やめてください! ここをどこだと思っているのですか!」
「……食堂、いや違う、談話室、だな」
「だな、じゃありません!」
 インシャの頭を掴まえていた手は、いつの間にか彼女の腰にまわされている。エセルはその腕に力を込めると、インシャの身体を引き寄せた。
「だめです! そんな、こんなところで」
「ここじゃなければ、良いのか?」
 意地悪い笑みを浮かべながら、エセルが囁く。インシャは先ほどまでの夢心地を破られてしまったことから余計に機嫌を悪くして、眉間に皺を刻みながら抵抗した。
「違います! 今は職務中……んっ」
「なに、先ほどの今だ。皆も大目に見てくれよう」
「そういう問題じゃ……!」
「あんなに情熱的な口づけに奮い立たないようでは、男がすたるというものだ」
「やめてください。そ、それに、何よりも、まず……」
「まず、なんだ?」
 耳元にかかる熱い息。インシャの呼吸がどんどん荒くなってくる。
「……わ、私にも、貴方にも、……っ、……しなければならないことが……」
「一体、何を?」
「……し、シキに、謝らなければ……」
 その名前を聞き、エセルの動きがようやっと止まった。
  
「……私も、貴方も、散々彼女に迷惑をかけたではありませんか」
 エセルの腕をそっとほどくと、インシャは襟元を正しながら静かに言った。
「それなのに、彼女はこうやって私達のことを……」
「ああ」
「謝って済むようなことではないと思います。それでも、心から許しを乞わねば……。それに、私は、彼女にどうしてもお礼を言いたいのです。こんなところで、こんなことをしている場合ではありません」
 真摯なインシャの瞳に見据えられて、エセルは軽く息をついた。それから、優しい視線を彼女に絡ませる。
「……ああ。間違いなく、君は他の女性達とは違うぞ。自信を持って良い。この私に説教しようなどという女性は、帝国中に君だけだ」
「褒め言葉と受け取っておきます」
 エセルの言葉に、挑戦的な眼差しで返すインシャだったが、一瞬の隙をつかれて再び彼の逞しい腕に抱きしめられてしまった。
「隊長! 何度言ったら……!」
「もう一度。……キスだけだ。君を味わわせてくれ」
「……隊長……」
「エセル、だ」
 その囁きはこの上もなく甘美にインシャを誘った。
 これまでその呼称を頑なに拒否し続けていた、その理由はもう失われてしまっている。インシャは、おずおずと口を開いた。二年もの間、密かに恋い焦がれ続けていたその人の名を呼ぶために。
 呼べば、もう、後戻りはできない……。インシャは固く口を引き結んで、それから微かに唇を震わせた。
「………………る」
「聞こえない」
「……………………ぇ、せ……る…………」
 顔を真っ赤にさせて、インシャが俯いた。その様子に、エセルの喉がゴクリ、と鳴る。
「上出来だ」
 そして、再度重ねられる、唇。
「続きは、またあとで、な」
  
「……失礼するよ」
 わざとらしい咳払いとともに、静かな声が二人に投げかけられた。
 インシャが、顔面を蒼白にさせて勢い良く両腕を突っ張った。突き飛ばされる形となったエセルは、そのまま二、三歩よろめいてから、慌てふためいて玄関ホールへの扉を振り返った。
「た、タヴァーネス魔術師長様……!」
 辛うじてそう声を絞り出して、エセルは一歩前に進み出る。言葉を失ってただ口をパクパクと動かすインシャを庇うかのように。
「ノックをしたのだが、返事がなかったものでね。申し訳ない」
「あ、いえ、とんでもありません。こちらこそ、大変失礼いたしました」
 嫌な汗が彼の背中をつたった。
 いつからいたのだろう。どこまで聞かれたのだろう。愛弟子に迷惑をかけたという言葉は、彼の耳に入ったのだろうか。
 ついと魔術師長から視線を外したエセルは、そのすぐ後ろに真っ青な顔で固まっているガーランを見つけた。大魔術師を引き止めようとして叶わなかったのであろう。右手を身体の前に差し出した体勢のまま硬直している。
 エセルは深く息を吐いた。
「ご一報くだされば、わたくしがそちらに伺いましたものを」
「いや、それには及ばない。私事なのでね」
 ロイは後ろを軽く振り返った。「とはいえ、警備隊の人事に関することだから、こうやって君達の仕事中にお邪魔することになったわけだが」
 ロイの後方、ガーランの更に後ろ側に、他の隊員たちが集まりつつある。
わたくしの部屋が宜しいですか。それとも……」
「会議室を貸してもらうよ。今いる人間だけで良いから、隊員達を集めてはもらえないだろうか」
  
  
 自分を取り戻したインシャが、完璧な物腰でロイを案内していく。
 やや後方を歩くエセルは表情一つ変えずに、隣を行くガーランに小声で訊いた。
「どこから見ていた?」
「熱烈なキスシーン。ごちそうさまでした」
「最後の、か?」
「……一回だけじゃなかったのかよ……」
 いかにも暑そうに、ガーランは大袈裟に胸元を扇いでみせた。そこで初めてエセルは軽く笑うと、ちらりとこの信頼する部下のほうを一瞥した。
「……心配をかけて、悪かったな」
「やめてくださいよ。明日、大雪降らせる気っスか?」
 二人の含み笑いが、会議室の扉へと消えていった。
  
  
  
「……というわけで、私は明日、皇帝陛下とともに帝都へと出立することになったのだ。申し訳ないが、警備隊顧問魔術師の役は、辞させてもらうことになる。すまないね」
「いえ、これまで色々とありがとうございました」
「仕事を半ばで放り出していくようで、少々心苦しいのだが……」
「陛下に乞われてということは、重々承知しております。どうかお気になさらないでください」
 会議室。テーブルに四人ずつ分かれて着席した隊員達の前で、ロイとエセルが社交辞令を交わしている。
 その妙に芝居がかった会話を聞きながら、ガーランは一人首をひねっていた。偉大なる大魔術師様が、自分達平隊員に、一体何の話を聞かせようというのだろうか、と。
「……と、これだけならば、わざわざ君達の時間を貰うこともないのだが……」
 勿体ぶるように一旦言葉を切って、ロイが部屋の後方へ視線を投げた。
「シキ」
 名を呼ばれたシキが、ゆっくりと前へ進み出る。
 シキが無言で大魔術師の傍らに並ぶのを、ガーランは眉をひそめて見守った。
「彼女も、私と一緒に帝都へ行くことになったのでね。こればかりは、諸君に黙って、というわけにはいかないだろう?」
 静かなざわめきが、部屋のあちこちから上がる。それを代表するつもりで、ガーランはわざと大きな声を上げた。
「えぇっ! なんで……」
「……すみません……」
「あ、いや、そういう意味じゃないんだ……。なんで一緒に……」
「私の弟子だからね。彼女は」
「で、でで弟子!?」
 想像もしていなかった言葉に、ガーランは思わず腰を浮かせた。と、エセルが仰々しい身振りでガーランを制す。
の者の無礼をお許しください。なにしろ、彼女はあまり自らを語らなかった上に、一度も隊で魔術を使うことがありませんでした。彼女がタヴァーネス様の弟子であるということは勿論、魔術師であるということすら、私以外の者は知らなかったと思われます」
 呆然と腰を下ろすガーランの耳に、同僚のひそひそ話が飛び込んでくる。
『マリとノーラが今いなくて良かったな』
『シキが大魔術師の弟子だったなんて、あいつら聞いたら卒倒するぞ』
『女魔術師だとよ。自信無くすだろうな』
 ああ、なるほど。これは彼女流の処世術だったのだろう。ガーランは妙に感心すると同時に、激しい寂寥感を覚えた。いかに自分がシキのことを知らなかったのかということに。
 たったの半年。されど半年、だ。しかも、自分は警邏の相棒だったというのに。
「皆さんにはお世話になりっぱなしで、本当に申し訳なく思っています。短い間でしたが、ありがとうございました」
 深々と頭を下げるシキに、部屋中が静まりかえった。
「明日は、私とシキは皇帝陛下と同乗することになるだろう。警備のほう、宜しく頼むよ」
 そう言って、ロイは背後からシキの両肩に手を乗せた。シキは、身動き一つせず、じっと足元を見つめている。その様子は、かしこまる、というよりも、萎縮する、という言葉が相応しいように見えた。
 ――気にくわねえな。
 ガーランは、無性に煙草が吸いたくなった。
  
  
  
 夕暮れの中、シキはジジ家の玄関のステップに足をかけた。
  
 あれから、警備隊本部は大騒ぎだった。
 領主の城に用があるので、とロイが退出したのち、皆が堰を切ったようにシキの周りに殺到したのだ。「魔術使ってみせてくれ」と言う少なからぬ者を軽くいなしながら、シキは同僚達と別れの挨拶を交わした。
 インシャが珍しく半泣きになりながら、シキの両手を握って、何度も何度も謝罪と感謝の言葉を繰り返していた。そしてエセルは……相変わらず尊大な態度で、だが少しだけ躊躇いがちに、一言「すまなかったな」とねぎらいをかけてきた。
「元気でな」
 それだけを呟いたガーランの、どこか寂しそうな様子が少し気になったが、もう次の瞬間には彼の姿は辺りに無かった。
  
 えんじのジャケットを返却し、私物を片付け、何かに追い立てられるように帰途につく。その頃にはもう皆は通常勤務に戻っており、玄関でシキを見送ってくれたのはインシャだけだった。
 たったの半年。それに、故郷とは違ってルドスはゆかりのない土地だ。ここを去ってしまえば、彼らにはもう二度と会うこともないだろう。
 初めて体験する「別れ」に、シキの胸は少しだけ痛んだ。こんなことならば、もっと深く彼らと交われば良かった、と。我が身の悲運に世を拗ねて、孤独に浸ることなどせずに。ならばきっと、こんなにも未練を感じることなどなかったのかもしれない、と……。
  
 玄関の鍵を開けたシキは、ジジ夫人の熱烈な出迎えを受けた。
「お帰りなさい! シキちゃんにお客様よ」
 ただいま、を言いかけて、シキの思考が止まる。
 誰も知らないこの町で、一体誰が自分に用があるというのだろうか。シキが考えを巡らせている間も、ジジの語りは続いている。
「ああ、シキちゃん、いつ帰るか分からなかったから、間に合って良かったわあ。そうね、半時はんときほど前からお待ちなのよ。ささ、こっちにいらっしゃい。早くはやく」
 話の展開についていけずに、シキは眉間に皺を刻んだ。だが、ジジはそんなことはお構いなしに、彼女の背中をぐいぐいと一階の夫人の居間へと押していく。
「帰ってきたわよー」
 居間の扉をくぐれば、ソファに座る二人の人物の姿が目に入った。奥側のほっそりとした中年の女性が、入ってきたシキを見るなり軽く会釈をする。シキの知らない人だ。
 ややあって、手前に座っていたもう一人が、立ち上がって振り返った。大きく両手を広げ、そそくさとシキの傍へとやってくる。それから彼は、驚く彼女の右手を両手で掴むと、ぶんぶんと大きく縦に振った。
「今日はね、母さん連れて来ちゃったよ」
 瓶底眼鏡の歴史教師、ユールが、満面の笑みを浮かべてそこに立っていた。
  
  
 ユールの母は、その息子とは違い、とても常識的な女性だった。静かに立ち上がると、シキに向かって改めて一礼する。
「はじめまして。サホリ・サラナンと申します。息子がご迷惑をおかけして、すみませんね」
 薄墨色のワンピースに萌黄色のボレロをはおり、優雅に微笑むその様子は、とてもユールと血の繋がりがあるようには思えない。だが、すっと通った鼻筋と、薄い唇、跳ね癖のある茶色の髪は、間違いなく二人とも瓜二つであった。
「もうね、この道楽者の人生には関わらないことにしているんですけれどね。今回ばかりは、事情が違いますから……」
 頬に手を当てて軽く溜め息をついてから、サホリはにっこりと隣に座ったシキに向かって微笑んだ。
「本当。マニちゃんに良く似ているわ。あの時のまま、時間が止まってしまっているみたい」
 シキは思わず唾を飲み込んだ。
「母……のことをご存知なんですね」
「そうね。息子に粗方の話は聞きました。状況も、名前も、それに容貌まで合致しているのだから、間違いないと思いますよ。あの子はとても歌が上手でね、うちの子もよく子守唄を歌ってもらったものです」
「母も、歌は上手でした」
「精霊使いの技を持っていてね、庭の手入れが得意だったわ。大きな向日葵を咲かせるのが好きでね。私達は皆、アルナム家のことを『向日葵屋敷』って呼んでいたのよ。でもね、料理は少し苦手だったみたい」
「…………ああ……!」
 もう、言葉にならなかった。シキの胸に、懐かしい情景が怒涛のように押し寄せてくる。
 寝る前に聞いた子守唄。
 いつも鼻歌を歌いながら、家事の合間に庭に出ていた母。
 庭を、畑を彩る見事な花花。とりわけお気に入りの大きな向日葵。
 そして、時々食卓に並ぶ「個性的」な味つけの料理。
「……お母さん……!」
 涙が溢れてくる。シキは思わず両手で顔を覆った。サホリは身を乗り出して、そっとシキの頭を撫でる。
「お母さんは幸せだった?」
「はい。たぶん……」
「あの、栗色の髪の旅人と結ばれたのね?」
「はい、父だと思います……」
「収穫祭でね、二人が仲良く歩いているのを見たのよ。手を繋いで。良かったわ……本当に。きっとアルナム夫妻も喜んでいらっしゃることでしょう」
 それが処刑されたという母の両親のことだ、と気がついて、シキは顔を上げた。
「私の、祖父母、なんですね」
「ええ。でも、残念なことに、もう……」
「そうですよ、いくら領主様の縁者っていってもねえ。そんな、実際には関わりなんかほとんどなかったんですから」
 丁度お茶を運んできたジジが、もらい泣きに目を潤ませながら相槌を打った。その手元からパイの皿を一つ、ユールがさっさと自分のほうへと引き寄せる。
「あの、祖父母のお墓は……」
「それがね、無いのよ」
「無い、のですか」
 サホリがつい、と眉根を寄せた。「ええ、無いの。皇帝が御身体を返してくれなかったから」
「非常識な話だろー?」
 ユールが口をもごもごと動かしながら、非難の声を上げた。そして再び大口を開けて、残りのパイを口に入れる。「ほんっと、このパイ美味しいですね」
「あら、嬉しいわ。おかわりあるのよ、どうぞたんと召し上がれ」
 にっこり笑いながら、ジジは皆にパイの皿を配った。
「重い話を終わらせたい時だけは、ユールがいてくれて良かったって思うわ」
 サホリが冗談めかして片目をつむる。シキもつられて顔を綻ばせた。
  
  
「色々お話できて、とても楽しかったわ」
 玄関ホールでサラナン親子に別れを告げられてから、シキは大切なことを思い出した。
「あ! そうだ。私、借りていた本を返さないと……」
 慌てて階段へと身をひるがえそうとしたシキの手を、すかさずユールが掴む。
「いいよ。あの本、君にあげるよ」
「え、でも、大事な本なんじゃないんですか?」
 シキは、あの、本に埋もれた部屋の中で、迷いなく目的の本を選び取ったユールの姿を思い出していた。どうでも良い本ならば、ああはいかないだろう。
 ユールはにっこりと笑うと、両手でシキの手を握り直した。
「いいんだ。粗方中身は憶えてるしね。それより、シキ、今から家に遊びに来ない? 会わせたい人もいるし、ね」
 そう言ったユールの口元が、何か言いたそうにうずうずと動いている。
「会わせたい、人?」
「それがねー……」
 得意満面にユールが口を開いたその時。
 バタン、と扉が開いて、ホールは一瞬静まりかえった。
「ただいま」
 ロイ・タヴァーネスの帰還だった。
  
「お客様でしたか。驚かせてしまったようですね」
 一同をゆっくり見渡して、ロイは最後にシキの手を握るユールに目をとめた。にっこり微笑みを作って、二人の間に割り込んで握手を求める。
「シキの新しいお友達かな?」
「ああ、貴方がシキ達の先生ですね。初めまして」
「こちらこそ初めまして」
 ユールの台詞に何か違和感を覚えて、シキは軽く首をかしげた。
「ああ、折角知り合えたというのに、残念だが我々は明日ルドスを発たねばならんのだよ」
「ええっ、一体どういうことなんですか!?」
 ジジ夫人が皆の背後で驚きの声を上げた。
「すまないね、ジジ夫人。なにしろ突然の皇帝陛下直々のお申し出でね、帝都へご一緒することになったのだ」
 その声に、ユールが軽く眉を上げる。瓶底眼鏡が燭台の光をきらりと反射した。
「ま、皇帝陛下! あらあら、私もしかして大変な方々をお世話していたのかしら?」
「急な話で申し訳ない。だが、約束どおりあと半年間は部屋をお借りするよ。書斎の荷物については、その間に人を寄越すことになるだろう」
 ロイはそこで息を継ぎ、弟子のほうを振り返る。
一時いつとき後に城から迎えが来る。今夜は領主様が部屋を用意してくださるそうだ。出立の準備をしなければ。行くぞ、シキ」
 そう言って、ロイはシキの肩をぐいと抱いた。一瞬シキが身体を強張らせる。二人を見つめるユールの目が、つう、と細くなった。
「さ、さようなら。本をありがとうございます!」
 客人と家主をあとに残し、シキはロイに手を引かれて階段をのぼっていく。
 唇を尖らせて、何か思索に耽っているようだったユールが、突然弾かれたように彼女を追った。
「シキ!」
 シキが足を止める。ロイは、渋々といった様子で彼女の手を放した。
 階段下まで戻ってきたシキに、ユールはいつになく静かな口調で語りかけた。
「君のお母さんはとても強い人だった。君もきっと大丈夫だよ」
「え?」
「自分の気持ちに正直に。大丈夫。お母さんが君を護っているから」
 そう言うや否や、彼は素早くシキの目の前に両手を差し出して、ぱちんぱちん、と二度手を打った。
 刹那の魔力の波動を感じて、ロイが思わず段を一つ降りる。
 シキは、呆然とその場に立ち尽くしている。
「旅のご多幸を祈っているからねー。じゃ、母さん、帰ろっか」
 サホリが会釈をし、玄関の扉を開ける。そのあとに従って、不思議な技を持つ歴史教師は、往来へと姿を消した。一度も振り返ることなく。
「……なんだ、今のは」
 階段を降りて来たロイが、険を含んだ声で呟く。
 シキは、ゆっくりと手を自分の頬に当てた。
  
 暗い森の中、唇に落とされる優しい口づけ。
『シキ、好きだ』
 黒髪に縁取られた、若草の瞳。真摯に、真剣に、ただシキを乞い求める瞳。
 突然湧き起こった半年前のあの夜の記憶に、シキはしばらくの間身動きをとることができなかった。