あわいを往く者

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黒の黄昏 第十一話 それぞれの夜

  
  
  
    第十一話   それぞれの夜
  
  
  
    一  奇襲
  
  
 すっかり日が暮れて、闇に閉ざされつつある荒野に、炎が小さく揺らめき点いた。
 一頭の馬、荷馬車、そして三つの人影の輪郭が、薄闇に浮かび上がる。
「次の町まではまだ数里あります。今夜はここで野宿いたしましょう」
 若い男の声を合図に、三人は焚き火を取り囲んで腰を下ろした。
「いやあ、座りっぱなしだと腰が痛くてたまらんな」
 そう言って、初老の男が大きく伸びをする。
「申し訳ありません」
「いやいや。別に君に文句を言っておるわけじゃなくて。これでも若い頃はあちこち旅もしたものだが、歳をとるというのはどうにも勝手の悪いものじゃ」
「へえー、司祭様にも若い頃があったんですねー」
「何を馬鹿なことを言っとる」
 年寄りの愚痴をまぜっかえしたのは、若い女。その声に、若い男がほっとしたような溜め息を漏らす。そうして、彼はゆっくりと腰を上げた。
「早めに食事にして、明日は日の出とともに出発しましょう」
「了解」と威勢の良い返事とともに、若い女も立ち上がった。
「あ、貴女は座っていてください。これは私の任務ですから」
 狼狽する男を気にするふうもなく、彼女はすたすたと荷馬車に向かって歩き出す。
「何言ってんの。皆で旅をしているんだから、自分でできる事は自分でしなくちゃ」
「いや、でも……」
「いいからいいから。騎士様と違って、私はただ馬車に座ってボーっとしているだけだから、せめてこんなことぐらい……わわっ」
 と、ズボンの裾を潅木の枝にひっかけて、彼女が地面に倒れ込んだ。騎士が慌てて駆け寄って、彼女の手を取って助けおこす。
「ほら、お疲れなんですよ」
「ひやひや」自由な左手で鼻を押さえながら、彼女はなんとか起き上がった。「どんくさひのは、生まれつきだから」
 そんなに卑下なさらないでください、と騎士がゆるりと首を横に振った。それから、さも大切そうに、女の手を両手でそっと包み込んだ。
「……貴女には、感謝しています」
「はひ?」
「たった一人だけの護衛とこんな荷馬車しか用意できなかったのに、文句も言わずにこうやってついて来てくださる」
 騎士の指に力が入った。
「それに、貴女のその明るさに、何度救われたことか。司祭殿も、……私も」
「あ、いや、おしゃべりなのも、生まれつきだから……」
 柄でもない、とばかりに左手を顔の前で振りながら、彼女は賛辞を打ち消した。しかし、騎士の眼差しはより一層熱を帯びるばかり。
「いえ、そう仰るのも貴女の優しさです」
  
 ――どうしよう。もしかして、もしかしたら、これは何だかとてもロマンチックな展開なんじゃないかい?
 動揺のあまり、思わず他人事のように彼女は思考をめぐらせた。
 三人で旅を始めて半月。二歳年上のこの騎士は、とても真面目で、純朴で、しかも結構イイ男だ。「騎士」というからには、どこかの良家のお坊ちゃんであるのだろう。そんな男が、田舎出身の十割方庶民で、しかも標準よりもかなりガサツな自分に惚れるなんてことが、あるわけない。物珍しさと旅の疲れとで、きっと我を失っているんだろう。そう結論づけながら彼女はそっと騎士の手を放した。
「食事の用意、しましょっか」
「……あ、はい…………」
  
 さっさと馬車に乗り込む彼女の後ろ姿に、騎士は少し残念そうな表情で、熱い視線を絡ませる。
 あけっぴろげで気取らない、豪快ともいえる彼女の言動に、彼も最初は少々度肝を抜かれていたものだった。
 だが、そんな彼女の裏表のない態度と大らかな性格は、一行の旅の気苦労を和らげることにとても役立っていた。おそらくこの騎士は、これまで同様な任務において、多大な苦労を強いられてきたのだろう。そんな彼の目に彼女が天使のように映り始めるのには、大して時間はかからなかった。
「えっと、袋、袋、干し肉の袋……、どこだっけ……、って、わわっ」
 幌の暗がりで、何かをひっくり返したような音が派手に響く。
「だ、大丈夫ですか!」
 そう、惚れてしまえば、多少のそそっかしさも可愛さのうち。あばたもえくぼとは良くいったものであった。
  
  
 ――眠れない。
 毛布にくるまって目を閉じても、色々なことが頭の中に渦巻いていて、一向に眠気はやって来ない。彼女は眠ることを諦めて、同行の騎士のことを考え始めた。
  
 私って、自意識過剰なのかな?
 いや、でも、先刻の状況は、やはりそうとしか考えられないような。
 いやいや、まさか、そんな物好きがアイツ以外に存在するなんて。やっぱり私の考え過ぎだってば。
 そう。アイツだって、なんだかんだ言ってたのに結局このとおり。今頃はきっと、無駄に終わったこの三年間を悔やんでいるに違いない。
  
 騎士のことを思っていたはずだったのに、彼女の脳裏には、かつて恋人だった男の顔が浮かび上がっていた。
  
 大体、アイツがなんで私に惚れたのか解らない。アイツの立場じゃ、お相手なんて選り取りみどりだったろうに、本当にわけが解らない。
 きっと単なるきまぐれ。そうじゃなければ、ちょっと新境地に挑戦、ってつもりだったのかも。そもそも、「私のどこが良いの」って問いに「良く解らないや、あはは」って、随分な答えじゃない?
 でも。
 遊ばれてる。そう思ったにしても、あんなこと要求した私も大概酷いヤツだったよなあ。
  
『ひと月ごとに最低一通、手紙を頂戴。んじゃ本気だって信用するから』
 仕事で故郷を離れる前に、どうしても伝えておきたかった。そう言って想いを告白してきた男に、彼女は自分でも嫌になるほど尊大な態度で要求を突きつけた。これぐらい面倒なことを押しつけておけば、彼の本音が分かるだろう、そう彼女は考えたのだ。
 うっかり彼の言葉を鵜呑みにして、あとで悲しい思いをするのは嫌だから。そんなふうに彼女が打算的な態度に出たのには、理由があった。なにしろ彼は、やや軽薄ではあるものの男前な、腕っ節も強い人気者で、対する彼女はといえば、十人並みな器量の平々凡々な田舎女にしか過ぎず、彼女自身、自分が彼に釣り合うような人間とは、とても思えなかったからだ。
 だが、彼女の提示した要求に、彼は静かに頷いた。そして、それを見事に実行したのだった。
 慣れない地での仕事に、ただ郷愁に駆られただけのことだったのかもしれない。それでも、彼女は最初の一通に驚き、二通目に慌て、三通を超えたところで密かに感激した。
 彼が故郷を離れて二ヶ月、二人の間で文通が始まった。書簡が往復するたびに彼らの絆は深まり、半年後の彼の里帰りの時に、遂に二人は愛を交わし合った。
  
 ――三年間……良く続いたよなあ。こんなにも続くとは思っていなかったから……期待しちゃったじゃないか。
 彼女は目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭った。
 彼からの手紙が突然途絶えたのが半年前。事故か病気か、と心配した彼女は、何度も何度も手紙を送った。
 五通目を送ったところで彼女は気がついた。これは彼の意思表示なのだ、と。これ以上の手紙は、彼に迷惑だろう、と。
 ――それにしても、せめて一言欲しかったなあ……。
 溜め息をついて、彼女は胸元の首飾りを握り締めた。色とりどりの硝子玉で作られたそれは、昨年の誕生日に彼から貰った贈り物だ。彼女はその首飾りを、最小限に、と言われた旅の荷物の中に忍ばせたのだった。少しだけ逡巡してから。
  
  
「眠れませんか?」
 突然投げかけられた騎士の声に吃驚して、彼女は思わず身を起こした。
 騎士は、焚き火の傍に腰をかけて、静かな笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
「えっと。騎士様は眠らないの?」
「次の町に着いたら、休ませてもらいます」
「やっぱり、全員で寝ちゃったら、まずいのかな?」
 彼女は毛布にくるまったまま起き上がると、その裾を引きずりながら焚き火をはさんで騎士の向かい側に座り込んだ。
 騎士の右手には、時折いびきを掻く毛布の塊がある。
「そうですね。町と町の距離が長いこの辺りには、良く夜盗が出没するそうですから」
「こんな貧乏そうな旅人も襲うものかな……って、あ、ごめんなさい。騎士様が貧乏そうというわけじゃなくて」
 慌てて言葉を継ぐ彼女を見て、騎士はくすくすと笑った。
「甲冑を身に纏っているならともかく、この出で立ちでは、皆さんと何も変わりないでしょう?」
 ――いやいや、アナタのその服は充分過ぎるほど仕立てが良いですが。
 そう思いながらも流石に言葉にはできず、彼女は曖昧に微笑んだ。その表情を誤解したのか、騎士が軽く咳払いする。
「……こうやっていると、私達は……その……、家族、の、ように見えるのではないでしょうか」
 ――うわ、この人本当に年上? 可愛ーい。
 家族って、お兄さんと妹? って訊いたら、どんな反応が返ってくるんだろう? つい騎士をからかいたくなる誘惑に駆られながらも、彼女がそれをなんとか思いとどまっていると、頬を染めて俯いていた騎士が、突然鋭い瞳で顔を上げた。
「え、何?」
「……不覚。囲まれました」
  
  
 辺りに注意を払いながら、騎士は傍の司祭をそっと起こす。
「……んんん……、どうしたね……」
「申し訳ありません。賊に取り囲まれたようです」
「人数は判るかね?」
「五人か、六人か……相手にとって不足はありません。それよりも、お二方とも、私が火を消したら後ろの繁みに隠れてください」
 騎士の言葉に、残る二人はあからさまに不満そうな声を上げた。
「なんで? 私達も戦えるよ?」
「そうじゃ。『麻痺』に『昏睡』に、色々あるぞ。久しぶりじゃ、腕がなるのぉ」
 そう、剣はふるえなくとも、彼らには癒やしの術があるのだ。二人の術師はこれ見よがしに指をならし始めた。
 仕方がない、とばかりに騎士は司祭に苦笑を返した。だが、すぐに表情を険しくさせて、彼女のほうに向き直る。
「貴女は駄目です。隠れてください」
「自慢じゃないけど、って自慢なんだけど、私のほうが司祭様よりか腕前は上だよ」
「駄目です。彼らの獲物が何かご存知ですか?」
 騎士に静かに問われて、彼女は小首をかしげた。
「獲物? お金とか、貴金属でしょ?」
「それに、馬と……、女性。どういう意味かお解りですね? お願いです。貴女は隠れていてください」
 そう言うや否や、騎士は足で焚き火に砂をかけた。
  
  
  
 一瞬にして、辺りは暗黒の支配下に堕ちた。
 漆黒の闇の中、騎士と司祭はお互い充分な間合いをとって敵襲に備える。
 彼女は、言われたとおりに繁みに身を隠して、二人の頼もしい仲間の様子を窺った。実際のところ、こういった立ち回りでは、腕前よりも経験がものをいうのに違いない。実戦経験のない自分は、間違いなく足手まといだろう。それに、こうやって潜んでおれば、いざという時に伏兵として二人の手助けもできるはず。
 彼女の目が暗闇に慣れてきたその時、荒々しい足音が周りから湧き起こった。ほどなく、黒い塊が七つ、四方から姿を現す。
 雄叫びとともに剣を振りかざした男は、騎士の一閃であっさりと地に倒れ伏した。司祭が何か呪文を詠唱する声とともに、人影が二つ崩れ落ちる。
「何だぁ? こいつら、強ぇぞ」
 残った四人の暴漢は、警戒の色を強めながらも、じりじりと包囲網を狭めていく。
 騎士が再び剣を構え直す。
 司祭が呪文を唱え始める。
 その時、怒号が辺りに響き渡った。
「じじいを黙らせろ! 術を使わせるな!」
 騎士と切り結んだ一人を除いた全員が、司祭のほうへと殺到する。
「あぶない!」
 彼女は繁みから飛び出すと、「昏睡」を唱えながら司祭の背後に迫る夜盗の腕を掴んだ。
 癒やしの術は、そのほとんどが接触魔術だ。施術の際に、術を施す相手の身体に手を触れる必要がある。彼女に腕を掴まれた男は、即座に全身を弛緩させて地面に倒れ込んだ。
 それは一瞬の出来事。
 彼女は、倒れる男の腕を離すタイミングを逃した。
  
「わわっ!」
 男と一緒に転倒してしまった彼女の首に、背後から太い腕が巻きつく。
「やい! てめえら動くなよ! この娘っこの首をへし折られたくなければ、動くなよ!」
「卑怯者め!」
「……すまん……わしのために……」
 騎士と司祭の悔恨の声が聞こえる。だが、首を締め上げられ、身体を反らされた彼女に見えるのは、星達の煌めくかち色の空のみ。
 呪文を詠唱しようにも、喉に食い込む男の腕が発声を妨げる。
 ――何も、できない。
 彼女は、恐怖よりもおのれの不甲斐なさに泣きたくなった。
  
 彼女を掴まえたまま、男はじりじりと馬車に近づく。そのまま馬車に乗り込むと、男は自由な右手で大きく手綱を振り下ろした。
 馬がいななき、馬車が走り出す。
 騎士と司祭の声が、風のように後方に飛んでいく。
 男の腕に爪を立てながら、彼女は必死で暴れ続けた。慰みものにされるのか、売り飛ばされるのか。ああ、どうしよう。どうすれば良い?
  
 男の操る馬車は街道を横切って南へと向かった。真っ暗な草地の中を、荷台を何度も大きく跳ね上げながら、走る。
 しばらくして、男は急に速度を緩めた。草地を抜けたのか、蹄鉄の音が硬くなる。と、車輪が小石を踏み砕く音が彼女の耳に飛び込んできた。こんな荒れ野に石畳の道があるのだろうか。まさか、いよいよ野党の里に入ったとでもいうのだろうか。
 その時、彼女を捕まえている腕が、少しだけ、緩んだ。
 ――今だ。
 彼女は思いっきり男の腕に噛みついた。全身全霊の力を込めて。
「う、が、あああああああっ!」
 突然襲った激痛に、男は左腕を振りほどいた。そして防衛本能の赴くままに、力いっぱい彼女を御者台から蹴り出す。
 彼女の身体が宙に舞った。
  
 地面に叩きつけられることを覚悟して、彼女は身を固くした。
 だが、何故か彼女の身体は、地表面の高さを通り過ぎて更に下方へと落ち込んでいった。
 胸腔に流れ込む、水辺の匂い。星空を黒々と切り取るのは、橋の影か。
  
  
 そして、夜のしじまに、一際大きく水音があがった。