あわいを往く者

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黒の黄昏 第十一話 それぞれの夜

  
  
  
    三  赦免
  
  
 あの時。ルドス郊外にて、兄帝陛下の馬車の列を反乱団が襲撃した時。馬車を降りたロイが、反撃の呪文を今まさに口にのぼさんとした時。
 あの未知の術が、ロイの声を、周囲の音という音を、かき消してしまったあの瞬間、ロイの胸に真っ先に湧きあがったのは「恐怖」だった。戦いに際して魔術師が声を奪われるということは、即ち、武器はおろか防具すら無い状態で戦場のど真ん中に放り出されたも同然だったからだ。
 そして次にロイを襲ったのは、「驚愕」だった。かつての師ザラシュ・ライアンが放った術は、ロイにとって完全に未知なるものであった。それも、単に「知らない」の一言で片づけられるようなものではなく、ロイがこれまで触れてきた全ての術とは、淵源から異なっている術であるように彼には感じられた。
 そう、あの時、確かにロイはあの未知なる術に対して恐れ、驚き、息を呑んだ。そして、同時に彼は歓喜した。ロイが未だ到達し得ぬ地平に、既に師は足を踏み入れているのだということを知って。
 師と決別した時、ロイは師の知る術を全て会得していたはずだった。だが、彼は十五年の歳月を経て、ロイの前に再び姿を現したのだ。新たなちからをその手中に修めて――。
  
 ロイは、今でも、師が研究室の合鍵を渡してくれた時のことを、昨日の出来事のように思い出すことができる。
 毎日、放課後になると、ロイは他のことには目もくれずに、ザラシュの研究室へと通っていた。宮廷魔術師長として宮城の一角に居室を持つザラシュではあったが、周囲の雑音を嫌った彼は、以前に使用していた家を研究室として残し、公務の合間をぬってはそこで研究に打ち込んでいた。ロイは、その研究室でザラシュの手伝いをしながら、学校では望むべくもない、より高度で実践的な指導を受けていたのだ。
 二十年前のその日、いつもどおりに研究室のあるザラシュの旧邸へ向かったロイは、固く閉ざされた門に出迎えられた。
 城の警護や、魔術を使った他都市への通信など、宮廷魔術師の仕事は多岐に亘る上に煩雑だ。その長ともなれば、予期せぬ仕事に時間を取られることも少なくない。ロイの弟子入り以来、ザラシュは極力夕方の決まった時間に研究室を開けるようにしてくれていたが、それでもやはり、ザラシュの到着が遅れることは、ままあった。そして、そんな時は必ず、留守を預かる使用人がロイを門番小屋で待たせてくれたものだった。
 しかし、その日はどうも勝手が違っていた。門の向こうに見える小屋にも、庭にも、人の気配は一切無く、ロイは途方に暮れながら門の脇に立ち尽くした。
 お屋敷の並ぶ閑静な街角に、木枯らしが吹きすさぶ。ロイが、かじかむ両手を互いに擦りあわせていると、向こうの角から姿を現した一台の二輪馬車が、急いた様子でこちらに向かってきて、急制動でロイの前に停車した。
「遅れてしまってすまない。寒かっただろう、すぐに中に入って火を起こそう」
 謝罪の言葉を口にするザラシュに対し、ロイは静かに首を振った。
「大丈夫です」
「大丈夫なわけがあるか。唇の色が紫色になっているぞ」
 いつもの使用人が身内の不幸とやらでいとまをとったため、今この家には誰もいないのだ、と、ザラシュは申し訳なさそうにロイに言った。
「確かに『規範』には、自分のために術を使うな、とあるが、身体を壊してしまっては、人助けのしようもないだろう?」
 暖炉の火に加えて、絶妙に出力を調整された魔術の炎が、冷え切ったロイの身体をゆっくりと温めてくれる。ロイがようやく人心地ついた頃、ザラシュが少しわざとらしい調子で咳払いを一つした。
「これを君に渡しておこうかな」
 そう言ってザラシュが差し出したのは、飾り気のない頑丈そうな鍵だった。
「これは……?」
「この家の合鍵だよ」
 驚きに目を丸くするロイの目の前、ザラシュが穏やかな笑みを浮かべる。
「君なら、いつでも自由に出入りしてくれて構わんよ。私が留守の時でも遠慮なく」
「いや、しかし、今日のことは、私がしっかりと防寒具を用意してさえいれば……」
 躊躇うロイに、ザラシュは悪戯っぽい表情を作ってみせた。
「なんにせよ、私を待つ時間が勿体ないだろう?」
 主人が不在の家で勝手にするのが気が引けるというのなら、書斎の本を読んで待っておればいいだろう。ザラシュにそう言われてしまえば、ロイに断わる理由は何も無かった。
「でも、宜しいのですか?」
「勿論だとも」
 ザラシュは破願すると、ロイの手に鍵を握らせた。
「これは、私と君との絆だよ。大切にしておくれ――」
 その刹那、小柄なザラシュの姿が、水滴のかかったインクの文字のごとく、滲んだ。
 突然の変容に驚く間もなく、ザラシュだったものは静かにその形を変え、背の高い男の影と化した。手の中の鍵が、いつのまにか眼鏡に変わってしまっていることにロイが気づくのと時を同じくして、逆光を背負った影が、幽かに口元をほころばせる。
「目が悪いのだな。丁度いい、これをやろう」
 ああ、これは、先ほどよりも更に時を遡った、ロイがまだ幼い子供の頃の記憶。
「これは、私と君とを結びつける、言わば絆だ。肌身離さず、大切にしてくれたまえ……」
  
  
「……様、宮廷魔術師長様」
 ノックの音で、ロイは我に返った。控え目な装飾の施された扉から、彼を呼ぶ声がする。
「そろそろ、お時間です」
「解りました。すぐに参ります、とお伝えを」
 思いもかけず、少しだけまどろんでいたようだ。肘掛け椅子から立ち上がると、ロイは大きく伸びをした。窓から見える家々の屋根が、沈みゆく太陽に照らされて真っ赤に染まっている。
 ルドスの南隣の町、サルカナ。反乱団の襲撃を受けたアスラ兄帝一行は、この小さな田舎町で予定外の一宿を余儀なくされることとなった。
 兄帝陛下とロイが案内された、町で一番大きな宿屋の一等客室とやらは、想像した以上に簡素で狭隘な部屋であった。町の規模を考えれば充分妥当なものではあるが、陛下はどうお考えだろうか、と、ロイは身繕いしながら兄帝の部屋のあるほうへ心配そうな眼差しを向けた。とは言え、態勢を立て直すために一度ルドスにお戻りになられたら、との意見をはねのけたのは、他ならぬアスラ兄帝だったのだから、諦めて受け入れていただくしかない。
『襲撃者は、北に、おそらくルドスに逃れていった。私にもう一度茶番を繰り返せと言うのか』
 増援の先頭に立って現れたルドス領主は、兄帝のこの言葉に平身低頭し、手ずから南へ、ここサルカナへと一行を案内してくれたのだった。
 ――どうして、あんな子供の頃のことを夢見たのだろうか。
 ふと、支度の手を止めて、ロイは独りごちた。まどろむ直前まで思いを巡らせていたのは、かつての師についてだったはずなのに、と。
 ――絆、か……。
 ザラシュに研究室の合鍵を渡された時の、あの言葉がきっかけだったのだろう。記憶の底にわだかまる古い根張りの奥から、不意に掘り出された幼い頃の情景は、あちこちが酷く曖昧で、どこか他人事のような気がした。
 ――あれからどれぐらい経つのだろうか。
 静かに息を吐き出すと、ロイは窓の外を見やった。
 ロイはもう随分と「あの人」に会っていない。十歳の時に魔術学校の寄宿舎に入って以来、ロイがあの恩人と相見あいまみえたことは一度としてなかった。実に二十七年もの間、自分が「親」と一度も会っていなかったという事実に思い当たり、ロイは愕然と息を呑んだ。
  
 あの人は、ある日突然、ロイの前に姿を現した。
 帝都の外れ、いちの立つ広場。親無し子達の「仕事場」にふらりとやってきたその人は、薄汚い少年達の中から迷いなくロイを見つけ出した。
「君がロイだね」
「おっさん、誰だよ」
 逆光を受けた背の高い人影が、淡々と言葉を吐き出してゆく。
「私の名はタヴァーネス。君がロイだね」
「そんなヤツ、知らねーな」
 人型に闇を貼りつけたようなその存在は、ロイを不安にさせた。殊更に強気で返答したのは、得体の知れない恐怖感のせいだった。
 だが、影は同じ言葉を繰り返す。
「君が、ロイだね。二年前、ヴァネーン郊外で山賊に襲われて母親を亡くした、ロイ・クラインだね」
  
 君を引き取りたい。そんな嘘みたいな申し出にロイがのこのことついていったのは、ただひたすら、生きていくのが苦しかったからだった。申し訳程度の仕事と、盗みと、暴力と。当然のことだが、糧にありつける日のほうが少なかった。「お前のその髪、その容姿なら、上客がつくぞ」と言う元締めの勧めに従って、身体を売ろうかとすら考えていたところだった。
「君には、大きな器の人間になってほしい」
 タヴァーネス子爵は、ロイの両肩を掴むと、静かにそう言った。
「この屋敷に教師を招いて君に教育を施せば、君は無用な苦労をすることもないだろう。だが、私はそれを望んでいない」
 陰に彩られた口元が、容赦のない言葉を紡ぎ出していく。
「学校に行けば、君がつらい思いをするのは解りきったことだ。しかし、私はあえてそれを望む。強くなれ。どんなに大きなものでも呑み込めるほどに。それができないのなら……スラムへ帰りたまえ」
 どぶの底を這いずり回るような生活から逃れることができるのならば、どんな苦労だって我慢してみせる。ロイは胸いっぱいに息を吸い込むと、決意を強く噛み締めた。
「……できます。やってみせます」
 そう返答したロイの手を、子爵の冷たい手が包み込む。
「これは、私と君とを結びつける、言わば絆だ」
 握らされた銀縁眼鏡を、ロイはじっと見つめ続けた……。
  
  
  
 サルカナ警備隊本部の一室に、エセルの溜め息が静かに響き渡る。
 殺風景な室内には、彼の他に人の姿は無い。部屋の中央に置かれた簡素なテーブルの脇、固い木の椅子に腰をかけながら、エセルは目を閉じた。
 留置室でこそなかったが、自分の処遇がそれに準ずるものであるということを、彼は充分に承知していた。
 警備隊員三名と男爵の騎士一名、そして、セルヴァント男爵。合計五名がその命を散らした他、十二名が重傷を負った。助けに駆けつけた隊員のマリが四苦八苦しながら術をかけ、再び融解した泥の中からようやく救出されたエセルが耳にしたのは、その絶望的な報告であった。
 ――言い訳は通用しない。警備隊隊長として、責任をとらねばならぬ。
 普段足枷としか感じられない家名も、こういう時は少なからず役に立つ。最高爵位の家系に加えて、エセルの曾祖母は皇族出身だ。普通ならばエセルがお咎めを受けることはありえないはずだった。
 だが、今回は違う。襲撃されたのは、皇帝陛下だ。許されようはずがない。
 それに。
 襲われたのが皇帝陛下であるからこそ、他の誰でもない、エセルが厳しい処分を受けることになるだろう。
 そう、最高権力者の怒りを鎮めるためには、最上級の贖罪の山羊が必要なのだ。
  
  
 ノックの音がして、静かに部屋の扉が開いた。
 騎士団組の隊員二人と、ガーランが部屋に入ってきた。
「随分遅かったな。処刑方法は決まったのか?」
 口角を上げてうそぶくエセルから目を逸らしながら、ガーランは言葉を絞り出す。
「隊長。領主様が……皇帝陛下が、お呼びです」
 エセルは軽く目を閉じ、大きく息を吸った。それから、やにわに椅子から立ち上がる。
 すかさずその両脇に、二人の隊員がぴたりと寄り添った。
「もう少し離れてはくれないか。男の腰を抱く趣味は持ち合わせていないのでね」
 エセルのその声に、二人は返事に窮してお互いに顔を見合わせる。ガーランが大きく溜め息をつくと、腰に両手を当てて顔を上げた。
「解りましたよ。今度は綺麗どころを用意しておきましょう」
「それはありがたいな」
 不敵な表情を浮かべる上司と、挑戦的な口調の部下。そこにあるのは、いつもどおりの会話だった。これまで、何度も繰り返されてきたように。
 エセルは、満足そうにガーランから視線を外して、扉へと歩き出す。両側を固めようとしていた二人が、躊躇いながらもそのあとを追おうとした。
「私は逃げぬ。邪魔だ。退け」
 エセルの抜き身のような気迫に、二人の足が止まる。
「ガーラン、案内しろ」
「了解」
 それでこそ、俺が見込んだ隊長だ。暗い廊下を出口へと向かいながら、ガーランは、胸の奥が熱くなるのを禁じえなかった。
  
  
  
 サルカナの町の目抜き通り、警備隊本部の隣に、公会堂が建っている。
 小ぢんまりとした石造りの建物の中央を占めている大広間は、ルドスの城の謁見の間と同じぐらいの広さだった。夕闇の迫りつつあるその広間の一番奥には、急ごしらえの玉座がしつらえられていた。どこから調達してきたのか、入り口から一直線に赤い絨毯が玉座まで敷かれている。
 広間の中央部には、独り佇むルドス領主の姿があった。入り口近くには、ルドス警備隊を始めとする関係者が整然と列を成して立ち並んでいる。血のついた服や白い包帯が、今朝の凶事を雄弁に物語っていた。
 扉が開く。
 人々の視線の中、ガーランに先導されたエセルが姿を現した。
 エセルが何の拘束も受けていないのを見て、ルドス領主の眉がひそめられる。
 ガーランが同僚達の列へ合流し、エセルは、独り、前へと歩き続けた。
 胸を張って、前方を見据えて。
 やがて、領主の傍らで彼は立ち止まった。赤絨毯の脇へ寄り、こうべを垂れて跪く。
 一同がその様子を固唾を呑んで見守っていたその時、広間に朗々と先触れの声が響き渡った。
「アスラ皇帝陛下のお成りです!」
  
  
 麗しきその姿は、少しの乱れもない。ほんの数刻前に狼藉者に襲撃されたという事実を微塵も窺わせることなく、アスラは悠然と絨毯を踏みしめていく。
 その数歩後ろには、ロイがつき従っていた。二人は、跪く人々の間を抜け、遂に玉座に到達した。
 二階の回廊から差し込む残照が、アスラのマントを赤く照らす。その裾が大きくひるがえり、マグダレン帝国皇帝は静かに振り返った。鷹揚な様子で辺りを見まわし、そのままゆったりと椅子に身を沈ませる。
 玉座の傍らに控え最敬礼をしていたロイが、ゆっくりと身を起こし正面を向いた。手に握られた官杖は、宮廷魔術師長の証である。杖の先が軽く床に触れ、こつり、と石畳が音を立てた。
 十年前、朝議のたびに宮廷で見られた光景が、そこにあった。
  
「アスラ皇帝陛下に申し上げます」
 ルドス領主の声は震えていた。ただひたすら下を向いて発されたその言葉は、冷たい床に反響し、微かな余韻とともに広間全体に響き渡る。
「このたびの出来事、心からお悔やみ申し上げます。ルドスの警備隊がついていながら、このような悲劇が起こってしまったということ、真に遺憾の極地でございます」
 そこで言葉を切った領主は、ぬかずきながら、ちらり、とエセルのほうを一瞥した。
 どうやら、花を持たせてくれるらしい。エセルは密かに口角を上げた。
 願ってもない。無様に糾弾されるのは、真っ平御免だ。エセルは大きく深呼吸をすると、跪いた姿勢のまま顔を上げた。濃紺の瞳を、真っ直ぐアスラへと向ける。
「皆様をお守りできなかったのは、警備隊の、隊長であるわたくしの、責任です。いかような処分も受ける覚悟でおります。どうか、陛下のお心のままにお言いつけくださいますよう、お願い申し上げます」
 さきの東部平定の際、退却の合図に従わずに自らの騎士数十名を「神の雷」の巻き添えにさせた領主がいたと聞く。
 奇跡的に生き延びたその貴族に、アスラはただ一言を下賜したと謂われている。
 曰く、「死をもって、あがなえ」と。
 エセルは、その言葉が発せられるであろう瞬間を待ち続けた。無礼を承知で最後の意地を通し、彼はアスラを注視し続けた。
  
 永遠とも思える重苦しい時間が過ぎる。
 唐突に、ふ、とアスラの口元が緩んだ。
「どのような命にも従うと言うのか」
「はい。お心のままに」
「解った。ならば、言い渡そう」
 アスラは心持ち姿勢を正すと、高らかに言い放った。
「エセル・サベイジ、ルドス警備隊隊長、この者、部下をまとめて早急にルドスへ帰投し、職務に戻ること。一刻も早く、忌まわしき反逆者どもを成敗してくれたまえ」
 ざわめきが静かに湧き起こり、やがて広間は騒然となった。
「そ、それだけで宜しいのですか!?」
 ルドス領主が驚愕の表情で叫び声を上げた。
 再び玉座に背もたれてから、アスラは眉を上げる。
「良い。……何か不満でも?」
「め、め、滅相もございません!」
 慌ててぬかずく領主の様子を冷ややかに眺めながら、アスラは静かに語り始めた。
「誰に責任があるのかと問うならば、まずこの私だろうな。少々見通しが甘かったようだ。この私と宮廷魔術師長とが揃っていながらの、この体たらく。どうだ、ロイ」
「……は。面目ありません」
「男爵の死は、自身の不用意な行動によってもたらされたものだ。騎士達は、おのれの職務を全うしたまで。私にはそれ以上、責任の所在を見つけることができないのだが……」
 そう言って、アスラは肘かけに右肘をつく。
「……そうだな。護衛の人選に問題はあったようだが……それは隊長の責任ではあるまい?」
 領主の顔色が、みるみる青くなった。アスラは軽く鼻で笑い、言葉を続ける。
「あの惨状でこれだけの犠牲者で済んだことに、正直驚いているのだ。ならば、最初から癒やし手を三人ほど隊列に含ませておれば、更に助かる命があったやもしれぬ」
「陛下」
 ロイが静かに訂正を入れる。「ルドス警備隊に癒やし手は一人しかおりません」
「何?」
 アスラが大きく身を乗り出した。
「すると、あれだけの怪我人を、たった一人が処置したと言うのか」
 それまで淡々と語り続けていたアスラの瞳に、一気に炎が入った。
  
 一瞬、ロイの表情に怪訝な色が浮かぶ。
 ――まただ。
 これまで何が起ころうとも取り乱すことのなかった兄帝が見せる、急くようなこの態度。先日の、十年ぶりの謁見の時も、彼は卒然玉座から身を乗り出して目を見開いていた。
 ――あれは、何を話題にしている時だったか……。
 そこまで思いを巡らせたものの、ロイはすぐに我に返り、エセルに目で合図を送る。その意図を読み取ったエセルは小さく頷き、跪いたまま軽く後ろを振り返ってその名を呼んだ。
「インシャ・アラハン」
「……はい」
 人々の最後列にいたインシャが立ち上がる。
「そなたか。近う寄れ」
 皇帝陛下自らにそう声をかけられて、インシャは小さく息を呑んだ。震える足で広間の中央まで進むと、エセルのすぐ後ろにかしこまって跪く。
「……あれらの怪我人を全て君が手当てしたのかね?」
「は、はい」
「ふむ……、君、位は幾らだ?」
「……第五位です」
「ふむ……そうか」
 眉間に皺を寄せて、アスラは再び玉座の背に身体をもたせかけた。思索に耽るかのように、その瞳はただ虚空を見つめている。
「……なるほど。高さばかりではなく、奥行きも考えるべきか……」
 ロイの耳だけが、皇帝陛下のその呟きを捉えていた。