あわいを往く者

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黒の黄昏 第十二話 逆巻く神颪

  
  
  
    四  逢着
  
  
 広場を埋め尽くす人々が、息を呑んで事態の成り行きを見守っている。
 町長の息子であり青年団長でもあるアキは、逞しい鷲鼻の根元に深い皺を刻みながら、招かれざる客に向かって再度繰り返した。
「何が目的だ? 何をこそこそと嗅ぎ回っている?」
 両手を背中にねじり上げられた体勢で、ルーはサンを見上げていた。アキの質問には答えずに、彼は苦渋の声を絞り出す。
「…………まさか、貴方も彼らの一味だったとは……」
 サンはその呟きに無言で応える。冷たい瞳でルーを見下ろしながら、微かに手首を返した。
 剣の切っ先が、ルーの目前で煌めく。
 それに怖じることなく、ルーは頬を紅潮させて、吼えた。
「貴方ほどの剣の腕前なら、仕官の道も拓けように、何故に山賊などにくみするのか!」
「山賊?」
 怪訝そうにサンの眉がひそめられる。しかし、その声はアキの怒声にすぐにかき消されてしまった。
「連れて行け! 誰の差し金か聞き出すのだ!」
 ルーを押さえつけていた若者二人が、問答無用に彼を立ち上がらせた。人垣が躊躇いがちに崩れて、ひらけた通りへと彼は引きずられていく。
「俺も手伝おうか?」
 三人のあとを追うアキに、ウルスが声を投げた。
「いや、良い。これは俺達の問題だ。それに……」冷ややかな目が鉄錆色の髪をねめつける。「俺は平和主義者なんだ。お前の趣味には付き合いきれないからな」
  
 アキが人垣の向こうに姿を消すのを待って、集まっていた人々は散り散りにその場から立ち去り始めた。立ち去るアキを目を細めて見送っていたウルスも、軽く鼻を鳴らしてきびすを返す。
「どんな趣味なんだ?」
 その背中に向かってレイが眉根を寄せた。わざわざそこを聞き咎めなくても、とシキが苦笑する。
「……山賊って、何だよ」
 剣を鞘に収めながら、サンは不愉快そうにそう呟いた。
  
  
  
「あの人、悪い人じゃないと思うんだけどな」
 暖炉の前の長椅子に座り、手持ち無沙汰に火かき棒で薪をつつきながら、シキがぼそりと呟いた。
 シキとレイも夕食を無事に済ませ、一行は宛がわれた山小屋に納まっていた。
 山颪が風切り音も高らかに小屋を揺らす。シキはなんとなく肌寒さを感じて、上着の襟をかきあわせた。その様子を見ていたレイが、思わず窓を振り返る。
「凄い風だな」
「神颪、と言うのだそうだ」
 火から離れた窓際の椅子に座っているウルスが言う。彼は右膝を立てた姿勢のまま、夜空を仰いだ。「夕刻から明け方にかけて、山の神とやらが明日を運んでくるらしい」
 シキは、昔、寝る前に母が良く言っていた言葉を思い出していた。素朴な旋律を口ずさみ、布団越しにシキの肩をぽんぽんと叩きながら……。
「山の神様、風の神様、明日も良い日でありますように……」
 耳元でレイが、その台詞を呟いた。シキは、吃驚して彼のほうを振り向いた。
「って、おばさんが良く言ってたんだぜ。憶えてるか?」
 レイの両親は仕事で家を空けがちだったため、彼が隣家であるシキの家で夜を過ごすことは珍しくなかった。ともに夕げを囲み、狭い寝台に一緒に潜り込み、時には夜更かししてシキの母親に怒られていた記憶……。
「うん、憶えてる。あの時のことを思い出した時に、昔のことも、全部」
「そっか。良かったな」
 ぱち、と暖炉の火が爆ぜた。
  
  
「シキ」
 穏やかな静寂を、サンの声が破る。暖炉の傍の壁にもたれて立つサンが、いつになく静かな瞳でシキのほうに向き直った。
「なんで、あいつが悪人じゃないって思うのさ?」
「え? ああ、ルーのこと?」
「そ」
 少しだけ躊躇いながら、シキは話し始めた。考え事をする時のように、軽く握った右手を顎の辺りに当てて。
「うーん、改めて訊かれると、困ってしまうんだけど……、あの時、ルーが木の陰に隠れていた時に、」
「え?」
 びっくりまなこでサンが身を乗り出してきた。「木の陰? 隠れて?」
「追剥ぎか何かが待ち伏せでもしているのか、って一瞬怖かったんだけど」
「隠れてた? あいつが?」
 驚愕の表情でサンが硬直する。シキはきょとんとした顔でサンを見返した。
「おい、レイ、お前気がついてたか?」
「いんや」
 レイがあっさりと首を振った。顔がにやにやと笑っているのは、サンの驚きの原因に思い当たったからだろう。
「サン、シキを侮んなよ。こいつ、腕力と体力ないから剣はふるえないけどさ、軽い棍を持たせたら俺よか強ぇぜ」
「ええええっ?」
「自慢じゃないが、まともに試合して勝ったことは一度もねえ」
「……って、おい、自分で言って自分で落ち込むなよな」
 大袈裟にがっくりと肩を落として溜め息をつくレイに、すかさず突っ込みを入れ、そうしてサンは仕切りなおしとばかりに軽く咳払いをした。
「……そうか。どこから現れたのかと不思議に思ってたんだ。道の脇に隠れてやがったのか」
「うん。その時に……なんて言ったらいいのかなあ、木が……嫌がってなかったんだ」
「………………は、あ?」
 サンが眉間に皺を寄せたまま、口をあんぐりと開けた。それ説明になってねえって、と、レイが苦笑する。
「なあ、シキ、お前肝心なことを忘れてるぞ。あのルーとかいう奴がもしも良い奴なら、そのほうが、俺達は困るんだぜ?」
「へ? レイ、それどういう意味……? って、っあっ!」
 やっと「肝心なこと」に気がついたシキが、素っ頓狂な声を上げた。
「そ。俺達はお尋ね者。それを狙ってくるのなら、そいつは『良い奴』ってことだろ?」
「悪人が悪人を狙う、ということも充分ありうるが、な」
 低い声とともに、急に風が吹き込んでくる。
 山小屋の扉が開いて、アキが入ってきた。
  
  
「どうだ、何か判ったか?」
「いいや。黙して語らず、だ」
 上背のあるウルスの横に立つと、アキは随分と小柄に見える。だが、がっちりと鍛え上げられたその体躯と、日に焼けた厳しい顔つきが、充分過ぎるほどの威厳を彼に与えていた。
「やり方が手ぬるいんじゃないのか?」
 揶揄するような口調のウルスには答えずに、アキはシキ達のほうに向き直った。
「あいつとどんな話をしたのか、もう一度教えてくれないか」
「そんなことを訊いてどうするんだ?」
 しつこく食い下がるウルスを一瞥して、不承不承アキが答えた。
「どうにも、違和感があるのだ。州都なり帝都からの密偵というには、やや雰囲気が違う」
「雰囲気?」
 あからさまに嘲るような調子で、ウルスが問い返す。アキは苛立たしげに鼻を鳴らしてから、もう一度シキのほうを振り返った。
「だから、あまり強引な手段は使いたくない。何か情報があれば良いのだが……」
 アキがそこまで語ったところで、表から誰かが枯れ葉を蹴散らしながら近づいてくる音が聞こえてきた。
 怪訝そうに背後を見やったアキの目の前で、ばたん、と勢い良く扉が開き、町の若者が一人、息せき切って駆け込んできた。
「どうした」
「ア、アキさん、お、奥様が、お帰りに……」
 その刹那、アキの背中が強張った。数音上ずった声が、躊躇いがちに一言を返答する。
「そうか」
「そ、それで、大層、ご立腹で……」
「な、何……」
 今度こそ、アキの全身が完全に固まった。彼がかすれた声を上げるのとほぼ同時に、再び小屋の外で枯れ葉を踏みしめる音が聞こえてきた。そして、「待ってください」「奥様」という複数の声。
「アキ、ここにいるの?」
 そして、扉が開いた。
  
 扉の枠で四角く切り取られた暗闇を背景に、すらりとした女が一人立っていた。ぴっちりと結い上げられた栗色の髪と、すっと切れ上がった目が、並々ならぬ威圧感を放っている。
「山小屋の鍵を二つとも持ち出してどういうつもり?」
「す、すみません。母上が出発してから、友人の滞在の予定が入ったものですから」
 広かったアキの背中が、一瞬にして縮込まってしまっている。先ほど先触れに走り込んできた若者も、この婦人を追いかけてきた者達も、全員が小さく萎縮して黙りこくっていた。この光景には、さしものウルスも度肝を抜かれたようで、無言でそっとシキ達のほうへとあとずさってくる。
 一瞬にして、その場の主導権はこのアキの御母堂に掌握されてしまっていた。
「お父様の許可は?」
「とってあります」
 婦人は、厳しい視線を部屋中に巡らせた。ザラシュ、ウルス、サン、レイ、シキ、と順に視線を合わせていき、最後に大きく嘆息する。
「…………友人、ね。まあいいわ。それよりも、どちらか一つ空けられないかしら。うちで、女の子を一人面倒をみることになったから」
 突然のこの知らせには、アキも即座に反応した。
「女の子? 面倒? どういうことですか!」
「放っておけなかったのよ。だって……」
 その時、漆黒の闇の向こうから数人の叫び声が微かに響いてきた。反射的に、アキとウルス、サンの三人が、外へと飛び出していく。少し遅れて、残る一同も押っ取り刀でそのあとに続いた。
  
  
 明るい室内に慣れていた目には、夜の森は虚無でしかなかった。背後の山小屋の明かりがなければ、ほんの僅かな視界すら確保できなかったであろう。そんな完全なる暗闇の奥から、数人の怒号が微かに漏れてくる。
 一呼吸のちに、人影が一つ、暗がりから彼らの前に飛び出して来た。
「アキさん! 奴が逃げた!」
「随分活発なお友達のようね」
 母の強烈な皮肉にアキは苦い一瞥で返し、知らせをもたらした仲間に駆け寄った。
「どちらへ逃げた? 山は?」
「フィンがいたから、山へは入れなかったと思います。俺が見た時は、町のほうへ……」
 そこまで聞いて、アキは静かに身を起こした。戸口から漏れる灯りに、微かに上がる口角が見てとれる。
「ウルス、手伝ってくれ」
「何をすればいい?」
「町へ、降りましょうか?」
 今にも駆け出さんばかりに、サンが問いかける。アキは軽く首を振った。
「その必要はない。あの崖を暗闇の中降りる馬鹿はいないだろう。そして、道にはカポが詰めているはずだ」
 アキの鋭い瞳が、闇に沈む木立に注がれる。
「ならば、道は一つ。山へ逃れるために、奴はここに現れる!」
 その刹那、魔術の灯りが辺りに閃いた。
  
  
 ――誰かが、そこに…………潜んでいる。
 何者かの気配を感じ取ったシキは、咄嗟に呪文を詠唱していた。
 普段よりも多くの魔力を継ぎ込んで紡ぎ出した「灯明」が、数丈先の木立の中に投げられる。急に溢れた眩い光に、その場にいた誰もが一瞬視界を奪われた。
 それは、逃亡者も同じだった。
 魔術の光のすぐ真下、右腕で目を覆って動きを止めた人影。
 満身創痍のルーがそこに立ち尽くしていた。
  
  
 皆が我に返るよりも早く、サンは走り出していた。倒木をひらりと飛び越え、大股で一気に距離を詰める。半拍遅れて態勢を立て直したルーの退路を断ち、剣を彼の喉元に突きつけた。
 絶望の色がルーの瞳に入る。
「見事だな」
「羨ましいか」
 ウルスが得意そうにアキに向かって口角を上げる。その場に居合わせた誰もが、サンの見事な身のこなしに感嘆の声を上げていた。
「さて、と……」
 アキが木立の中へ悠然と歩みを進める。「随分手間取らせて……」
「あのー」
 限りなく場にそぐわない声が夜の空気を震わせた。まるで、昼間の往来で誰かに道を尋ねるかのような、暢気な若い女の声だ。
 アキが後ろを振り返った。苛立たしさを露骨に声に滲ませて、大声で誰何すいかする。
「誰だ!」
「ああ、うっかりしてたわ。御免なさいね、放ったらかしにしてしまって」
 これまた血生臭さとはほど遠い涼しげな声で、アキの母が答えた。
 山小屋の裏から、小柄な人影がおずおずと進み出てきた。そして、「灯明」の灯りの中に足を踏み入れる。
「え?」
「おい?」
 シキが、レイが驚きの表情を作った。そのまま二人は絶句する。
「さっき言ったでしょう? この子がね、当分うちでお世話することになった……」
  
 サンの手から、剣が滑り落ちた。耳障りな金属音が、瞬く間に風の音にかき消される。
 一年ぶりに見る顔。
 もう会えないと、もう会わないと心に決めていた、今は遠い故郷に居るはずの……。
 ――何故。
 まさか。
 どうして……?
 サンが喘ぐように息を吸った。何度も夢にまで見た、その名を呼ぶために……。
  
「リーナさん! 無事だったんですね!」
 サンの声が音を成すよりも早く、暗灰色の外套がひるがえった。
 先刻までの打ちひしがれた姿は微塵もなく、ルーは感極まった様子で駆け寄ると、そのまま彼女を強く抱きしめる。
「良かった……本当に良かった…………」
 呆然と立ち尽くす一同を尻目に、彼女は二三度目をしばたたかせると、困ったように口を開いた。
「あのー、リーナって私のこと?」
 彼女の背後で、ふぅ、と婦人が溜め息をついた。
「彼女ね、記憶がないのよ」
 ルーが愕然としながら彼女の身体を離す。シキもレイも、そしてサンも、真っ青な顔で一様に息を呑んだ。
「ロキザンの川原でね、ずぶ濡れになって倒れていたのよ。だから、アキ、あっちの山小屋を明け渡して頂戴」