第十三話 置き去られた想い
一 遭遇
「何するんですかっ!」
大の男の怒号すら簡単にかき消されてしまうような喧騒の中、その女の声は広い店内隅々にまでしっかりと響き渡った。
一瞬、その場は静まり返るが、再び騒音がどこからともなく押し寄せてくる。だが、そのざわめきはどこか不自然で、微かに気まずい気配がした。
「放してって言ってるでしょっ!」
更に加熱した女の声。相手の男の声は聞こえないが、その下品な顔に貼りついた笑みから、言葉の内容は容易に想像できるというものだ。サンは、周りに聞こえないように密かに溜め息をついた。
帝都の宮城から目抜き通りを二角くだった所にある大衆食堂。「龍の巣」というその食堂では、夕刻からは酒類も供される。そこそこ美味くて量の多い料理と、下品過ぎない調度と、そしてその地の利から、近衛兵達が好んで集う店だ。
陶器のカップを口元に運んで、サンは麦酒を喉に流し込んだ。先刻まで充二分に舌を楽しませてくれていたその液体は、今は単なる苦さしか感じさせてくれない。新顔の給仕に絡んでいるのは、同僚のディイだ。一等いけ好かない、貴族の次男坊。
宮城の警備を担う近衛兵は、その四分の三がいわゆる上流階級の子息で、残りがサンのような平民だ。各地の剣術試合の優勝者から選ばれて連れて来られた、何の後ろ盾もない者達。本来ならば自分達と普通に口をきくことも叶わないはずの者どもと、同等に扱われてしまうということに、「お坊ちゃま」方は酷くご不満のようだった。
中でもディイはその筆頭で、事あるごとに彼はサン達に当たり散らしていた。尤 も、暴力に訴えても返り討ちに遭うだけだということは、その足りない頭でも理解できているらしく、彼の攻撃は専ら口のみであったが。
『お前達のような下賎な者と違って、俺達は何度も皇帝陛下に直接お言葉をいただいているんだぜ』
常に奴は、こちらが先に手を上げるのを待っているのだ。いくら「同僚」だといっても、そんなことをしたら、間違いなく軍配はディイに上がるだろう。
サンは、もう一度酒をあおった。
――そう、これは正当な自己防衛だ。たてついたら酷い目に合うのが解っていて、手を出すほど俺は愚かじゃない。ただでさえ半年前の御前試合以来、風あたりが強くなっているのだから。
「やめてって言ってるでしょ! その耳は飾りなわけ!?」
喧騒を突き抜けて、再び給仕の声が響いた。
――線が細い割に、随分威勢の良い娘だ。
あの野郎のことだから、開口一番、肩書きや身分から自慢したはず。それでもこんな見事な啖呵を切ることができるのだから、相当に肝っ玉が据わっているのだろう。
サンの脳裏で、茶色の三つ編みが揺れる。
悪友の彼女――奴は「ただの幼馴染みだ」と言い張ってはいたが――の、親友。口うるさくて、お節介で、そして、いつも何にでも真っ直ぐなリーナ。豪快に笑い、強面の学友とも対等に渡り合っていた彼女が、本当はとても寂しがりやだということをサンは知っている。
リーナがここにいたら、もっと大騒ぎになっているだろうな。サンは少し複雑な笑みを浮かべた。悩むよりもまず行動、と嘯 く彼女のことだ。真っ先に現場に駆け寄って、ディイに喝を入れているに違いない。
半年前、ありったけの休暇を使って峰東州都のルドスで会った時も、彼女はいつものように大きな丸い目をキラキラと輝かせて、久しぶりの逢瀬を楽しんでくれていた。一年にたった一度の逢瀬だが、そのことで彼女がサンを責めることはない。「できないことを嘆くより、できることを喜ぼう」というのが、彼女の持論だったからだ。
何年経っても、リーナは全然変わらない。強がることはあっても自らを偽ることはなく、だから、サンは彼女の笑顔を見ると本当に心から安心できるのだ。
楽しかったルドスでの逢瀬を思い出し、サンの口から溜め息が漏れた。
ほんの半年前。なのに、もう何年も経ってしまったような気がする。
あれから増えてしまった、リーナに対しての秘密。
仕事上の悩みは、心配させるのが嫌で端 っから彼女には言っていない。それよりも問題なのは、人間関係の重圧に耐えかねて、月に二度三度と花街に足を運ぶようになってしまったということだ。別段、性欲が抑えられないというわけではない。ただ、無性に人肌に縋りたくなるのだ。あまりにも脆弱な自分に、もう、反吐すら出ない。
そして、今。力無い女性の受難を、保身のためにこうやって見て見ぬふりをしている自分。とても彼女には言えない、知られたくない。
「きゃあっ」
ディイが女給仕を掴まえて、自分の膝に座らせようとしているのが見えた。
同じテーブルについているのは彼の仲間達だ。当然全員がにやにや笑いながら、ディイの手助けをしている。
店はほぼ満員で、十あるテーブルにもカウンターにも殆 ど空きはない。なのに、その不幸な娘を助けられる人間は一人もいない……。
サンは拳を握り締めた。
――あいつに先に手を出させるように、仕向けることはできるはずだ。そうすれば、最悪の事態は避けられる。
「やめとけよ」
隣に座る同僚が、小さく囁いた。「お前は特に目の仇にされているだろ。今度こそ本当に潰されるぞ」
静かに頷きあう仲間達に、サンは軽く笑みを返した。テーブルを囲む五人は、やれやれと溜め息をつくと一様に肩をすくめた。
「ヤバくなったら、加勢はしてやるよ」
「ありがたい」
躊躇いを振りきるように、サンは椅子を蹴って立ち上がった。
と、同時に、微かに木が折れる音がして、次いで何かが床に落ちる音が響いた。
「うわああぁぁっ」
どすん、と店中を震わせた重低音に驚いて次々と客が立ち上がる。何が起こったのか分からないまま立ち尽くすサンの長身も、一瞬にして人ごみに埋没した。
店主や、残りの給仕が問題のテーブルに駆け寄っていく。サンは少し背伸びをして、慌てて視界を確保した。
足の折れた椅子と、その上で呻く狼藉貴族。その手を振りほどいて、件 の女給仕が慌てて身を起こすところだった。彼女は、そのままあとを見ることもなく厨房へと駆け込んでいく。
ディイは、アルコールで染まった顔を更に真っ赤にして、言葉にならない罵声を上げていた。噛みつかんばかりに店の親父に何事かをがなり立てていたが、やがて我に返ったのだろう、今度はその矛先を周囲の野次馬に向けた。
「何を見ているんだ! 無礼者どもが! 見るな! あっちへ行け!」
静かに辺りに満ちる失笑と、安堵の嘆息。やがて人々は何事も無かったかのように、各々テーブルに戻っていった。
それは気配だったのだろうか。
何か違和感を覚えて振り返ったサンは、店の一番奥のテーブルに座る男と目が合った。
頭巾をかぶったその男は、そ知らぬふうで視線をつい、と外す。その隣ではフードを目深にかぶった小柄な男が、静かに両手を懐に仕舞うところだった。
ディイとその取り巻きが退出してからの「龍の巣」はとても快適だった。いつになく上機嫌で杯を重ねていたサンは、一人、二人、と仲間が営舎へと戻っていくのを見送っているうちに、結局閉店までその席を温めてしまっていた。
「ごちそうさまー」
店を出て、夜空を振り仰ぐ。
結果的には無駄に終わった勇気だったが、自分がそれを振り絞ることができたということに彼は至極満足していた。足取りも軽く、通い慣れた道を帰途につく。
ふと、ただならぬ雰囲気を感じ取ってサンは振り返った。
細い路地の陰に、三人。
深夜の街路には他に動くものは無い。本能的に危険を感じて、彼は咄嗟に物陰に身を隠した。
酔いが急速に醒めていく。
彼らの狙いがサンではない、ということが判るまで、さほど時間はかからなかった。
ぴっちりと鎧戸が閉められた建物は、先ほどまでサンが居座っていた食堂だ。
その扉が静かに開いて、光の筋が生まれる。次第に太くなる光の中に小柄な影が浮かび上がった。
次の刹那、三つの人影が路地から飛び出した。
それは一瞬の出来事だった。ディイがご執心だった女給仕は、あ、と言う間もなく路地から現れた馬車へと押し込まれる。そして、静かに馬車は走り出した。
「お待ちどうさまー。あれ? スー? どこ?」
再び店の扉が開き、彼女の同僚の暢気な声が辺りに響く。サンは小さく舌打ちすると、馬車を追って駆け出した。
必要以上に音を立てないように走らせているからだろう、馬車の速度はサンの早足で充分尾行できる程度だ。時々小走りになりながら、サンは物陰を選んであとをつけていった。
善人ぶるのはやめとけよ、と心の奥が囁いている。だが、先刻までの高揚感を手放したくない自分がいて、サンは半ば機械的に馬車の行き道を辿っていた。
尾行を開始してしばらくして、ようやく馬車は停止した。一角 手前でサンは慌てて物陰に身を潜める。控え目な看板がかかる建物は、社交クラブのようだった。あの下衆野郎の根城なのだろう。
人影が団子状になって、馬車からまろび出てくる。「やめ……」と女の声が上がったかと思うと、すぐにそれはくぐもった響きに変わる。
「うわ、いてててっ」
ディイの声が聞こえて来て、サンはついにやりと笑ってしまった。派手に暴れだした女の様子に、このまま事が終わることを期待して、サンはそっと建物の陰に身を引く。
だが、それは虚しい願望に過ぎなかった。ディイの次の一言が、彼女の運命を奈落へと突き落とす。
「くそっ、お前ら、中から何人か呼んで来い!」
最後の最後で、サンはまだ躊躇っていた。
知らない女のことなんか放っておけよ、との囁き声が大きくなる。
その時、サンの背後を風が駆け抜けていった。
それは、先刻「龍の巣」で見かけたあの頭巾の男だった。彼は、真っ直ぐに狼藉者どものところまで走っていくと、微塵の躊躇いも見せずに騒動の真っ只中に乱入した。
何か低い声が微かにサンの耳に届いたが、その内容までは聞き取れない。
「何を偉そうに!」
「俺達を誰だと思ってるんだ!」
気の早い一人が男に飛びかかった。危ない、とサンが思った次の瞬間、飛びかかった奴は男に足をかけられて派手に転倒した。
もう、彼らが何を叫んでいるのか判別するのは不可能だった。プライドを傷つけられた男達の怒号は、恥も外聞もなく静かな街路にわんわんとこだまする。その隙を見て女が逃げ出したが、もはや頓着する者は一人もいない。
そして店の扉が開いた。三人の人影が新たに参戦する。サンは意を決すると、傍らの建物の脇に積まれていた薪の束を手に取った。街路の真ん中に飛び出して、男達に向かって薪を片っ端から投げつける。
「こっちだ! 早く!」
サンの言葉の意味を真っ先に理解して、再び風のように男が戦線を離脱してくる。
やや遅れてディイ達が追跡を開始した。サンがその足元に薪を投げつければ、数人が石畳の上に転がる。這いつくばる人影の中にディイの姿を認めて、密かにサンは溜飲を下げた。つい緩んでしまう口元を無理矢理引き締めながら、サンは男を援護し続ける。
連中が乱れた足並みを整えようとするその隙に、二人はともに細い路地へと姿を消した。
曲がりくねった路地を二人は無言で辿っていた。
何度か角を曲がっては表通りに出、そして再び別の路地に入る。ディイたちの罵声が、遠く、近く、執拗に夜の街に響き渡っていた。
「かなりシツコイな」
初めて聞く男の声には、どこかの訛りが微かに窺えた。「いつも、ああなのか?」
「ま、そんな感じさ」
なおざりに返事しながら、サンは前方の路地に注意を集中していた。ややあって弾かれたように後方を振り返り、また慌てて前方に目をやる。
「…………しまった……」
「挟み撃ちか」
丁度サン達のいる辺りで路地が鉤の手状に曲がっているため、敵の姿はまだ視界には入って来ていない。だが、間違いなく奴らの気配が、あちらと、こちらから近づいてくる。
サンは視線をぐるりと巡らせた。
家々の窓や庇を足がかりに上に逃げるのは不可能ではないが、捕捉される可能性は非常に高い。そうなったら今度こそ間違いなく逃げ場が無くなってしまうだろう。
――上が駄目なら、下だ。
丁度、傍らの家には地下があった。石造りの細い階段が、建物に沿って玄関の段の下に潜り込むようにして掘られている。
二人はその階段を静かにくだった。
階段の下から上を見上げると、細長い空間の真ん中に街路から玄関への通り道が橋のように渡されているのが見えた。最下段、地下の入り口の扉の前に、サンと男は身を潜める。
「報復が怖くて、手を出せなかった。ありがとう」
小声とともにサンが差し出した右手を、男は力強く握り締めた。
サンのほうが少しだけ背が高かったが、体躯の逞しさではその男のほうが勝っている。先刻のディイの及び腰を、サンは妙に納得した。
「同僚じゃないのか? 同じ近衛兵だと思っていたが」
「……俺には何の後ろ盾もないから」
サンが肩をすくめてそう呟いたその時、頭の上で扉が開く音がした。二人はぎょっとして暗闇の中に立ち尽くす。
「ちょっと、何だい、さっきから騒がしいじゃないのさ」
女の声は、街路に投げられたようだった。息を詰めて事態を見守る二人の耳に、粘りのある声が通りから降ってくる。
「いや何、ちょっと無礼者を探しているところなんだが……」
――ディイだ。
ひょい、と頭と思しき丸い影が通りの縁から覗いた。路上から覗く限りは、地下は暗くてこちらの存在を気取られることはないだろう。だが……、
「ちょっとこの下を見せてもらうぜ」
サンは、血の気が一気に引いたような気がした。
「よしてよ。紳士が淑女の家に押し入る時間じゃないだろ」
「淑女の家だぁ? 『ここ』がかぁ?」
下卑た笑いが辺りに響く。
――どうしようか。ここは完全に袋小路だ。先手必勝でこちらから……。
「勝手に覗いてきたらいいさ。でも、中には入らないでよ!」
次の瞬間、サンの背後の扉が音もなく開いた。室内から伸びてきた手が問答無用で二人の手首を掴んで、中に引っ張り込む。
そして、扉は再び静かに閉ざされた。閂がかけられる音のすぐあとに、扉越しに荒っぽい足音が響いてきた。
「ふん、ここじゃなかったか」
ディイの気配はすぐに階上へと消えていった。
漆黒の闇の中、掴まれた手首は既に解放されている。サンは、まるで五感を失ったかのような感覚に襲われていた。とにかく自分が今置かれている状況を判断しようと、息を詰めて辺りの気配を探る。
すぐ右手に、頭巾の男の息遣いを感じ取った。それから、やや前方に衣擦れの音。そして、白粉の微かな香り。
「やだー、そんなに警戒しないでよー」
「私達、貴方達を助けてあげたのよ?」
鈴を転がしたような可憐な笑い声に、サンと男は驚きのあまり硬直した。それとほぼ同時に、柔らかい灯りが前方に灯る。
若い女が二人、覆いを外したランプを手に、悪戯っ子のような表情を浮かべて彼らの目の前に立っていた。
そこは、物置のようだった。樽や木箱が幾つも隅に積み上げられている。背後には、今しがた二人が引き込まれた扉。そして前方の壁には、上へ向かう階段。
「無事、遣り過ごせたみたいだねえ」
その階段の終点、左側の壁の扉が開いて、中年の女が姿を現した。声から察するに、先ほど、玄関前でディイと話していたのはこの人物のようだった。段を一つ降りるごとに、頭の後ろにまとめられた赤みがかった金髪が優雅に揺れる。
「さっきから家の周りを、バタバタガヤガヤうるさいのなんのって。こちとら、貴重な休日の夜だってのに。これでちょっとは静かになるでしょ」
そう言って、女は階下に降り立った。若い女二人が、その傍に駆け寄る。
「皆で何の騒ぎだろうって言ってたら、この子達が地下室の前に人が隠れているって言うじゃないか。隠れているのがあんたで、追いかけているのがあいつだって解りゃ、どちらの味方につくかなんて決まりきっているさね」
サンは、目をしばたたかせながら、男のほうを振り返った。
「知り合い?」
「いいや」
困惑の表情を浮かべる男二人を前に、女達は一斉にふき出すと、からからと笑い始めた。
「ほらー、やっぱり気がついてないー」
「えー、なんだー、私達を頼ってたんじゃないんだー」
「まぁ、私はあまり表に出ないし、お前達もまだ直接は会ってないのだから、仕方ないさ」
中年の女が、笑いを押し殺しながら一歩前に進み出た。
「しかし……裏口とはいえ、あの坊ちゃん貴族は気がついていたみたいだけど。ねぇ、山毛欅 通り五番地、って聞いても解らないかい?」
――山毛欅 通り五番地。番地はともかく、山毛欅 通りといえば……。
「あっ」
「何だ?」
ようやく思い当たったサンが、一気にバツの悪そうな顔になる。
「どうした、お前の知り合いだったのか?」
男に訊ねられ、サンは大きく溜め息をついた。
「…………まあ、その。何度か来たことがあるんだ。……店に」
今日は休みなんだけどさ、と言いながら、女将は茶話室に二人を誘った。匿ってやっているんだから、詳しい事情を語れ、ということらしい。
「あのバカ貴族もウチの客だからね。弱みの一つでも掴んでおきたいじゃないか」
抜け目なく微笑むさまは、妖艶ですらあった。サンはいつになくどぎまぎしながら、あの場所に隠れるに至った経緯 を語った。
サンの話が終わったのを見計らって、先ほどの若い娘の一人がお茶を運んできた。寡黙な頭巾の男の分も喋り通しだったサンは、熱いお茶を喉に流し込んで、やっと人心地つく。
「ふぅん、不良貴族から女の子を助けるなんて、まるで読本 の主人公じゃないの。やるねぇ」
「いやその、助けたのは俺じゃなくて、この人なんだけど……」
男に話題を振ろうとしたものの、彼は軽く肩をすくめて口の端 を上げるのみ。
ふと、サンは自分がこの「英雄」の名前すら知らないことに気がついた。逞しい顔立ちに、通った鼻筋。えび茶色の頭巾の下から少し覗く髪は暗赤色か。彫りの深い眼窩に光るその瞳は、今でこそ穏やかに笑っているが、食堂で初めて見かけた時のあの眼光を思い出して、サンは思わず身震いした。
「この一件を知ったら、また店の子達が大騒ぎするよ、きっと」
「また?」
「あんた、結構人気なんだよ? ほら、秋の御前試合で優勝したろ? 平民が貴族様に勝ったってんで、ちょっとした話題だったのさ。それからしばらくして、あんたが初めて店に来た時なんて、噂の近衛兵が来た、しかも色男だ、って、更に大騒ぎさ。みんな裏でくじ引きなんてしてたんだからね」
感心したような、からかうようなような表情で、頭巾の男が口笛を吹く。
思いも寄らなかったことを告げられたサンは、まず目を丸くして……それから大いに照れた。
「知らなかった」
「そりゃ、お客さんにそんな格好悪いところ見せられないさね」
事も無げに、だがどこか誇らしげにそう言った女将が、サンにはなぜか眩しく見えた。
「泊まっていけばいいのに」
店の表玄関のホールで女将にそう言われて、サンは慌てて両手を振って遠慮の意思表示をした。それじゃ、あんたは? と水を向けられた頭巾の男も、流石に少し狼狽した様子で彼女の申し出を固辞している。
「貴重な休日なのだろう?」
「そ、そうそう。折角の休みなんだし?」
「良い男は特別だよ」
そう言って女将は悪戯っぽくウインクした。
「色々つらいことも多いだろうけど、頑張っておくれよ。どうにもならなくなったら、みんなで慰めてあげるから」
月明かりが石畳の上に二人分の影を落とす。
なんとなく、無言で、サンと男は暗い街路を並んで歩いていた。
「御前試合で優勝、か。凄い奴だったんだな」
「そんなことないさ。保身のために狼藉を見逃すような、ただの弱虫だ」
自嘲するでもなく淡々とそう語ったサンを、男は品定めするようにじっとねめつけてきた。
「そういや、名前を聞いていなかったな」
「サン、っていうんだ。あんたは?」
「俺か? そうだな、俺の今の名前は……」
月の光を映した双眸が、静かにサンを見据える。その、あまりにも澄んだ涼しい瞳に、サンは思わずどきりとした。
まるで、どこかに置き忘れてきた何かを思い起こさせるような……。
「あそこにいたぞ!」
「まだ諦めてなかったのか」
サンは大いに呆れて肩を落とした。と、次の瞬間、その背中が強い力で押される。
不意を突かれて、サンはよろめき駆け込んだ。すぐ脇の路地の中へ。
「な、何を……」
「お前はそこに隠れていろ」
サンを突き飛ばした男は、そう言って悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「そういうわけには」
「いいから、まあ、見てろ」
あまりに自信に満ち溢れた男の様子に、サンは息を呑んでその場に立ち尽くす。
「あそこだ!」
ディイの声とともに、沢山の足音が角を曲がって来たようだった。路地にいるサンには見ることができないが、足音の主は四、五人ではきかないだろう。
やはり加勢をしなければ、と我に返ったサンの足を鋭い一瞥で止め、男は大きな声で啖呵を切った。
「女に逃げられた腹いせに、大人数で御礼参りか! 帝都の近衛兵も大したことないな!」
「なにおぅ!」
凄まじい殺気が辺りに充満する。
職を金で買った、と噂されていても、仮にも陛下のお傍を守る兵 だ。いくら日頃の訓練をサボりがちだといっても、最低限は鍛えられているのだ。
しかも、多勢に無勢。相手は十人からいるというのに……。
男は、威風堂々とした姿で、おのれの頭巾を毟り取った。
頭巾の下に隠されていた髪が、ふわりとこぼれる。
少し癖のある、闇色の長髪が……。
「我が名は、黒の導師! お前達ごとき、怖るるに足りず!」
どよめく暴漢達。
名乗りに度肝を抜かれたのはサンも同じだった。思わず一歩あとずさって、通りの真ん中に立つ、その禁忌の存在を見つめ続けた。
黒の導師と名乗った男は、ゆっくりと右手を空へ掲げる。
ふと、通りの向こう側に何か動くものをサンは見つけた。少し路地を入った物陰に隠れるようにして立つ小柄な人影が、右手を閃かせている。
時を同じくして、黒の導師の周りに火焔が立ちのぼった。炎は導師の周りを取り囲むと、やがて生き物のようにその鎌首をもたげて前方へと狙いを定める。
あまりの熱量に、サンは腕を翳しながら顔を背けた。
「う、う、うわあああああああっ」
物凄い勢いでディイ達が逃げていく足音が、建物の壁にこだました。悲鳴まじりの声が、同じように街路に反響しながらどんどん小さくなっていく。
気がついた時にはサンは独り、無人の街角にいつまでも立ち尽くしていた。