あわいを往く者

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黒の黄昏 第十三話 置き去られた想い

  
  
  
    三  評定
  
  
「どうしてそんな大事なことを今まで黙っていた」
 風に揺れる山小屋の中は、恐ろしいまでの静寂に支配されていた。その静けさを真っ先に破ったのは、ウルスの低い囁き声。触れれば切れそうなまでに鋭い怒りを滲ませたその声は、語り手たるサンに真っ向から投げつけられた。
 暖炉の火が大きくはぜる。
 窓際の椅子に座るウルスのすぐ傍らには、アキが難しい顔で立っている。その横には、両腕を後ろで拘束されたルーが呆然とした表情で床に座り込んでいた。
 もう一つの山小屋をおのが母に引き渡したアキは、宿を失った囚われ人を伴ってウルス達の小屋に居座っていた。その二人を加えた六人の聴衆は、サンが今語り終えた話にすっかり引き込まれてしまい、身じろぎ一つすることができない有様だ。
「どうしてって……」
 暖炉脇の椅子に深く座り直して、サンは少し困った様子で、助けを求めるような視線をザラシュのほうへ向ける。暖炉の前の長椅子の端に浅く腰かけた老魔術師は、珍しくも感極まった表情で顎を撫でながら口を開いた。
「うむ、確かに俄かには信じられん話じゃな」
「そうなんです。正直自分でも、未だに…………夢だったんじゃないかと……いや、夢であったら、と……」
 サンは自分の右手に視線を落とすと、拳を静かに握り締めた。
「だが、夢ではなかった」ウルスが、容赦なく言葉でサンを打つ。「あの時のお前の様子を思い返す限り、法螺話とは思えんからな」
「あの時?」
 ザラシュの隣、長椅子の中央に座るレイが、ウルスのほうを振り返った。その動きに押し退けられて、シキが迷惑そうな、それでいて少し照れたような顔で、同様に背後を振り仰ぐ。
 一同の視線が集まるのを待って、今度はウルスが語り始めた。
「その日、俺は堀のすぐ傍にいた。突然城壁の内側が騒がしくなって、門番達までが浮き足立っていてな。城の裏――北側の門に至っては、跳ね橋もそのままに近衛兵が姿を消す有様だ。それで、俺はザラシュ殿に援護を頼んで、橋を渡ってみたのだ……」
  
  
  
 こんなところを堂々と歩くお尋ね者など、前代未聞だろうな。そう口のを引き上げながら、ウルスは堀にかかる跳ね橋を渡りきった。
 やましさのかけらも感じさせないその態度が功を奏した、と言うよりも、城内が何か恐ろしいまでに混乱していたからなのだろう。到達した第一城壁を見上げても、巡回路に動く者はいない。来た道を振り返れば、大邸宅の並ぶ閑静な通りは閑散としており、こちらもやはり人通りは見えなかった。
 ウルスは、独り頷くと、そっと門扉の陰に身を滑らせた。
 北門のある塔に入れば、正面のアーチとは別に、左右に黒々とした通路が口をあけていた。城壁内に回廊があるのだろう。堀から立ち上がった石積みの壁に等間隔に並んだ矢狭間を思い出し、ウルスはぞくりと身震いをした。暗い通路に人影が無いことを慎重に確認して、正面に見える外庭へと歩を進める。
 アーチの陰からそっと庭を覗くと、右手の奥のほうに近衛兵の営舎が見えた。ただ事ならぬ叫び声が飛び交い、営舎の扉から今もばらばらと兵達が飛び出してくる。こちらにやってくるか、と一瞬身構えたウルスだったが、彼らは城壁沿いに城の表側に向かって走っていった。更に新たに四人が、外庭を突っきって第二城壁へと走っていく。
 ――何者かが城内に乱入したらしいな。そして、そいつを皆で追い立てている、と。そういうわけか。
 さて、これからどうするかな。思案し始めたところで、ウルスは弾かれたように急に顔を上げた。
 風に乗って鼻腔をくすぐる……血の。近い。
 この状況を鑑みる限り、先ほどからの騒動の主である可能性は高い。ウルスは第二城壁の上と下で右往左往する兵達の視線を避けるべく、懐から取り出した手鏡で塔の外を窺った。
 城壁沿い、アーチから数丈先に手入れのなされた低木が並んでいるのが見えた。
 内庭でもない限り、普通ならば城郭にこんな死角は作らないところだが、ウルスのいる城の裏側は、第一と第二の城壁の間に広大な緑地が設けられていた。この開けた外庭がある限り、植え込みの存在など意に介するものではないということなのだろう。
 その庭木の陰、微かに何かが動いた。
  
 ウルスは塔内にとって返した。
 幸いにも、未だ城壁内に人の気配はない。ウルスは意を決すると、回廊へと足を踏み入れた。こちら側から潅木の裏側を目指そうというのだ。
 回廊の左側に、数丈おきに細長い明かり取りの窓が並んでいる。目指す場所に到達したウルスは、自分の肩の高さから立ち上がっている窓の底辺に手をかけると、図体に見合わぬ身軽さでその細い空間に身を潜り込ませた。木の葉の陰に守られて、静かに植え込みの中へと降り立つ。
「……誰か、いるのか?」
 あまりにも強烈な血の香に、さしものウルスも怖気を押さえられなかった。だが、それでも、僅かばかりの打算と、圧倒的な好奇心から、ウルスは繁みに向かって声をかける。
 目の前の枝葉が不意に揺れ、男が姿を現した。
 血まみれの近衛兵。先日ともに夜の町を徘徊した、確か、さきの御前試合で優勝したとかいう男。
 ――しまった。闖入者ではなく、追っ手だったのか。
 サンは焦点の定まらない瞳で、ゆらり、と倒れ込んでくる。反射的にその身体を受け止めたウルスは、その夥しい血が全て返り血であることに気がついた。
 ――追っ手ではない。こいつが、追われているのだ。
「おい、どうした!」
 むせかえるような血の臭いの中、サンは完全に意識を失う前に、ただ一言を呟いた。
「…………出ていけ……俺の中から…………」
  
  
  
「で、ザラシュ殿の助けもあって、無事こいつを助け出し、そのまま帝都を脱出したというわけだ。個人的ないざこざか何かのようなことを匂わせていたから、仔細を聞き出さずにいたがな、そんな大事おおごとを黙っていて良いと思っていたのか」
「……はぁ。…………すみません」
 口答えしても無駄だと悟っているのだろう。サンは素直に頭を垂れた。ウルスは未だ憤懣やるかたないといった風情ではあったが、鷹揚に頷いてみせる。
 その態度のあまりの横柄さに、レイがむっとした表情で噛みついた。
「偉そうにそう言うけどさ、そう簡単には他人に言えねぇぜ、普通。『傀儡』の術の影響でその時の意識だってはっきりしなかっただろうし、てめえの国のあるじがそんな気色悪い奴だなんて、簡単には信じられないだろうし」
 先刻からの話題の毒気に当てられたのだろうか、レイは夢中で言葉を吐き出し続ける。「思い出したくもないだろうし、よ。同僚を手にかけたなんて……」
「レイ!」
 鋭いシキの一喝でやっと我に返り、レイは大きく息を呑んだ。それから慌ててサンのほうへ顔を向ける。
「悪い、サン……」
「なに、情けない顔してんだよ? 別に気になんてしてねーから。事実は事実だしな」
 そして少し息を継ぎ、遠い目で続ける。「城の連中のほうが気にしてると思うぜ? 前代未聞の醜聞だからなあ。近衛兵が乱心して城内で人殺し、だ」
「違うよ」
 シキの声に、サンの片眉が上がる。
「警備隊の本部でサンのことを書いた通達書を見たんだ。確か……『無断で職務を離脱の上、制止に当たった同職の者に手傷を負わせた咎により、処罰すべし』だったかな」
 シキは自らの記憶を辿り終えると、正面からサンの目を見つめた。「だから、サンは誰も殺してなんかいない」
「…………はっ」
 一呼吸おいて、サンが息を漏らす。「そんな細かいこと、気にしてなんかいないって……。大体、人を斬ったのはあの時が初めてじゃないし、それに、あれから何人も……」
 サンの膝に雫が落ちた。
「あれ? なんだよ、俺、カッコ悪いな」
 ――あの、虚ろな眼窩。命を抜き取られた人形のような表情で、剣を振りかざして自分に突き進んできた仲間達の、あのぎこちない動き。
 そして、絶えず自分の頭の中に響く「何か」の声。その「何か」が、同様に彼らを動かしているのは、明らかで……。
「くそ、この俺と切り結んでおきながら……悪運の強い連中だな……」
 ぐしぐしと袖で目元を拭うサンの声には、少しばかりの喜色が滲んでいた。
  
  
「…………嘘だ!」
 凍てついた雰囲気がようやくほどけ始めたその時、鋭い叫びが部屋中にこだました。
「嘘だ、うそだ……、嘘っぱちだ! 私は、そんな馬鹿な話を信じない!」
 ルーが、何か追い詰められたような形相で立ち上がるところだった。それを制止しようとしたアキよりも早く、ウルスがルーの襟元を掴んで、自分の眼前まで引き上げる。
「静かにしろ。俺はアキと違って紳士ではないからな」
 まるで荷物か何かのように床に投げ捨てられたルーは、大きく息をつきながら強い光を目に宿してウルスを見上げる。
 これ見よがしな溜め息をつきながら、アキがその間に割り込んだ。
「ここの主人は俺だ、ウルス」
「解ってるさ」
「どうだか。……さて、お前。この町を探りにきた密偵、というわけではないのだろう? お前は何者で、一体ここに何をしに来たんだ?」
 金糸のように癖のない前髪の下で、少しだけ揺れた藍の瞳。やがて、そこに何か決意の色が浮かび上がった。
「枷を、外していただけますか」
 軽く頷いて、アキがルーの背後にまわる。
「甘いな、アキ」
「ふん、彼はもう逃げないさ。あのお嬢さんを置いてはな。違うか?」
 その言葉に、ルーは僅かに頬を赤く染める。ほどかれた両手首をほぐすようにひねり、摩りながら、彼は静かに立ち上がった。
「私の名前は、ルーファス・カナン。騎士です」
あるじは誰だ」
 容赦なく追求するウルスの声に、ルーファスは少し逡巡したのち、真摯な表情で答えた。
「……マクダレン皇家です」
「何っ!」
 一気に警戒の色濃く声を荒らげたアキに向かって、ルーファスは慌てて両手を振った。
「違います! この町を探れなど、そのような命は受けておりません」
 痛いほどの視線を一身に受けながら、ルーファスは語り始めた。
「私は、弟帝陛下の命を受けて、大切なお客様のご案内の役目を言いつかっておりました。この州の東端に近いイという町から、二人のお方を帝都にお連れする、これが今回の私の任務です」
 ぽん、と膝を打ってシキが得心したように頷く。
「あ、それでリーナのことを知っていたんだ」
「はい。他でもない、お招きされたのは、ナガダ司祭様とリーナ様なんです」
 ふと、ただならぬ気配を感じてレイが振り返ると、サンが見たこともない苦い表情でルーファスをねめつけているのが見えた。
 いぶかしげに口を開こうとしたレイだったが、再び話し始めたルーファスに、つい気を逸らされる。
「帝都から近い町でしたらば、こちらで馬車や護衛を用意することも簡単なのですが、いかんせん海路も経てとなると、どうしても非効率的です。そこで、現地調達、ということになったのですが……、生憎とまともな馬車も、腕の空いた剣士も探し出すことができず、とりあえずは州都で装備を整えよう、と不自由な旅をお二方に強いての道中でした」
 まあ、あの田舎町では無理もない。シキとレイはそっと顔を見合わせて嘆息した。街道を更に東へと行った隣町、国境の砂漠に面したサランまで足を伸ばせばなんとかなったかもしれないが、地の者でもない彼にそれを要求するのは酷というものだろう。
「ところが、州都までもう少しというところで凶事が起こったのです。カリナからロキザンに向かう途中でした。野宿をしようとしていたところを賊に襲われ、馬車と、リーナ様が奪われてしまいました」
 ルーファスは、そこで拳を強く握り締めた。
「とりあえず、ナガダ様には州都で代わりの護衛をつけて先に帝都を目指していただき、私は、付近の町を巡って彼女を探していたのです。そして、ロキザンの町で……」
 アキのほうをちらり、と窺いながら、彼は少し躊躇いがちに言葉を続ける。「その、ガーツェの麓、州都の北に、シンガツェという山賊の町がある……と」
 苦虫を噛み潰したような表情で、アキが頭を掻き毟った。
「ああ。あいつらならそう言うだろうさ。俺達が、こんな山間でそれなりな生活を送れるのは、他でもない、俺達自身の工夫と、努力と、交渉の賜物だ。何一つ苦労せずに、他人を羨むばかりな連中の言いそうなことだ」
 鼻息荒く腕を組んだアキの剣幕に、一同、言葉もなく目をしばたたかせた。次いで、ウルスの笑い声が小屋を震わせる。
「こいつはいい。山賊か。するとお前は定めし、山賊の若頭、と」
「ウルス!」
「冗談はともかく、帝都の騎士なら、俺が何者かは解っているんだろう? それで余計に、あの攫われた彼女とやらが現れるまで、山賊の町だと思い込んでいた、と」
 ルーファスは軽く頷いた。
「で、これからどうするんだ」
 ウルスの問いに、ルーファスは物怖じすることなく正面から彼の目を見つめ返した。
「彼女を連れて、帝都へ戻ります。貴方がたのことは、私の胸の内に伏せておきましょう。彼女を助けてくださったご恩返し、とは参りませんが」
「連れて? 記憶がないのに?」
 冷たい声は、サンのものだった。あまりに彼らしからぬ言いざまに、一同一様に息を呑む。
 いつの間にか、サンは立ち上がっていた。長身で威圧するかのように、胸を張ってルーファスを睨みつけている。
「ええ。連れて帰ります。こうなったのも全て私の責任。彼女の面倒は私が」
「何にも解っていないんだな……、『カナン家のみそっかす』様は」
 その呼び名に、明らかに不機嫌そうな眼差しで、ルーファスはサンを見返した。
「解っていないとは、どういうことですか」
「名前を聞いて思い出したよ。俺が鷲の塔まで運んだ司祭は、あんたが城に連れて来たんだ。忘れたとは言わせない。学者崩れの小間使い騎士殿、ランデの副助祭もあんたの仕事だったんじゃないのか?」
「……そのとおりです。でも、それは、北方の癒やし手のいない町や村に赴任していただくためです」
「嘘をつけ! じゃあ、あれはなんだったんだ! 塔の天辺に転がっていた腕輪は! 鷲の餌になっていたのは!」
「私はそんな話、信じない! それに、寒村を救済なさろうとしておられるのは、兄帝陛下ではない、セイジュ様だ!」
 双方ともに息を荒らげて、二人は真っ向から対峙した。間に挟まれる形になった長椅子に座る三人は、身を小さくして頭上を飛び交う刃のような視線から身を避けるのみ。
「それに、もう一つ。リーナは、俺の…………恋人だ」
 少しだけ躊躇して、だが、きっぱりとサンは断言した。
  
「えーーーーーーーっ!」
 合唱のごとく、シキとレイの声が響く。
「そんな、私、一っ言も聞いてないよ! 一体いつからそんなことになってるのさ!」
「おい! サン、お前、よりにもよって、なんであんなウルサイ奴と!」
「あーっ、うるさい! ぎゃあぎゃあ喚かずに一人ずつはっきりと喋れ!」
 ウルスの一喝に、二人はがなり立てるのをピタリと止めて顔を見合わせた。何度か視線で譲り合って、最後にシキがおずおずと口を開く。
「……サン、ゴメン。話、続けて?」
 大きな溜め息ののち、サンはわざとらしい咳払いとともに再びルーファスに向き直った。
「……とにかく、そういうことだ」
「それが、どうしたって言うんです?」
 挑戦的な色を目にたたえて、騎士は口のを微かに上げた。
「なるほど、彼女が私の傍らで、時々寂しそうな瞳をしていたのは、こういうことだったんですね。一方的に恋人に捨てられて半年では、すぐに気持ちも切り替わらないでしょうからね」
 サンの頬に朱が入る。
「捨ててなんて……いない」
「彼女が私にそう言ったのですよ。自分には決まった人はいない、と。それとも……謀反者の逃避行につき合わせるつもりだったんですか? 彼女を」
 サンの瞳に、微かに狼狽の色が浮かんだ。
「俺は……、このままだと、いつか『癒やし手狩り』の魔手が、イの町まで伸びるんじゃないかと……。だから……」
 両の拳を固く握り締めて、絞り出すような声で訥々と言葉を継ぐ。
「連絡を取れば、巻き込んでしまう。未練だって残りそうだったし……。事が終わるまでは会えない、会わないつもりだったさ。だけど、捨てたわけなんかじゃない」
「身勝手過ぎる!」
「なら、どうしたら良いってんだ!」
 凄まじいほどの気迫を込めて、二人は睨み合った。
 部屋の空気が限界まで張りつめる。全てが静止し凍りついた室内、暖炉の炎が作り出す影だけが時を刻んでいた。それらはやけに非現実的に、ゆらゆら、ゆらゆら、と部屋のそこかしこで揺らめいている。
「で、どうしたいんだよ? お前は」
 沈黙を最初に破ったのは、レイだった。言い争う二人の邪魔をしないようにと、長椅子の上で縮めていた身体をやにわに起こし、わざとつっけんどんな口調でサンに問う。
「こうなっちまった以上、腹くくれよ。躊躇ってると……取られちまうぜ」
 お前は気楽でいいよな! と言い返すサンの口元が笑っていることに気がついて、レイもにやり、と笑い返した。
「リーナは俺達と行く。ウルスさん、いいですよね」
「馬鹿な! 彼女を犯罪者にしようというのですか!」
 ルーファスが叫んだその瞬間、鋭く手を打ち鳴らす音が小屋の空気を震わせた。
  
「私に言わせてもらえば……、どちらも同じくらい馬鹿ね。大馬鹿だわ」
 いつの間にか、戸口にアキの母が立っていた。
「本人の意思をそっちのけにして、ああだこうだと言い立てたところで、何の意味もなさないというのに。ねえ……リーナ?」
 小気味の良いぐらいにぴんと伸ばされた夫人の背中から、所在なさげにリーナが顔を出す。
「母上、どうしてここに……」
「ね? どうせろくなことにならないからって、様子を窺いに来て正解だったでしょ?」
 アキの問いかけには答えずに、夫人はリーナに笑いかける。
「一体、いつから聞いていたんですか!?」
「最初から。すっかり身体が冷えてしまったわ。ちょっと火に当たらせて頂戴」
「母上!」
 呆れたようなアキの声を無視して、躊躇いもなく暖炉の前に向かう夫人の姿を、一同は呆然と見守った。サンだけが、安堵の溜め息とともに、ずるずると椅子の上に崩れ落ちる。
 彼は昔語りの中で、例の「小鳥と鈴」亭のことを接客酒場だと偽って話していた。揶揄するようなウルスの視線が、この見栄っ張り、と笑っているようだったが……、真実を言わなくて良かった、そうサンは心から思った。娼館通いをしていたことをリーナに知られなくて、本当に良かった、と。
「で、あなたはどうしたいの? リーナ」
 暖炉の炎を背景に、夫人は静かに振り返った。
「選択肢は三つ。故郷に帰るか、彼らについていくか、ここに残るか。そうね、記憶が戻るまでの期間だけでも、ここに居ていいのよ。我が家は女っ気がなくてね。娘ができたみたいで私はとても喜んでいるのよ」
「三つ……って、母上、その……、四つ、なのでは?」
「馬鹿ね」
 ぴしゃり、と撥ねつけられて、アキが気色ばむ。
「どう考えても、陛下の召喚令はおかしいでしょう? 帝都が優秀な癒やし手を集めているという話は、耳にしたことがあります。でも、貧しい村々を救済するためなら、医者や薬師にも声がかかるはずなのに、そんな話はない。違うかしら?」
「………………あ」
 ルーファスが、愕然と声を漏らした。
「癒やし手にしても、何も上位の人間から引っこ抜かなくっても良いはずでしょう? 理由は別にあるはずだわ。あなた、そんな不可思議な命令に愛する人を従わせることができて?」
 愛する人、の単語に、サンが思いきり嫌そうな表情を作る。対してルーファスは頬を薔薇色に染めて、「そんなこと、できません!」と力強く頷いた。
 それを聞いた夫人は、今度はサンのほうに向き直り、軽くウインクする。
「あなたとの甘い記憶も、今の彼女は失っているわ。些細なことで仲間同士でいがみ合っている場合じゃないでしょう?」
 甘い記憶、という言葉に、二人の反応が入れ替わる。二人とも、見事なまでに御母堂に手玉に取られてしまっていた。
「何? 仲間?」
 一呼吸置いてから、ウルスがようやっとその単語を聞き咎める。夫人は、しれっとそれに答えた。
「あら、皇帝陛下の不正を暴くというのなら、双方目的は同じではなくて?」
 そうして、夫人はリーナを見て、優しく微笑みかける。
「彼らとともに行くか、ここに残るか。あなたの好きなようにすればいいのよ」
 全員から注目され、リーナは眉間に皺を寄せながら、数度その瞳をしばたたかせた。