あわいを往く者

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黒の黄昏 第十三話 置き去られた想い

  
  
  
    四  幻影
  
  
 ロイは、椅子に座っていた。
 暗い部屋。無音の部屋。
 一体、ここはどこなのだろうか。光も、音も、匂いも、何も感じられない空間。だが、彼は、ここが自分の良く知っている場所であるということを確信していた。
 知っているはずなのに……解らない。
 どこだ? ここは。誰もいないのか?
 手首を動かそうとして、枷が嵌められていることに気がついた。
 足も同様だ。
 遠くから、どこかで聞いたことのある低い声が響いてくる。
『君は、…………になるんだよ』
  
 ――ああ、そうだった。自分はそのために生かされていたのだ。
 得心がいった瞬間、ロイの身体がどんどん冷たくなっていく。
 まず、足の感覚が無くなった。足だけではない、ほら、手も。自分の指先が暗闇に溶けるようにして消えていくのを感じて、ロイは何故か穏やかな心地で瞼を閉じた。冷気はそのまま末端から身体の中心へと這い進み……、やがては心の臓に達するだろう。
  
 ふと、温かいものが首筋に触れた。
  
 ロイの心音が跳ね上がった。
 そんなはずはない、と、歯軋りしながらも、塞いだ瞼を静かに開いてしまう。
 細い、華奢な手が首筋から頬を撫でている。そして、目の前にある、深緑の大きな瞳。
 彼女は、にっこりと笑うとロイの頬から手を放した。今度は肩に手を置いて、そのままロイの腕をなぞっていく。
 彼女の指先が触れたところから、ロイは身体を取り戻し始めた。肩、腕、手首、指、……そして、腰、腿、膝……。
「何故だ。君はあいつの許へ行ったのではなかったのか?」
 つま先まで触れてから、彼女は軽やかにきびすを返した。闇の中に光の筋が生まれ、やがてそれは扉の形になると、彼女は眩い光の中へと消えていく。
  
 行かないでくれ。
 その台詞はまたもロイの喉に貼りついたまま、発せられることはなかった。
  
  
 着替え終わったロイは、朝の冷たい空気を大きく胸に吸い込んだ。
 帝都に戻ってから五日が経っている。暦は既に十一月を半ばまで過ぎ、吐く息もうっすらと白みを帯びるようになっていた。
 ルドスを発ってからというもの、どうにも毎晩夢見が悪い。寝不足の頭を振りながら、ロイは大きく嘆息した。連日の夢の内容は全然憶えていない。ただ、起床時に漠然とした不快感が身体全体に纏わりついているのみ。
 だが、今朝は違った。くっきりと記憶に残るのは、彼女の微笑。
 ――未練がましいこと、この上もない。
 ロイは忌々しそうに息を吐き出した。いつまでも他人のものに執着するなど、無駄の極地だ。馬鹿らしいにもほどがある、と。
 あれから半月。これまで一度として彼女を思い出すことなどなかったのに。ルドス郊外で袂を別ったあの時、ロイは彼女の存在をおのれの中から抹殺することを決意し、それはほとんど成功しているはずだった。
 ――いや、成功している「つもり」だった。
 ロイは観念したようにそっと目を閉じると、大きく溜め息をついた。
 そうだ。彼女の存在は依然として自分の記憶の中に在る。今朝ほどはっきりとした記憶はないものの、夢に見たことは……そう、一度ではない。
 それにしても、今朝はいつもの不快感が随分と軽減されていた。ということは、彼女が悪夢の正体というわけではないということか……。
 殊更に冷静な思考を努めながら、ロイは居室をあとにした。
  
  
  
「計算外だよ」
「え?」
 朝議が終わって、アスラの執務室にともに下がったロイは、あるじの呟きに思わず動きを止める。
 アスラは壁際の自分の椅子に深く腰を下ろして、深い灰色の瞳をロイに向けた。
「君の執着の心が並々ならぬということは知っているつもりだったが……これほどまでとはな」
 執着の心……とは。ロイは密かに息を呑んだ。
 ――このお方は、どこまで私のことを見透かしているのだろうか。「君のことならなんだって解るのだ」との囁きは、どこまで真実なのであろうか。
「何のことでしょうか」
 平静を装って、ロイは静かに問い返す。アスラは、その問いには直接答えずに、気だるそうな表情で机の抽斗に手をかけた。
「これを……君に確認してもらうとするか」
 彼が取り出したのは、一枚の紙だった。手渡されたロイは、視線を紙面に走らせるや否や、全身を硬直させた。
「どうだ? 良くけているだろう?」
 そこにえがかれていたのは、先ほどから自分を悩ませていた人物の肖像だった。今朝の夢とは違ってその表情は硬く、唇は静かな決意を秘めて結ばれている。
 暗い色の髪を緩やかに落とした襟元、そのままなだらかに伸びる肩口の曲線。筆がえがき出す単色の画像にもかかわらず、その優雅な筆致はロイの中に、彼女と過ごした時間をまざまざと思い起こさせた。
「名前は……シキ、だったか」
 そう言って、アスラは手元の小さな紙片にペンを走らせた。『尋ね人、シキ』
「歳は幾つなのだ? 背は五フィート三インチといったところか?」
「十九です。……陛下、これは一体?」
「見て解らぬか? これを各地の警備隊に配ろうかと思ってな」
 文字を入れるのは版元に任せるとしよう、と呟きながら、アスラは書き終わった覚え書きを淡々と読み上げる。
「尋ね人、峰東州都ルドス郊外にて、反乱団『赤い風』に攫われし娘。歳は十九、深茶の髪、緑眼、身長五フィート三インチ。……そうだな、謝礼あり、にしておくかな?」
「ですから、これは一体どういうことですか?」
 アスラが呆れ顔でロイを見上げた。
「君の妄執を払拭してやろうと思って、な。賊の中に君の愛弟子が捕らえられているということ、、賊にくみさせられているということ、そして、必ず無事に保護すべしということを、加えて徹底させておこう」
 ――シキをこの手に取り戻す。それは願ってもないことだ。
 さしもの頑固者とて、想い人が本当に死んでしまえば、この自分になびくことだってありうるかもしれない。いや、ありうるだろう。現に、一時いっときとはいえ彼女はこの自分についてくることを承諾していたのだから。それに、どうしても奴のことが忘れられないというのならば、いっそ魔術の力に頼ってしまえば良いのだ。一番最初はそのつもりだったのだから。
 だが、どうしてもロイはアスラに感謝の言葉を発することができなかった。
 矜持の問題なのだろうか。アスラの申し出を手放して喜べないのは、たかが小娘一人を、自分だけの力で手に入れることができない、と喧伝されるも同然だからなのだろうか。
 それとも、もっと直感的な、何か……
「彼女さえ手に入れば……、君も夜、ぐっすりと眠ることができるようになるだろう?」
 アスラの笑みに禍々しさを感じるのは、……きっと気のせいだ。ロイは無理矢理自分にそう言い聞かせた。
  
  
  
 十年間の空白を埋める作業は、簡単なものではない。
 ただ、幸いにもさきの戦争でのロイの華々しい手柄は、まだ充二分に人々の記憶に残っていた。無責任な道楽者、という烙印は密かに押されているかもしれなかったが、ロイの能力について疑いを差し挟む者は表立っては一人もおらず、むしろ誰もが、アスラ兄帝の右腕の復活に諸手を上げて賛成していた。
「いやあ、私などでは、到底力不足で」
 宮廷魔術師長補佐、という年配の男は、魔術師長の代役が重荷であったことを正直に告白し、書庫を始めとする諸々の部屋の鍵の束をロイに押しつけると、説明もそこそこに退出していった。以来五日間、彼は無位の宮廷魔術師達とともに、自ら言うところの「身の丈に合った」仕事に没頭して、アスラの執務室やその控えの間である魔術師長執務室へは一歩たりとも近寄ろうとしていない。
 自分の執務室で書類を整理していたロイは、溜め息をついて立ち上がった。引き継ぎに際して、彼が受けた説明は無きに等しい。そのため、どうしても作業効率が悪くなりがちだ。
 魔術師長補佐がロイの姿を見るたびに萎縮しているということを、ロイは充分に認識していたから、つい彼のもとを訪ねる回数を減らそうとしてしまう。自分も随分丸くなったものだな、と苦笑まじりに呟きながら、ロイは先任者を探して部屋を出た。
  
  
「休暇?」
「はい。元々カバナズ殿は身体が丈夫なほうではありませんでしたので……、おそらく、魔術師長様に職務を引き渡すことができて、ほっとなさったのでしょう。昨晩、急に体調を崩されて、ご実家のほうへ休養に帰っておられます」
 宮宰の言葉に、ロイは思わず中空を振り仰いだ。
 あの、莫大な書類の山を、独力で切り拓かねばならないというのか。一気に、勤労意欲が削がれてしまう。
「代わりに誰か手隙の者を寄越しましょうか」
「いや、それには及ばない。手間を取らせたね」
  
 第三城壁に連なる「緑の塔」を出たロイは、中庭を横切りながら、ふと目前の「鷲の塔」を見上げた。
 紺碧の空に、花崗岩で組まれた優美な四つの尖塔が伸びている。その向こうに一際高くそびえ立つ櫓塔の周りを、鷲が三羽、悠然と飛び交っていた。食事を終えた彼らはまた虚空高く羽ばたいて、おのが巣へと帰っていくのだろう。
 ――実家……か。
 ロイは思わず足元に視線を落とした。しばし何か思いつめた瞳で自分の影を見つめている。
 そうして、今度は早足で執務室を目指し始めた。
  
  
  
 ロイが魔術学校の門をくぐったのは十歳の時だった。子爵に拾われたのは九歳の時だったから、ロイはその家で一年を過ごした計算になる。
 紋章入りのシャツを簡素なものに着替え、外套を羽織ってロイは城下に出た。大通りで客待ちの二輪馬車を拾い、行く先を告げる。
 目指すは、馬車で一時いつときほど南に位置する、商都ランデ。その郊外にタヴァーネス子爵邸はあった。
  
 帝都の魔術学校の寄宿舎に入ってからは、忙しくて帰ることができなかった。
 生徒の大部分を占める貴族や郷士の子弟からは蔑みの目で見られ、残る平民出身の生徒からは妬まれ、ロイは自分の居場所を確保するためにも、血の滲むような努力で魔術の勉強に打ち込んだのだ。
 そうして、他人に誇れるほどの知識と技能を手に入れると、今度は研究が楽しくて仕方がなくなった。文字どおり寸暇を惜しんで、彼は学校の図書室に、師匠であるザラシュの研究室に入り浸っては魔術の世界に没頭した。
 それに、子爵は一度も「帰って来い」とは言わなかった。それを良いことに、ロイは週末も、学友達が帰省する長い休暇も、全ての時間を自分の知識欲を満足させるためだけに費やしたのだ。
 そういえば、三年生の時に一度「帰ったほうが良いですか?」との手紙を出した憶えがある。だが、それに対する返信は、「帰ってくるべき時にはこちらから連絡をするから、それまでは寄宿舎を家と思うように」という、ロイにとって非常に都合の良いものだった。授業料は毎月きちんと支払われていたし、必要な小遣いも欠かさず送金されてきた。
 そう、ロイは何を気にすることもなく、八年もの間、研究に没頭することができたのだ。
  
 宮廷魔術師に任命された時も、子爵からは手紙が届いただけであった。
 自分で稼ぎ、糧を得るようになり、日々の生活に忙殺され……、更に歳月を重ねるうちに、いつしかロイの心から子爵の存在はすっかり消えてしまっていた。
 自身の経歴を思い返したり口にのぼしたりする時に、子爵の名が浮上することはあったが、子爵自身について思い巡らせることは皆無だった。半月前のルドス郊外での襲撃のあとにあの夢を見るまで、人生における最大の恩人のことを、ロイは見事なまでに失念していたのだ。
 自分の薄情さに少し呆れながら、ロイは窓の外に流れる風景をぼんやりと眺めていた。
  
 ランデの街の中心から、東へ、山の方角へと馬車を走らせる。
 子爵のもとに居た一年間で、ロイは基礎となる知識や、礼儀作法などをみっちりと仕込まれた。そのため、彼は屋敷の外にほとんど出たことがなかった。自分がどの街のどの辺りに住んでいるかなど、その時の彼には知るよしもなかったのだ。
 だが、最初に連れてこられた時の記憶と、屋敷の窓から見えた景色、そして寄宿舎へ向かう馬車の窓越しの風景。そういった材料を基に、ロイは在学中に自分の「実家」の場所を特定していた。
 迎えの馬車を待たずに、一人で帰って子爵を驚かせよう、という目論みを抱いたこともあったのだ。結局一度も実行しないまま、学生生活は終わってしまったわけだが。
  
  
「ああ、ここで停めてくれ」
 微かに見憶えのある石垣を認めて、ロイは馬車の天井をノックした。御者に、しばらくここで待つように言い、ロイは雑草の生い茂った轍道を塀に沿ってゆっくり歩き始めた。
 生け垣はすっかり自然の姿を取り戻し、まるで森の入り口のようだった。道の反対側に並ぶ邸宅の、手入れの行き届いた前庭との落差があまりにも激しすぎて、ロイは何か不吉なものを感じずにはおられなかった。
 子爵の身に何かあったのなら、自分に一報が届くはず。いや、辺境に引き籠もっている間のことならば、そうとは限らないだろうか……。不安を何度も嚥下しつつ、ロイは歩みを進めた。小山のように盛り上がった木々の梢を横目で通り過ぎ、角を曲がる。塀を左手に見ながら歩みを進めたロイは、数丈進んだ所で愕然として立ち止まった。
 葉の陰に半ば埋もれた門。
 朽ち果てた門扉。
 背の高さほどまで生い茂った下草の向こう、廃屋としか形容できない荒れた建物。
 ――おかしい。変だ。
 僅か十年間で、こんなにも変わり果てるものだろうか。
 門も、屋敷も、ロイの記憶どおりの形状をしていた。場所も間違いない。そう、「これ」はタヴァーネス邸のはずなのだ。ロイは呆然としながらも、頭の奥底から記憶を必死で掘り出そうとした。
  
 初めてこの家に来た時の、子爵の上背のある影。両肩に置かれた、温かい手のひら。
 綺麗に刈り込まれた庭木と、古いながらも清潔感に溢れた建屋。
 目が覚めた時には常に部屋の暖炉には火が入れられていた。
 食堂に並べられた、簡素ながらも充分な食事。焼きたてのパン。
 勉強部屋での日課が終わって部屋に戻ると、整えられた寝台が待っていて……。
  
 信じられないぐらい快適な館での生活。当然ながら、使用人がいたはずだ。なのに、一年もの間、彼らの姿を一度も見ていないというのは、どういうことだ?
 いや、そもそも――
  
「どうかされたかね?」
 驚きのあまり跳ねるように振り返ったロイの視線の先、牛乳の缶を幾つも積んだ荷馬車が停まっていた。手綱を握る老人が怪訝そうな顔でロイを見つめている。
「……いや、あの、……貴方はこの辺りの方ですか」
「そうじゃよ。この先で牛飼いをしとるでな」
「この……、この屋敷は、一体どなたのお屋敷なのですか?」
「はて……」
 老人は目をすがめながら、門の奥を覗き込んだ。
「誰のお屋敷ってったってなあ。ここはもうずーっと誰も住んどらんからのう。そうじゃなあ、もう四十年以上は、このままじゃなかったかのう」
「四十……年…………」
「なんでも、跡目の絶えた貴族様のお屋敷だったそうじゃがの。幽霊屋敷と呼ばれて久しいわい」
 ロイは、唾を飲み込んだ。口の中が乾いてしまっているのをおして、必死で声を絞り出す。
「それは、もしかしてタヴァーネス家とはいいませんでしたか?」
「タ……、うーん、そういやそんな長ったらしい名前だったような気がするが……、なんじゃ、あんた、そのタ……なんちゃらというお屋敷をお訪ねだったのかい?」
  
 ――いや、そもそも、養父の顔をかけらも憶えていないというのは、どういうことだ?
  
「いえ……、なんでもないんです……」
 ロイは動揺を押し殺して辛うじてそう答えると、来た道を静かに戻り始めた。
  
  
  
 ああ、またあの夢だ。
 暗い部屋。無音の部屋。
 いつも自分が座っている辺りに、何か白いものが見える。
  
 ロイが近づくと、「それ」は軽く身じろぎをして、顔を上げた。
「せんせい……」
「シキ……どうして」
 熱の籠もった瞳で、シキがロイを見上げてくる。
 彼女は、頭の上で両手を拘束されていた。手首に食い込む荒縄の端は、遥か頭上の虚空へ、暗闇へと吸い込まれるように伸びている。
「先生……、縄を……解いてください……」
「これは、一体どうしたんだ」
 ロイは慌ててシキの手首をほどこうとするが、その結び目はあまりに固く、いくら爪を立てても一向に緩む気配がない。
「何か、切るものは……、くそっ、一体誰がこんなことを」
「……先生よ」
 ぞくりとするほど艶のある声。ロイは軽く息を呑むと、視線をシキの身体へと落とした。
 シキは、白い服を着ていた。いつもの、黒い服――かつてあの男が好んで着用していたような黒づくめの服装ではなく、目に眩しいほどの白装束を身に纏っていた。
「だって、私は、先生のもの、ですもの……」
 その瞬間、地面がかしぐ感覚がロイを襲った。
  
 センセイノ、モノ、デスモノ……
  
 まるで、頭の中が一瞬にして沸き立ったかのようだった。抑えきれない衝動に突き動かされ、ロイはシキを無我夢中で抱きしめる。
 ――そうだ、私のものだ。他の誰のものでもない、この、私の……!
 いつの間に拘束が解けたのだろう、彼女の華奢な腕がロイの背中にまわされる。
 感極まって、ロイはシキに口づけた。
 ――誰にも渡さない。私だけの……!
 またたく間に深くなる、接吻。激しく求めれば求めるほどに、シキの反応も高まっていく。情熱的に、貪欲に、今にもロイを喰らい尽くさんばかりに……。
  
 ――違う。
  
 ロイは、唐突にシキの唇を解放した。
「誰だ」
 切なそうな表情で、シキがロイを見上げる。
「せんせい、もっと……」
「お前は、誰だ」
 シキが妖艶な笑みを浮かべて、身をくねらせる。
「わたしといっしょに、『ここ』でくらしましょう……」
  
「違う。お前は……シキではない!」
  
 刹那、シキの姿は溶けるようにして消え、入れ替わりに立ちのぼった影が、ロイの両肩を掴んだ。
「強くなれ。どんなに大きなものでも呑み込めるほどに。そして……我が…………となれ……」