あわいを往く者

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黒の黄昏 第十四話 滴り落ちる闇

  
  
  
    二  廃墟
  
  
 豪華な屋敷の豪奢な部屋、その高価そうな絨毯の上に雑魚寝、という、優雅なのかそうでないのか良く解らない一夜が明けた。
  
 ダラスは早朝に再びカナン家の別荘にやってきた。
 彼の兄がユールを連れて行ったというのは、ナナラ山脈最高峰のガーツェの山中だという。正確には、ルドスのすぐ西、ガーツェに連なる側山を一つ越えた所にある谷間ということだった。
「人数分の簡単な食料を二日分用意いたしました。朝食は道すがらということにして早めに出れば、遅くとも今日の夕刻までには目的地に着くことができると思います」
「この時間に山に入れば、流石にあいつらの目を引くだろう」
 ウルスが口にのぼした当然の懸念に、ダラスは少し得意そうに胸を張った。
「まもなく、北門の外れで騒動が持ち上がる予定です。その隙に」
「手際の良いことだな」
 どこか嬉しそうにそう言って、ウルスが立ち上がる。「さて。お前はどうするんだ?」
 問われたルーファスは、心外だと言わんばかりの表情を作って、ウルスの前に立ち塞がった。
「勿論、同行しますよ。行かないわけがないでしょう」
「貴族様が山登りか」
「貴方だって、それを言うなら王族でしょう」
 ウルスが、ふ、と笑う――いや、嗤う。それから彼は一同を見渡した。
「準備ができ次第、出発しよう。異論はないな。ダラス、頼んだぞ」
  
  
  
 抜けるような青い空を背景に、冬の始まりを告げる身を切るように冷たい山颪が、潅木の隙間を吹き抜けていく。
 高度が増すにつれ、空気が透明感を増しているようだった。乾いた風に撫でられて、額に浮いた汗がすうっ、と引いていく。その爽快感とは裏腹に、岩だらけの斜面を進む一歩一歩が先刻から妙に重たく感じられて、シキは登る足を少しだけ止めた。
「大丈夫か?」
「ん、ちょっと息苦しくて」
 すぐ横を歩くレイが、シキに向かって手を差し伸べる。
「ん」
「え?」
「だから……、引っ張ってやるっての」
 少し照れくさそうに視線を外して、もう一度手を伸ばしてくるレイに、シキはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。それに、手を繋いじゃうと、一人がコケたら二人で転がり落ちなきゃいけなくなるし」
 そう言って、シキはいつの間にか前屈みになっていた背をゆっくりと伸ばした。
 まばらに生える低木の隙間から、自分達が登ってきた山道が見える。そして、遠く眼下に霞んで広がる、古都ルドスの街並み。
「もう少ししたら、休憩しましょうか」
 先頭を行くダラスの声に、七人の老若男女は大きく安堵の息を吐いた。
  
  
 側山をまわり込むようにして流れる沢に出た所で、一行は昼食をとることにした。
 岩が積み重なって露出している小さな谷を、清流が飛沫を上げながら流れ落ちていく。沢の周辺はまだ辛うじて木々が枝を重ねていたが、山腹からはそろそろ潅木も姿を消し、地を這う緑だけが白茶けた地面を斑に染め上げている。
 各人は思い思いに手ごろな岩に腰をかけ、ダラスから受け取った食料の包みを膝に広げた。
「兄とサラナン先生は同期なんだ。お互いとても気が合うみたいで、初等学校を卒業後に二人とも同じ歴史学の先生に師事して、何やら古めかしい本と格闘ばかりしていたよ」
 ダラスが干し肉を豪快に齧りながら、一行の中で唯一おのれの兄を見知るレイに語りかけた。
「……想像できねぇ」
 筋骨隆々とした色黒の男と、日陰の豆の芽のような眼鏡の男。あまりにも対照的過ぎる二人が、一緒に机を並べているところを思い描こうとして、レイは頭を抱えた。見た目もそうだが、ほんの少しとはいえ彼らそれぞれと交わした言葉を思い返す限り、とても同じ志を持つ者同士だとは思えない。
 更に言えば、くだんの古物商には年齢相応の風格が備わっていたが、ユールは見事なまでに年齢不詳で、もしかしたら彼は自分達と同年代なのではないか、とすらレイは思っていたのだ。あのマイペースさ、あの傍若無人ぶり。とてもじゃないが、自分よりも十二も年上の人間だとは、俄かには信じられない。
「お兄さんって、どんな方なんですか?」
 レイの苦悩っぷりに興味をかきたてられたのだろう、シキが目を輝かせながら口を開いた。返答しようとしたダラスより早く、レイがシキのほうを向く。
「古物商って言うからどんな爺さんかと思ったら、すんげえ肉体派でさ。戦士や剣士って名乗ったほうが絶対似合ってるって感じだった」
「はははは。言うねぇ、君も。でも、確かにそのとおりなんだよ。兄は先生みたいに書斎に籠もるよりも、外へ出て探索するほうが性に合っているらしい。一度出かけると、短くても一ヶ月は出ずっぱりで、一体どこで何をしているのか……」
 伝説で語られる古代ルドス王国は、魔術で栄えた地上の楽園だったという。
 そして、神に見捨てられ、一夜にして滅んでしまった、と。
 それから幾星霜。王国の記憶は御伽噺としてのみ形を残し、かつて大陸を席巻したその高い文明は散り散りに、その断片だけが、古代ルドス魔術として細々と受け継がれている。
 しかし、現代に残された古の遺物は、実はそれだけではない。
 人里離れた深い森などで、稀に発見される遺跡。そういった場所には、今はもう失われてしまった技で作られた品物が眠っていることがある。そんな「宝物」を求めて各地を彷徨う探索者の存在を、レイもシキも耳にしたことがあった。危険の伴う旅路は、生半可な覚悟では乗り越えられないだろう。逞しい身体と強靭な精神、その双方が揃ってこそのものなのだ。
 なるほど、あの「本の虫」ユールと並ぶと、非常に異色な二人組かもしれない。少しわくわくしながら、シキはパンのかけらを口に放り込んだ。
  
  
 登りの行程が終わりに近づく頃には、シキも息苦しさに幾分慣れ、ダラスのすぐ後ろで快調に歩みを進めるようになっていた。逆に行き足の鈍り始めたザラシュが、シキと入れ替わる形で最後尾についている。
「登りはもう少しですよ!」
 先頭のダラスが峠の直前で一同を振り返った。その声を受け、サンがすぐ後ろのザラシュに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「悪いね、気を遣わせてしまって」
 荒い息でねぎらいを返すザラシュに、サンは曖昧な笑みを返した。
「こんな老いぼれよりも、彼女のほうが気にかかるだろうに」
 ザラシュの視線の先には、足場を探すのに悪戦苦闘しながら登っているリーナの姿があった。その少し前には、心配そうにリーナを見守るルーファスがいる。
 悪路に難渋するリーナを見かねたのか、ルーファスがリーナに手を差し伸べた。
 大袈裟な身振りでその手を固辞するリーナを見て、サンはにやりと微笑んだ。そう、彼女なら、こんな状況で誰かの負担になるようなことは快く思わないはずだ、と。
「……気にならないわけじゃありませんけどね、俺はこの位置取りこそが重要だと思ってるんですよ」
 視線を二人から外さないまま、サンはザラシュに答えた。
 しっかり者のリーナ。小気味良いぐらいに、彼女は揺るぎない。いつだって真っ直ぐ、自分の足で、背筋を伸ばして立っている。リーナのことを口煩いと言う人間は多いが、それだって欠点というほどのものでもないだろう。強いて言うならば、短所は一つ。
「わ、わわわわわっっ!」
 どこをどうすれば、そんなに見事に体勢を崩すことができるのだろうか。リーナは右足を大きく前に蹴り出した状態で、両手を大きく無防備に広げたまま、背後に、下方に、ゆっくりと倒れ込んでいく。
 差し伸べられたルーファスの腕が、大きく空を切った。リーナの身体はルーファスの手をすり抜けるようにして、後頭部から斜面に倒れ込む。
  
「あり?」
 衝撃を覚悟していたのだろう、リーナが驚きの表情で振り向く。
 ルーファスが眉をひそめて、遣り場のない手を握り締める。
「珍しく順調に来てると思ったけど、……やっぱりね」
 抱きとめたリーナの身体をそっと起こしながら、サンは大きく息をついた。跳躍で乱れた呼吸を気取られないように、静かに深呼吸を繰り返す。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
「……ですから、あれほど、手をおとりくださいと申し上げているのに」
「いや、でも、そこまでしてもらわなくても大丈夫だから」
 満足げな笑みを浮かべながら、サンはそっとリーナの手を放した。
 即座にルーファスが、「参りましょうか」と背中を見せる。
 反射的にサンはリーナから視線を外した。そうして、まるで何事も無かったかのような様子で後方を振り返る。えっちらおっちらと坂道を登ってくるザラシュは、感心したような表情でサンに笑いかけてきた。
「なるほど」
「あれだけどんくさい奴、なかなかいないでしょ」
 サンはそう小声で囁いて、片目をつむって見せた。
「付き合いの長さ故の余裕、かね」
 その言葉に、サンは微かに口のを上げた。それから、ゆっくりと前を向く。ルーファスに急かされるようにして再び登り始めたリーナの背中を。
「そうだったら良いんですけどね」
 つい、と目が細められたのはほんの一瞬のこと。すぐにサンはいつもの調子を取り戻し、ザラシュに向かって陽気な声で発破をかけた。
「さ、もう一息、頑張りましょうか。なんなら背負いますよ?」
「そこまで耄碌しておらぬわ」
 眩い青空を、峠の稜線がくっきりと切り取っている。サンとザラシュは笑い合いながら、最後の上り坂を踏みしめた。
  
  
  
 峠を抜けた一行は、急に開けた視界に思わず息を呑んだ。
 なだらかな谷が、彼らの目の前に広がっていた。濃い赤銅色の地表を、ところどころ草木の緑が彩っている。
 谷の向こう、雄大に立ち上がるガーツェの山肌は明るい白茶色で、暗い大地とのコントラストは、まるで何者かの手による建造物のごとき趣であった。にもかかわらずそのスケールはあまりにも壮大過ぎて、あたかも神話の世界に迷い込んでしまったような錯覚を、見る者に与えてしまう。
「わぁ……!」
「すっごーい! 良い眺めー!」
 シキとリーナが上げた感嘆の声に、他の面子から笑いが漏れた。
「な、何か可笑しかった?」
 にやにやと笑うレイに、シキが困惑したように問いかける。
「べっつにぃ?」
 思わせぶりに返答したレイの頭にダラスの大きな手が置かれ、そのままぐしゃぐしゃと髪を乱した。
「可愛らしいなあ、ということだよ」
「ち、違ぇ……」
 照れ隠しも露骨に噛みつくレイを、軽くいなしてダラスが相好を崩す。
「いや、本当に、女の子が一緒だと、華やかでいいなあ」
「何、オッサンみたいなこと言ってんだよ。ってか、髪! むちゃくちゃするなよ!」
「オッサンなんだから仕方がないだろ」
 豪快に笑ってから、ダラスは少しだけ表情を引き締めた。ウルスのほうを見やって、軽く頷き、それからやにわに指笛を吹き鳴らす。
  
 鋭い音が谷間の静寂を切り裂く。
 長く、短く。高く、低く。
 何かの符丁を奏でた笛の音は、何度もこだましながら虚空へと吸い込まれていった。
 そして再び訪れる、完全なる森閑。
  
  
 返答は、大地を踏みしめる音だった。
 ざくざくと砂粒を軋ませながら、その人物はなだらかな谷の斜面をこちらに向かって登ってくる。
 こうやって見ると、この兄弟は良く似ていた。くすんだ金髪も、彫りの深い目元も、背の高さも。だが、兄の、前評判通りの鍛え上げられた体躯と褐色の肌が、二人の印象を大きくたがえている。
「大層な団体様だな」
 低い声。息を切らすこともなく大股で坂を登りきった古物商は、あからさまな苦笑を口元に刻んだ。
「兄貴、ラグナ様の御前だぞ」
 弟のたしなめる声に、申し訳程度に頷いてみせて、それから彼は慇懃無礼に一行に頭を下げた。
「ラグナ殿下には愚弟がお世話になっております。ユエト・サガフィと申します」
 一本調子でそれだけを言ってのけると、再びユエトは口角を上げた。
 尊大な兄の態度に目を白黒させるダラスの隣で、レイがむっとした表情で鼻を鳴らす。その後ろから大きく身を乗り出して、シキが驚きの声を上げた。
「サガフィさん!?」
 それは、かつてイの町の「札つきのワル」が宝飾品目当てに襲撃しようとした、あの商人だった。サラン警備隊の本部で対面した時と同じ、世の中の全てを見通しているかのごとき深い瞳が、静かにシキに向けられる。
「え? 何? シキも知ってたのか? てか、いつ? どこで?」
 素っ頓狂な声を上げるレイを、ちらりと一瞥してから、ユエトは微かな笑みを浮かべた。
「ユールに用があるのだろう? こっちだ」
 一言そう返して一同に背を向ける。ついて来い、ということなのだろう。
 おのれの来た道を無言で戻り始めたユエトの背中で、大剣が揺れていた。
  
  
 それは、斜面を少しくだったところ、潅木の陰にひっそりと口を開けていた。
「足元が脆くなっている。気をつけろ」
 それだけ忠告して、ユエトはその岩の裂け目に姿を消した。ほぼ鉛直に伸びる、暗くて細い竪穴に。
 ごつごつとした壁面のお蔭で、足場を見つけるのにさほど苦労は要らなかったが、先の見えない暗闇に降りていくというのは、あまり気持ちの良いものではない。一同は、三人の魔術師が唱えた三つの「灯明」の灯りにいざなわれるようにして、狭い岩石の隙間を下方へと進んでいった。
  
 しばらくくだったところで、いきなり視界が広がった。地中をくだってきた果てに、目前を満たす薄明かりに、皆は一様に驚いて立ち尽くした。
「なんだ……ここは……」
「地面の下……だよな?」
 彼らの目の前、大きな空間がぽっかりと口を開けていた。
  
  
  
 地下に広がる巨大な空洞。自分達が立っているのは、そのほとんど天井に近いところだった。地面は、そこから、更にすり鉢状にくだっている。薄暗い中にも、立ち枯れた潅木が斜面にまばらに立ち並んでいるのが見える。
 いや、すり鉢ではなかった。左右方向に伸びる谷底……V字谷だ。
 谷の両端は何かに堰き止められたかのように行き止まっていた。白っぽい谷の斜面とは対照的に、どす黒い岩の壁が不自然なまでに鉛直に立ち上がり、天井と継ぎ目なく繋がっている。
 そして、天井。
 彼らの頭のすぐ上に広がる大きな面のあちこちからは、ちらほらと木の根がはみ出していた。向こうのほうにはそこかしこに穴があいているようで、細い光の筋が何本も、地下のこの空洞に差し込んでいる。
 その、光の落ちる谷底。閉ざされた地下空間の中央に、石造りの建造物がそびえ立っていた。
  
 その建物は、ルドスの古い教会堂に似た形をしていた。谷の向きに長辺を沿わせた直方体と、その上に乗せられた緩やかな傾斜の屋根。彼らの立つ場所からは、その全体像を手に取るように見下ろすことができる。
 専門知識に乏しい彼らにも、この建物が相当な年代物であることは見て取れた。見た目の優雅さよりも造りの頑丈さを優先した、どこか余裕のない石組みは、ルドス領主の城の古い城壁と共通するものがある。おそらくは同じ頃に、もしくは同じ思想で造られた代物なのだろう。
 彼らが知る普通の教会とこの建物が同じ様式で建てられているのならば、鐘楼のあるほうがファザードに違いない。先端部分を岩天井の中にめり込ませた鐘楼は、この空間を支える柱のようにも見えた。
「十五年前のガーツェの噴火だ」
 言葉を失って、ただその風景を凝視するばかりの一行に、ユエトは訥々と言葉を吐き出した。
「この黒い壁は、ガーツェから溢れ出し、谷に押し寄せてきた溶けた岩が固まったものだ」
「え、でも、この空間は一体……」
「やっほーー」
 当然の疑問をシキが口にしかけた時、どこかで聞いたことのある間延びした声が、谷底から小さく響いてきた。
 建物のやや後方に位置する彼らには死角となっていた、その正面側から、ユール・サラナンが現れた。天井から差し込む細い光をまるでスポットライトのように一身に浴び、頭の上で大きく両手を振っている。
「皆、お揃いで。元気だった? ええと……名前何てったっけ?」
 およそ緊張感を微塵も感じさせない暢気な声に、脱力のあまり突っ伏しそうになる一同だった。
  
  
「ここはね、十五年前に溶岩に呑み込まれたはずのアシアス神の神殿だよ。まさか無事だったとは知らなかったなあ。ユエトには感謝しても感謝し足りないよー」
 カンテラを手に、ユールは建物の中へと一同を招き入れた。その間も、ひたすら陽気に、ユールは喋り続けている。
「神殿の奥に、古い人骨があってね。たぶん、噴火から神殿を守ってくれた術師なんじゃないかな。この神殿は随分昔に打ち捨てられたって聞いていたけど、もりがいたんだねー」
 ――盾か。
 ザラシュの低い呟きに、シキもレイも頷いた。災害の際に神殿の谷を覆ったであろう、巨大な魔術の「盾」。術自体は難しいものではないが、これだけの範囲に効果を及ぼさねばならぬとなれば、相当な労力を要するだろう。
 シキならできるかもしれない。でも、たぶん俺には無理だ。暗い廊下を魔術の灯火を従えて歩きながら、レイは白骨の主に思いをはせた。おそらくはありったけの力をふりしぼって、灼熱の濁流から谷を守ったのに違いない。そして、力尽きた……。
  
 ユールの先導で、一同は広い部屋に足を踏み入れた。側廊の柱、一本おきに吊るされたランプの光が、冷たい石造りの部屋を暖かく染め上げていた。
 火を消したカンテラを空いていた柱の鉤に引っかけてから、ユールは部屋の中央までゆっくりと歩み行く。
 全員が広間に入って来たのを見て、彼は再び語り始めた。それはもう、楽しそうに。
「有史以来、ガーツェが火を噴いたという記録はあの十五年前が最初で最後なんだ。ええと、君、北方の火山って、ドッカンと爆発するんだよね?」
 突然話題を振られて、ウルスは珍しくも狼狽の色を見せた。
「あ、ああ。そうだ」
「仮に、ガーツェが休止中の火山だったとして、山の形から考えても、ガーツェもドッカンいきそうなものなんだけどね。ところが、十五年前に山頂が吐き出したのは、天高く伸びた炎の柱のみだった。そうですよね?」
 今度はザラシュに向かって、ユールは語りかける。まるで講義のように。
「そうだ。……なるほど、私はあの噴火のきっかけを疑ってはおったが……、おぬしは噴火そのものを疑っておる、と」
 軽く頷いたユールの眼鏡が、ランプの光をきらりと反射した。
「山の反対側、帝都への被害は?」
「灰が降り積もった程度だ。ああ、そのあとの冷夏はそちらも同じだったろう?」
「そうですねぇ」
 ザラシュと言葉を交わしていたユールは、そこでふと、視線を彷徨わせた。「あの夏は野菜がほとんど食べられなかったなぁ……」
 部屋の隅から、ゴホン、とわざとらしい咳払いが響き、ユールを現実に引き戻した。
「じゃあ、炎の柱から溢れ出した溶岩は、こちら側にしか来なかったんだ……」
 そして、咳払いの主のほうに向き直る。「あの時は大騒ぎだったよね、ユエト」
「ああ。ナム山――お前達が迂回して来た側山のことだ――のお陰で街へは流れ込んでは来なかったがな」
「恐ろしい光景だったそうだね。ユエトは見に行ったんだろ? ところが、その炎の河が神殿の谷を埋め尽くしたところで、噴火はピタリと止んだ」
 ユールが思わせぶりに言葉を切ると、辺りは水を打ったように静寂に包まれた。
 揺らめくランプの光が、彼らの影を妖しげに揺らし続けた。
  
 沈黙の重さに誰もが耐えきれなくなってきた頃、ユールは講義を再開した。
「言っちゃなんだけど、神々への信仰は、現代既に形骸と化してしまっている。いわゆる異教は勿論、アシアス神も同様。この神殿だって、僕達地元民以外にはほとんど知られてなかったんじゃないかな」
「そうだな。教会以外にアシアスを祀ったこのような場所があろうとは、私は知らなかったよ。帝都の誰もが知らなかった……とは言わぬが、話を耳にしたことはないな。おぬしはどうだ」
 そうザラシュに問いかけられて、ルーファスは慌てて背筋を伸ばした。
「いえ……寡聞にして、知りませんでした。私の身のまわりでは、おそらくは、誰も」
「この無名の場所が、狙われた、と言うのか?」
 レイの言葉に、ユールは拍手を返す。
「よくできました。薄々想像していたんだけどね、ここに来てはっきりしたよ」
 ユールはぐるりと辺りを見まわした。それから、大仰にがっくりと肩を落とすと、ぼやき始める。
「けどねぇ。どうにも……やっぱり言葉が欲しいんだけどな……ユエトじゃが強過ぎて駄目だったし……」
 その言葉に、古物商が色めきたった。
「何? お前、また何か余計なこと……」
「できなかったんだよ。寝てる時なら大丈夫かと思ったんだけど。残念ながら」
「おいっ」
 相棒の抗議の声に、口を尖らせて明後日の方角を向くユールだったが、ふと、何かに気がついて、再び皆のほうを振り返った。
「そうだ、ところで、皆、何しに来たの?」
  
  
 自分のペースを乱されることに慣れていないのだろう、場の主導権をやっと手に入れたウルスが、どこか憔悴しきった溜め息をつく。
「この娘の記憶を取り戻してほしい」
「彼女の? 初めまして、だよね?」
 雰囲気に呑まれていたのか、珍しく黙りこくっていたリーナが、そこでやっと口を開いた。
「あ、初めまして! リーナといいます。イの町で癒やし手をしていた……らしいですけど、それが……」
「癒やし手! アシアス神聖魔術! なになに、記憶がないわけ?」」
 だが、折角の語りは、物凄い勢いで眼前に迫り来るユールによって、あっけなく妨げられてしまった。両手の指を突合せたり、揉み手をしたり、普段よりも更に落ち着きを失っているところを見ると、どうやら相当興奮しているようだ。
「うわお、天の配剤ってあるんだねえ!」
 それから、感極まったとばかりに、リーナの手を両手で掴み取った。
「いいよー、僕にできる事なら、何だってやったげる。怪我が原因の場合はお医者の範疇ってこともあるから、絶対に、なんて断言はできないけど。だからさ……」そこで、瓶底眼鏡が、ぎらりと光る。「……ちょっとだけ、余計なことして良い?」
「……何ぃ!?」
 サンとルーファスが同時に叫んだ。しかし、外野の声に耳を貸すことなく、ユールはリーナの手を引いて、広間の奥へと引っ張っていく。
 再び、男二人が合唱。
「おいっ、ちょっと、待て!」
「ヘンなことじゃないからー。さあさ、こっちこっち」
  
 アーチをくぐった先、広間の奥には小部屋があった。中央に置かれた寝台大の平たい石の上で、ランプが一つ頼りなさげな炎を揺らめかせている。
「『あれ』が騒いでいるのは解るんだけど、僕だけじゃ情報の遣り取りに限界があってね。ユエトは役に立たないし」
「感謝し足りないにしては、随分な言いざまだな」
「それとこれとは別」
 あれよあれよという間に、リーナはその石の上に横たえられた。
「あ、あの、私、どうすれば? ってか、どうなるんで?」
「あー、気にしない、気にしない。寝てて。そこに」
 気にしない、って……、それは無理というものだろう。
 おそらく、その場に居合わせた全員がそう心中で呟いたに違いない。だが、ユールはそんな瑣末なことに頓着するふうもなく、何かを探しているような素振りで辺りを見まわし続けていた。
 やがて、ようやく何かに得心がいったようで、ユールは両腕の袖をまくり上げ、頭上大きく両手を掲げた。
  
 何をするつもりなのか。一同、固唾を呑んで彼らを見守る。
 張りつめる空気。
  
「あのー、皆、少しの間、僕の手を見ないでくれる?」
 動作はそのままに、あからさまに困った顔でユールが振り返った。「あ、勿論君も。目、閉じて、寝てて」
 一気に緊張の糸が切れ、大きな溜め息がそこかしこから漏れた。この風変わりな歴史教師と付き合う限りは、彼のペースに振りまわされるしかないのだろう。
 諦観の眼差しを全員から注がれていることに気がつくこともなく、ユールはおもむろに両手を打ち鳴らし始めた。何度も、何度も。
「……精霊使いか」
 ザラシュが呟いた。
 精神――とりわけ「情動」――が精霊によって司られているという話を、彼は耳にしたことがあった。ユールが使役するのは、その類なのだろうか。
  
  
 再び訪れた静けさは、音調を落としたユールの声で破られた。
「さあて。喋れるかな? 君は一体誰なんだい?」
  
 ゆるり、と、リーナが起き上がった。