第十四話   滴り落ちる闇
			「こちらにおいでになるなら、せめて昨日のうちに連絡していただけたら……」
			「あ、いや、どうか気にしないでください。何の用意も世話もしなくて良いので……」
			「しかし……」
			 かしこまる年配の使用人に優しく微笑んで、ルーファスは軽く咳払いをした。
			「正直なところ、私が別荘を使ったことは、父には秘密にしておきたいのです。ですから、どうか何もお構いなく」
			「しかし、お坊ちゃま」
			「その……、実は、ルドスへは、騎士としての仕事のついでに植物採取に来たので……。父に知られると……」
			「おお」
			 使用人は、ぽん、と手を打つと、ルーファスの背後に並ぶ面々を得心がいったように見まわした。
			「なるほど。では、皆さんは学校の時のお知り合いで……」
			「あー、ああ。そうなんですよ。ですから、雨風さえ凌ぐことができれば、あとは自分達で外に食べにも行きますし……。それに、早ければ明日にでも出立の予定ですので……」
			 心得たふうに大きく頷きながら、使用人が悪戯っぽい笑みをルーファスに投げかける。
			「了解いたしました。では、他の者にも周知徹底させておきましょう」
			「ありがとうございます、助かります」
			「いえいえ。お坊ちゃまに夢を諦めさせたのが旦那様の我侭なれば、お坊ちゃまもたまには我侭をお通しになれば良いのです」
			 お坊ちゃま、と連呼され、ルーファスは明らかに外野の視線を気にして顔を赤くした。
			「とにかく、食事も何も用意しなくて構いません。部屋も二つだけ、ご婦人と残りの者とで使います。あとの掃除だけはお願いすることになると思いますが、他は何もしなくて良い……、いえ、何もしないでください。お願いします」
			    一  道標
			 シンガツェでのあの騒動から十日。シキ達は二週間ぶりにルドスの土を踏みしめた。
			 この街を出立した時と違って、今度は総勢七名。その内四名は立派なお尋ね者だ。本来ならば、少人数に分かれて行動するのが良いのだろうが、今度ばかりは組分けが上手くいかなかったのだ。
			 当初、ウルス達はルドスには立ち寄らない予定だった。一度あんな騒ぎを起こして、人々の――とりわけ警備隊の――耳目を集めてしまっている以上、不用意に街に姿を現すのは危険過ぎる、というのが彼らの考えだったのだ。
			 だが、シキの一言が全てを覆してしまった。
			「そうだ。サラナン先生だったら、リーナの記憶を取り戻すことができるかも」
			 彼女が自身の体験を語り終わると、リーナはもとよりサンとルーファスも色めきたち、一も二もなくルドスのユールのもとを訪ねよう、と主張し始めた。睨み合う男二人の間に挟まれたリーナの、縋りつくような瞳に応えて、シキもルドス入りに挙手し、そうなれば当然レイも従うことになる。
			 意外だったのは、老師ザラシュ。彼もまたユールの術にいたく興味を示し、やはり同行を申し出た。そうなれば、ウルス一人が突っ張ったところで事態はどうにもならない。
			「どうなったって知らないからな」
			 捨て台詞ともとれるウルスの虚しい一言とともに、結局一同はルドスの門をくぐることになったのだった。
			 で。
			 結局、同様な理由で三手はおろか二手に分かれることもできず、かといってこの目立つ集団のままで宿を探すことは不可能と思われ、いい加減手詰まりを迎えたところで、ルーファスが躊躇いがちに、カナン家の別荘がルドスにあることを告げたのだ。
			「サンの奴や他の人間はともかく、悪いが俺は『恩義』という言葉には無縁でな。見返りも期待しないでもらおう」
			 客間の肘掛け椅子に納まったウルスが、鷹揚に言葉を吐いた。言外に、ルドス入りは自分の意向ではないということを強調している。
			「そんなもの、かけらも期待していませんから。私はリーナさんに不自由をかけさせたくないだけです」
			 優しげな表情で辛辣に返し、ルーファスはにっこりとリーナを振り返る。
			「あー、ははははは」
			 とりあえず笑っとけ、と言わんばかりの笑みを顔に貼りつけて、リーナは救いを求めシキの姿を目で探した。
			 シンガツェでの一週間、記憶を無くしたリーナの傍について彼女の世話を焼いてくれていたのは、シキだった。
			 物言いたげに、だが何も言わずに、ただ自分の話し相手になってくれるシキ。リーナは彼女の言葉ならば信じることができる、と思った。
			 勿論、自分を助けて拾ってくれたナオノのことは勿論、彼女の息子のアキも、その友人達だという男達も、信用できないというわけではない。だが、自分自身のことすら定かではないリーナにとって、全ては薄いベールを隔てた向こう側にあった。手を伸ばしても、伸ばしても、指に触れるものは掴みどころがなく、何もかもが握り締めた指の隙間から煙のように霧散していくのだ。
			「ねえ、私って、どんな人間だった?」
			「どんな、って……、今と同じ。全然変わってないと思うけど」
			 シキは、少しだけ考え込む素振りを見せたが、すぐにリーナに笑いかけてきた。
			「裏表がなくって、気取ってなくて、それって本っ当にリーナの『地』だったんだねー」
			「あー、まあ、自分を『作る』ほど奥行きないってことかなあ」
			「違う違う、そういう意味じゃなくて。これまでも、何も構えることなく付き合ってくれていたんだなあ、って嬉しくて」
			「友達付き合いするのに、構えてたら疲れるだけじゃん」
			 不思議そうに応えるリーナに、シキが曖昧な笑みを浮かべる。その笑顔があまりにも切なくて、リーナは何も言えなくなってしまった。
			 ――彼女がこんな表情を見せる理由を、私は知っているんだろうか。知っているのなら、何と言って彼女を慰めたんだろうか。
			「やっぱ、リーナは強いね」
			「……その台詞、なんかすっごく耳になじむんだけど」
			 シキが笑い出すのを見て、リーナは満足そうに鼻を鳴らした。それからちょっと大袈裟に落胆してみせる。
			「だよねえ。色男二人を手玉にとる悪女、ってのは、やっぱり私の雰囲気に合ってないよねえ。二人の男が奪い合う、か弱き乙女、ってのも……って、ちょっと、シキ、笑い過ぎ!」
			「はいはい、御託は分かったから、さっさと眼鏡先生を呼んで来て、記憶を取り戻してもらおう」
			 至近距離のその声に、リーナは一気に現実に引き戻される。
			 サンがこれ見よがしにルーファスとリーナの間に割り込んでいた。そして、そのままの位置でザラシュのほうを振り返る。
			「ザラシュさんも立ち会うんですよね。でしたら、こちらにお呼びしたほうが良いですよね?」
			「そうだな。大勢で移動するよりも人目を引かぬだろうから……、構わんな? 宜しく頼むよ」
			 ザラシュが、殆 ど形式的にウルスに確認をとったのち、いつになく目を輝かせてそう答えた。一方ウルスは軽く肩をすくめると、また椅子の背に身を沈ませる。
			 その時、部屋にノックの音が響き渡った。
			 ルーファスが大きく溜め息をついてから、ぶつぶつとぼやきつつ扉に歩み寄る。
			「どうしました? 本当に何も構わなくて良いと……」
			「それが、あの、お坊ちゃま。お客様が……」
			「客? 私に? 一体誰が?」
			 部屋の空気が一瞬にして張りつめた。だが、既に何かに動揺している様子の使用人は、その雰囲気の変化に気づくこともなく、ルーファスの問いにおずおずと口を開く。
			「はい。あの……、それが、サベイジ家のご三男が……」
			 その刹那、場の緊張は最高潮に達した。二人の人間を除いて、全員が金縛りにあったかのように凍りつく。
			 ただ事ならぬ雰囲気に、例外の一人たるリーナは、おろおろとあたりを見まわした。
			「さべいじ? 誰だ、それ?」
			 怪訝そうに首をひねるレイの隣で、シキがごくりと喉を鳴らした。「……エセル・サベイジ。ルドス警備隊隊長だよ」
			「カナン家のご嫡男がルドスにお戻りになったと聞いたので、ご挨拶にお伺いいたした」
			 外套を羽織ったままの姿で、エセルは広い玄関ホールの中ほどに佇んでいた。その傍で、若い使用人がすっかり取り乱した様子で右往左往している。
			「これは、失礼いたしました。私のほうこそご挨拶に伺わねばならないところでしたのに。……こんなところで、失礼でしょう。お通しなさい」
			「そ、それが……」
			「良い。私が辞退したのだ。長居するつもりはないのでね」
			 午前の柔らかな日差しが、吹き抜けのホールにさんさんと降り注いでいる。その眩い陽光の中に、エセルの外套と髪の色はあまりにも暗く、周りの景色から不気味なほどに浮き上がってしまっていた。
			 ルドスの北門をくぐったのは今朝早く、市に向かう人々の列に混じってのことだ。それからこの屋敷に入って、まだ数刻しか経っていない。一体、どこからどういう情報が彼の耳に届いたのだろうか。彼はどこまでを知っているのだろうか。ルーファスは思わず唾を飲み込んで、それから意を決して静かに来客のほうへと歩みを進める。
			「届けのあった、山賊に攫われた娘というのは、見つかったのだろうか」
			 年上の貫禄なのか、それとも単に踏んだ場数の違いなのか、同じ爵位を抱 くはずのこの男に比べて、自分がとても矮小な存在であるようにルーファスには感じられた。
			 いや、違う。サベイジ家は同じ公爵家だが、彼は嫡男ではない。本来ならば、カナン家を継ぐ自分のほうが優位であるべきなのだ。ルーファスは知らず拳を握り締めて、エセルに向かい合った。
			「はい。午後にでも、警備隊本部のほうへご報告にあがろうと思っていたところです。おかげさまで、無事発見することができました」
			 ほう、と、感心したような声が、エセルの喉から漏れる。
			「司祭は、既に帝都へと向かわれた。警備隊から護衛を二人つけておいた」
			「ありがとうございます」
			 エセルは「礼には及ばない」と軽く手を振り、それから一転してその抜き身のような気配を緩めてきた。
			「で、彼女は?」
			「は?」
			「攫われたという癒やし手だよ。どんな美女かと思ってな」
			 返事を忘れて、ぽかんと口を開いたルーファスに、エセルがにやりと笑いかけてくる。
			「今を時めくカナン家の御曹司が、任務を打ち捨てて助けようとなさった女性だ。気にならぬほうがおかしいだろう?」
			「そんな……。そもそも、彼女を帝都へご案内することが任務なのですから」
			「そう。だからこそ、だ。司祭をお送りするのが貴公の仕事で、山賊退治は我々の仕事。違うか?」
			「……そう、ですね……」
			「で。彼女はどこに?」
			 自分で家捜しをしかねないエセルの勢いに、ルーファスは慌てて使用人にリーナを呼ぶように指示を出した。
			「どうぞ、応接間へ」
			「良いと申しただろう。彼女を一目見たら仕事に戻ることにする」
			 優秀な剣士であり、帝国最年少の警備隊隊長、そして……。
			 ルーファスはもう一つのエセルに対する称号を思い出していた。
			 ――稀代の女好きという噂は、本当だったのか……。
			 思わず嘆息が漏れるのを、ルーファスは止められなかった。
			「なんで、お前と組まなきゃなんねーんだ」
			「それはこっちの台詞だ」
			 午後の目抜き通り。ぼやくガーランにラルフが即座に毒づき返す。
			 同じような体格に加えて、髪の色、瞳の色もほぼ同じ二人だったが、その印象にはあまりにも差異がある。見るからに不真面目そうなガーランに対して、ラルフの視線は神経質なほどに真っ直ぐで、今も、前屈みでかったるそうに歩く相棒に、非難の色を添えて注がれている。
			「しゃきっと歩けないのか。見苦しい奴め」
			「別に俺がどんな歩き方してようが、関係ないだろ」
			「警備隊の沽券に関わる。傍にいる俺まで品性を疑われる」
			「別に素っ裸で歩いているわけでもなし。何が品性だよ」
			 と、そう言って煙草を咥え直したガーランの目が、悪戯っぽく輝いた。口の端 をぐいと吊り上げて、彼はえんじのジャケットを脱ぎ始める。それを見たラルフが、驚愕の表情を浮かべて硬直した。
			「な……、ま、まて、……何を……」
			 すました顔でガーランは、脱いだジャケットの袖を腰にまわして結わえつける。それから、酷く意地の悪い表情で、ラルフの顔を覗き込んだ。
			「ちょっと暑いから、上着脱いだだけだぜ?」
			「……お前のそういうところが、大っ嫌いなんだ!」
			「そんなに感情的になったら、警備隊の沽券に関わるぜぃ」
			 歯軋りの音が聞こえてきそうなほどラルフの顎に力が込められるのを見てとり、ガーランは心の中で舌を出してほくそ笑んだ。
			 ラルフは自分のことを嫌っているようだが、ガーラン自身は、この融通の効かない同僚のことを結構気に入っていた。他人だけでなく自分にも厳しいその態度は、見ていて清清しいものであったし、それに何より……からかい甲斐がある。
			 ――俺って、ホント、根性悪いよな。
			 忌々しそうにガーランを睨みつけながらも、律儀に歩調を合わせてくるラルフを、ちらりと横目で窺いながら、ガーランはもう一度煙草を咥え直そうとした。
			 その手が、動きを止める。
			 ――あれ?
			 ふと、前方に違和感を覚えて、ガーランは目を眇 めた。何か、ぼんやりとした既視感を覚えたのだ。
			 目の前にあるのは、往来を行きかう人々の群れだ。こちらからあちらへと流れゆく人の波と、あちらからこちらへとやってくる人の流れ。二つの人波はその境界で時折混じり合い、時に衝突して、ざわめきとともに彼此 へ去っていく。
			 その三丈ほど先に見え隠れする横顔が、ガーランの心に引っかかったのだ。
			 目深にかぶった帽子は、しっかりと耳あてが下ろされていた。そのせいで微妙に判別のつかない人相の中、ちらちらと窺える勝ち気な瞳だけが、ガーランの記憶をざわめかせる。
			 いや、だが、ありえない。彼女ならば、今頃は自分の師匠とともに帝都のお屋敷に納まっているはずだ。ガーランは半信半疑の眼差しを何度も投げかけた。進行方向、深茶の長髪の男と腕を組んで歩いている若い女に。
			 エセルがカナン家別荘を訪れたことによって、事態は著しく混乱した。
			 この屋敷は、警備隊に監視されているかもしれない。ならば、ユールをここに連れてくるわけにはいかないだろう。ユールは反乱団にとって重要な情報源だ。不用意に危険に晒すわけにはいかない。
			 では、こちらからユールの家に出向いてはどうか。最小限の人数で、目立たぬように。
			 だが、それも叶わないことに思われた。何より、既にリーナの面が割れてしまっている。帝都に招へいされた癒やし手が、何の用があってルドスの歴史教師の家を訪ねるというのか。
			 喧々轟々の話し合いの結果、色んな意味で一番身軽なレイと、そのお目付け役としてシキが、まずは先鋒隊としてユールの家を訪ねることとなった。そうして日時を指定して、どこか街中ですれ違いざまにでもリーナに施術してもらおう、と、そういう話に落ち着いたのだ。
			「なあ」
			 少しでも警備隊の視線をかわすことができるように、二人は腕を組んで歩いていた。まさか逃亡者が街中で堂々と逢引などとは、誰も考えないだろう、と。
			「何?」
			「偽装」の指輪で髪の色を変えたレイの姿が新鮮で、シキは少しドキドキしながら返事をした。そもそも、二人で腕を組んで往来を歩くというのも初めてのことで、ついつい顔が綻んでしまう。
			「寄り道してる余裕って……」
			「無いよ」
			 しかし、いくら浮かれていても、目的と意義を忘れてはならない。シキはレイの目を覗き込みながら、きっぱりと言いきった。
			「ちょっとぐらいは……」
			「米粒ほども、無い」
			 レイが唇を尖らせる。
			「なんだよ、つれないなあ」
			「状況を良く考えようよ」
			「良く考えてるから、言ってるんだぜ」
			 甘い気分が、レイが口を開くたびにどこかへ吹き飛ばされていく。シキは大きく溜め息をついた。
			 だが、レイはというと、シキのそんな様子に気がつくふうでもなく、相変わらず拗ねているような口調で、しつこく食い下がってくる。
			「もう一週間、キスも無しじゃん」
			「レーイー」
			 半ば呆れながら、シキは眉間に皺を寄せた。おかしい。お使いとはいえ、さっきまでは楽しい恋人同士の散歩のはずだったのに。
			「奥様、とやらがシキとリーナを別部屋にしてから、ろくに一緒にいられなかったし」
			「仕方ないじゃん」
			「仕方ない? 何が?」
			「必要以上にサンとルーを刺激することないでしょ」
			 そして、もう一度溜め息。
			 だがシキの胸中を察するどころか、レイは、ふん、と鼻を鳴らして彼女の耳元に口を寄せてきた。
			「お前と違って、俺は心が広くないんでね。……どうしてもダメだってんなら、いっそ、無理矢理……」
			 その瞬間、シキの身体が、びくん、と小さく跳ねた。
			 レイの目つきが粘度を増し、両の眉がどこか得意そうに軽く上げられた。そうして、今度はシキの耳朶に唇を軽く触れさせてくる。
			「随分、反応良いんじゃないか?」
			「そうじゃない」
			 絞り出すように、シキは呟いた。
			 耳元で囁かれる甘い言葉よりも何よりも、シキの背筋を震わせる圧迫感。
			「何が?」
			「いる……、すぐ後ろに……」
			「警備隊か」
			 固い表情で微かに頷くシキの横で、レイがそっと口角を上げた。
			 人通りの多い往来、定められた巡回経路を相棒と辿りつつ、ガーランは疑念に苛まれ続けていた。
			 頭五つほど前方を歩く小柄な女。彼の位置から伺えるその女の体格や頬のラインは、非常に既視感を覚えさせるものだったが、その実、彼女だと断言できるほどではない。帽子や外套のせいで、どうしても容姿がはっきりしないのだ。それに……何より雰囲気が違う。全然違う。
			 連れの男に腕を絡ませ、楽しそうにじゃれ合う様子は、とてもあの無愛想な鉄面皮と同一人物とは思えない。
			「いいだろ」
			「いやだってば」
			 その二人の言い合いが、突然激しさを増した。彼らの傍を歩く人間が、驚いたふうで少し身を引いている。
			「なんだよ、俺のことが嫌いになったのか?」
			「ち、違うって……、でも……」
			 声の質も似通っているが、やはり態度が違う。声の調子もあんなに甘くはない。
			「でも、何だよ。俺がどんな気持ちでいるのか、教えてやるよ」
			 突然、すぐ前を歩く人間が歩みを止めた。その背中にぶつかりそうになって、ガーランも慌てて立ち止まる。混乱はそのまま後方へと波及しているのだろう、彼の背後から驚きや非難の声が少なからず湧き起こった。
			 ややあって、停滞した人の波は再び動き始めた。そして何かを避けるようにして、少し前方で左右二つに分かれて進んでいく。
			 流れを別っているのは、往来ど真ん中で熱い口づけを交わす先ほどの二人の姿だった……。
			 ガーランの隣でラルフが小さく毒づいた。人通りのそこかしこから、野次が熱烈な恋人達に投げられる。
			 突然の出来事に歩みを止めることもできず、ガーランはただ目を丸くしながら、傍若無人な二人組の横を通り過ぎていった。
			 ――やっぱり人違いだ。ありえねえ。彼女ならば、こんな往来であんなことをされたら、たとえ相手が恋人だとしても、張り手か回し蹴りが炸裂するに決まってる。……シキのはずがない。
			「ったく、最近の若いモンは、とんでもねえな」
			 知らず緊張させていた全身をがっくりと弛緩させて、ガーランは紫煙を吐き出した。その横でラルフが、顎をさすりながら、普段以上に難しい顔で小首を傾 げている。
			「……しかし、あの女、どこかで見たような……」
			「隊長みたいなこと、言ってんじゃねーよ」
			「あんな奴と一緒にするな」
			 ラルフが憮然とした表情で即座に返してくる。
			「よーし、仕事、仕事」
			 ガーランは大きく伸びをして、それからラルフの背中を、ばんっ、と叩いた。
			「もう! 何するのよ!」
			 建物の陰で、壁にもたれながらシキは大きく息を吐いた。恥ずかしさと怒りを発散できなかったその手が、まだ固く握り締められて震えている。
			「でも、気づかれずに済んだだろ? 我慢してくれて、ありがとな」
			 いつになく神妙なレイの台詞に、シキの頭は一瞬にして冷えた。
			 そうだ。大切なのは、何を優先するか、ということだった。警備隊に見つかることなく、密かにユールと連絡をとる。公衆の面前での口づけなど、些細なことだ。些細な…………
			 公衆の面前。往来の真ん中。
			 再びシキの顔が、耳のところまで赤くなる。
			 レイの顔を見ていられなくなって、シキは思わず彼に背を向けた。
			 間髪を入れず、レイの腕がシキの背後から伸びてくる。突然のことにシキは抵抗することもできず、彼にすっぽりと抱きすくめられてしまった。
			 ひとけの無い路地裏、久方ぶりの抱擁。やっぱり少し恥ずかしいけれど、これぐらいならいいかな、と、シキが身体の力を抜いたところで、レイが、レイの手が、調子に乗った。
			「ちょっと、レイ、何を……」
			「さっきの続きに決まっ…………!?」
			 手首の関節を反 されて、レイが路面に転倒する。そのまま右腕をねじり上げられ、彼は必死の形相で白旗を揚げた。
			「い、痛いイタイいたいって! 分かった、分かったから、手ぇ離してくれっ!」
			「余計なことはなしで、さっさとお使い終わらせる! 続きはそのあと! 了解!?」
			「り、りょうかい」
			 肩で息をしながら、シキは真っ赤な顔でそう一気にまくしたてた。
			「留守だとさ」
			 ぶっきらぼうに、レイは一言で報告を終えた。
			 予定外の結果を伝えるべく、お使いを終えた二人は夕闇とともに真っ直ぐカナン家の別荘へと帰投した。レイが不機嫌な理由は、わざわざここに記すまでもないだろう。
			 怪訝そうな表情のウルスに、シキがレイの言葉のあとを継ぐ。
			「先生のお母さんが応対してくださったのですが、なんでも、先生は学校に一週間の休暇届けを出して、ご友人と実地研究に出たそうです」
			「実地研究?」
			「野外調査、ということらしいですけれど……ちょっと良く解らないって、サホリさん――先生のお母さんも仰ってました」
			「つまりは、全てが無駄足だったというわけか」
			 静まりかえった室内に、ウルスの声が低く響く。一気にその場は重苦しい雰囲気に包まれてしまった。
			「あー、まあ、別にこれで一生記憶が戻らないってわけじゃないんだし」
			 殊更に明るく、リーナが口を開いた。「それに、一週間経ったらその先生って帰ってくるんでしょ?」
			「そいつは、無理だ」
			 ウルスの声は、意外なほど穏やかだった。「我々はそんなにも長い期間、ここに留まることはできない」
			 ウルスは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと傍らのテーブルの上に揺らめくランプに視線をやる。
			「さて、どうするか。……サン」
			 サンのみならず、皆が一様に息を呑んだ。
			「勿論、決めるのは彼女自身だろうが、お前の意向を聞いておきたい」
			 淡々と紡ぎ出される言葉は、静かに、だが容赦なくサンに放たれる。
			「彼女か、俺か。どちらを選ぶ? サン」
			 サンの拳に、微かに力が入る。
			「俺は…………」
			 その時、こつり、と窓の方向から硬質な音がした。
			 驚いて振り返った一同の視線の先、カーテンの引かれた掃き出し窓の外は、中庭だ。そして、その音は確かに窓の外から聞こえてきたようだった。
			 この屋敷の塀は、決して低くはなかったが、侵入が不可能なほどではない。主 の滞在中ならば、家人が手分けして邸内を巡邏しているものだが、今は違う。
			 いち早く身構えたサンを片手で制して、ルーファスが窓辺に歩み寄った。剣の柄に手をかけながら……一気に厚いカーテンを引き開ける!
			「そいつは、味方だ」
			 ウルスの声が、張りつめた空気を緩ませる。
			 薄闇に沈む植栽を背後に、一人の男が両手を挙げ、攻撃の意思がないことを示して立っていた。
			「ダラス。お前は確か警備隊に捕らえられていたのではなかったか」
			「はい、ですが、アスラ帝がここルドスを去られてすぐ、なんとか無事、放免されました」
			 ウルスの目が、つい、と細められた。
			「妙だな。奴らにとって、お前は反乱団への貴重な手がかりだろう。どうして無事で済むのだ」
			 その声に、ダラスは苦渋に満ちた表情で袖をまくった。
			 リーナが、ひ、と短い悲鳴を漏らす。
			 彼の手首には、縄の痕がどす黒く刻まれていた。そして、まだ痛々しい裂傷が、腕一面に散らばっている。
			「同情してもらおうというわけではありませんが……腕だけではありません。つらかったですよ。それでも私は、何一つ喋らなかった」
			 水を打ったように皆が静まり返る中、レイは、つい二週間前のことを思い返していた。
			 ルドスの収穫祭襲撃のあと、ウルスによってレイが「赤い風」の面々に引き合わせられた時、大抵の者は、突然湧いて出た「黒の導師もどき」に怪訝そうな眼差しを向けたものだった。その中で、ダラスの朗らかな笑顔は、レイの心を随分と安らがせてくれた。彼は豪快な身振りでレイの援護の手際を褒め、「これからもよろしく頼む」と力強い握手でレイを受け入れてくれたのだ。
			 それが、なんというやつれようだろうか。かつての陽気さを微かに瞳にだけ残し、ダラスはどこか疲れきった表情で口角を上げた。
			「兄帝が去られて、警備隊の情熱も冷めてしまったようです。いつまでも口を割らない捕虜に、無駄飯を食わすつもりはない、そういうことなんでしょう」
			「解った」
			 大きな動作で足を組み直し、ウルスは左の肘掛に頬杖をついた。
			「で、何用だ」
			「サラナン先生をお訪ねだったと聞き及びまして、お役に立てたら、と」
			「ふん、大した情報網だな」
			 すこぶる満足そうに、ウルスは口の端 を吊り上げる。だが、次の瞬間、彼はやや眉をひそめて身を起こした。
			「この家は警備隊に監視されているとばかり思っていたが」
			「大丈夫です。我々を侮られませぬよう。連中はこちらを特に警戒している様子もありませぬし、一応念のために仲間が街の中心部で注意を逸らせております」
			 シキとレイは思わず顔を見合わせた。
			 お使いの道中は勿論、ユールの家でも、この屋敷に帰ってきた時も、自分達を尾行する者がいることに気づけなかった。雑踏に気配を誤魔化されたのだとしても、それはもはや、素人の仕事ではない。ダラスが胸を張るのも至極尤 もだと思えた。
			「サラナン先生に、どのようなご用が?」
			「記憶を失ったこの娘を助けてやろうというわけだ」
			 部屋の隅に立つリーナを、ウルスが顎で指し示す。
			「お急ぎならば、ご案内いたしますが」
			「行き先を知っているのか」
			「はい。他でもない、私の兄が先生を連れ出したものですから」
			 話題に新たな人物が登場したことによって、ウルスは勿論、その場にいた全員が少々面食らった様子を見せた。
			「兄?」
			「はい。街の南部で古物商を営んでおります、通り名を『月の剣』と申す、しがない探索者でございます」
			「あーーーー!」
			 その名を聞いた途端、レイは思わず叫んでしまっていた。もたれていた壁から身を乗り出し、礼を欠くことも気にせずにダラスを真っ直ぐ指差す。
			「何だ?」
			「古物商で『月の剣』って、その人、日に焼けた、こう、肩幅のいかつい、刈り上げの?」
			 ダラスが訝しげにレイに向き直る。
			「そうだけど?」
			「半年前にサランで会ったんだ! そうだ! ダラスさんが誰かに似ているって、ずーっと気になってたんだ。そうか! なんだ、そうだったんだ!」
			 その地名にシキが反応した。
			「サランで……って、もしかして」
			「そうさ、例の異教の呪文書をロイに売りつけやがった奴だ」
			 ど、と大きな音を立てて、ウルスが椅子の背にもたれかかった。それから挑戦的な瞳で一同を見渡す。
			「……ふん、面白そうだな。もう少し付き合ってやるとするか」