「やっぱり、映画は独りで観るものじゃないね」
迷路のごとき地下街を延々と進み、到達したのは隠れ家のような喫茶店。その奥まった席で珈琲カップを傾けながら、陸はにっこりと極上の笑みを作った。
同じ地下でも駅近くの煌びやかなショッピングモールとは違ってどこか寂しいうらびれた一角、周囲の店には軒並みシャッターが降りていて、一体どこのゴーストタウンかと言いたくなる。最後の角を曲がった所でこの店が遠くに見えなければ、志紀は言い訳もそこそこに全力で逃げ帰っていたことだろう。
少しレトロで落ち着いた店構えは、遠目にもその凝った雰囲気を充二分に伝えていた。見事なまでに周囲から浮いたその外観に、志紀は思わず数度まばたきを繰り返してしまっていた。そこだけ空間が切り取られて、異次元が現れているのではないかとすら思えたからだ。
まるで大草原のただ中にいるかのように錯覚させる明るい店内は、カントリー調の調度で完璧に統一されていた。
手作りと思しき素朴な木の椅子の上で、志紀は密かに感嘆の溜め息を漏らした。成績が良くて、運動神経もそこそこで、見た目だって悪くない。加えてお洒落もできて、こんな素敵な店も知っているだなんて、天は二物を与えたどころか、三物四物の大盤振る舞いである。羨ましいなあ、ともう一度嘆息してから、志紀はハーブティのカップを口に運んだ。
「こうやって感動を吐き出したくなった時に、それを受け止めてくれる連れがいるって、いいよね。有馬さんもそう思わない?」
この店に腰を落ち着けて以来、陸は先刻見た映画の話を楽しげに語り続けている。
映画に限らず他人の感想を聞くのは嫌いではない志紀だったが、そろそろ我慢の限界に達しつつあった。話題に飽きた、と言うよりも、陸のあの台詞が気になって仕方がなかったのだ。
だが、焦りを見せたら負け、のような気がして、志紀は全力で平静を保ち続けていた。ゆっくり、深く息をして、カモミールの香りを胸一杯に吸い込む。
ふと、陸が口をつぐんだ。
突然訪れた沈黙に、志紀は少しだけ不安になって、そっとカップをソーサーに置いた。
「どうしたの?」
「……まったく、一筋縄ではいかないなあ、君は」
「え?」
ふう、とこれ見よがしな溜め息をついてみせてから、陸は椅子の背にどっかと身を預けた。
「あんな思わせぶりな台詞吐かれたらさ、普通なら『早く本題に入ってよ!』ぐらい言いそうなもんじゃない?」
なんとも珍しいことに、彼の口元には苦笑が浮かんでいる。「どうも、君にはペースを狂わされるよな。……要は、相当相性が悪いってことなのかな、僕達は」
そう言いながら陸は背もたれから身を起こした。テーブルに対して少し斜めに身体を向けると、鷹揚な動作で足を組む。
「有馬さんさ、原田と別れただろ?」
奇襲攻撃に驚くあまり、志紀は何の反応も返すことができなかった。硬直することすら叶わずに、二度ほど大きく目を瞬かせるのみ。
だが、陸はそれをポーカーフェイスと誤解したようだった。
「相変わらず冷静だねえ。いいよ、答えなくって。確信してるから。年末あたりから、君ら完全に切れてただろ。二人揃って、お互いに対する迷いが全然感じられなくなってたもんな。ああ、終わったのか、って思ったよ」
原田というのは、彼らの同期で同じく化学部員だった、原田嶺 のことだ。志紀とは家が近所なばかりか、幼稚園から高校までずっと同じところに通い続けた、絵に描いたような「幼馴染み」である。
お調子者で口は悪いが人の良い嶺は、人付き合いがさほど得意ではない志紀と違って、常に人の輪の中心にいた。たまに嶺の悪ふざけが過ぎる時ばかりは、志紀も遠慮なく小言を繰り出してはいたが、彼の持つ屈託のない明るさに、密かな憧れを抱いてもいた。嶺も志紀のことを悪しからず想ってくれていたようだったが……、結局、志紀は朗と付き合うようになり、二人の関係が幼馴染み以上のものへと変化することは、ただの一度もなかった。
しかし、依然として二人の仲を誤解する者は少なくなく、陸もそのうちの一人だった……はず、なのだが。
ようやく思考が状況に追いついてきた志紀は、慎重に言葉を紡ぎ出した。
「……確信したいっていうのなら、勝手にしてくれてもいいけど、だから何?」
「つまり、これで誰に気兼ねすることもなく、僕は君に迫れるってわけだ」
その刹那、幾つもの映像が志紀の脳裏で閃いた。ひとけの無い放送室、自分に覆いかぶさる影。冷たい笑みを浮かべるその唇は、忘れようもない、目の前に座るこの男のものだ。
志紀の背筋を怖気が走る。まるで、鳩尾の奥に氷を埋め込まれたかのようだった。
『柏木には気をつけろ』
僅かに顔を背けてそう呟く朗の姿が、みるみる遠ざかっていく。光はおろか音も無い虚ろな闇の中、朗を追おうと慌てて踵を上げた志紀の足を、重く冷たい鎖が絡め捕った。鈍く光る縛めの先に佇むのは……。
カラン、と扉のベルが鳴り、志紀は現実に引き戻された。
朗らかな笑い声とともに年配のカップルが店内に入ってくる。いらっしゃい、の挨拶に応えて、彼らの足音がカウンターのほうへと移動していった。
志紀が大きく息をつくのとほぼ同じタイミングで、陸が唸るように笑い始めた。
「本っ当に、君は予想を裏切るのが上手いね……。ちょっとぐらいは取り乱すかと思ったのに、煽り甲斐がないったら。随分悠然と構えてくれてるけど、僕が未だ君を諦めていない、って思わないわけ?」
「……じゃあ、どうして柏木君は、私がそう思うって考えるわけ?」
あまりにも自分勝手な陸の言い草に、さしもの志紀もむっとした表情を隠せなかった。反則技と知りつつも、質問に質問で返してしまう。
ふん、と鼻を鳴らして、陸は口の端 を大きく引き上げた。それから、志紀のほうに大きく身を乗り出すと、テーブルの上に片肘をついた。
「お互い、馬鹿じゃない、ってことか。いいよ、正攻法で行こう。ってか、君って意外と弄り甲斐がないよな。つまんねーの」
ほんの一瞬だけ拗ねたように唇を尖らせて、だが彼はすぐにいつもの表情に戻った。「ぶっちゃけ、僕はもう君のことなんてどうでもいいと思っている。でも、もうちょっとスッキリさせてもらいたくってさ。せっかくの機会だからこうやって話がしたかったんだ」
「スッキリ?」
「やられっぱなしでフェイドアウトするのは趣味じゃないんだ。それに、君にもちょっとぐらいは有用な話なんじゃないかな、とも思うし」
先ほどからの経験を元に、志紀は困惑の表情を押し殺した。案の定、陸は小さく肩をすくめてから、言葉を続ける。
「有馬さん、多賀根のことが好きだろ」
今度ばかりは、志紀も息が止まるかと思った。
一気に自分の頬が熱くなるのが分かった。少し遅れて、鼓動が物凄い速さで拍子を刻み始める。陸の頬が緩むのを見て、悔しさから志紀の顔は更に熱を帯びた。
「隠してたんだろうけど、見てりゃ解るさ。君さ、化学室でずっと視線が多賀根を追ってたんだよね」
非常に満足そうに、陸が喉の奥で笑う。
「まあ、狼藉物から間一髪のところで助けてくれた正義の味方だもんな。白馬ならぬ白衣の王子様、ってか」
オウジサマって言うからには、やっぱ白タイツにちょうちんブルマだよな、と、ひとしきり含み笑いをしてから、陸は真正面から志紀の顔を覗き込んできた。
「どう? 想いを寄せる相手から見向きもされない気分は?」
怒りよりも何よりも、安堵の気持ちが志紀の心を冷静にさせた。身体中を駆け巡っていた熱気が、那辺へと静かに引いていく。変化を陸に気取られないように細心の注意を払いながら、志紀はあえて彼から視線を外した。
「もう卒業したんだしさ、多賀根に告白しないの?」
「なんでそんなことを訊くの?」
志紀の問いに、やけに得意げな表情で陸が身を起こした。
「この間、君の大学に行ったんだけど。ほら、物理部の大沢っていただろ? 彼にちょっと用があってね」
新たな名前が唐突に登場したことに、志紀は思わず目を丸くした。
大沢といえば、物理部の前部長を務めていた志紀達の同級生で、俺はいつか絶対にガンダムを作ってみせる、と機械工学の道を選んだ剛の者だ。そういえば、同じ大学だったな、と、志紀は胸の内で頷いた。
「その時についでに、複合機能材化学講座を覗いてきたんだ」
「複合……? 何?」
何やら、不吉な予感が胸に押し寄せてくる。
「ああ、多賀根が未だに顔を出している研究室。教え子が尊敬する先生の古巣を覗きに行くのって、別におかしかないだろ?」
いや増す不安感と戦いながら、志紀は無言で続きを促す。
「で、教え子が先生の話を聞きたがるのも、変じゃないよな」
そこで一息ついて、陸は飛びっきりの笑顔を志紀に向けた。
「ポスドク(博士研究員)の人が、面白いことを教えてくれたよ。曰く、『多賀根先輩は……』」
カラン、と扉を開けば、そこはシャッターに囲まれた地下街だ。「どこでもドア」をくぐるとこんな感じなのかもしれない、などと疲弊しきった頭で取りとめのないことをぼんやり考えつつ、志紀は隠れ家めいた喫茶店をあとにした。
先に表に出ていた陸が志紀のほうに向き直る。そして、芝居がかった身振りで両手を大きく振り開いた。
「お疲れのようだね。でも、すぐには帰れなさそうだよ」
「え?」
一体まだ何があると言うのか、志紀は不機嫌そうな表情のままに陸を見やった。棘だらけの視線を、何故か楽しそうに受け止めて、陸はもう一度自分の背後へと振り返った。
「出て来いよ。そこに隠れているのは分かっているんだ」
――隠れて……? 誰が?
志紀の鼓動が早くなる。
「僕達のあとを、ずっとつけていたんだろう?」
見渡す限りひとけの無い殺風景な通路、少し前方、左側、非常階段への分岐の角で何かが動いた。
――まさか。……まさか、まさか、まさか!
先生、今出てきては、駄目だ! そう心の中で絶叫する志紀の目の前で、影は躊躇いがちにひとがたを成した。
「……よぉ、柏木。それに有馬も。奇遇だな?」
「嶺!?」
ばつの悪そうな表情で曲がり角から姿を現したのは、嶺だった。彼はしばし視線を彷徨わせたのち、ぐ、と口元を引き締めて仁王立ちになる。
「奇遇って……?」
まばたきを繰り返す志紀に、嶺はきっぱりと言いきった。
「いや、偶々通りすがってさ」
「え?」
この、駅前と言うには余りに外れ過ぎた最果ての地下街、どこへどう行こうとすれば、この店の前を通りがかることができると言うのだろうか。不審そうに眉をひそめる志紀の傍らで、陸がこれ見よがしに肩をすくめて見せた。
「茶店の窓から見えてたよ。こそこそこちらを窺っている怪しい人影が」
「え?」
「いや、だからその、お前らを偶然見かけて、それで……」
覿面に言いよどむ嶺に、陸の容赦のない攻撃が襲いかかる。
「もしかしてストーカー?」
「じゃねえよ!」
声を荒らげるや、嶺が陸の腕を捕まえた。そうして、「こいつ、ちょっと借りるわ」と志紀に言い捨て、先刻彼が姿を現した曲がり角へ、力任せに陸を引っ張っていった。
「なんだよ、原田」
「それはこっちの台詞だ」
自分達が志紀からの死角に入ったことを確認してから、嶺はやにわに陸の正面に向き直った。ゴホン、とわざとらしい咳払いをして、ずい、と陸の至近距離に迫る。
「柏木、お前、本気なんだろうな」
「何が?」
「志紀のことだよ」
何でもないふうを装ってはいたが、嶺の声音は途方もなく苦かった。
呼吸に合わせて上下する肩から、固く握り締められた両の拳から、やけに力の入った口元から、そして何より陸を見つめる視線からも、嶺の想いが滲み出していた。
どうして、お前なんだ、と。
その声無き声は、嫉妬、と一言で済ませられるような単純なものではなかった。何故自分は選ばれなかったのか、彼女は何を求めていたのか、自分と彼とで一体何が違っていたのか。それはまるでおのれ自身を腑分けするかのごとく、自らに突き立てた刃 とも言うべきものであった。
「……お前、この間、女連れていちゃいちゃしながらミナミを歩いてただろが。アレは何だよ、まさか二股かけてンじゃねえだろうな」
やっとの思いで自分から引き抜いた白刃を、嶺はゆっくり陸の喉下に突きつける。その一瞬、嶺の鳶色の瞳が、非常口のランプを写し込んで緑色に光った。
ふ、と、陸の口角が、微かに引き上げられる。
「つか、なんで原田がそういうことを気にするわけ?」
遠慮のない陸の問いに狼狽して、嶺は思わず視線を逸らす。それゆえ、彼は気がつくことができなかった。陸の目に湛えられた喜色に。
「……保護者代理だよ、悪いか! あいつに何かあったら、おばさんとかおじさんとか、俺の両親まで俺を責めるんだからな! 言っとくけどな、ご近所付き合いって煩いんだぞ!」
「そりゃ、大変そうだな」
「ああ、もうスッゲー大変なんだ。って、解ったなら、さっさと答えやがれ。この間の女はなんなんだよ」
ようやくいつもの調子を取り戻した嶺は、大きな動作で両手を腰に当てると、小さく下唇を突き出しながら陸を睨みつける。
すう、と陸は大きく息を吸った。
「どの娘 のこと? ロン毛茶髪? それとも黒のショート?」
「…………な、に?」
「それに、僕がそういう奴だってこと、志紀はとっくに知っているさ。知ってて、こうやって付き合ってくれてるんだから、ありがたいよね」
――付き合うは付き合うでも、お茶に、という意味だけど。
陸の言外の呟きを、嶺は知る由もない。親しげに志紀の名を呼ぶ陸の甘い声も相まって、嶺の面 に朱が入る。
そんな嶺を追い詰めるかのように、陸は大きく一歩を踏み出した。嶺の眼前に迫る、陸の禍々しい笑顔……。
「人気者の原田クン、君の人望も彼女には通用しなかったってことかい」
「て、てっめえ……!」
地下道に響き渡る嶺の声を聞き、志紀は驚いて彼らが消えた角へ駆け込んだ。
階段の手前、嶺が陸の胸倉を掴んで、こぶしを振り上げている。
「嶺!」
志紀の一喝を聞いて、嶺の動きが止まった。
何があったのか知らないが、とにかく二人を引き離さなければ。志紀は夢中で陸と嶺の間に割って入った。
「落ち着いて! 暴力は駄目だって!」
嶺の腕から力が抜ける。
自由を取り戻した陸が、大儀そうに襟元を直す。
「何してるのよ、二人して」
嶺の唇が、痙攣するように微かに震えた。だが、何も言葉を成さぬまま、口唇はまた再び強く引き結ばれる。そして、嶺はゆっくりと踵 を返した。
「嶺……?」
一度も振り返ることなく、嶺は角の向こうへと姿を消した。微かな靴音が、単調なリズムで遠ざかっていく。
状況が理解できずただ立ち尽くす志紀の耳に、くぐもった笑い声が飛び込んできた。驚いて背後を見れば、実に清々しい面持ちで佇む陸の姿がそこに。
「あー、スッキリした。我ながら、自分の性格の悪さにはほとほと感心するね。サンキュー、有馬さん」
一体何がどうしてどうなったのか。やたら上機嫌の陸を、志紀は唖然と見つめることしかできなかった。
「もう、僕が君に絡むことは絶対にないから、安心してくれていいよ。お互い楽しいキャンパスライフが送れるといいね」
混乱した頭を抱えて、志紀は帰途に着いた。
今日は一体なんて日だったんだろう。気の抜けてしまった思考のままに、彼女は一日の出来事をぼんやりと反芻していた。
――先生と映画の試写会に来たはずだったのに、会場で柏木君に会って、喫茶店に連れてこられて、あんな話を聞かされて、帰る時になって嶺が現れて……。
こういう日のことを、まさに厄日と言うのではなかろうか。そう自分に言い聞かせながらも、どうしても溜め息が出てしまう。こんなことじゃダメだ、シャキッとしなきゃ、と気合を入れ直すべく志紀が背筋を伸ばしたその時、鞄の中からケータイの着信音が響いてきた。
誰からだろう、と首をひねった志紀の動きが止まる。
『R.T』
ごくり、と志紀の喉が大きく上下した。