逢阪駅から電車でひと駅のオフィス街。普段なら喧騒に満ち溢れている夕刻だが、休日ともなれば辺りはしんと静まりかえっている。そんな閑静な街角のビルの陰に隠れるようにして、一台の赤いコンパクトカーが止まっていた。
「試写会でたまたま化学部の時の友達に会って、それでもうちょっとだけゆっくりして帰るから。……うん、そう。うん、晩御飯は家で食べるよ。遅くならないようにするから」
運転席の斜め後ろのシートで、志紀はケータイを鞄に仕舞い込んだ。
待望のデートにもかかわらず、志紀の表情は浮かなかった。待ち合わせに指定されたバス停に赤い車を見とめ、助手席に駆け寄った志紀に、朗が厳しい口調で後ろの席に座るよう告げたことも、原因の一つに違いない。
――そりゃあ、柏木君や嶺がまだこの辺りにいないとも限らないから、慎重に慎重を重ねるに越したことはないわけだけど。でも……。
志紀の溜め息は、唸り始めたエンジンの音にかき消されてしまった。
「ドライブスルーなどを使って、車の中で食事をするという手もあるんだが……」
「そこまでしなくってもいいです」
つい語尾が刺々しくなってしまったことを自覚して、志紀は慌てて運転席のほうを窺った。改めて考えるまでもなく、今日の出来事に朗は何の責任も無いのだ。八つ当たりをしている場合ではない。
志紀の複雑な胸中に気づいているのかいないのか、朗は真っ直ぐ前を向いて運転に集中している。語るべき言葉を見つけられずに、志紀も黙って、窓の外を流れ去る街並みを見つめ続けた。
「一体、何の話を……」
赤信号で停止し、そう口を開いた朗が急に咳込み始め、志紀は思わず前方へと身を乗り出した。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……あ、ああ、大丈夫だ。……一体、どんな話の映画だったんだい?」
空気が乾燥しているせいだな、むせてしまった、と咳混じりの声を搾り出して、朗がちらりと視線を志紀に投げる。そんな一瞥にすら胸が高鳴る自分が恨めしく思えて、志紀は静かに顔を伏せた。
「どんな話、って、何の映画の試写会か、先生に言ってませんでしたっけ?」
「あ、いや、そういう意味じゃない。面白かったかい? それとも……」
「面白かったです」
「そうか」
沈黙が車内に降りる中、信号が青に変わった。
「……さて、夕食までに、となるとあまり時間は取れないな。ふらふら出歩いて、また柏木に出くわしても困るし……、海でも見に行くかね?」
朗の口から陸の名前が出たことで、志紀の脳裏に、陸に聞かされたあの言葉がよみがえった。
『多賀根先輩は、今度……』
志紀は、膝の上の拳を、固く、固く握り締めた。
――そんなはずがない。だって、先生はこんなにも気を遣ってくれているじゃない。こんな人目を避けるような行動も、全ては、私達の未来を考えてのことだ。決して、私と距離を置こうとしているわけではない。
ない、はず、だ。
「…………先生」
「何だ?」
「あの……」
「海は嫌か? どこがいい?」
やけに朗の声が冷たく聞こえて、志紀は一瞬だけ身震いをした。それから小さく息を吐くと、ぼそり、と呟くように声を漏らした。
「どこか、二人きりになれる所に行きたい」
「二人きりだが。今」
「そうじゃなくて……こんな、座席越しじゃなくて、先生とちゃんと話したい。人目を気にせずに、落ち着いて話がしたい」
その一瞬、朗の肩が僅かに強張ったように見えた。
――自分は一体、何を拗ねているのだろう。
控えめにライトアップされた洗面台の前に立ち、鏡に映る自分に対して、志紀は何度もそう問いかけ続けていた。
全てをはっきりさせたいのなら、先生に一言尋ねれば良いだけのことだ。それをせずに、こうやっていじいじと思い悩むなど、馬鹿らしいにもほどがある。そう頭では解っているのだが、どうしても志紀は行動を起こせずにいた。
先生が人目を避けるのは、私との関係をなかったことにするためではないのか。
後腐れなく別れるための布石ではないのか。
――今までこんなこと、考えたこともなかったのに。あの晩秋の夕べ、先生の気持ちを知って以来、その言葉を疑うことなんて一度としてなかったのに。
そこまで考えて、志紀は愕然と目を見開いた。今、自分は、朗のことを「疑っている」のだという事実に気がついて。彼の言葉を「信じていない」ということを自覚して。
志紀は、自分の手元に視線を落とした。そうして、静かにゆっくりと拳を固める。
「やっぱり、訊くしかない」
「何を?」
突然耳元に朗の声がして、志紀はばね人形のように勢いよく背後を振り返った。そのついでにあとずさろうともしたものだから、腰を洗面台の縁にしこたまぶつけてしまう。
「痛……!」
「大丈夫か」
あまりの痛さに、志紀はその場に崩れるようにしてうずくまった。
志紀の内部、なみなみと水をたたえた器の縁が、疼痛に共鳴して震えている。水面に立った波紋はやがて大きなうねりとなり、遂には外へと溢れだした。
「大丈夫じゃありません……!」
「え? どうした? どこをぶつけたんだ、見せ……」
「先生、お見合いするって本当ですか!?」
『多賀根先輩は、今度お見合いするらしいんだよね、だってさ』
『教授の知り合いの娘さんらしいけど。ま、逆さに考えれば、多賀根は今 は フリーってわけだから、有馬さんにとっては朗報ってことになるんじゃない?』
「先生にだって色々事情があるんだと思います。私、まだまだ子供だし、学生だし……」堰を切ってしまった感情は、大きなうねりとなって志紀をどんどん押し流していく。「でも、私だって……」
「志紀!」
一喝ののちに暖かい手が志紀の頭の上に置かれた。
「……誰だ、そんな馬鹿なことを言ったのは」
「え……、あの……、その、えっと、……誰からって、あのぅ……」
彼女のしどろもどろな物言いに頓着する様子も見せず、朗はそっと志紀を立ち上がらせた。それから大げさに溜め息を一つついて、両手を腰に当てる。
「その話はとっくの昔に断った。というより、断られた。だから君が心配するようなことはない」
「……そうなんですか?」
ほっとしたような、気の抜けたような表情で、志紀は朗を見上げた。
涙ににじむ世界の中央で、朗が静かに微笑んでいる。と、その瞳が妖しく光ったのを見てとり、志紀の心臓はどくんと大きく波打った。
「誰に聞いたか知らないが、私よりもそいつの言うことを信用するのか?」
「え、いや、そういうわけでは……」
慌てて首を横に振る志紀を、力強い腕が抱きすくめる。
「さて、どうすれば私のこの気持ちを君に解ってもらえるんだろうな」
耳たぶに吹きかけられた息が、熱い。志紀の鼓動は今や早鐘のようだった。
「や、ちょっと、先生……、こんなところで……!」
「こんなところで、って、ここをどこだと思っているんだ」
――そうだった。
自分が置かれている状況を再認識して、志紀が絶句する。
「君 が 、『来たい』と言うから来たんだぞ。私ではない。君が、だ」
きっぱりと言いきる朗の言葉に、二十分前に車で交わされた会話が志紀の脳裏に甦った。
「人目を気にせず二人きりになる、となれば、ホテルしか思いつかないのだが」
「ホテル、って、ええと……」
「従業員の存在もオミットするとなると、一般のホテルは無理だな。無人受付のラブホなら条件に合致するだろう」
「らぶ……」
「だが……ホテルに行けば、たぶん……、話をするどころではなくなってしまうような気がするが……」
本心はともかく表向きは躊躇いがちにそう告げる朗に、志紀は「構いません」と応えたのだ。朗はすぐさまケータイで当該施設を検索し、抜かりなく予約まで済ませ、車を目的地へと走らせた。
記念すべき初ホテル、しかも志紀にとって、ラブホテルなどドラマの中でしかお目にかかったことのない施設である。本来の彼女の性格ならば、まず部屋の隅から隅まで探索してもおかしくないところだ。
だが、色々思い悩み続ける志紀にそんな余裕があるはずもなく。部屋に足を踏み入れるなりお手洗いに直行した彼女は、洗面所の鏡の前で独り百面相を披露した挙げ句に、まさしく今、この状況に至る、と言うわけだ。
過負荷状態の志紀とは違い、朗のほうはすっかり準備が整っていた。なにしろ場所が場所で、しかもしっかり予告済みなのだから、性急だ、と彼を責めるのはお門違いと言うものだろう。
「……嫌、か?」
キスの合間に今更のように問いかけてくる朗を、思いっきり睨みつけてから、志紀は溜め息一つ、彼の背中に両腕をまわした。
「さっさと服を着なさい。風邪をひくぞ」
「え?」
「ドライヤーは引き出しだそうだ。髪を乾かし終えたら、出るぞ」
「え?」
「親御さんが晩御飯を用意しているんだろう?」
「あ、はい、そうですけど……、って、え? あっ、うそ、もうこんな時間!?」
「最初からホテルという選択肢があったなら、ここで食事という手もあったんだが……、今更仕方がない」
「…………」
「どうした? 浮かない顔をして」
「……だって、私、ここに来て、洗面所とお風呂場しか見てないんですけど……」
「そうか? じゃあ、出る前に一通り見学してみるかい」
「いや、だから、そういうことじゃなくて! …………せっかくの初ホテルだったのに……」
「物足りなかった?」
「違います! せっかくベッドがあるのに、って……、いや、あの、その……」
「ベッドでヤりたかった、と……」
「いや、だから、ええと…………まあ、ぶっちゃけると、そんな感じ……かも」
「だが、シャワーを浴びたいと譲らなかったのは君だぞ」
「って、私のせいですか? 普通は、さっとシャワー浴びて、それから……ってなるでしょう?」
「つまり、これから更にベッドへ行きたい、と……」
「違いますー!」
ホテルを退出する時の遣り取りを思い出して、朗は小さく笑みを浮かべた。
時刻は深夜零時。あのあと、朗は志紀を家の近くまで無事送り届け、昂ぶり続ける気持ちを落ち着かせるべくしばし愛車で夜道を彷徨し、適当な店で夕食をとった。そうしてつい先ほど自分のアパートに帰りつき、お気に入りの缶ビールをあけたところだった。
久しぶりに味わった志紀との濃密な時間を思い返し、朗は上機嫌で椅子に背もたれた。そうして独りごちる。まさしく、人生万事塞翁が馬、だな、と。
試写会の行われる会場へは、百貨店の中にあるエレベータとは別に、建物の外側にある階段を使うこともできる。青空の下、緩やかなカーブを描いて地下の入り口へ伸びる階段の前に立った朗は、数段下に陸の背中を見つけ、咄嗟に傍らの看板の陰に身を隠した。
この下にある映画館は、いわゆるミニシアターだ。大して広くもないロビーで、陸をやり過ごすことなど、不可能に違いない。
朗は、一縷の望みを胸に、志紀に電話をかけた。
「はい」と応答する志紀の声の後ろに、映画館のアナウンスが聞こえる。朗はきつく目をつむった。状況は、最悪だ、と。
そっと看板の陰から下を窺えば、階段を降りきった陸が、真っ直ぐ映画館の入り口へ向かうところだった。
「とにかく、緊急事態だ。私は、今日はそこには行けない」
これが、他の人間なら、朗が逃げ出す必要など何も無かった。志紀が大学生となった今、朗と志紀が付き合うことに何も問題はないからだ。たとえ下世話な視線を向けられようと、それをへし折るための言い訳なら、いくらでもひねり出してみせよう。
だが、相手が柏木陸となれば、話は別だ。彼ならば、おそらく気づくに違いない。朗が必死で壁の中に塗り込めた、真実の影に。
陸と対峙するという重荷を、志紀一人に背負わせてしまったことに、朗の胸は痛んだが、背に腹は代えられない。映画が終わるまで時間を潰すべく、朗は駅のほうへと踵を返した。
「あれー? 先生?」
駅前の巨大な家電量販店の前で、朗は聞き慣れた声に呼び止められた。
「……原田か」
「先生も買い物?」
朗らかに語りかけてくる嶺に、朗はつい舌打ちをしそうになった。お前の大切な幼馴染みが、今この瞬間、あの柏木陸と一緒に暗闇の中にいるというのに、よくぞそんな間抜け面を晒せるものだな。そんな、八つ当たりめいた考えすら湧きおこる。
と、次の瞬間、朗の脳裏を閃光が走り抜けた。
――これは、願ってもないチャンスかもしれない。
多賀根朗と有馬志紀が付き合い始めるのは、志紀の高校卒業以降でなければならない。だが、嶺は知っているのだ。去年の晩秋の時点で、志紀が、自分とは違う誰かと付き合っているらしいということを。
『すみません、先生、嶺に訊かれて、咄嗟に言葉が出てこなくて、つい、付き合っている人がいる、みたいなことを言ってしまって……』
「どこ行ってたんだよ」
「内緒」
「……誰といたんだよ」
「それも内緒」
その会話ののち、彼はこう訊いてきたという。「今は、そいつのことが好きなんだな」と。
陸に比べて嶺の行動原理は格段にシンプルで、彼は朗にとっては御しやすい人間の一人だった。だが、シンプルだからこそ、思いもかけない事態を引き起こしかねない部分もある。不用意に、「有馬が誰と付き合ってるか、お前知らない?」などと陸に話をふられでもしたらどうなるか、考えるだに恐ろしい。
――とにかく、奴を納得させてしまえばいいのだ。
家電量販店の入り口から、陽気なCMソングが聞こえてくる。朗は密かに深呼吸をすると、正面から嶺に向き直った。
「今日は、やたら教え子を見かける日だな」
「え? 俺の他にも誰かに会ったんですか?」
「ああ。柏木と、有馬さんを、ね」
嶺の身体が微かに強張るのが、分かった。
「ついさっき、ロフトの前でね。二人仲良く地下の映画館に入っていったよ。デートかな」
事実がどうであろうと関係ない。志紀と陸がともに連れだって映画を見に行くような関係である、と、嶺が思い込めばいいのだ。ならば、彼の性格からして、これ以上この話題を誰かに語ることはないだろう。
幼馴染みというカードを失うことを恐れるあまり、土壇場まで告白できなかった臆病者には、壊れた夢の残骸を胸に、布団をかぶって泣きぬれるのがお似合いだ。
「さて、私はもう買い物は終わったんでね。これで失礼するよ」
「あ、ああ、失礼します……」
悠然とその場をあとにした朗は、建物の角を曲がろうとして、何とはなしにふと背後を振り返った。
先刻の店の前、彫像のように立ち尽くす嶺が、勢いよく顔を上げるところだった。そのまま彼は、買い物をすると言っていたはずの店に背を向けると、早足で歩き始める。志紀達のいる映画館の方角へ。
嶺の後姿を、しばしあっけにとられて見送っていた朗は、はっと我に返るなり唇を噛んだ。
――果たしてこれは、吉と出るか、凶と出るか。
生唾を嚥下してから、朗もまた、嶺のあとを追って歩き始めた。険しい顔で。
志紀が陸と肩を並べて映画館から出てくるのを見て、嶺は確実に誤解したに違いない。しかも、二人はそのまま別れることをせずに、喫茶店へと席を移したのだ。
窓越しに臨む二人は、こちらを向いている陸の表情を窺う限り、実に楽しそうに会話を弾ませているように見えた。朗ですら、うっかり悋気を起こしそうになるほどに。何も知らない嶺がどういう思いを抱くか、想像に難くない。
更にどういうわけか、鉢合わせした嶺に対して陸は何の弁明もしなかった。地下道の反対側、鰻の寝床のような古本屋の、狭い間口の棚の陰から彼らの様子を窺う朗の目は、残酷に微笑む陸の姿を捉えていた。
朗には、陸の気持ちが少しだけ解るような気がした。彼もまた、おのれに足りない何かを、原田嶺という存在に投影していたのだろう。ふと振り返った来し方の遠く、もはやどう足掻いても望むことのできない、あの眩しいほどに真っ直ぐな彼の眼差しを、疎み、妬み、その一方で心密かに求めていたのだ。
朗は、しばし目をつむった。それからゆっくりと瞼を開く。
喉の奥を流れていくビールが、僅かに苦みを増したように思えた。
〈 了 〉