The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第一話 転轍

 
 
 
 柔らかい感触を唇に感じて、志紀は我に返った。
 目の前に朗の眼鏡のフレームが見える。少し燻された銀色……、クロムだと思っていたけれど、チタンだったんだ。熱伝導率が高いから、冬は冷たいんじゃないだろうか。
 そんなピントのずれた感慨に耽っている場合ではない事に気が付いて、志紀は慌てて体を捩ろうとするが、まるで万力か何かで固定されたかのように、身体を動かす事が出来ない。
 
 化学準備室の紺の長椅子。
 ああ、あのまま、先生に手を引かれてこの部屋に入り、ここに座らされたんだ。
 
 ついばむようなキスが、徐々にゆっくりと、長くなってくる。
 志紀の肩を掴む大きな掌が、熱い。
 なおも口づけを貪りながら、朗はそっと志紀を長椅子の上に押し倒していく。
 
 ファーストキスが、初体験よりも後だなんていうのは、一般的じゃないよね、きっと。
 いや、それ以前に、こんな状況は相当有り得ないのではないかな。
 そうだよ、そもそも何故、私はここでこんな事をしているのだろう……。
 
 鈍く痺れるような靄に霞む思考の片隅、何か必死でおのれを客観視しようとしている自分がいる。志紀は、朗と視線が合ってしまうのを怖れて、瞼を閉じた。
 
 ふいに、唇が解放される。身体全体にのしかかっていた重さも同時に消えうせ、志紀は驚いて再び目を見開いた。
 身を起こした朗が、下を向いて肩を震わせている。ややあって、彼の口からうなり声ともつかない、押し殺した笑い声が漏れ始めた。
「…………先生?」
「……こんなに身体を火照らせているのに、まだ余計な事を考えているのかい?」
 言うや否や、朗は再び志紀の上に覆い被さってきた。もう一度、今度は強く押し付けるようにして唇を合わせてくる。
 志紀の唇が朗の舌にじ開けられた。柔らかいモノが口の中に侵入してくる感触に、志紀は思わず身体を硬くする。だが、舌と舌が触れ合った瞬間、志紀の身体の芯に名状し難い炎が灯リ始めた。
 顔の角度を変えながら、朗は深く志紀の唇を、舌を、貪り続ける。
 志紀はどうする事も出来ずに、ただ翻弄されるがままに口腔内を犯され続けた。
 
 頭の中が、どろどろに溶けていく。
 身体の中まで溶けていく。
 熱く、とろけた内部が、滴っていく。
 痺れるような疼き。忘れられない、あの…………絶頂感。
 
 そっと朗の唇が離れた拍子に、志紀の喉から甘い喘ぎが漏れた。
「昨日の今日で、素直にここに来てくれるとは……」
 少し身を起こした朗が、志紀のタイの端を掴んで勢い良く引いた。つられて襟元をも引っ張られ、志紀のおとがいが仰け反る。
「……そんなに気持ち良かったのかい?」
 布の擦られる音が高く響き、ほどき抜き取られたえんじ色の細いタイが鞭のようにしなって朗の手元へ引き寄せられた。すらりとした指にえんじの細いラインが絡みつく様は、どこか扇情的で、志紀は何故かその指から目を離す事が出来なかった。
 
 
 
 堕ちたな。
 熱の篭った瞳で自分を見上げてくる志紀の様子に、朗は密かに独りごちた。
 
 高校教師としての仕事だけでなく、彼は週に二日は、かつて籍を置いていた大学に継続中の研究に携わるために通っている。更に加えて、一番の下っ端ではあるが、ある学会の役員の任が回ってきたところだ。充実しているとは言えあまりに多忙な生活に、彼はもう二年は女性の肌に触れていなかった。
 だからといって、この自分がまさか教え子に欲情するとは。朗は、右手に絡まるタイを外しながら、口角を微かに上げた。
 
 当初は、嫉妬に近い感情だった。自分よりも優秀な人間に対して、朗がしばしば抱く劣情。年齢とともに押さえつける術は身につけてはいたが、どうしても内部に溜まる澱は如何ともし難く、朗はそれを糧に研究に没頭し続けている。
 だが、志紀の成績が特別良いというわけではない。担任を持っていないから全てを把握しているわけではないが、化学に関して言えば、彼女の成績は上位から学年一割以内、といったところか。そもそも、仮に成績が良くとも所詮は高校生だ。ここがいくら進学校だと言っても、その知識量は自分と比べるべくも無く、とてもではないが大の大人が張り合う相手ではない……筈だった。
 
 部活で行った実験にて、控え目に彼女が口にのぼした異議。朗自身の練りこみが不足しての些細なミスを、殊更にあげつらうわけでもなく、志紀は申し訳なさそうに思考過程という名の積木を積んでいく。見事なまでにまっ平らな平面の上に。
 その時だ。自分の「歪み」を認識すると同時に朗の中に激情が湧き上がったのは。
 
 自分の「積木」はこれほどまでには整っていない。自分の「基面」はこんなにも平らではない。
 
 相手が競うべきライバルだったならば、機会を見つけて完膚なきまでに叩きのめしていたところだろう。勿論、学問というフィールドで、だが。
 
 朗は、有馬志紀という存在に興味を持った。
 彼女を観察し、言葉を交わし、思考をトレースした。
 
 どこにでもいそうな、普通の学生。真面目過ぎず、不真面目過ぎず、良く笑い、人間関係にはやや慎重で、だが気が許せば良く喋り。
 性別問わずニュートラルな態度で接するあたりは、年頃の娘にしては少し珍しいかもしれない。中性的な雰囲気を持つ……だが、間違いなくその身体は成熟しつつある少女――いや、女。
 
 ――――――穢したい。乱してみたい。
 
 彼女の目には、自分はどのように映っていたのだろうか。昨日のあの瞬間までは、まさかそんな淫らな目で見られていたとは思ってもみなかったのだろう。
 自分の執着心が純粋な恋愛感情ではない事ぐらい、朗は自覚している。拒絶されたくないがために「好きだ」とは言ってみたが、その響きの空々しさに、きっと志紀は気付いているだろう……。
 朗は、もう一度自嘲に似た笑みを口元に刻んで、ほどいたえんじの紐を長椅子の背にそっとかけた。
 
 
 
 既に志紀は、長辺に沿う向きで長椅子の上に完全に身体を横たえてしまっていた。朗がその腰を跨ぐような体勢で椅子の上に膝をつき、彼女を見下ろしてくる。
 彼の両手が、志紀の胸元にぬっと伸ばされた。
 柔らかいふくらみを、ブラウスの上から男の掌が包み込む。その指は壊れ物でも扱うかのように、ゆっくりと優しく双丘を撫で回し始めた。
 じわりじわりと快感が湧き起こり、志紀を蝕んでいく。胸の先端がむずむずと疼く。彼女は息を荒くしながら、朗の手の動きに合わせて身体を波打たせた。
 曲面をなぞるように撫でていた朗の手が、親指を残して動きを止めた。その親指は、ある一点を執拗に撫で擦り続ける。
 志紀の身体が激しく跳ね始めた。
「ブラ、つけてるんだよね?」
「ん……んん……っ」
「凄いな。服の上からでも判るよ。勃ってるのが」
 朗の指に力が込められる。胸の先端を押しつぶすように擦られて、志紀の身体を鋭い電流が何度も何度も走り抜けた。
 快感に耐えようと、髪が乱れるのも厭わずに志紀は激しく頭を振る。朗の腕を掴んで引き剥がそうとしても、男の腕は微動だにしない。
「そんなに気持ち良い?」
 朦朧としながらも、志紀は律儀に頷いた。その様子に朗は満足そうな瞳で口のを上げる。志紀が目を閉じているのをいい事に、彼はサディスティックな笑みを隠そうとはしなかった。