The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第二話 踏切

 
 
 
 熱に浮かされたような三年間。あの日々が忘れられなくて、教師の道を選んだのだ。
 だが…… 
 
 だが?
 私は一体、どのような言葉を継ごうと思って、この接続詞を想起したのだ?
 
 
 
    第二話   踏切
 
 
 
「やったーーっ! 合宿日和ーーー!」
 南校舎、玄関前のロータリーに四十余名の私服の生徒が集まっている。自転車置き場から集合時間ギリギリに駆け込んできた川村理奈が、一同に合流するや否やそう叫んで伸びをした。
「お前、また部外者のくせに参加するのか。いいかげんにしろよなー」
 そう唇を尖らせるのが、原田れい。志紀の幼馴染だ。隣に立つ友人の高嶋珊慈さんじが矢鱈長身のため、どうしても小柄に見えてしまうが、男子の平均身長を精一杯活用して、理奈を威嚇するように身を乗り出している。
 その横で志紀が呆れたように腰に両手を当てた。
「何、意味無く威張ってんの。理奈だって化学部員じゃない」
「え、お前、演劇部じゃなかったっけ」
「去年の合宿が面白かったから、あの後入部したんだよ。知らなかった? 限りなく幽霊に近いのは悪いと思ってるけどさー」
 点呼を取り始めた先生達の声に、三つ編みを揺らして「はいはーい、川村、来ましたー!」と大声で返答してから、もう一度理奈は嶺の方に向き直った。
「丁度、演劇部の方はコンクールが終わったところだったし、余生を面白く過ごさせてもらおうかなーって思ってさ。それにしても……、今年は随分盛況だねえ」
 
 文化系のクラブにしては珍しく、毎年夏休みに化学部は地学部と合同で合宿を行っている。
 スケッチ旅行に行くという美術部と、秋のコンクールを控えての特訓合宿があるオーケストラ部や演劇部はともかく、インドア志向で文化系の部活を選んだ連中が集うクラブにもかかわらず、彼らは毎年「実地研究」の名の元に科学を身をもって体験しに――要するにキャンプをしに――車で三時間ほどの山中に二泊三日の旅に出かけるのだ。
「それにしても、多過ぎない? 地学部ってそんなに今年新入生が入ったっけ?」
 理奈が呟くのとほぼ同時に、小柄で丸っこい体格の地学教師がハンドマイクで語りだす。
「今年は、授業の方の地学選択者も参加しますので、お互い知らない生徒も多いかと思いますが、これを機会にお互い親睦を深めて、楽しい合宿にしましょう。……多賀根先生」
「羽目を外し過ぎて、楢坂高校の本性が外部にバレないように、上手く立ち回る事」
 山口教諭からハンドマイクを受け取った朗の台詞に、そこかしこから笑い声が湧き起こる。しかし、それに頓着する様子も見せずに、朗は淡々と言葉を続けた。
「それと、三年生。勇者は大歓迎だが、受験を控えた大切な身体である事を忘れないように。事故の無いように気をつける事。以上」
 眼鏡が陽光を反射して、朗の表情が酷く冷たく見える。
 
 校内に若い教師は数人いれど、「化学の多賀根」はその中では少しだけ異彩を放っていた。
 朗以外は皆、その若さを前面に出して生徒と同じ目線で――悪く言えば生徒に迎合して――いた。勿論、彼らとて立派に一人前の教師だ。教師と生徒、最低限の線引きはしっかり為している。彼らの態度に異論を挟むのは、一部のご老体と呼ばれる数名の超ベテラン教師ぐらいで、生徒達には絶大なる人気を誇っていた。
 だが、朗は少しだけ違っていた。
 生徒達と同じところまで降りて来たように見えても、彼は最後の一段を決して踏み出そうとはしないのだ。その態度を指して、冷たい、と言う者は少なくない。
 
 あの眼鏡がその印象を強くさせているのだろうな、と志紀はぼんやり考えていた。
 目の悪い友達が軒並みコンタクトに替えていくのは、あの、眼鏡特有の堅苦しさみたいなものを嫌っての事なんだろう。
 両親の育て方のせいか、志紀は、フレンドリーが過ぎる教師に対して、どういう態度をとれば良いのか解らなくなる時がある。本人に「敬語はやめてくれよ」と言われたのだとしても、どうしても年長者相手にタメ口をきく気にはなれないのだ。
 そういう意味では、朗とは本当にストレス無く話す事が出来た。遠過ぎず、近過ぎず、丁度良い距離感……まさか、その距離が一気にゼロにまで縮まってしまうとは。
 
「どうしたの、志紀。何、じーっと多賀根を見つめてるのさ」
「!」
 理奈の声に、自分の顔が赤くなるのが分かった。ここで慌てては余計に不審者だ。志紀は大きく息を吸ってから理奈の方を向いた。
「ぼんやりしててただけだよ。先生見てるみたいだった?」
「朝から焦点拡散させててどうすんのよ。気合入れてこ、気合!」
 ガッツポーズを見せる理奈の背後、ロータリーに大型の観光バスが入ってくる。
 生徒達の間から歓声が上がった。去年、一昨年と、普通の路線バスを借りての立ち乗り御免な行程だったから、彼らの喜びもひとしおだ。
「バスに弱い者は名乗り出てください。地学部から順に奥へ詰めて乗ってください!」
 すっかり人ごみに埋没しながら、山口教諭が叫ぶ。開いた扉に駆け寄る生徒達の波に揉まれながら、志紀は密かに朗を目で追い続けた。
 
 
 
 ――ああ、予定が無いなら、君はもう少し残ってくれ給え――
 
 あの後、朗は自分の車で志紀を家の近くまで送ってくれた。
 少し埃の目立つ赤いコンパクトカー。部活の用事で何度か乗せてもらった事はあったが、それはいつも後部座席だった。そして、今、志紀は助手席に座っている。
 朗は無言だった。
 だから、志紀も無言で窓の外の薄暗い風景を見つめていた。
 
 先生は今、何を考えているのだろう。
 教師が生徒に手を出す、という事は、社会的に許されることではない、と思う。他人に知られるような事があれば、おそらく先生は免職になるだろう。そんなリスクを負うに値する行為なのだろうか。自分にそんな価値があるのだろうか。
 
 好きだ、と言われた。
 
 家族以外の異性に言われたのは生まれて初めてだ。
 一体、私のどこが気に入ったのだろう。無理矢理身体を奪ってまで……。
 
 志紀がしかるべきところに訴えれば、朗は間違いなく犯罪者だ。
 拒絶されない自信があったのだろうか。
 しかし、そんな不確定な条件で、そんな結論を導き出すなんて事は、朗に限ってはありえないように思えた。
 
 どういうことなのだろう。
 それほどまでに、切羽詰っていた、とか……。
 
 切羽詰る……つまり、我慢出来なかった……?
 そこまで考えて、志紀は思わず頬を真っ赤に染めた。ついさっきまで化学準備室で行われていた行為を思い出したからだ。
 貪る、という言葉がぴったりだと思った。
 喰う、という言葉も、言いえて妙かもしれない。
 昨日の「あれ」は、随分と大人しいものだったのだ。きっと、それなりに志紀をいたわってくれていたのだろう。だが、今日は二度目で、志紀は自分から朗の誘いに乗っていた。
 ならば遠慮なく、という事だったのだろうか。あまりにも激しい朗の責めに、志紀は必死で声を押し殺して悶え続けていた。声を出してはいけないと気負うあまり、意識を失いそうにさえなった。
 
「ここで良いかな」
 最寄の一つ手前のバス停で、朗は車を停めた。
「……その、大丈夫かい」
「あ、はい」
 何についてなのか良く解らないままに、志紀は思わず頷いていた。
「それじゃ、また明日。学校で」
 
 
 
 そして、授業でも、部活でも、朗の態度は何も変わらないまま、学校はすぐに夏休みに突入してしまった。
 いつお呼びがかかるかと、どぎまぎしながら過ごしていた志紀は、少し拍子抜けた心地で、もやもやとした「何か」を持て余し続けていたのだ。
 
 先生と私は、どういう関係なのだろうか。
 山深い国道を快調に進むバス。窓ガラスに映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、志紀は知らず嘆息した。最前列に座っているであろう朗の姿は座席の背に阻まれて見えない。
 ふと、好きだ、という言葉に答えを返していない自分に気が付いて、志紀は思わず頭を抱えた。
 
 先生は、返事を待っているのかもしれない。
 あの時先生に抱かれたという事が、返事の代わりになると思っていた。でも、先生はそう思っていなかったとか。
 それで、すっかり呆れられてしまったのかも。
 好き、とか、愛してる、とか、あまりに急な事で、まだいまいちピンと来ないけれど、でも、先生に好きだと言われて嬉しかった。それだけはやっぱり言葉にして伝えておかなければならないだろう。
 
「いやー、くるくると良く表情が変わるねえ」
「り、理奈……!」
「難しい顔、抜けた顔、んで、ほっぺた押さえてにやけてから、なんかやる気出してるし」
 あまりに的確なツッコミに、志紀は言葉もなく、酸欠の金魚のようにただ口をパクパクとさせて親友の顔を見つめ返している。
「ね、何か悩みでもあるんじゃないのぉ? ほれ、言いなさいよ。原田君と何かあったのー?」
「何でもないってば!」
 にやにやと志紀の脇腹を突っつく理奈に応戦しながら、志紀は心の中でもう一度溜息をついた。
 
 
 
 宿泊地は一昨年と同じキャンプ場。廃校となった小学校の木造校舎を改造した、そこそこ快適な宿泊施設だ。
 施設の管理人である中年の男が一行の前にやってきて、二人の教師と挨拶を交わす。社交辞令が一区切りついたところで、朗が生徒達の方へ向き直った。
「それぞれ割り振られた部屋に荷物を置いてから、食堂に集合。昼飯は用意してもらっているが、夕飯は皆で頑張ってもらうから、よろしく。夕飯の後は、天体観測。その後、リクエストに応えて肝試し、と」
 あちこちから、面白がるような悲鳴が上がる。子供騙しなんだよ、と毒づく数名も、顔が笑っているものだから、その言葉に重みは無い。
「各部の部長、副部長は、荷物を置いたら、早めに出てきて手伝って欲しい。ああ、化学部は部長の代わりに前部長だな。よろしく頼むよ」
 化学部の現部長は少々病弱な男で、泊まりでの活動には参加出来ないという事だったため、合宿の準備段階から、引退した筈の志紀にも色々とお鉢が回ってきていた。
「はい」
 どうにかして、先生と二人で話が出来ないだろうか。少し上の空で志紀は返事をした。
 
 
 その機会は意外と早くやってきた。
 
 てんてこ舞いの夕食――定番どおりのカレー――の後、一面の草地となっている、かつてのグラウンドに五台の天体望遠鏡が持ち出された。学校の備品が二つ、残り三つは、山口教諭と、朗と、地学部部長の私物だ。
 今年初お目見えの反射式望遠鏡は案の定大人気で、持ち主の地学部部長が、青い顔をしながら「壊すなよー」「大事に使えよー」と叫び続けている。
「あんなに騒ぐなら、持って来なきゃいいのに」
「まあまあ」
 全然落ち着いて覗けなかったよ、とぼやく理奈をなだめていた志紀は、ふと背後に気配を感じて振り返った。
 
 朗がそこに立っていた。
 志紀の心臓が跳ね上がる。
 
「あ、先生、この後の肝試しって、どういう風にやるんですか?」
 理奈が屈託無い調子で、朗に語りかけた。
 辺りが暗くて良かった、と、志紀は心底そう思った。そうでなければ、また理奈に「どうしたのー?」と、この赤い顔を突っ込まれてしまうだろうから。
 中々落ち着かない心音を聞かれてしまいそうで、志紀はただ黙って、立ち尽くしていた。
「少し離れた神社まで二人ずつ往復する、という形でしようかなと思っている」
 その声に、望遠鏡からあぶれた生徒達がばらばらと朗の傍に集まり始めた。
「お化け役は誰がするの?」
「そういうのは用意していないけれど、万が一の事故が無いように、山口先生と二人で、要所要所を見守る事になっている。なんなら、ついでに驚かそうか?」
 えー、やだー、と女子の声が上がる。
「神社に行ったかどうかのチェックってどうするんですかー?」
「明日の朝食券を置いておいたから、朝食が食べたければ、きっちり取りに行くことだね」
「わー、きったねえ」
「何とでも」
 いつの間にか、生徒全員が朗の周りを取り囲んでいた。山口教諭が人垣をかき分けかき分け、朗の横に来る。
「多賀根先生、もう、始めましょうか」
「そうですね。では、打ち合わせどおり、佐竹さんにスタートを見てもらうとして……」 そこで言葉を切った朗は、宿泊所の管理人氏を目で探した。「お願いいたします」
「はいはい、二人ずつ、少し間隔をあけてお見送りすれば良いのですね」
「第一陣の出発は……そうですね、今から十分後にお願いします。では、山口先生、参りましょうか。両部の部長、副部長の四人も手伝いについて来てもらおうかな。じゃあ、皆は二人組を作って、佐竹さんの指示に従うように」
 
 
 
「あれ? 東野君は?」
 門の手前で、朗は少しばかり大げさに辺りを見回した。
「彼なら、調子が悪いとかで、部屋で休んでいますよ。お昼も、バスに酔ったとかで、青い顔をしていましたからね。それよりも、どうしてこの子達も一緒に……?」
 怪訝そうな山口教諭に、朗はさらりと返答する。
「いや、何かあった時を考えると、我々も独りでは心もとないかと思ったので」
「成る程。ごもっともです。お若いのに多賀根先生は、良く考えてらっしゃる」
 暗闇の中、朗が微かに笑う気配を志紀は感じた。どこか得意そうな、そう、何か悪戯に成功した子供のような。
 だが、次の瞬間には、朗はいつもの調子で生徒達の方を向いた。
「では、出発しようか。暗いから注意してついて来るように」
 
 
 街灯の無い夜の農道はまるで海の中に浮かび上がる一本道のようだ。二つの懐中電灯の光だけが、頼りなさげに蛍のように辺りを彷徨っている。
 集落から二百メートルほど離れたところに小さな祠があった。そこから先、農道は山へと分け入っていく。祠のすぐ右手に小ぶりな鳥居が立ち、そこから急な石段が、右に左にうねりながら、暗い木々の間を縫って高みへと伸びていた。
「ここまでは一本道だから、間違えようもないでしょう」
「ここで、待っておけば良いんだね」
「はい。山口先生と地学部の二人は、ここでお願いします。有馬さんと私は、この上、神社のチェックポイントで待ちましょう」
 
 副部長の東野君の調子が悪い事を、先生は知っていたんだ。
 志紀は根拠も無く、そう確信した。
 私と二人きりになるために、先生はこの状況を利用したんだ。
 
「さあ、行こう」
 夜の空気を低く震わせる朗の声に、志紀はごくりと唾を飲み込んだ。