軽い足音が、すぐ後ろからついてくる。
彼女は、今何を考えているのだろうか。
長い階段を上りきったところで、朗は足を止めた。背後から、緊張しきっている志紀の気配が伝わってくる。
ゆっくりと振り向けば、月明かりに白く照らされた端正な顔が、困惑の表情を浮かべて自分を見返してきた。
軽い眩暈を感じて、朗は暫 し瞼を閉じた。
「有馬さん」
自分がそう名前を呼ぶたびに、志紀は一瞬視線を揺らし、それから真っ直ぐその大きな瞳で見つめてくる。
教師が生徒に声をかける。至極自然な筈のその行為に、彼女はおののき、躊躇い、そして、その言葉の内容に微かに落胆しているようだった。そして会話が終わるや否や、あらぬ事を期待していた自分に恥じらうように、朗から顔を背ける。
朗は、これまで経験した事のないほど、満ち足りていた。
勿論、許されるものならば、毎日でもその身体を味わいたかった。だが、夏休み前の多大なる雑務は、朗にそんな余裕を与えてはくれなかった。
リスクを考える限りは、校外で二人きりで会う事も叶わない。
だが、ただ指を咥えてご馳走を眺めるだけ、というのは彼の性分ではなかった。しからば、せめて精神的に彼女を乱したかった。他の誰でもない、この自分が、志紀を揺さぶり、翻弄させるのだ。
一種のマーキング行為かもしれない。
他人に対してではなく、彼女自身に対しての。
お前は、私のものだ、と。私だけが、お前の全てを知っているのだ、と……。
察するに、あの時まで、志紀にとっての性差とは、あくまでもフィジカルなシステム上のものでしかなかったのだろう。そうでなければ、あそこまで素でユニセックスな態度を貫く事は不可能に違いない。
その責任の一端は、あの幼馴染にある、と朗は確信していた。
男も女も関係無い時代からの存在。志紀にとって一番身近な異性でありながら、彼――原田嶺――は厳密な意味で異性としては認識されていなかった。そして、あろうことかその彼が、志紀の中で「男」を定義付けてしまっているのだ。
ある意味、朗にとってこの状況はとても有り難いものではあった。
理系クラス、そしてこの部活。志紀の周りは男だらけだ。そして、彼女はそれなりの外見をしている。多少規格外ではあるが、性格も悪くない。
実際、朗が志紀を追い始めて一年、彼女に粉をかけている者を何度か目撃することもあった。
しかし、志紀はその事実に一度として気が付いていなかった。いつもの調子で無意識のうちに誘いをすり抜け、その結果、相手は諦観の眼差しで志紀を見送る事になる。
そのような有象無象は、歯牙にもかける必要はない。
一番の障害であろう原田にしても、問題は無いように思えた。
志紀が彼にほのかな想いを抱いているのは確かだが、それはまだ「一番の友達」の域から大きく逸脱するものではないだろう。彼が行動を起こさない限り、自分にも割り込む余地はある。
そう、何一つ焦る必要は無い…………筈だった。
あの、新たな要因が加わるまでは。
そして、結局朗は全て出し抜いて、志紀の身体に、心に、おのれを刻み込む事に成功した。
彼女を乱れさせる事が出来るのは、この自分だけなのだ。
こんなにも切なそうな表情の彼女を、他の誰が知っているというのか。
「先生……、あの…………」
志紀の瞳が潤んでいるように見えるのは、気のせいではないだろう。
二週間ぶりの逢瀬。
朗は密かに生唾を飲み込む。志紀は夜目にもわかるほどに頬を赤く染め、恥ずかしそうに俯いた。
「何かな」
「あの……、私…………この間の、先生の、……」
「……忘れられない?」
低く囁けば、酷く狼狽した反応が返ってきた。
「え、あの、わたし、へんじをし……」
「もしかして、期待してたのかな?」
勿論、期待しているのは、朗自身も同様だ。ジーンズの前の部分が窮屈で堪 らない。
しかし、時と場合を充二分に考慮する必要があった……、非常に残念な事ではあるが。
自分達に与えられた時間は十余分。それを過ぎれば、生徒達がここにやって来る。
「え?」
驚いたように硬直する志紀を、朗は抱き寄せた。今この状況では、キスまでがせいぜいといったところだろう。
「学校でも、君は随分と物足りなさそうな顔をしていたね」
「…………」
「私に名前を呼ばれる度に」
「え……」
「何を考えていた?」
「……そんな……」
「何を、期待していたのかな?」
朗の腕の中で、志紀の呼吸が荒くなってくる。
朗は、ぐい、と腕に力を込めた。鈍い刺激が局部に伝わってくる。知らず口の中に溜まっていた唾を、朗は静かに飲み込んだ。
「あ……」
微かな、身じろぎ。朗の手は、いつの間にか彼女の腰をまさぐっている。
「いけない子だな」
大きく息を呑む気配がして、次の瞬間、朗は志紀に軽く突き飛ばされた。
荒い息で顔を上げた志紀の顔は相変わらず上気していたが、彼女の瞳にはいつもの明瞭な光が戻ってきていた。
「……す、すみませんでした……」
切り替えたか。
いつもながら、志紀は見事なスイッチを持っている。
彼女を追い詰めていた筈が、自分もまた激情に呑み込まれそうになっていた事に気が付いて、朗は小さく溜息をついた。こんな場所で、しかも僅かな時間で、一体何が出来るというのか。
セルフコントロールの出来ない子供でもあるまいし……。これは一体どうした事だ。
心のどこかでまだ未練がましく昂ぶっている気持ちを抑えようとしているうちに、何故か笑いがこみ上げて来て、朗は思わず声を出して笑っていた。
「そんなに笑う事ないじゃないですか」
「……悪い。だけど、これが『あの』有馬志紀かと思うと……」
「なんですか、それ」
すっかり平静を取り戻した志紀が拗ねたように口を尖らせた。それから、ちらり、と朗を一瞥する。
「もしかして、東野君がダウンしているの、知ってました?」
「ああ」
朗はあっさりと白状した。「君と二人きりになりたかったからね」
「先生、随分悪知恵がまわるんですね」
「見くびってもらっては困る」
「いえ、そういう意味じゃなくって、もっと真面目な人だと思ってたから」
朗の内部で澱んでいた熱が、漸 く夜気に振り払われたようだった。
朗は深呼吸をして、このひと時を純粋に楽しむ事にした。
「悪知恵こそ、我が本領だよ。私も立派な楢坂生だったからね」
楢坂生――楢坂高校の生徒。それは、校区内では秀才の代名詞であるとともに、変人、という意味も含まれる。
志紀は、目を丸くして朗を見つめた。
「え? 先生、卒業生だったんですか? 大先輩?」
「大」先輩、という響きに、朗の胸の奥が一瞬だけ軋んだ。それを無理に押し殺して、朗は事も無げに話を続ける。
「ああ。随分色んな悪さもしたな」
「もしかして、学校でニトログリセリンを合成した生徒、って先生だったりして」
あまり褒められた武勇伝ではない事から、これまで朗は表立って語った事はなかった筈だが、この手の「伝説」はどこからか漏れるものなのだろう。
軽く頷いた朗に、志紀はキラキラと目を輝かせた。
「ホントですか! どうして皆に言わないんですか!?」
「言えるわけないだろう、自分達もしたいと言うのが解っていて」
私は教師だぞ、そう続けそうになって、朗は唇を噛んだ。
もう、十二年も昔の事なのだ。
あの時、自分は生徒としてあの空間に存在した。
自分達には何だって出来る、と錯覚させるに足る自由がそこにあった。身のほど知らずなプライドも、それに見合っているとその時は信じていた能力も。
皆が、自分自身こそが支配者だと信じて疑わなかった、あの場所に。
「へぇー! 凄い、凄い! じゃ、砂糖の巨大蛇花火は?」
「蛇……。ああ、硫酸での脱水反応ね。あれは私じゃなかった。二つ下の後輩だな。あの後片付けは大変だったんだ、やりたいと言わないでくれよ……」
「じゃ、家出して学校で一週間こっそり寝泊りした生徒、ってのは?」
一体、どうやってこんな話が脈々と語り継がれているのだろう。朗は頭を抱えたくなった。
だが、彼の中の、何かとても懐かしい部分が、いつになく朗を饒舌にする。
「一つ先輩の生物部員の事かな。家出ではなくて確か趣味で、だった筈だが」
「趣味?」
「サバイバルゲームの延長、と聞いたよ」
「へぇー!」
志紀の、こんな表情が自分に向けられるのは、悪くない。どこか得意げに朗は頷いた。
しかし。
先刻から胸の奥に、えもいわれぬしこりが生まれている事に、朗は気が付いていた。
なんだろうか。この、重苦しい心地は。
こみ上げてくる違和感をわざと無視して、朗は夢中で話し続けた。
「学校という外界から切り離された世界で、自分達が世界の中心だと思い込んで、思う存分好き勝手をしたものだ」
そうだ、まるで熱に浮かされたかのような三年間だった。
あの場所に戻りたくて、もう一度夢を見たくて、教師という道を選んだのだ。
ぐらり、と視界が揺れた。
もやもやとした薄い膜が、身体に纏わり付いているように思えた。はらってもはらっても腕に絡みつく、蜘蛛の巣のようなものが、志紀の姿を霞ませる。
あの場所は、何も変わっていない。沢山の生徒が沢山の主人公を演じて、自由気ままに、おのれの信じた道に向かって歩み続けている。
そして……
――どうして皆に言わないんですか!?――
――言えるわけないだろう――
私は教師だぞ――――
頭がくらくらする。
「先生?」
朗は思わず額に手をやった。
「……大丈夫ですか?」
屈託の無い志紀の口調が、その瞬間、朗の癇に障った。
「な……、せんせ……!」
風が、木々の梢をざわめかせる。
発作的に朗は志紀を傍らの木の幹に押し付け、唇を奪っていた。