雲一つ無い青空を背景に、甲高い音を立てて岩の欠片が砕け散った。防護用のゴーグルに、その細かい破片がぱらぱらと当たる。
「し……志紀、なんか……怖いんだけど?」
「……なんで?」
ハンマーを握る手を止めて、志紀が怪訝そうに理奈の方を向いた。
「なんで、って……」
だから、目が笑ってないし。とはとても付け加える事が出来ずに、理奈は引きつった笑いを浮かべる。
「何か嫌な事でもあった? つうか、何か怒ってない? 激しく」
「怒ってなんて、ないよ」
そう言ってから、志紀はゴーグルを少しずらして、首にかけたタオルで目元の汗を拭いた。
「私ゃてっきり、志紀は水遊び組だと思ってたんだけど」
「あ、ゴメン、もしかして、付き合わせちゃった?」
「いいや。私も、体調的に水に入るのは無理だったし……」
目前の崖を振り仰いでから、理奈は背後の川原へ視線を転じた。十名ほどの化学部員が、歓声を上げながら水と戯れている。向こう岸の岩の上では、釣具を広げている奴までいる。
「でも、今から考えると、水辺でバチャバチャするのも楽しそうだったかなー、って……」
羨ましそうな理奈の呟きが、破裂音にも似たハンマーの音にかき消される。驚いて振り返る理奈に、志紀は少しだけ恥ずかしそうに弁解した。
「えーっと。少し力、入れ過ぎたみたい」
志紀の前には、岩石「だったもの」が粉々に砕けて散らばっていた。
合宿、二日目。
朝食後、一同はキャンプ場から歩いて三十分ほどの川に来ていた。
今日の昼食はここでバーベキューの予定だ。そしてそれまでの時間は、地学部並びに地学選択者は鉱物採集、化学部は実地研究――水の分子構造を身体で感じるとか、水と人体の比重の違いを身をもって体験するとか、お題目は山ほどでっち上げられていたが、要するに単なる水遊び――をして過ごす事になっていた。
二つのグループ間の移動は原則自由だったため、泳ぐ地学部員も、ハンマーを握る化学部員もいるにはいたが、化学部部長代行が率先して地学教諭に付き従った事に、何名かの生徒は不思議そうに首を傾げていた。
むかむかする。
理奈にはああ言ったものの、多分、今、私は怒っているのだ。そう志紀は思った。
怒りの対象は、限られている。だが、そのどれにたいして自分が腹を立てているのかが解らない。先生か、自分か、それとも……その両方か。そして、誰の何に腹が立つのかも良く解らない。
昨夜からずっと頭の中が空回りしている。寝不足のせいか眩暈を感じて、志紀は思わず目を瞑った。
暗転する視界に、昨夜の神社での光景が浮かび上がってきた。
肝試しの一番手の二人組が現れる直前まで、志紀は朗に散々弄ばれた。
彼らの持つ懐中電灯の光輪が、先ず、木々の梢を照らし、やがてそれがゆっくりと高度を下げていくのを、志紀は絶望的な気持ちで見つめていた。
朗の指は相変わらずいやらしい動きで志紀の胸を嬲り、狂おしいほどの快感を生み出し続けている。このまま気を失ってしまえたら、どんなにか楽だろうか。そう思いながら、志紀は必死で声を押し殺していた。
懐中電灯の灯りが遂に石畳に落ちた。同時に、人影が石段の下から姿を現し始める。
もう、だめだ。
見つかってしまう。
見られてしまう。
次の瞬間、突然朗の気配が志紀の背後から消えた。
身体を支えていた朗の足も消え失せ、志紀はがくりと腰を大きく落とした。悲鳴を上げなかったのは、声も出せないほど疲弊していたからに過ぎない。志紀は必死で目前の木にしがみつくと、そのままゆっくりと立ち上がった。
「お疲れさん」
「あ、先生。朝食券、どこ?」
彼らの声が、やけに遠く聞こえる。
志紀は、まだどこか朦朧とする意識を必死で奮い立たせて、自分の姿をチェックした。着衣に目立った乱れは認められず、志紀は安堵の溜息をつく。下着はすっかり濡れてしまっているようだけれど、まさかジーンズにまでは滲みてないだろう。いや、そう信じたい。夜陰に誤魔化されている間に、さっさと着替えてしまえたら。
「気をつけて帰るように」
「はーい」
そうして、二つの人影はまた石段を下っていった。
「出ておいで、志紀」
囁くような朗の声に、志紀は身体を震わせた。
まさか、また、続きを……?
嫌だ、という気持ちと同時に沸き起こった別の感情を自己認識して、志紀は愕然とした。
「いつまでも隠れていては、そのうち不審に思う奴も出てくるだろう?」
社の正面に佇む朗のシルエットが見える。
「それとも……そこで続きをご所望かな?」
そうだ、十分間の逢瀬は終わったのだ。
そして、自分はその事を残念に思っている。
志紀は一瞬だけ固く目を瞑って、それからゆっくりと朗の許へと歩き出した。
――つまり、きっと、私が一番腹立たしく思っているのは、自分自身なんだろう。
志紀はハンマーを握り直した。
あんな所であんな事をされて、それを嫌だと認識しつつも、心のどこかで望んでいた。これでは私はまるで、インランだかヘンタイだか、とにかくとんでもない人間ではないだろうか。
でも。
やっぱり一番悪いのは先生じゃないか。そもそも先生があそこでああいう行動に出なければ、私もヘンにはならなかった筈。
でもでも、夏休み前に私が先生の誘いに乗ってしまったのが悪いのかも……。
いや、そもそも、それ以前に一等最初に先生があんな事を……。
ぐるぐると無駄に思考を巡らせている事に気が付いて、志紀は大きく深呼吸した。
ああ、もう。
無心、無心だ。とにかく落ち着かなきゃ。
そう胸のうちで呟きつつ、志紀は手元の斑糲岩 の磁鉄鉱と思しき結晶に鏨 をあわせた。
「破壊衝動を爆発させたいだけなら、ハンマー一つで充分じゃないかな?」
今まさに思いを巡らせていたその人物の声が頭上から降ってきて、志紀は驚きのあまり思いっきり狙いを外してしまった。
「……!」
「そうなんですよー。さっきから志紀ってば何個石を砕いたか。これじゃ、鏨 だって壊れて……って、ああ、成る程、そっか。『たがね』がかわいそうですもんね、多賀根先生?」
自分で言った駄洒落に、即座に「寒っ」と自分で突っ込んで、理奈はからからと笑った。朗は苦笑しながらも、理奈に調子を合わせる。
「そう。同名のよしみで、お手柔らかに頼むよ。……有馬さん?」
下を向いたまま動かない志紀に、朗は怪訝そうな視線を投げた。それから志紀の前に屈みこみ、両手を握り合わせ硬直している彼女の左手首を掴むと、いつに無く厳しい声でその手を引く。
「見せなさい」
朗が掴み取った志紀の左手、親指の先が赤く腫れていた。唇を噛んで痛みに耐えていた志紀は、少し慌てて顔を上げた。
「ち、ちょっと手元が狂って……、あ、痛っ」
「打撲傷は、さっさと冷やす。川村さん、有馬さんの道具の片付けを頼む」
「あ、はい」
そのまま朗は志紀の手首を引いて川原へと連れて行く。志紀は足元に転がる大きな石に何度も足をとられながら、なすすべも無く水辺に向かって朗に引っ張られて行った。
大勢の視線が自分に集まるのが解る。志紀は顔が赤くなるのを自覚した。
ここで狼狽すれば余計に逆効果だと思って、必死で平静を装う。まさか、こんな事で自分と先生の仲を疑われるような事はないだろう、と。
川縁で朗は身を屈めた。必然的に、志紀もそれに従う事になった。
「傷は無いな。ならば……」
そう言って、朗は志紀の左手を流水に浸ける。
ひんやりとした水に触れ、急に痛みが引いていくような気がした。手首から這い上がる冷気が、志紀の全身を静かに解きほぐしていく。
身体がゆるりと弛緩していくのを感じて、志紀はそこで初めて、昨夜以来自分がずっと緊張していた事に気が付いた。
「おーい、どうした?」
嶺と珊慈が駆け寄ってきた。今日は焼くぞ、と宣言していた彼らはハーフパンツ一丁という潔いいでたちだ。
「指、叩いちゃっただけ」
「え、大丈夫?」
「どんくさい奴が凶器握るからだぜ」
「ほっといて」
いつもどおりに軽口を叩きながら、何故か志紀は傍らの朗の存在を強く意識していた。
朗は、水の中で志紀の手首を握り続けている。無言で。
「大体、なんであっちに行ったんだよ?」
「……なんとなく」
先生に対するあてつけだ、とはとても言えない、言えるわけがない。
「あたりまえだろ? 嶺。こっちはヤローばっかりだし、さ」
「おい、珊慈、そういう台詞は、色気のある奴にこそ有効……」
「原田君」
朗の声が、やけに強く辺りの空気を震わせた。「私の荷物からタオルを取ってきてくれないか」
「あ、ああ、はい」
問答無用な強い口調に呑まれたのか、いつになく神妙な表情を作って嶺は駆け出して行った。そして、すぐにタオルを掴んで戻ってくる。
「ありがとう」
もう用は無い、とばかりに視線を逸らせる朗の様子に、彼らは少しだけ怪訝そうな顔で再び仲間のところに戻っていった。
「先生、あの、もう大丈夫だと思います」
そう言ってから朗の顔を覗き込んで、志紀は小さく息を呑んだ。あまりにも朗が、寂しそうな顔をしていたからだ。
「そうか」
だが、次の瞬間には朗はいつもの冷静な表情になって顔を上げていた。志紀の手首をそっと離すと、静かに立ち上がる。
「今日はおとなしくしておく事だ。手伝いは他の者に頼むことにするから」
タオルを志紀に渡して、朗は振り返る事無く立ち去って行った。
夜、キャンプ場のグラウンドに五つの水の入ったバケツが並べられた。大袋入りの花火が三つ、皆の歓声とともに登場する。
包みが解かれ、花火を手にした生徒達が、種火を管理する山口教諭の前に集まる。志紀も理奈と二人、火を求める順番待ちの列に並んだ。
「有馬さん」
朗の声に、今度は志紀は驚かなかった。なんとなく予感がした――いや、期待していたからだ。なにしろ、午前中のあの川での一件以来、志紀と朗が言葉を交わす機会はただの一度も無かったのだから。
「手は大丈夫かい?」
そう、こう訊かれるだろうと思っていた。
「……まだ少し、痛みます」
ならば、こう答えようと考えていた。
「えー、志紀、大丈夫?」
「骨までは、いってないと思うけど」
「ちょっと心配だな。念のために湿布でもしておいた方が良かったかな」
朗が少し考える素振りを見せる。志紀は黙って彼の次の言葉を待った。
「今からでも、しないよりはマシか。有馬さん、おいで」
花火を理奈に預け、志紀は朗の後を追った。
宿泊所の一階、一番建物の入り口に近い部屋が、二人の教諭の泊まる部屋だ。朗は志紀を待つ事無く、さっさと部屋に入っていく。
外の喧騒とはうって変わって静かな棟内、かすかに響いてくる歓声が随分と遠く思える。かつて古い小学校だった時の面影を残した廊下は、ひとけが無いというだけで、急に非現実的な雰囲気を帯びていた。
学校、という場所が怪談モノの舞台として好まれる理由が、なんとなく志紀には理解出来た。
外部から切り離されて造り出された世界。「内」と「外」の境界にある空間。それは彼岸と此岸 を分かつあの川に似ていた。だが、「ここ」は流れ去ることなく容れ物としてこの場に留まり続けている……。
唐突にそんな言葉が志紀の頭に浮かんできた。ならば、私は……。
先生は…………。
「志紀」
期せずして部屋の入り口で躊躇する形となった志紀を、朗は静かに名前で呼んだ。
「そう怯えるな。もう、昨夜のような事はしないから」
卓袱台の上に救急箱を広げて、朗は苦笑に似た笑いを口元に刻んだ。志紀は無言でその向かい側に正座する。
「手を」
促されて左手を卓袱台の上に伸ばしながら、志紀は思わず小さい声で呟いていた。
「すみません」
「何が?」
「いや、何と言うか、……いろいろと」
今朝がたまで志紀を苛 んでいた怒りは、とっくの昔に消え去っていた。今、志紀の心を満たしている感情は、自己嫌悪に近い。
「私は別に、君に謝られるような憶えは無いよ」
「……今、こうやって手を煩わせてますし、部長代行なのに何も仕事をしてませんし、それに……」
「その怪我は、私のせい、だろう?」
朗が志紀の手をとった。
「昨夜は少し遊びが過ぎた」
少しだけトーンを落とした朗の声に、志紀はぞくりと背筋を震わせた。身体の奥から湧き上がる痺れを必死で無視して、大きく息を吸う。
「……いえ、私が……」
つい口を突いて出た言葉を、志紀は慌てて呑み込んだ。
しまった。
こんな事を言うつもりは無かった。
先生の告白に対する返事が遅れた事を謝りたいだけだったのに。
「『私が』、何だね?」
志紀の手を握る朗の指に、力が入る。
「『私が、毅然と拒否していれば』?」
朗の瞳に、暗い光が宿る。
「君の言いそうな事だ。違うか?」
凄みを増したその声が、志紀を絡めとる。
「完全に自己をコントロールしている自信があったのだろう? だからそんなに自分を恥じている。違うか?」
「ひゃっ」
志紀の手が強く引かれた。バランスを崩して、志紀が卓袱台の上に倒れこむ。
「志紀、人は理性にのみ支配されるわけではない。それは私も、君も同じだ」
身を起こした志紀は、正面から朗の視線に捉えられてしまった。
「拒否などさせない。いや、そんな考えなど起こさせてやるものか」
静かにそう言ってから、朗はやにわに志紀の怪我をしている指を口に含んだ。
「せ……、先生! 何を……!」
舌なめずりするように、朗は言葉を紡ぐ。
「打撲傷は、腫れがひいたら適度に加温するのが良いのだよ」
「加温って、他にもやり方が……」
「これくらいの怪我なら、わざわざ温湿布をするほどでもないだろう」
再び志紀の親指が朗の唇に銜え込まれた。ぞくぞくと背中を這い上がる、えもいわれぬ感触。
「で、でも、汚い、ですよっ」
朗は無言で、口に含んだ指に舌を絡ませ始めた。まだ鈍く痛む部分に、やわらかいものが纏わりつく。
志紀の呼吸が、じわりと上がってきた。
身体を触られているわけでもないのに、身体中が熱い。
胸を触られているわけでもないのに、胸の先が疼く。
そして……、身体の奥底が……溶け出していく……。
私、ヘンだ。
何故、指を舐められているだけで、こんな気持ちになるんだろう。
朗は執拗に志紀の指を舐め続ける。
時に水音を立てて。時に負圧をかけて。
口の中に含んで舌で転がしたかと思えば、今度は志紀にも見えるように舌を這わせて。
――人は理性にのみ支配されるわけではない――
先刻の朗の台詞が、わんわんと志紀の頭の中で反響している。
部屋の天井が、床が、ぐるぐると回っている。
「明日、学校に帰ったら、準備室へ来給え」
そっと志紀の指を解放して、朗はそう微笑んだ。