The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第三話 軌道

 
 
 
 待つつもりだった。
 待てる自信もあった。
 あの瞳に気が付くまでは。
 
 ――――だから、先手を打ったのだ。
 
 
 
    第三話   軌道
 
 
 
 生ぬるい風が、暗幕を揺らす。
 窓の外からいつになく賑やかなざわめきが響いてくる。中庭を挟んだ南校舎の向こう、グラウンドに設置された舞台を発信源に、何かの曲とマイクを通した喋り声。時折混じるハウリング音がご愛嬌だ。
 
 待ちに待った、楢坂祭。
 生徒達は夏休み前からその準備にかかる。校内の飾りつけ、模擬店、体育館や野外舞台での出し物、クラブや授業の作品及び研究発表。準備しなければならないものは山積している。一年生と二年生を中心に、彼らは夏休み中は勿論、祭りの一週間前ともなると連日夜の八時まで学校に残って、その支度に没頭していた。
 
 祭りそのものよりも、準備の方が楽しいというのは、どういう事なんだろう。
 展示の関係で、化学室はその開口部を全て暗幕で覆われている。季節感を狂わせる、冷たい蛍光灯の光の下、去年や一昨年を思い返して志紀は口元を綻ばせた。
 化学部は、現部長を中心とした二年生達が頑張ってくれたおかげで、志紀達三年生には申し訳程度の仕事しかまわって来なかった。そのためだろうか、今日が文化祭当日だという実感がいま一つ沸いてこない。
 実験机の、マット加工された黒い天板の上に置かれた小さなラジオからは、校内放送局の特設ラジオ番組が控えめな音量で流れている。
 
 化学室があるのは、北校舎の端だ。廊下は隣の化学準備室で袋小路となっているから、通りすがりの来訪者というものはほとんど期待できない。しかも、ここは学校の敷地でも北西の端に位置しているため、廊下の窓のすぐ傍まで迫った裏山の木々が、薄暗い雰囲気を見事なまでに高めてくれている。
 賑やかな文化祭の喧騒も、ラジオから流れる陽気な放送局員の声と同じように、ともすればスイッチ一つで消え失せてしまうような気がする。去年は欠片も抱かなかった不可思議な感慨にふけりながら、志紀は読んでいた文庫本に栞を挟んだ。
 
 各々の部活とは別に、各学年には仕事が割り振られている。校内デコレーション係の一年生は、準備に燃え尽きる間もなく、初めてのお祭りを楽しむために早々に校内へ散っていった。二年生はクラスの模擬店。当然ながら、こちらは祭り当日が本番だ。
 一方、三年生には特に任務は課せられていない。それを良い事に、学校を休んだり図書室に篭ったりして受験勉強にいそしむ三年生もいるにはいるが、自信があるのか身のほど知らずなのか、大抵の三年生は高校生活最後の文化祭を思いっきり謳歌していた。
 化学部においても、三年生のほとんど全員が祭りに参加していた。他所を見てまわったり兼部先の仕事をしたりする合間に化学室に集まり、展示そっちのけで雑談に花を咲かせている。
 
 ついさっきまで、化学室には志紀を入れて五人の部員がいた。
 丁度時刻はお昼時。腹が減ったな、と一人が腰を浮かせば、ばらばらと皆が立ち上がり、「それじゃ皆何か食べといでよ。私が店番してるから」と言う志紀の声に、渡りに船とばかりに全員が模擬店の並ぶ校庭へと旅立って行ったのだ。
 
 下手な文字で「受付」と書かれた紙を貼り付けられた小机の上に文庫本を置き、志紀は椅子から立ち上がった。ひとけのない室内をぐるりと見回してから、右手で軽く口元を押さえ、何か思案する素振りを見せる。
 それから意を決したように軽く頷いて、志紀は準備室への扉の前へゆっくりと歩みを進めた。大きく息を吸い、扉をノックする。
「どうぞ」
 どこかくぐもったような声が中から響いてくる。志紀は無言でノブを握る手に力を込めた。
 
 
 長椅子から上体を起こして、朗が伸びをする。
「もうお昼ですよ、先生」
「ああ……」
 眠そうに目元を何度も擦る朗の様子に、志紀は思わず目元を緩めた。
 偶さか、朗は子供みたいな仕草を見せる事がある。流石に授業ではそういう事は皆無に等しいが、部活では多少リラックスしているのであろう。皆で放課後にお茶する時、お菓子を食べ終わった後に自分の指についた粉などをぺろりと舐め取る様子などは、多くの生徒達が言うところの「化学の多賀根」という呼び名に付き纏っているイメージからは、かけ離れている筈だ。
 今年のバレンタインに副部長が持ってきた手作りのトリュフを皆で食べた際に、志紀は朗のその癖に気が付いた。後でこっそり理奈にも教えて、二人で「意外とカワイイよね」と盛り上がったものだった。
 
 授業中の、冷たさすら感じさせる「先生」の顔。
 時折見せる、級友達と何ら変わらないような「男の子」の顔。
 そして……
 
 志紀は、そこで思考を必死で止めた。
 思い出してしまったのだ。先週の逢瀬の事を。いつものこの部屋の、いつもの長椅子。膝に座らされてそのまま貫かれた記憶。
 一気に熱くなった頬を朗に見られないように、志紀は慌てて部屋中に首を巡らせた。
 
 
 
 夏休みの後半の二週間、三年生対象の夏期講習が学校で行われた。
 センター対策の物量作戦という触れ込みだったので、最初、志紀は出席するつもりはなかった。それなのに欠かさず学校に通ったのは、放課後の化学室が目的だったからだ。
 
 暇人な化学部員達とだべりながら、志紀は機会を見つけては朗を会話に引っ張り込んだ。
 多賀根朗の事をもっと知りたかった。
 教師としての、部の顧問としての、ではなく、個人としての朗を知りたかった。
 オフィシャルな部分ではなく、プライベートを知りたかった。
 どんな食べ物が好きで、どんな歌が好きで、どんなテレビを見ているのか。これまでも部活を通じて知っている部分は多少はあったが、もっともっと彼のことを知りたかったのだ。
 
 毎日のように顔を合わせる中、週に一度の割合で朗は志紀を準備室に呼び出した。
 
「後で」
 ただ一言をすれ違いざまに小さく囁く低い声。
 何事もなかったかのように志紀は他の部員達も交えて雑談を続行する。
 それから、先に帰ったフリをして、適当な教室で皆が帰るのをひたすら待つ。
 やがて、マナーモードの携帯電話がスカートのポケットで震え始める。
 液晶画面に映る「R.T」の文字。
 
 化学準備室の扉を開けて、閉める。
 鍵をかける。
 
「ようこそ」
 そう言って、朗は志紀に微笑むのだ。カーテンの閉まった薄暗い部屋の中で。
 
 
 
「先生、分厚い方のカーテン、開けますよ」
 秘め事の記憶をも陽光に霧散させるべく、志紀は勢い良く深茶のカーテンを引き開けた。背後から、まだ眠そうな、唸り声ともつかない抗議の声が聞こえる。
 志紀はその声を無視して、反対側のカーテンにも手をかけた。窓際に置かれた机の上の物を落とさないように気をつけながら、カーテンの裾を持ち上げ気味にして滑りの悪いランナーをそろそろと動かした。
 二学期が始まるまでは綺麗に片付けられていた筈の机の上は、今や小さな魔窟と化している。几帳面な人だと思っていたけれど、常にそうと言うわけではないようだ。自宅の部屋なんかも、もしかしたらスゴイ事になっているクチかもしれない。
 朗が知ったら絶対に嫌な顔をするであろう事を、つらつらと考えていた志紀だったが、ふと、机の上の本立ての向こう側、窓との隙間に一冊の本が落ちている事に気が付いた。
「先生、こんなところに本が。傷みますよ」
 季節が季節ならば、結露で大変な事になっていただろう。ハードカバーのその本を志紀が摘み上げると、細かい埃が宙に舞った。しっかりと本を持ち直して、薄いカーテンの隙間から窓の外に両手を真っ直ぐ突き出して埃をはたく。
「ああ。そんなところに紛れていたのか」
 もう一度大きな伸びをしながら、朗が長椅子から立ち上がった。首を何度か大きく回してから、志紀の方へと近づいてくる。
 本を手渡された朗は、なんとも表現しがたい複雑そうな笑みを浮かべていた。
「この本は、確か君も持っているんだったね。……自分でレジに?」
「ネットで買いました。そのタイトルは、流石にちょっと恥ずかしいから」
 その一瞬、朗の眉が大きく跳ね上がった。
「へえ、君でもそんな事を思うんだ」
「当たり前ですよー。やっぱり、あまりにストレートだし。でも、皆のはちょっと過剰反応のような気がするけどなあ。雑念が入り過ぎてるんじゃないかな」
 志紀は、丁度二ヶ月前、放課後の化学室でこの本が話題に上がった時の事を思い出していた。
「君が特別なんだ。そうそう竹を割ったようには割り切れないものだよ」
「そうかなあ」
 眉根を寄せる志紀の背後にゆっくりと回り込みながら、朗は声のトーンを落とした。
「……君だって、スイッチが入ってしまえば、そんな余裕など吹き飛んでしまうくせに」
 びくん、と志紀の身体が震えた後、硬直する。
 すぐ後ろで、朗の気配が静止した。
 
 微かな衣擦れの音とともに空気が動き、何か――多分、指――が、志紀の髪を揺らした。
 右へ、左へ、かき分けるようにして髪を弄び、その、さらさらと流れる感触を楽しむかのように指は蠢く。
 志紀は思わず生唾を呑み込んだ。全身の感覚が首筋に集中する。
 揺れる髪の先が肌を撫でる感触に混じる、ほんの僅かな違和感は、おそらくはうなじを掠める朗の指が生み出すものだろう。彼の指先が肌に触れる時間が徐々に長くなってくるのを、彼女の身体は敏感に感じ取っていた。
 そして、ついに、朗は志紀の首筋をゆっくりと撫で始めた。うなじを上下にねっとりとなぞり、それから右の方へと這い進む。そのまま耳朶に到達した指達は、柔肉を優しく挟み込み、こねるようにして動き始めた。
「どうだ? 君の言う『雑念』が、今、君の頭の中を犯しているのではないかね?」
 耳にかかる、熱い息。
 
 くらくらする。
 耳の奥で、金属音が鳴り響く。
 耳鳴り?
 いいや、違う。これは校庭から響くスピーカーのハウリング……!
 
「ち……ちょっと、先生っ」
 必死で意識を背後から引き戻し、志紀は飛びずさるようにして朗から身を離した。
 肩で息をしながら、自分を睨みつける志紀を見て、朗は声を上げて笑った。心底楽しそうに。
「冗談だよ。こんな状況で一体何が出来ると言うんだね。安心し給え、私はそこまで愚かではない」
 その言葉を聞いた志紀は、次の瞬間、見事なまでのふくれっ面となった。それから勢い良くきびすを返して、開け放たれていた扉から化学室へと出て行った。
 
 
 少し調子に乗り過ぎたか。
 残された朗は、まだこみ上げてくる笑いを抑えようと大きく息を吸った。
 
 それにしても、なかなか良い反応を見せてくれる。
 自分の指が、自分の声が、彼女を女へと――いや、単なる女ではない。この自分が開花させた、自分しか知らない女へと変貌させるのだ。これに勝る喜びがあろうか。
 
 セクシャルに翻嬲される事など、これまで志紀は経験した事がなかった筈だ。怒るのも無理はない。だがそれもまた、自分が彼女を支配しているという証左の一つだ。
 とは言え、彼女の機嫌を損ねたままという状態は、後の逢瀬にも差し障る。ご機嫌を取っておいた方が良いだろう。
 そう考えた朗の奥底で、違う自分がなじるような声を上げた。
 
 そうじゃないだろう。
 どうして、そう一々はすに構えるのだ。
 彼女を抱くためだけに、ご機嫌取りをするというのか。
 不機嫌な志紀を見ている事が、つ……
 
 朗は頭を振って雑音を追い払った。まだ手に例の本を持っている事に気が付き、机の脇に置いてあった鞄の中に仕舞い込む。
 
 この本が、最後の引き金だった。
 あの時、あの瞳に気がついてしまったから。
 
 そう、あれは七月に入ってすぐの出来事だった。