The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第三話 軌道

 
 
 
 週に一度の実験日以外は、化学部の部活は実質、有って無いようなものだ。部員達は、好きな時間に化学室に集まっては、本を読んだり、ゲームをしたり、だべり合ったり、要するに好きな事をして過ごしている。
 集まる面子も大体決まっており、せいぜい六人、多くて十人。名簿上の部員はその数倍存在するのだが、文化祭やSSH関連行事などのイベント前に申し訳程度に顔を出す以外は、完全な幽霊部員がそのほとんどを占めていた。
 
 その日の放課後も、五人の部員が化学室で談笑していた。勿論、その中には志紀の姿がある。紅一点という事に何も頓着する様子もなく、彼女は相変わらずユニセックスな調子で、他の部員と朗らかに言葉を交わしている。
 朗は、六時間目の授業の後片付けをしながら、彼らの会話に耳を傾けていた。かつて自分があの立場だった時を思い返しながら。他愛もない会話に教師が闖入する事は、決して歓迎されるものではないだろう、と。
 
「あ、そうだ。先生、借りてた本、返します」
 前副部長の柏木陸が、そう言って鞄からハードカバーの冊子を取り出した。
 比較的マイナーな出版社が出している、一般書と言うには少しだけ専門的な科学読本のシリーズの一冊だった。金欠で、という彼の求めに応じて、朗が自分の蔵書を一巻から順に貸し出していたのだ。
 そのタイトルを思い出して、朗は慌てて振り返った。まさか、と危惧したとおり、その本は袋などに入れられずに剥き出しのまま差し出されている。
「えええー? なんだよ、これ」
「『せっくすはなぜたのしいか』……って、先輩、そりゃないでしょ」
「おいおい、いいのかー、こんなの持ってきて。ってか、これ先生の本かよ」
 案の定、蜂の巣をつついたような騒ぎが持ち上がった。朗は大きく溜息をつく。それから、少し不安になって、目の端に志紀を捉えた。
 いくら「あの」有馬志紀だといっても、男子生徒に囲まれた状態で、この話題で会話がエスカレートしていくのは、不快であろう。朗は、話を切り上げようと口を開きかけて……、躊躇した。
 
 恥じらい困惑する彼女を見てみたい。
 
 しかし、朗はすぐに思い返した。
 そうだ。ここにいる彼ら――特に原田嶺――にまで、そんな美味しいものを見せてやる事は無い。
「言っとくけどな、真面目な本だぞ」
 差し出された手から本を奪い取るようにして、朗は弁解した。それを受けて陸が、至極冷静に解説する。
「このシリーズ、宇宙からバイオまで色々扱ってるんだ。そのうちの一冊。結構おもしろいよ」
 学年一、二を争う秀才は、涼しい顔でぐるりと一同を見回した。
 その視線が、志紀の上で少しだけ長く留まっている事に、朗は気が付いた。
 嫌な予感が、する。
「真面目っつっても、そのタイトルはスゲーだろ」
「なぜ楽しいか、ってさー、そんなの……なぁ?」
 会話を打ち切らせようにも、あまりに強引に割り込めば余計に雰囲気が悪くなる。何より、自分の胸裏を知られてしまいそうで、朗は躊躇っていた。
 どうしたものか、と逡巡している間にも、男子生徒達の声からは徐々に遠慮が無くなっていく……。
 
「うーん。でもさ、結局良く解んなかったよ?」
 志紀が会話に加わってきた事に、残る全員がぎょっとして動きを止めた。
「……は?」
 嶺が素っ頓狂な声を上げる。
 朗は心の中で、大きく肩を落とした。やはり、彼女はどこまで行っても彼女なのか。
「その本、前に読んだ事あるけど、結局、なんで楽しいかという根幹的な理由には届いてなかったと思う」
「……って、有馬先輩……、そんな、真顔で……」
「ふぅん。有馬さん、読んでたんだ」
 陸の声に、落胆の色が潜んでいるように思えるのは……朗の気のせいだろうか。
「うん、このシリーズ一応全部持ってるから。でも、この著者、別の歴史ネタの本の方が、断然面白かったけどなあ」
 
 歪みかけていた場の雰囲気が、一気に平静に引き戻される。
 返ってきた本を準備室に置きに行こうとした朗は、陸と嶺の会話を耳にした。
「原田、お前すごいな。尊敬するよ」
「は? 何が?」
「何でもない」
 
 振り返った朗は、陸の瞳に込められた光に気が付いた。
 あの瞳に、見憶えがある。
 
 
 準備室の小さな洗面台。ふとした事で湧き上がる衝動を抑え込むには、冷たい水での洗顔が一番だ。白衣の袖を捲り上げて、飛沫を散らすのも厭わずに顔面に水を打ちつける。
 タオルで雫を拭いながら顔を上げた目の前、古びた鏡に映る世界は裸眼のためにぼやけている。だが、それでも、おのれのぎらついた瞳だけは嫌なぐらいに明瞭に朗の目を、朗の心――おそらくは罪悪感といった類のもの――を射抜いていた。
 
 あの、獣に似たおぞましい光。
 
 級友と笑いあう志紀の柔らかそうな唇に、
 雑談の合間に組みなおされる足首に、
 硝子器具を洗う指先に、
 片肘をついて文庫本を読む時の、髪の隙間から覗くうなじに、
 かき立てられた汚らわしい欲望を抑えるために冷水を浴びせても、なお、ぎらぎらと光を放つおのれの瞳。
 
 
 再び和気あいあいと会話を始めた部員達を残して、朗は準備室の扉を閉めた。
 掌が汗でぬめっている。
 あの瞳は自分と同じ、獲物を渇望する牡のものだ。
 
 原田だけなら、何とかなると思っていた。今手にしているポジションを失う事を何よりも恐れているあの臆病者は、何かきっかけが無い限りは卒業までは行動を起こせないだろう、と。
 だが、柏木は……油断ならない。
 半年前、深夜の邂逅で彼が語った言葉を、朗はまだ憶えている。
 
 ――先生だって、同じ条件下におかれたら、同じ事をしたんじゃないですか?――
 
 もしも彼が志紀を狙っているというのなら、原田を出し抜こうとするために、おそらくは本気でかかってくるだろう。そう、私ならそうする。間違いなく。
 待てない。
 このまま春を待つわけにはいかない。
 
 朗の内部でくすぶり続けていた荒唐無稽な妄想が、ゆっくりと表層に浮かび上がってくる。
 シミュレーションに必要な材料は、全て揃っている。
 時期と、舞台と。リスクと、成果と。朗は静かに計算を始めた。
 
 その計略が実行に移されたのは、十日のちの雨の日だった。
 
 
 
 半時間ぶりの希少な客が、展示を一巡して退出していく。
 皆が昼食に出てから、二十分が経っていた。化学室には未だ誰も帰ってきていない。
 
「柏木君が、何か?」
 来客の直前に、朗が自分に投げた言葉を思い出して、志紀は怪訝そうに問いかけた。
 あまりにも唐突に話題が戻ってきた事に、朗は心中密かに狼狽しながらも平静を装う。
「あ、いや、彼は我が校きっての期待株だろう? 同級生から見てどんな奴なのかな、と思ってね」
「どんな奴ってったって……。一言で言うなら、ヘンな奴、かな。わざわざ変人を気取って、変人って呼ばれて喜んでいるあたり、物凄く変人かも」
「言うねえ」
「だって、ほら、今年のバレンタインのあのトリュフ。お菓子作りが趣味なんだ、ってびっくりしたら、『今回が初めて』だなんて言うでしょ。じゃあ、なんで突然? って訊いたら、『びっくりしたろ?』って。普通、ウケを取るためにあそこまで情熱をかけるかなあ」
 しかも、むっちゃ美味しかったし。ぶつぶつとそう呟く志紀を朗は複雑そうな表情でじっと見つめていた。
 その視線に気がついたのか、ふ、と志紀が朗を見やる。しばし、二人はお互い見つめあう形となった。
 一呼吸のち、先に目を逸らしたのは志紀の方だった。照れを誤魔化すかのように、少し慌てて会話を再開する。
「そうだ。柏木君って、先生に似てますよね」
「何故、そう思う?」
「興味のある事にはマメなのに、そうじゃないと全然動かないところとか」
 見事なまでにおのれの本質を突かれて、朗は思わず苦笑で返した。
「成る程。他には?」
「んーと、他には特に……無い、かな……」
 そう言った志紀の口調は、不自然なほどに歯切れが悪かった。
 朗の眉間に皺が寄る。
「とぼけるのはナシだ。三つ四つぐらいは思いついただろう? たった一つの条件で、似ているという結論を口にするほど、君は非論理的ではない筈だ」
 容赦の無い突っ込みに、志紀は降参のポーズを作った。それからおずおずと口を開く。
「……怒りませんか?」
「努力しよう」
「ん、と……、何を考えているのか微妙に解らないところとか」
 朗は、両手を腰にあてて大きく溜息をついた。
「普通、他人の思考なぞ簡単に覗けるものではないぞ」
「そうなんですけど……。そうだ、奥行きの深そうなところ、と訂正」
「ものは言いようだな。他には?」
 まだなにかしつこく逡巡している志紀に向かって、朗は目線で続きを促す。
 ややあって、観念したかのように志紀は肩を落とした。それから、少し躊躇いがちに視線を外し、訥々と言葉を吐き出していった。
「……そのー。えっと、なんて言うか、その、見た目カッコイイのに、ちょっと近寄り難い雰囲気があるところ、とか……。って、私は別にそう思わないんだけど。って、うわ。思ってない、というのは勿論『近寄り難い』って部分だけですよ。その、カッコイイっていうのは、どちらかと言えば私の主観と言うか……。あ、でも、そんな感じの事を言っている子が多いのは確かで……、いや、別に、怖いとかそんなんじゃなくて、多分眼鏡のせいじゃないかなーっと思うんだけど……」
 その内容の不躾さを自覚したのだろう、志紀は言葉を重ねながらわたわたと慌てふためき始めた。自分で自分の暴言をフォローしようと足掻きつつ、どんどんと深みに嵌っていく。
 その様子が非常に可笑しくて、朗はわざと無表情で志紀を見つめ続けた。その視線に動揺した志紀は、さらに地雷を撒いては自分でそれを踏みつけ続けている。
「いや、冷たい、とか、そんなんじゃなくて、……なんと言うか、ツッコミキャラと言うか……苛めっ子キャラというか……」
 
 だめだ、もう限界だ。こんなにも美味しい言葉を、ただ黙って聞き流す手はない。
 朗は、口のを軽く上げると、志紀をねめつけたまま、殊更に低く囁いた。
「……という事は、彼も彼女とのセックスでは責める側なんだろうね」
「…………!!」
 志紀の頬が一気に真っ赤になった。
「せっ、先生っ、なんて事言うんですかっ。誰かに聞かれたら……」
 慌てて周りを見回し、押し殺した声で抗議しようとした志紀が、台詞半ばで動きを止めた。
「え? 彼女? 柏木君、彼女いるんですか? それとも一般論?」
 
 本当に、切り替えが早い。めまぐるしく変わるその表情は、いくら見ていても一向に飽きがこない。
 せっかく盛り上げようとした雰囲気は、すっかりぶち壊されてしまっていたが、まあいいだろう。もとより、いつ誰が入ってくるか分からない白昼の教室で、何か出来るとは思っていなかったのだから。
 
「気になる?」
「気になりますよ! だって、あんなヘンな」そこまで言って、先刻までの話題を思い出したのだろう、志紀は慌てて咳払いをした。「あんな個性的な奴の彼女ですよ、どんな子なのか気にならないわけないじゃないですか」
 
 ――セフレ、だそうです――
 ――彼女がそれでも良いって言うんだから、仕方がないでしょう?――
 夜の闇を背景に、年齢不相応に醒めた瞳が、朗の脳裏に閃く。
 
「春休みにね、デートしているのを見たよ」
「マジですか」
「喰い付いてくるねえ」
「だって、これ凄いスクープですよ。楢坂生? それとも他校生?」
「そこまでは解らないね。ちら、と見ただけだから」
 
 本命は、まだ片想いだと言っていた。
 その時はまだ、奴の視線には気が付かなかった。
 
 気が付いてしまったから、だから先手を打ったのだ。
 
「へー。あの柏木君がねえー。ほー。そうかー」
 ひたすら感心して唸り続ける志紀を横目で見ながら、朗は一人微笑んでいた。
 静かに、そして至極満足そうに。