The one who treads through the void

   [?]

CONTRADICTING BLOCKS 第四話 暗渠

 
 
 
 違う。そうじゃない。そういう意味じゃ、ない。
 慌てて反論しようとした言葉が、半ばで止まる。
 
 まさか、先生……
 
 ……忘れてしまってる…………?
 
 
 
    第四話   暗渠
 
 
 
 承前。
 それは、半年前の事。まだまだ寒さも厳しい三月の夜の出来事だった。
 
 
 大学が春休みに突入した学生街は、いつに無く寂しい週末を迎えていた。長期休暇の常として多くの学生が親元へ帰省する以外にも、年度の境目という事で、いつもなら大賑わいのゲーセンも、カラオケも、定食屋も、随分、閑散として見える。
 それが深夜ともなれば尚更の事だ。完全にひとけの絶えた商店街を、深茶のロングコートの裾を翻しながら、朗は駅へと急いでいた。
 
 駅までもう一息というガード下、壊れかけた「痴漢に注意」の看板の陰で何かがふいに蠢いて、朗は驚いて足を止めた。
 この街は、所謂「繁華街」からは少し離れたところにある。昔から、治安もそう悪くは無い土地柄だ。そうは言っても、物騒なニュースの絶えないこのご時勢、警戒するに越した事はないだろう。そう考えた朗は、その看板から距離をとるようにして、慎重に歩き始めた。
 
 それは、もつれ合う二人分の影だった。
 小柄な方をコンクリの壁に押し付けるようにして、もう一方が覆いかぶさっている。街灯の、時折点滅しかける頼りなげな蛍光灯の明かりの下で、一組の男女が熱烈なキスを交わし合っていた。
 人通りが無い駅の裏とはいえ、ここは往来、公共の空間だ。せわしなく顔を重ねあう二人を横目で見ながら、臆面も無くよくやるよ、と口の端を上げた朗の歩みが再び止まった。
 その片割れが、朗の良く見知った顔だったからだ。
 
 その事に気が付いた瞬間、朗は思わずその名を呼んでしまっていた。
 何しろその人物は、この街とは校区から違う、朗の勤め先に通う現役高校生であり、更に言えば朗が顧問をしている化学部の一員でもあったからだ。いや、一番の理由は、今見せ付けられたキスシーンが、あまりにも手馴れていたからかもしれない。
 柏木陸が「先生」と応えるのを聞き、その傍らの女性は、口紅でくっきりと描かれた唇を丸く尖らせた。
「えー、マジ? 先生!? 陸の学校の? 本物?」
「本物。カオリ、補導されないうちに帰ったほうがいいよ」
 口元を手の甲で拭いながら、陸は事も無げにそういった。眉間に皺を寄せる朗を無視するかの如く、二人は勝手に会話を重ねている。
「えー? 地下鉄の駅まで送ってくれるんじゃなかったの?」
「悪いね。それか、カオリも一緒にお説教される?」
「それは、嫌かも」
「だろ?」
 屈託ない調子で手を振って、カオリと呼ばれた女性はヒールの音も高く、地下への降り口へと向かって行った。
「じゃ、先生、僕達も行きましょうか」
「あ、ああ」
 自分が声をかけた筈の相手に主導権を握られたまま、朗は取り敢えず頷いていた。
 
 
 駅のホームには、自分達の他にはほとんど人影はなかった。次の電車は十五分後。それが今日の最終列車だ。
「若造の夜遊びが目立たないように、って、学生の町を選んだんだけど……先生の存在を忘れてましたよ。そこの、複合機能材化学でしたっけ?」
 悪びれる風も無く、陸が淡々と口を開く。朗は腕組みをしながら、横目で、この何を考えているのか今ひとつ掴みきれない教え子の顔をねめつけた。
「良く知っているな」
「先生のファンなんですよ、僕は。でも凄いな、完全にボランティアなんでしょう?」
「レジャーだ」
「出戻り小姑は嫌われませんか?」
「私の組んだ解析プログラムを未だ使い続けている方が悪いんだ。出しゃばって欲しくないのならば、新しいのを組みなおせば良い」
 先生らしいや、と笑う陸の様子はとても高校生には見えなくて、朗は微かに眉をひそめた。
「あまり煩い事は言いたくないが、お約束だと思って諦めろ。……一体、今何時だと思っている。それに」
「それに、もうすぐ最終学年、受験生だろ。……ですよね」
「解っているのなら、慎む事だ」
「一応、これでもセルフコントロールは得意な方なんですよ」
 そう言って、陸が小さく笑う。それが癇に障り、朗は少しだけムッとした表情を作った。
「知っている」
「光栄です」
 
 いかにも大学生、な風体の男達が傍らを通り過ぎ、二人は会話を止めた。
 陽気にふざけあう彼らをしばし見送ってから、今度は朗が口火を切った。
「さっきのは……彼女、か?」
「先月、逆ナンされて」
 少し肩をすくめて、陸は答えにならない答えを返してきた。それから、悪戯っぽい表情を浮かべて、朗の方に向き直る。
「知ってます? 先生。楢坂生って、ある意味、フツーの女の子には評判悪いんですよ」
 話の向かう先が読めずに、朗は無言で次の言葉を待つ。
「ガリ勉とかオタクっぽいとか言われててね。でも、そこでちょっと気の利いた会話の一つもすれば、イキナリ好感度が五割、いや、十割増」
 ……それは、確かにさもありなん事ではあるが。
 朗は心の中で首を捻った。彼女との馴れ初めでも惚気ようとでも言うのだろうか。
「そもそも、最初の悪い評価にしても、根底にあるのは学歴コンプレックスでしょう。好印象さえ与えてしまえば、楢坂のブランドはプラスイメージに転じます。そうなればもう、楽勝、と」
 朗は、静かに陸の顔を見た。彼の、不自然なまでに大人びた瞳を見つめた。
「彼女……と言うわけではなさそうだな」
「セフレ、だそうです」
「せ……!?」
 今度ばかりは、さしもの朗も言葉を失った。
 まさか、まだ十八にもならない高校生の口から、そんな言葉が飛び出してくるとは思っていなかったからだ。
 
 確かに、振り返ってみれば自分だって、中学生を過ぎる頃には既に性への興味や欲求が溢れかえっていた憶えがある。男なら大抵はそうだろう。ハーレム紛いな妄想だって抱えた事もあった。いや、勿論、その妄想が問題なく実現するのならば、今現在だって大歓迎だ。
 だがそれでも、「少年」と呼ばれる時代、本当の望みはもっと身近なところにあった筈だった。好きな子と両思いになりたい、付き合いたい、恋人同士になりたい。……セックスフレンドなんて発想は、二の次だろう。
 それとも……、時代が変わったとでもいうのだろうか。
 
「彼女がそれでも良いって言うんだから、仕方がないでしょう? 僕は、本命以外に興味は無いと言ったのに」
「……本命もいるのか」
 ハーレムかよ、とのツッコミは、心の中になんとか押しとどめた。インモラルに対する嫌悪感よりも嫉妬の方を強く感じた自分に気が付いて、朗は密かに苦笑を漏らす。
 対する陸は、そんな朗の胸中を知ってか知らずか、再び肩をすくめた。
「まだ、片想いですけどね」
「いい加減にし給え。目に余るようだと、私もそれなりの対応をしなければならなくなる」
 教師の顔に戻った朗が毅然と胸を張ると、陸はどこか楽しそうに目を細めた。
「大丈夫ですよ。避妊はきっちりしてますし」
「そういう問題か」
「そういう問題でしょう? 相手がこの関係を望んでいるのだから」
 暖簾に腕押しとは、まさしくこの事だろう。朗は、一際大きな溜息を漏らした。
「本命とやらと両想いになれたら、どうするんだ」
「別れますよ? そういう約束です。ま、その前に向こうが僕に飽きてしまっているかもね」
 
 能天気な電子音が静寂を破り、列車の到着を告げるアナウンスが響き渡る。
「……柏木、お前、そういうキャラだったのか……」
「心外ですねえ。僕は常に、こういうキャラですよ」
「…………そう、だな。確かにそうだ。いや、しかし……」
 何を言おうと、陸が自論を曲げないであろう事は、火を見るより明らかだ。それに、朗自身も、人に説教を垂れるほどの人格者では決してない。
 それでも、朗は、陸の考え方を素直に肯定する事に躊躇っていた。どうすれば、何を言えば良いのか解らないが、このまま捨て置く事はいけないだろう、と。
 ……そうなのだ。私は、教師なのだから。
 
 列車が近づいてくる音が聞こえる。
 空気中を伝わる軽快な音と、レールを伝わる重低音が、混ざり合って鼓膜を震わせる。
 反駁しようと口を開きかけた朗を、陸の台詞が打った。
「先生だって、同じ条件下におかれたら、同じ事をしたんじゃないですか? 僕はそう確信していますけど?」
 
 パアン、と警笛が辺りに響き渡る。
 ホームに滑り込んできた列車の窓の明かりの逆光となり、陸の表情が闇に沈んだ。
 
 
 それは、まだまだ寒さの厳しい三月の夜の出来事だった。
 それから半年と少しが過ぎ、暦は十月を迎える……。