The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第四話 暗渠

 
 
 
「有馬さん、ちょっといいかな」
 放課後、志紀がいつも通りに化学室に向かおうと階段を数段降りたところで、彼女を呼び止める声が上から降って来た。
 どういう思想で設計されたのだろうか、北校舎の東の端に位置するこの階段は、窓に全く面していない。薄暗い空間に踊り場の蛍光灯がちらちらと瞬く中を振り返れば、廊下から差し込む陽光を背に柏木陸が志紀を見下ろしていた。
「化学室に行くところなんだけど……?」
「話があるんだけど、化学室は……ちょっとね。悪いけど、ついて来てくれない?」
 いつになく奥歯に物が挟まったような陸の言い方に、心の中で首を傾げてから、志紀は頷いた。
「……いいよ。じゃ、鞄を置いてくるね」
 使い慣れたものが良いからと、志紀は授業の度に毎回英和辞典を持参している。肩に食い込む鞄から早く解放されたくて、志紀は踵を返そうとした。
「いや、すぐに済むから」
 柔らかな声の奥底に、有無を言わさぬ強い響きを感じ取って、志紀は足を止めた。奈落にも似た暗い階段から視線を外し、ゆっくりと背後を振り仰ぐ。
「こっちだよ」
 三階へと向かう手すりの陰に、陸の影が消えていく。志紀は一瞬だけ逡巡したのちに、彼の後を追って階段を上り始めた。
 
 
 北校舎の最上階である四階から更にワンフロア分を上った先、二つの扉が志紀達を待ち受けていた。
 一つは屋上へ出るための扉で、生徒は基本的に立ち入り禁止とされている。
 陸が立ち止まったのは、もう一つの扉の前だった。扉上部の壁には、「天体観測室」と書かれたプレートがかかっている。
 志紀を従え、無言のままに階段を上り詰めた陸は、制服のポケットから鍵を取り出した。
 ガチャリ、と無機質な音が暗い階段にやけに大きく響き渡った。
 
「閉めっぱなしだと流石に暑いなあ」
 十月に入り、暦の上では秋真っ只中の筈ではあったが、夏を名残惜しむかのような日差しのせいで閉めきった室内には熱気が充満していた。陸はつかつかと部屋を横切り、三方の窓を次々と開けていく。
 普通教室の半分ほどの広さのこの部屋は、「秘密基地」という言葉が何よりもしっくり来る。古い校舎の屋上の中央に、ぽつんと建て増しされた空間は、適度に開放的で、適度に閉鎖的で、とても居心地が良かった。
 観測室は、入り口を入って右手部分が中二階のように一段高くなっている。十段ほどの階段を上った先の床面の中央には、太い頑丈なピラー脚が立ち上がり、その上には口径二十センチの反射式望遠鏡が、直径二メートル強のドーム天井を背景に雄姿を誇っていた。
 部屋の左半分には、六人掛けの大きな机が三つ並んでおり、ドームや赤道儀を制御するためのコンピュータが一番遠い机の上に設置されている。陸は、手前の机に鞄を置くと、志紀にも鞄を下ろすように声をかけた。
「勝手に入って、いいの?」
 おずおずと室内に歩みを進める志紀に向かって、陸は大げさな身振りで自分を指差してみせる。
「地学部員」
「あ、そうか。兼部キング」
「なんだそりゃ」
 陸は化学部の他に、地学部、物理部、生物部に所属している。一番に重きを置いているのは化学部のようだったが、他の部活にしても決して手を抜く事はない。そんな彼にこっそりと与えられた二つ名が「兼部キング」もしくは「兼部大王」だ。
 人当たりの良い態度、知的で整った顔、そこそこの運動神経、そして学年トップの成績。柏木陸に対する賛辞は数あれど、本人は一番「変わった奴」という形容を喜んでいる節があった。現に今も、陸は志紀の言葉を聞いて至極ご満悦の様子である。
「でも、なんでわざわざ、ここ?」
 重い鞄をどっかりと机の上に下ろしながら、志紀は先刻からの疑問を口にした。
「他人に聞かれたくないんだ。この部屋は、今日は誰も使わないからね」
 志紀の目の前、一メートルほどの距離を開けて、陸が立ち止まる。
「え? 私は? 聞いてしまっていいの?」
「有馬さんに話があるんだから、当たり前だろう?」
 これ見よがしな溜息に、志紀は少しだけムッとして、口を尖らせた。
「そういう意味じゃなくて。私なんかが聞いてしまっていいの? って意味だよ」
「そりゃ、君に聞いて欲しい話なわけだからね」
 
 まさか。
 まさかね。
 一瞬浮かんだ少女漫画的なワンシーンをあっさりと一蹴して、志紀は陸の顔を見た。
 最近、先生との事もあって、どうにも思考が不必要に色気づいてしまっているような気がする。いや、自意識過剰というべきか。
 あまり変な想像をしてしまっては、柏木君に失礼過ぎるというものだろう。
 
「よし。何?」
「そんなに身構えられても、困るんだけど」
 知らず、ファイティングポーズをとっていた事に気付き、志紀は慌てて両手を下ろす。「ご、ごめん。何?」
 眉間に皺を寄せて、陸が再度大きく息をついた。
「……ま、一筋縄ではいかないと思っていたけどさ」
 軽く肩を竦め、それから彼は真っ向から志紀と視線を合わせてきた。
「有馬さんって、原田と付き合ってたりする?」
「……へ?」
 予想もしていなかった言葉が陸の口から飛び出した事に、志紀は思わず素っ頓狂な声を漏らした。およそ年頃の娘とは思えない志紀のその反応に、陸は派手に吹き出して、それから思いっきりむせ始めた。
「だ、大丈夫?」
 上体を屈めて苦しそうに咳き込みながらも、大丈夫、とジェスチャーで答え、陸は荒い息とともに更なる爆弾発言を口にのぼした。
「有馬さん、僕と付き合わない?」
「ええええええええ!?」
 
「放課後」「呼び出し」とくれば、愛の告白だったりして。いやいやまさか、そんな事あるわけない。……つい先程、志紀は自分で自分に、そうツッコミを入れたのだ。
 まさか、それが本当になるなんて。
 志紀は心の底からの驚きの声を上げて、まだ時折小さく咳き込む陸の顔を見つめ続けた。
 
 それにしても、これは一体どういう事なのだろう。
 混乱する大部分をよそに、志紀の中の一部分が必死に状況分析を始める。
 夏休み前に朗に告白されるまで、色恋沙汰とは完全に無縁な生活を送っていた。クラスもクラブも、周りは男子生徒ばかりだったが、誰一人として自分を女扱いしてくれたためしがない。通り一遍の身だしなみには充分に気をつけているものの、色気とかお洒落とかそんな単語と縁遠い自分だから、それも当然の事だと思っていた。
 
 それが、突然の「付き合わない?」だ。しかも、これまで微塵もそんな素振りを見せなかった、柏木君が。
 彼なら、その気になれば幾らでもお相手は選び放題だろう。って言うか、彼女がいるんじゃなかったっけ? 先生の目撃証言によると。
 
 志紀の頭の中で、思考がぐるぐると空回りを始める。
 そもそも、漫画や小説で、男性経験を持った女性が色っぽくなるだなんて描かれているのを見たことがあるけれど、あれはやっぱり本当の事なのだろうか。
 いやいや、服装も髪型も、あれから別段変えたり変わったりはしていない筈。
 それとも、本人には分からない変化があるものなのだろうか。
 それだったら、理奈あたりからツッコミの一つや二つが入る筈。
 もしかしたら、同性には分からない何か――所謂フェロモンのようなもの――が違ってしまっているのだろうか。
 それにしても……
 
「おーい? 有馬さん?」
 目の前を何度も横切る影に気が付いて、志紀は我に返った。上下に振っていた掌を引っ込めながら、陸が苦笑を漏らす。「そこまで驚く事ないだろ?」
「い、いやいやいやいや。驚くよ。驚くって」
 心持ち縮まった距離を元に戻そうと、志紀が半足を引く。
 即座に陸が、少しだけ身を乗り出した。
「有馬さんって、男と付き合った事ないんだろ? どう? 僕なんか、入門編として、結構お得だと思わない?」
「いや、お得って、そんな、バーゲンじゃあるまいし。それに……、ちょっと待って。心の準備が」
 動揺を身振りに乗せたまま、志紀はわたわたと後退し始めた。
 対する陸は、穏やかな笑みを浮かべて、志紀の方に向かって一歩を踏み出す。
「そう堅苦しく考えなくていいよ。ものは試し、って言うだろ? 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、とかさ」
「虎穴に入らずんば、とか?」
 ついつい調子を合わせてしまった自分の馬鹿さ加減に、志紀は心の中で頭を抱えた。切り上げようとしている話題を、自分から引っ張ってどうするんだ、と。
 案の定、陸は極上の笑顔で更に一歩を進めて来る。
「そ。生憎と虎児は切らしているけど、今なら漏れなく手作りチーズタルトがついてくる」
「え、また作ったの? って、そうじゃなくて! 気持ちは嬉しいけど、……でも……!」
 
 これ以上この話題を長引かせるわけにはいかない。そう決意して語気を強めた志紀だったが、陸は相変わらず飄々とした態度を崩そうとしない。
「でも? なんで? 原田とは付き合ってないんだろ? それとも、誰か他に好きな奴でもいる?」
 
 
 志紀の背中を、冷や汗が一筋、伝っていく。
 先生との事を知られるわけにはいかない。
 かといって、嘘をつくのには抵抗がある。道徳的に云々というよりも、それがほころんだ時の事を考えると、下手な事は絶対に言えない。言ってはいけない。
 なんと返事をしたものか、志紀は悩み続けた。どうにかして、彼が納得出来る理由を探し出さなければ。余計な詮索はされたくないし、腹の探りあいとなれば、おそらく自分はこの秀才には敵いっこないだろう。
 頭をフル回転させる志紀の視界が、ふ、と暗くなる。
 顔を上げた志紀の目前、至近距離に陸が立っていた。
 
 言うべき言葉はまだ見つからない。
 だが、まるで魅入られてしまったかのように、志紀は彼から視線を外せずにいた。
 
 あれは一年前の事。
 当時の化学部部長から次期部長の指名を受けたのは、志紀ではなく陸だった。
 自分は兼部員だから、とその申し出を辞退した陸は、穏やかな笑みを志紀に向けた。部長は有馬さんが適任だと思うよ、と。僕が補佐にまわるから大丈夫、と。
 
 あの時と同じ、静かな眼差しが志紀を見つめている。そう、いつもと同じ、柔和な――
 
 ――いいや、……違う!
 
 志紀は小さく息を呑んで、それから必死で視線を逸らせた。
 違う。こんな彼は知らない。見た事もない。
 きつく目を瞑ってもなお、瞼の裏に浮かび上がる鋭い光を宿した瞳。そこには、普段の陸からは想像出来ないほど昏く、激しい熱情が込められていた。
 恐怖感と同時に既視感が志紀に襲い掛かった。
 陸から顔を背けたまま、志紀は瞬間的に自分の記憶の中を探る。自分を絡め取ろうとする、この光の正体を。
 
 は、いつも薄暗い部屋の中で志紀を待ち受けていた。
 自分が押し開けた扉から差し込む光が、白衣をほんの僅か浮かび上がらせる。
 差し伸べられる、大きな手。トーンを落とした、低い声。
 そして、眼鏡の奥であの瞳が光るのだ。
 
「へぇ。そんな反応は計算外だ」
 突然の冷たい声に、思わず志紀が正面を向く。
 目を細めた陸が、下目に志紀を見下ろしていた。
「なら、遠慮なく最初から強引に迫るべきだったかな」
 後ずさった志紀の踵が、行き止まる。背中に壁の感触を感じるのとほぼ同時に、志紀の逃げ道を塞ぐようにして、陸が両手を壁についた。