The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第四話 暗渠

 
 
 
「……えー、っと?」
 志紀の眼前に、前屈みとなった陸の顔が迫ってくる。
 過負荷のあまりに命令系統が焼き切れてしまったのかもしれない。頭の中で響く警告の言葉はどれもこれも酷くスローモーションで、志紀はただひたすら、壁に貼り付くようにして身動きが取れずにいた。
 おそらくは、冷静であろうとする「自分」が、余計な枷となってしまっているのだろう。心の奥底がどんなに「逃げろ」と叫ぼうとも、硬直してしまった身体は一向にその声に耳を貸そうとしなかった。
「ちょ、ちょっと待って。柏木く……」
「有馬さん、好きだ。付き合って欲しい」
 あわや、というところで進路を逸れた唇が、志紀の耳元に寄せられる。聞いた事も無いような甘い声が、微かな呼気とともに耳腔を震わせた。
 
 ごくり。
 志紀の喉が大きく上下する。
 微かに、陸が笑う気配がした。
「そんなに緊張しないでよ」
 唾が口の中に次から次へと溢れてくる。なのに、喉がカラカラに渇いているのは、一体どういう訳なのだろうか。
 
 ゴメン、付き合えない。
 
 ……焦れば焦るほど、その一言が喉に貼り付いて出てこない。言葉が駄目ならばせめて身振りでも。そう思って志紀は必死で首を振ろうとするが、その実、痙攣したような単振動を刻んだだけだった。
 ふ、と耳たぶに息がかかり、志紀の身体が小さく跳ねる。陸は、満足そうに笑ってから少しだけ身を起こして、志紀を真正面から見据えた。
「有馬さんから、こんなに可愛い反応が返ってくるとは思わなかったな」
 志紀の左首筋を、さらり、と髪の先端が撫でる。いつの間にか、陸の右手が志紀の髪を静かに弄んでいた。
 指に髪を絡ませるようにして、人差し指をゆっくりと回す。その動きにつられるようにして、ひと房の髪が捩じられ、指に纏わりつき、再びほどかれる。
 何度も、何度も、弾力ある感触を楽しむかのように、陸は指を動かし続けた。
 
 さらさら、さらさら。
 ぐるぐる、ぐるぐる。
 志紀の意識は、その動きに吸い込まれるようにして、一週間前のあの部屋へと戻っていった。
 
 
 全てが終わった後、力の入らない身体を持て余しながら荒い息で崩れ落ちる志紀を、抱きとめる力強い腕。朗の胸に身を預け、ただじっと、痺れるような余韻に身を委ねていると、決まって彼は志紀の髪にそっと指を絡めてきた。
 しなやかな指がうなじを先ず辿り、それから熱の篭った掌が首筋を這う。クセの無い髪をくしけずるようにしてゆっくりと掬い上げ、そうして指で挟み取ったひと束を人差し指がこね回すのだ。
 時折、中指と親指を添えるようにして。ぐるぐる、ぐるぐると。
 そう、まさしくこんな感じに。捩っては解き、絡ませては放し。志紀の息が落ち着くのを待ちながら、ぐるぐる、ぐるぐると……。
 
「もう少し、お子様な感じを想像してたんだけどね」
 陸の声が、志紀の夢想を破る。
 そうだ、ここは化学準備室ではない。
 そして、彼は多賀根朗ではない。
「君の事を、もっと知りたいんだ」
 再び、陸の顔が接近してきた。志紀が反射的に顔を背けた耳元、触れんばかりの距離で、彼は囁く。
「そして、僕の事をもっと知って欲しい」
 
 ぞくぞくと背筋を這い上がる妖しげな感覚が、皮肉にも志紀を現実へと引き戻してくれた。
 以前の彼女ならば、この得体の知れない気配にあっさりと魅惑され、絡め取られ、そのまま陸のペースに乗せられてしまっていた事だろう。
 だが、もう既に彼女は知ってしまっていた。自分の中、心の奥底に押し込めるようにして封印されていた欲望を。そして、他人によっていとも簡単に剥がされてしまう、薄皮の如き頼りなげな鎧を。
 
 ――志紀、人は理性にのみ支配されるわけではない――
 
 なんとも、脆い上っ面だろうか。
 ほんの少し煽られただけで、は簡単に剥がれ落ち、淫らな女の部分が露出してしまうのだ。
 このままでは、いけない。誘いに乗っては、だめだ。
 この指は、朗のものではない。この声も、この囁きも。
 そう、私をかき乱す事が出来るのは、唯一人…………
 
 呪縛は、解かれた。
 
「ち、ちょっと待って!」
 渾身の力を込めて、志紀は両手を前方に突っ張らせた。
 勢い良く突き飛ばされた陸は、大きくバランスを崩して二三歩よろめき、机の縁に取り縋る。
 両手を前に突き出したまま肩で息をする志紀を、しばし呆然と見つめていた陸だったが、やがて静かに体勢を立て直し、心底困ったという表情で頭を掻いた。
「まいったなあ。本当に計算外だよ」
 ふう、と大きく溜息をついてから、陸は両手を腰にあて、視線を床に落とす。
「君がそんなにオトナだとは思ってもみなかった。……君達のおトボケぶりに騙されたな」
 君「達」? 私と、誰?
 ようやく落ち着いてきた呼吸のもと、志紀が眉間に深い皺を刻む。
「いや、待てよ。でも、それにしてはあいつの態度はあまりに……」
 首を捻る陸の様子に、またしても気を逸らされかけたものの、志紀は慌ててかぶりを振った。
 そうだ。君達だろうがあいつだろうが、そんな事はどうでも良い。とにかく彼の申し出を断らなければ!
「あっ、あのっ、今、私、正直、受験の事で頭がいっぱいだから……!」
 その言葉を聞いた陸は、ほんの刹那、珍しくも目を丸く見開いて、それからいつもの思わせぶりな笑みを浮かべた。
「成る程。おあずけ中、ね。可哀想な原田」
 言葉の意味を理解しかねて、志紀が小首をかしげる。眉間の皺はなかなか取れそうにない。
 陸が、再び志紀に向かって大きく身を乗り出してきた。
「でもさ、根を詰めるのは良くないと思うよ? デキる奴ほど、生活にはメリハリをつけるものだと思うし」
 後ずさりながら、身を仰け反らせながらも、志紀は両の拳を身体の前に構えて防衛の体勢をとる。
 またもう一度さっきみたいに迫られたら、今度は腹の底からの大声を出そう。志紀は決意新たに唇を引き結び、強い視線で陸を見返した。
 
 ふ、と陸の表情が緩む。
 柳眉を大きく跳ね上げ、皮肉げな笑いを口元に刻み、陸は大仰な動作で両肩を竦めた。
「……そんなに警戒しないでよ。あーあ。やっぱりからめ手が正解かあ。マズったな、やっぱり当初の予定通り、地道に外堀から埋めるべきだったか」
 大きな溜息とともに陸は踵を返した。志紀に背を向けたまま、少し大げさに落胆してみせる。
「ま、仕方ないか。一年の時から、君ら良い雰囲気だもんな。最近ちょっとスキマ有るかな? って思ったから、ダメ元でさ。悪かったね」
「あ、うん」
 
 成る程、「あいつ」とは嶺の事だったのか。
 同じ町内、同じ番地、小学生の頃からの幼馴染である嶺とは、バスの時間の関係などから、ずっと一緒に登校している。部活も同じだから、一緒にいる時間も同性の友人を除けば一番長いだろう。特別な関係だと誤解されてもおかしくはない。
 ……それに、事実、志紀は彼に対して淡い想いを抱いていた事があったのだから。
 
 物心ついた時から、自分の傍らには嶺の姿があった。一緒に遊び、学び、褒められる時も怒られる時も二人揃って。まるで兄弟のように、時には親友同士のように、お互いを特別な存在として。
 遥か昔に公園の木陰にでっち上げた秘密基地と同じく、彼の隣は志紀にとって、とても居心地の良い場所だった。
 
 彼の事なら、何だって知っているつもりだった。それはきっと嶺も同じだろう。
 だが、歳とともに、その距離がじわりじわりと広がりつつあるのを、志紀は感じ取っていた。二人で話す時には、相変わらず「志紀」「嶺」とお互いを名前で呼び捨てていたが、他の人間が居合わせると、その呼び名は苗字へと変化した。
 二人だけで帰る事も少なくなった。
 気が付けば、珊慈をはじめとする友人達と騒ぐ嶺を、志紀は少し離れたところから見ているだけになっていた。
 
 所詮は、ただの幼馴染だったのだ。
 陸の背中を前に、改めてそう結論付けた志紀の胸中、不思議と痛みは感じなかった。友とふざけ合い笑い合う嶺の映像と入れ替わるようにして、志紀の脳裏に白衣姿の「彼」が浮かび上がる。
 
 ――志紀、おいで……――
 
「有馬さん、国立だっけ? お互い受験頑張ろうな」
 はっと我に返ると、いつになく悄然とした表情の陸が立っていた。鞄を肩にかつぎ、目線で志紀に帰り支度を促す。
「原田に愛想が尽きたら、いつでも大歓迎だから」
 
 誤解なんだけどな。
 ま、いいか。
 
 余計な事を言って、本当の事を言わなければならない羽目になっても困る。志紀は曖昧に微笑みながら、重たい鞄を抱え上げた。
 
 
 
 天体観測室の扉の前で陸と別れ、一人ゆっくりと薄暗い階段を降りながら、志紀は悩んでいた。
 もう、今日はこのまま帰ってしまおうか。
 陸は、何事もなかったかのように見事なまでに平静に戻り、手を振って足早に去っていった。フられた側が平気を装っているのに、フった側が動揺していてどうするんだろう。そう自嘲したところで、志紀の心臓はなかなかその鼓動を収めてくれない。
 
 ――有馬さん、好きだ――
 
 陸の声が、頭の中で朗のそれとすり替わる。
 手慰みに志紀の髪を嬲る仕草が、準備室での激しい情事を連想させる。
 志紀は思わず両肩をかきいだき、小さく身震いした。
 
 化学部に行けば、当然朗と顔を合わせる事になる。
 こんな状態では、他の部員達に不信感を与えるだけだろう。嶺だっているかもしれない。それに…………
 
 志紀は生唾をごくりと飲み込んだ。
 先週の逢瀬から、今日はきっかり一週間。前後一日程度の誤差が有るというものの、そろそろ朗の「呼び出し」がある頃だ。
 明日なら良い。でも、今日だったら……?
 どんな顔をして、それに応えたらいいのだろう。
 朗以外の男に、あんなにも至近に迫られる事を許してしまった。幾らなんでも不用意過ぎる。それに……
 
 瞼の裏に、陸の顔が大写しになる。
 朗を思い起こしたせいだと弁明しようが、結局のところ、自分が陸の雰囲気に呑まれかけていたのは紛れもない事実なのだ。
 なんて、自分は節操の無い女なのだろう。
 
 迂闊で、愚かで、そして淫奔。そんな自分を朗に知られたくない。
 そう思いながらも、心のどこかでお呼びがかかるのを期待している自分がいる。
 本当に、救いようが無い……。
 
 
 大きく一つ溜息を漏らして、志紀は一階に降り立った。
 階段から左手に進めば、下駄箱が並んでいる。右手、北校舎内の廊下を前方――西――へ進めば、化学室がある。
 志紀は、廊下の角をちらりと一瞥してから、左を向いた。もう一度嘆息して、静かに歩き出す……いや、歩き出そうとした。彼女のスカートのポケットで、携帯電話が震えだすまでは。
 なんとなく、予感があった。
 無意識のうちに、志紀は唇を舌で湿す。乾ききった口の中、またつばきが溢れだしてくる。
 ぶるぶると震え続ける携帯電話をそっと取り出せば、メールの着信を示す表示が小さな液晶画面に映っていた。
 
『いつもの場所で待つ』
 
 液晶の向こうに、朗の眼差しが見える。志紀を絡め取って放さない、あの瞳が。
 志紀は静かに両目を閉じた。