The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第四話 暗渠

 
 
 
 部員達が化学室を退出していくのを、志紀は二階の渡り廊下から通りすがりを装って確認した。そしてそのまま、何食わぬ顔で北校舎に入る。
 西階段を降りたのち、渡り廊下の開口部を化学室の方へと横切る時だけは、さしもの志紀も掌に汗を握っていた。
 廊下に誰もいない事を確認して、化学室の扉を開ける。
 鍵を閉める。
 
 窓の傍に寄ってしまうと、外から姿を見られかねない。廊下側の壁に沿って、志紀は教室の前方へと歩みを進める。そこまで行けば、後は中庭の木々が視線を遮ってくれていた。
 落葉の季節を迎えてしまうと、また改めて外部からの死角を見直さねばならないだろうが、当分はこのままで大丈夫の筈。青々と生い茂る広葉樹の葉を振り返りながら、志紀はそっと準備室への扉をノックした。
「どうぞ」
 微かな低い声を聞いただけで、志紀の身体に震えが走る。
 
 条件反射、なーんてね。ベルを鳴らして、餌をやる、みたいな。
 
 緊張をほぐそうとわざとふざけた考えを思い浮かべたものの、自分の例にあてはめようとして、そのあまりの生々しさに志紀は内心激しく狼狽した。慌てて頭を振って、あらぬ妄想を追い払おうとする。
 落ち着いて。深呼吸。
 ステンレス製のドアノブが、汗ばんだ掌にやけに冷たく感じられた。
 
 
 いつもと同様、カーテンの閉まった薄暗い部屋の中央に、朗が佇んでいた。
 音を立てないように扉を閉めて、志紀が朗の方に向き直っても、彼は微動だにせずに立ち尽くしている。無言で、こちらを向いて。
「……先生?」
「部活に来ないし、今日はもう会えないかと思っていたよ」
 朗の、心なしか普段よりも抑揚の少ない声の調子に、志紀は訝しげに眉を寄せた。いつものように手招きするでもなく、ただ黙って立っている朗の視線が痛くて、志紀は扉の前から一歩も進む事が出来ない。
「え、あの、ちょっと友達と話し込んでて……」
 朗の表情は変わらない。
「……って、あの、先生……、何か、怒ってます?」
「怒る? 何を? 君は何か私に怒られるような事をしたのかね?」
 朗が柔らかく微笑んだのを見て、志紀は大きく安堵の溜息をついた。
 やっぱり、自分は少々自意識過剰になっていたのだろう。それに、先刻の出来事にしても、よく考えれば何も疚しさを感じる必要はないのではないか。
 そう、私は彼の誘いを断ったのだから。
 
 いつまでも扉に張り付いているのは不自然だと思い返し、志紀は歩みを進めた。ほぼ同時に、朗もまた志紀に向かって一歩を踏み出す。
 志紀の眉が微かにひそめられた。
 どうしたんだろう。
 いつだって、朗は志紀を側に立っていた。
 部活中に声をかけ、メールで準備室に呼び出す。
 扉を叩くノックに応え、鷹揚に手招きし、手元へと引き寄せる。長椅子に腰掛けたまま、まるで自分の命令に志紀が従うのが当然とでも言うかのように。
 
 首筋の毛が逆立つような感覚に、志紀は思わず足を止めた。
 一歩、二歩。朗はそのまま至近へと近づいてくる。
 三歩。息を呑んで立ち竦む志紀の目前、笑みを顔に貼り付けた朗が立った。
「どうしたね?」
「え……」
「何を怯えている?」
 朗の視線が、志紀をがんじがらめに縛り付ける。指先すら動かす事が出来ずに、志紀はただ朗を見上げるのみ。
「……何も、怯えてなんか」
「そうか」
 志紀の顎が掬い上げられ、そっと口づけられた。
 
 
 何か、違う。
 言葉に言い表せない不安感をいだきながら、それでも志紀は朗の行為に応えてしまっていた。
 侵入してくる舌に、おのれのそれを絡ませて。
 腰にまわされる腕に、身を委ねて。
 突然の事で行き場を見失っていた両手を、おずおずと朗の身体にまわし、白衣の縫い目を辿るように指先を這わせて。
 
 キスの合間に、ふ、と朗の口元から息が漏れた。
 嘲るような笑いが、志紀の全身に冷水を浴びせる。
「せんせ……? んん……っ」
 醒めかけた身体は、再び合わされた唇によって、また煽られ始めた。上下の唇を何度も吸われ、口の中を蹂躙され、志紀の意識はどんどん曖昧さを増していく。
 それに相反して、鋭敏になる身体。
 熱い掌にまさぐられる腰と、押さえつけられた後頭部。固い感触が微かに当たる下腹部、柔らかいモノが蠢く口腔。
 まるで神経が剥き出しになったかのように、ほんの僅かな刺激をも、びりびりとした痺れに変換し、増幅し……志紀の脳髄を犯していく。
 
 身体の芯が、燃えるほどに熱を帯びてきた。
 じりじりと身を焦がし始めるこの感覚を、志紀は切望していたのだ。天体観測室で陸に追い詰められた時から。
 
 なんて、いやらしい女。
 
 志紀のごく表層がそう自嘲するのと時を同じくして、朗が静かに口を開く。
「恐怖でないなら……肉欲か」
 突然の朗の台詞に、志紀の身体が強張った。
 自由を取り戻したこうべを上げれば、朗が口角を吊り上げて志紀を見下ろしていた。ギラギラと光る瞳が、一瞬にして志紀を貫く。
「……え?」
「君を絡め取っているモノの正体だよ」
 志紀の頭を押さえていた朗の右手が、やや乱暴に彼女の肩口を鷲掴みにする。「こうやって私の呼び出しに応えてくれる、その理由だ」
 
 
「っわわっ!」
 バランスを崩した志紀が、大きく一歩後ずさる。
 鈍い音とともに、志紀の身体は化学室への扉に強く押しつけられた。
「う……!」
 肩甲骨のあたりを扉に打ちつけてしまい、志紀が呻く。
 痛みをこらえて顔を上げた志紀は、悲しみとも怒りともつかない色を、朗のおもてに見た。眉根を寄せ歯を食いしばる朗の、あまりにも切なそうな表情を。
 だが、それはほんの刹那の事。
 次の瞬間、朗の眼鏡がカーテン越しの薄明かりを反射した。表情を隠したチタンフレームが、志紀の瞳に大写しになる。
「せんせ……?」
 
 再び、唇が重ねられる。
 先程までとはうって変わって荒々しい口づけに、志紀は驚きを隠せない。
「先生……、ちょっと、あの」
 キスの合間に必死で言葉を紡ぐも、朗は一言も語る事なく、ただ執拗に志紀の唇を啄ばみ続ける。
 舌を差し入れ、歯列をなぞる。絡め取り、纏わり付き、かきまわし、吸い、啜り、注ぎ……
 
 がくん、と身体が傾いで、志紀は我に返った。背中に、硬い扉の感触が当たる。
 あまりに一方的な朗の態度が、三ヶ月前の始まりの日を志紀に思い出させていた。
 あの時、突然の出来事に混乱する志紀を、朗は机の上に捻じ伏せ、後ろ手に拘束し、背後からのしかかってきたのだった。
 
 ――すぐに何も考えられなくしてあげるよ――
 
 嫌だ、と思った。怖い、と思った。やめて、と懇願しても聞き入れられる事はなく、朗の指はねっとりと身体中を這いまわり続けた。
 
 
 ぞくり。
 あの日の記憶が、志紀の身体を震わせる。
 しかし、今やこの感情は嫌悪ではない。恐怖でもない。それどころか、やめて、と口の中で呟くだけで、被虐的な刺激が更なる官能を焚き付けていくのだ。
 
 一体、私はどうなってしまったのだろう。たった三ヶ月しか経っていないのに。
 ヘンだよ。変。おかしいよ。
 自分がこんないやらしい人間になってしまったなんて……、先生に知られるわけにはいかない…………。
 
 
 志紀は必死で身を捩ると、両手で朗の胸を押し退けようとした。
 だが、そうやって力を込めた手首に、朗の指が絡みつく。
「……やっ」
 朗はただ黙って、志紀の両手首を掴み取った。そのまま易々と左手で纏め、志紀の頭の上に縫い止める。
「先生、何を……ん、あ……っ」
 朗の右手が、ブラウスの上から胸のふくらみをなぞり始めた。
 
 
 朗の指の動きに合わせて、志紀の身体がびくんびくんと小刻みに跳ね上がる。
 喘ぎ声を押し殺す事は、もうすっかり習慣となってしまっていた。だからといって、それが容易な事であるというわけではなく、志紀は固く両目を瞑り、歯を食いしばりながら身体中を駆け巡る快感を呑み込み続ける。
 微かに盛り上がり始めた胸の先端に、朗は狙いを定めたようだった。布越しに突起を探るようにして、繰り返し指先で嬲り続ける。あまりの気持ち良さに、つい大きく仰け反った志紀の頭が、ごつり、と木製のドアにぶつかった。
 微かな痛みが、志紀におのれの置かれた状況を再認識させた。
 学校の、化学準備室の入り口、その扉に押し付けられ、立ったままの体勢で朗の愛撫を受ける自分。
 まさか、今日はこのまま……最後までいくのだろうか。
「……やだ…………ぁ」
 脳裏に描き出された卑猥な情景に、朗の指使いが油を注ぐ。くにくにと胸の頂点をいらわれて、志紀の両足から力が抜けた。朗に掴まれた手首で宙吊りになりながら、志紀は朦朧と喘ぎ続ける。
「や……、やめ……て…………」
 
 ふっ、と朗の手が胸から離れた。
「……え……?」
 安堵よりも失望を感じた自分を恥じ入る余裕など、今の志紀には微塵もない。膝に力を込めて体勢を立て直し、それから濡れた瞳で朗を見上げる。彼は、志紀のブラウスのボタンを器用にも片手だけで外しているところだった。
 まだ、続きがあるんだ。
 期待に打ち震える心を自覚して、志紀は諦めたように目を閉じた。
 一つ、一つ、ボタンが外されていく。布地を捻るような手の動きに胸を震わされ、その度に志紀は甘い吐息を漏らした。
 
「まるで、妖婦だな」
 有り得ない単語に驚いて瞼を開くと、朗と目が合った。凍りつくような冷ややかな視線で、彼は志紀を見下ろしている。
「あの柏木を惑わすのだから、大したものだ」
「え……?」
 
 熱に浮かされた頭は、言葉の意味を考えさせてくれない。
 一呼吸遅れてようやく染み渡り始めた朗の台詞を反芻するよりも早く、ブラのホックが外された。露になった胸に、朗が唇を這わせていく。
「かしわぎく……あぁあっ」
 すっかり赤みを増して盛り上がった先端部分を軽く吸われて、志紀の動きが激しくなる。苦悶の表情で身悶えしながら、彼女は無我夢中で喘ぎ声を呑み込んだ。問いかけの言葉とともに。
 
 まさか。
 まさか、先生、聞いていたんじゃ……。
 
 快感に押し流されながらも、志紀は頭の片隅で必死に思考を掴み続けようとする。
 その努力を嘲り笑わんが如く、朗の手がスカートの中へ、スパッツの中へと侵入してきた。足を閉じようと力を込めた志紀の胸の上で、朗が低く笑う。
 ふくらみに吸い付いた唇が柔肌を滑り、舌が突起を舐め上げた。
「ん……っ!」
 再び志紀の全身から力が抜ける。その隙を見逃す事なく、朗はスパッツごと下着を引きおろした。間髪いれずに捻じ込まれる、指。
「好きだ、付き合って欲しい、……だったか」
 
 朗の指が卑猥な水音を奏でる。少しだけ身を起こした朗は、唇の代わりに左手で志紀の胸を嬲り始めた。
 先程までとは比べ物にならない快感が、志紀に襲いかかる。熱い塊が次から次へと身体の奥から湧き上り、そして滴っていく……。
 両手が自由になった事にも気が付かないままに、志紀は背後の扉に爪を立て、ただひたすらよがり続けた。
 
 聞いていたんだ。天体観測室での出来事を。
 でも、それならば、柏木君とは何も無かったという事も知っていても良い筈なのに。
 流されそうになったのは確かだけれど、それでも最後にはきちんと拒否したのに……。
 
 逞しい指が、秘部をかきまわす。固く勃ち上がった胸の頂を撫で回す。
 あまりの気持ち良さに気が遠くなりそうだ。固く瞑られた志紀の瞼から、大粒の雫が一粒零れ落ちていった。
「随分とモテるんだな」
「……そん……な。告白……された……のは、初めて……」
 
 必死で返答する志紀の脳裏、雷光のように一つの映像が閃いた。
 雨の音を背景に、少しはにかんだように視線を合わせてくる、白衣姿の……
 
「……違う。……二回目……です…………んあぁあっ!」
 その刹那、ぐ、と一番感じる場所に指を突き立てられ、志紀は思わず無防備に嬌声を上げてしまっていた。慌てて両手で口を塞ぐも、激しくなる一方の朗の責めに、志紀の喉からはくぐもった声がとどまる事を知らず溢れ出してくる。
 
 
「そいつも断ったのか。原田のために」
 
 
 搾り出すような朗の言葉に、志紀の目が見開かれる。
 愕然と立ち尽くす志紀から指を引き抜いて、朗は手早く避妊具を装着した。志紀と目を合わす事なく、少しだけ身を屈め、志紀の両膝の裏に両手をかける。
 志紀の背中が背後の扉に押し付けられる。
 軽い浮遊感に、志紀は我を取り戻した。
「ち、違……っ」
 
 嶺との事は柏木君の誤解なのに。
 それを否定しなかったのは、事実だからじゃなくて。そういう意味じゃなくて。
 先生との事を追求されたくなかったから…………!
 
 ぐい、と志紀の身体が持ち上げられた。彼女の背後から、木の扉が軋む音が響く。
 
 何故。
 どうしてそんな事を言うのですか?
 先生が告白してくれたんじゃないのですか?
 私に「好きだ」って言ってくれたのは、多賀根先生なのに!
 
 反論しようと口を開きかけて、志紀は絶句した。
 まさか。
 まさか、先生、自分が告白した事を、忘れてしまっている……?
 
 
 抱え上げた志紀の膝を、朗は静かに開いていく。充血して膨らんでいる肉芽も、濡れそぼるピンク色の蜜壷も、全てが朗の眼前に晒される。
 あの瞳が、見ている。私の全てを。
 そう考えるだけで、また愛液が滴った。とろり、と臀部を伝って床へと落ちていく。
 
 そうだ。先生はきっと告白の事を憶えていないのだろう。そうじゃなければ、あんな誤解をする事などない筈……。
 そう、憶えていない。先生にとって、あれはその程度の事だったんだ。
 
 志紀は静かに両目を閉じた。醒めていく心を、身体の疼きが覆い隠していく。
 もう、どうでも良い。
 欲しい。
 先生が、欲しい。
 うわ言のように頭の中でそう呟く志紀の内部なかに、硬い物がゆっくりと挿入されていく。
 志紀は大きく喘ぎながら、両腕と両足を朗の身体に絡ませた。
 きつく、……きつく。
 
 
 
 志紀の自宅近く、通学に使っているバスとは違う路線の停留所。朗の車を降りた志紀は、扉を閉めるのを少しだけ躊躇した。
「先生……」
 喘ぎ声を除けば、これがあれ以来志紀が発する初めての言葉だ。
「何だ」
 そして、これがあれから二言目の朗の言葉。車のキーを片手に、「送ろう」と小声を発した以外は、彼もまたこの瞬間まで一言も発する事はなかった。
 お互い無言で情を交わし合い、無言のままに身支度を整え、車中でも言葉を交わさないままに、別れの時を迎えたのだ。
「いえ、……なんでもないです」
「そうか」
 
 少し離れた所から、控えめなクラクションがバスの接近を知らせる。失礼します、と小さく呟いて、志紀は車の扉を閉めた。
 遠ざかっていく赤い色を見送りながら、志紀は口元を引き結んだ。
 
 告白の事を問えば、きっと先生は困ってしまうだろう。
 先生の負担には、なりたくない。
 たとえ最初は軽い気持ちだったのだとしても、それでも今も私を求めてくれているのだから。
 
 どこか諦めにも似た決意を瞳に込め、志紀は静かに家路を辿り始めた。
 
 
 
< 続く >