先手を打てた、という満足感など、最早どこにも無かった。
湧き上がるのは、腹立たしいまでの敗北感。
……勝てない。
だが、負けるわけにはいかない……。
第五話 隧道
携帯電話の液晶画面が、ふっ、と暗くなる。
我に返った朗は、慌てて適当なキーを押した。メール送信の手前で中断していた画面が、一瞬にして眩く復活する。
ここは、化学準備室。扉を隔てた隣の化学室では、七人の化学部員が部活と称した談笑の真っ最中だ。
どこか思いつめたような瞳で液晶画面を凝視していた朗だったが、小さく息をついて実行キーに指を滑らせる。微かに力の入る指先。
『送信しました』
送信完了画面を一瞥してから、携帯電話を折りたたむ。白衣のポケットにそれを仕舞い込むと、朗は化学室への扉のノブに手をかけた。ふと、あの有名な叙事詩の一説が脳裏に浮かび上がってくる。
――この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ――
だが、ベアトリーチェが自分に微笑む事はないだろう。
……柄にも無い。思春期のガキでもあるまいし、詩人を気取っているつもりなのか。
朗は自嘲の笑みを押し殺しながら、ゆっくりと扉を引き開けた。
それは、本当に偶然の出来事だった。
三週間前のあの日の放課後、来月行われる予定のサイエンスダイアログ――スーパーサイエンス関連授業の一つ、外国人特別研究員による講演会――の書類を地学室へ届けに行った帰り、朗は階段に続く廊下の角を曲がろうとして怪訝そうに歩みを止めた。
微かな足音が、上方から降ってくる。
階段の上り口までそっと近寄ってみれば、薄暗い踊り場に制服のスカートの裾が翻るところだった。それは一瞬のちに手すりの陰に消え、上履きのゴム底が立てるくぐもったような足音だけが、更に上へと遠ざかっていく。
一人ではない。おそらくは二人分の足音。
北校舎は四階が最上階だ。この上には屋上と天体観測室しか存在しない。そのどちらにしても生徒が勝手に立ち入っても良い場所ではなかったし、なにより人目が全く無い。いくら「良い子ちゃん」揃いの楢坂生にしても、いや、プライドが高く体面を気にする事の多い楢坂生だからこそ、他人の目の無いところでは羽目を外したくなるというものだろう。
他人に聞かれたくない内緒話程度ならば可愛げもあるのだが、それを超えるレベルとなると話は簡単には済まなくなる。朗は足音を忍ばせながら、そっと階段を上り始めた。
踊り場に立ち、手すりの陰からそっと上を見上げると、階段の上、正面にある天体観測室の扉の前に立つ二つの人影があった。左手、南側に位置する、屋上へ通じる扉のすりガラスを透かした陽光が、柔らかくその二人を照らしている。
化学部の前年度の部長と、副部長。もしくは、三年十組のクラス委員と、八組のクラス委員。そして、……秘密の恋人と、恋敵。
思わず朗は、手すりの陰に身を潜めた。
鍵の開かれる音が薄暗い空間内に反響し、それからほんの少しだけ階段全体の明るさが増した。開いた扉から差し込んだ光が二度ほど揺らぎ、そうして辺りは再び薄闇に包まれる。
天体観測室か。
柏木陸にとって、鍵を借り出す事など造作のない仕事の筈だ。成績優秀で品行方正な彼ならば、難しい言い訳を捻り出さなくとも、すぐにその望みは叶えられた事だろう。
――セフレ、だそうです――
あの、やけに大人びた陸の表情が、朗の脳裏に蘇る。
彼は、私と同じ処に立っている。
十二年前の自分には想像する事すら出来なかったであろう、今私が立つこの場所に、あいつは立っているのだ。
足音を立てないようにして朗は階段を上りきった。全身全霊の注意を払い、屋上への扉を静かに開く。
寒露とは名ばかりの太陽光が、暗がりに慣れた朗の眼底を射抜く。眩暈を感じ、平衡感覚を失いそうになりながらも、朗は密やかに扉を閉めた。
気配を殺しながら、壁に貼り付くようにして建物の角からそっと西を覗けば、観測室の南側の窓を開けた陸が、部屋の中央に向かって踵を返したのが見えた。彼の姿が死角に消えるのと入れ替わりに、今度は声が、朗の元へと風に乗って届けられる。
モラルやプライドなど、くそ喰らえだ。
朗は立ち聞きを決め込んで、観測室からの死角で息を潜めた。
地獄の門ならぬ化学室への扉をくぐり抜けた朗は、目の端に志紀を捉えながら、何食わぬ顔で作業中の教卓へと戻った。
ややあって、びくん、と志紀の身体が震える。
その動きはあまりにも微かで、それに気がついたのはおそらく朗ただ一人だろう。朗が密かに見つめる中、至極冷静に志紀はスカートのポケットを探り始めた。他の六人の化学部員が僅か注意を志紀に向けたが、彼女が携帯電話を取り出したのを見て、再び雑談へと帰っていく。
ほんの一瞬、志紀が朗を見た。
つい先程に朗が送ったメールが届いたのだろう。
送付する事をあんなにも迷っていた割に、肝心のその文面には微塵の躊躇いも存在しなかった。酷くそっけない呼び出しのメール。温かみの欠片 もない、たった一言の。
メールが万が一他人の目に触れてしまった場合を想定しての事であるのは確かだが、それとは別に、試薬のつもりでもあるのかもしれない。何事もなかったかのように携帯電話を仕舞い込む志紀を視界の端に意識しながら、朗は、おのれをそう分析していた。
この誘いに彼女はまだ応じてくれるのだろうか。甘言を弄せずとも、威迫せずとも、彼女が自らの意志でこの誘いに乗ってくれるかどうか、それを間接的にでも判じようというのだろう。
そうして、最後には言い訳にするのだ。
彼女が来なかったのは、あのあまりにも味気ない文面のせいに違いない、と。
「おい、有馬、お前もそう思うだろ?」
「え? ゴメン、今、ちょっと聞いてなかった」
志紀を会話の輪に戻そうと思っての事だろう、原田嶺が殊更に大声で彼女を振り返った。
声を掛けられた志紀は、少しだけ慌てて再び朗に背を向ける。身振りを交えた大げさな嶺の語りに小刻みに相槌を打つ志紀から視線を外し、朗は来週に迫った講演会の準備を再開した。
今年の講師は、オーストラリアから隣県の国立大に来ているポスドクで、専攻は応用地質学。よって、地学の山口教諭と、比較的専門分野の近い朗が共同で窓口となっている。ああ見えて、山口教諭は海外遠征の経験も豊富な優秀な研究者だ。今回、朗は事務方に徹するつもりで、煩雑な雑務を一手に引き受ける事にしていた。
縁の下のなんとやら。ある意味、講演会の成否の鍵は自分の手中にある。単純で忌々しい事務作業も、そう思えばやり甲斐も出てくるだろう。談笑する志紀を盗み見てから、朗は雑念を追い払うべく手元の書類の山に視線を移した。
実のところ、スケジュールには充分な余裕がある。決して急ぐ作業というわけではない。だが、今、この時間、朗は無理矢理にでも仕事に没頭しようとしていた。
そう、これ以上余計な事で心裡を乱されるのは御免だ。約束の時間が訪れるまでは、もう何も考えたくない……。
「お邪魔ー」
がらがらと化学室の後ろ側の扉が開き、高嶋珊慈が長身を少し屈めて室内に入ってきた。いち早く気が付いた嶺が、右手を上げて応答する。
紙の束を繰る朗の手が、止まる。
「おう、珊慈、もう終わったのか?」
「ってか、高嶋先輩、剣道部って引退、ないんですか?」
「まっさかー。自主錬、自主錬。俺ってキンベンだから」
朗らかに笑いながら、珊慈が一同に近づいてくる。戸口から一番近い、嶺と志紀の間の椅子に座ろうとして、彼はほんの僅か躊躇った。
躊躇ってから、珊慈は志紀の後ろを回り込んだ。嶺の正面側の実験机にひょいと腰をかけ、語らいの輪に加わる。訳知り顔で微かに口角を上げる珊慈に、嶺は少し照れくさそうな笑みをみせた。
二人の秘密の遣り取りに気が付いた者は一人もいなかった。……朗を除いては。
そうだ、あの時も、彼らはきっとこんな表情で、あの言葉を交わしていたのだろう。
――本当に彼女の事が大切なんだな――
――あいつを傷つけたくない――
朗の意識は、再び三週間前へと時の流れを遡っていった。