The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第五話 隧道

 
 
 
 天体観測室を出た二人の気配が、階下へと去っていく。朗は、建物内への扉を静かに押し開いた。
 志紀が何事もなく陸をやり過ごすことが出来て、本当に良かった。朗はもう一度安堵の溜息をついた。
 彼女が原田との仲を否定しなかった事については、背に腹は換えられないというものだろう。自分達の関係を公言する事無く、あいつの誘いを振り払おうとするならば、これぐらいの嘘は仕方が無い。
 
 そう、嘘、だ。
 
 今や、有馬志紀が心を寄せているのは、同級生で幼馴染の原田嶺ではない。化学部の顧問にして教師であるこの私、多賀根朗に他ならないのだから。
 良く笑い、たまに怒り、時に拗ね、適度に真面目で、適度に不真面目で。授業でも部活でも真摯な瞳で疑問に向き合い、物怖じする事無く議論する、そんな彼女があんなに甘い声で鳴くなどと、私以外の一体誰が知っているというのだろうか。
 まるでおねだりでもするかのように、情欲に濡れた瞳を潤ませながら私の愛撫によがり狂うなどと。
 
 彼女は、私のものだ。
 志紀達に鉢合わせすることのないように四階の廊下を西に進みながら、朗は白衣のポケットから携帯電話を取り出した。半ば衝動的に、朗は志紀にメールを打つ。たった一言だけ、『いつもの場所で待つ』と。
 
 
 中央階段を一階まで降りると、渡り廊下への開口部を挟んですぐ西が化学室だ。二つある扉のうち、黒板に近い方は薬品棚で半分塞がれてしまっているため、生徒も教師も専ら手前側の扉を使用している。
 扉の引手に朗が手を伸ばした時、中から屈託の無い笑い声が響いてきた。
 
 原田嶺。幼い頃から志紀と時間を共有していた男。自分の知らない彼女を知っている、あの男が笑っている。
 
 ――一年の時から、君ら良い雰囲気だもんな――
 
 確かに、以前彼女は奴に想いを寄せていた。だが、それは恋と呼ぶにはあまりにも幼く、愛というよりも独占欲に似た感情だったと思われる。多分、おそらくは。いや、きっとそうに違いない。
 そして、もう彼女の心は奴には無い。それは間違い無い。そうでなければ、自分の呼び出しに応えてくれる筈がない……。
 
 扉の向こう側は、未だ朗の存在に気が付いていない様子だった。引手にかけた手をそっと引っ込めると、朗は廊下を静かに奥へと進み始めた。ポケットから鍵を取り出し、普段あまり使うことの無い、直接準備室に繋がる扉を開ける。
 このところ多忙な日々が続いた事もあって、自分は少し疲れているのだろう。ただ、それだけだ。
 それだけなのだ。
 そう自らに言い聞かせながら、朗は準備室の長椅子に身を沈ませた。
 
 
 化学室にいるのは、嶺とその友人、高嶋珊慈の二人だけのようだった。
 窓際に陣取っているのだろう、窓を通して彼らの声が明瞭に聞こえてくる。暑い夏、志紀との逢瀬に窓を閉めきったのは大正解だったな、と胸のうちで朗は呟いていた。
 
「本っ当に、誰も来ねえな。修学旅行の説明会って、こんなに長かったっけ?」
 欠伸の切れ端とともに嶺がぼやく声。対する珊慈は至極冷静な様子でそれを受け流している。
「憶えてない」
「有馬とか柏木とかも、何してんだ?」
「皆、お前みたくヒマ人じゃないんだよ」
「お前が言うな」
 
 暢気なものだ。朗は独りごちた。
 その二人が、先程天体観測室で交わしていた会話を知ったら、奴はどう反応するだろうか。
 そもそも、元来がウブな志紀の事だ。朗が彼女をものにしていなければ、彼女が何も知らないままだったらば、陸は簡単に目的を遂げる事が出来ただろう。甘い言葉を並べ立てて、雰囲気を盛り上げて。もしくはもっと強引に……、丁度三ヶ月前の朗のように。
 
「そういや、さ。嶺、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
 少し改まった声が、一呼吸ついた。
「お前さ、有馬さんと付き合ってンの?」
 
 ややあって、何かを盛大に噴き出す音が聞こえてきた。
「な、ななな何を突然言い出すんだよ! んなわけねーだろ!」
「あ、そ」
 
 今日は、一体どういう日なのだろうか。立て続けに他人の恋愛話を聞かされる羽目になろうとは。それも、当人達のあずかり知らぬところで。
 眉間に皺を刻んだ朗だったが、それでもしっかりと耳をそばだててしまっていた。志紀の名前が出た以上は、捨て置くわけにはいかない。
 
「……何だよ。一体、なんでそんな事聞くんだよ」
「クラスの奴にリサーチ頼まれたんだよ。有馬さんってフリーなのか?って。そいつ、オプションの存在を気にしてたから、ここは直接、そのオプションに訊いてみるか、と思ったんだけど?」
 飄々とした声に、苛ついた声が噛み付く。
「誰だよ、そんな物好きは」
「ここでバラしたら、反則だろ」
 ぐ、と嶺は言葉に詰まったようだった。
「じゃ、彼女は完っ全っにフリーなんだな? こう、なんつーか、アタックし放題? 奥手そうだし、押して押して押しまくれ、みたいなアドバイスしとくけど、OK?」
「ま、まてマテ待てマて」
 ガタガタと、丸椅子が音を立てる。
「なんだよ、付き合ってるんじゃないんだろー?」
 
 珊慈の、人の悪そうな笑顔が目に浮かぶようで、聞き耳を立てている朗も、つい苦笑を浮かべてしまう。
 
「付き合ってねえよ。付き合ってねえけど……、ちょっと待てよ」
「なんだよ、予約済みとか言うんじゃないだろうな」
「そ、それは……その……、なんて言うか、ほら……、くそっ、だからさぁ」
 
 嶺が、じたばたと盛大に足掻いている気配が窓越しに伝わってくる。奴は一体どうするつもりだろうか、と、朗はさらに意識を隣に向けた。
 やがて、嶺は意を決したような声音で訥々と語り始めた。
 
「あいつの性格はお前も知っているだろ? 男と女の区別がついてないんじゃねーか、ってほどにお子様な奴相手に、付き合うも付き合わないも無いだろーが」
「……まあ、確かに、彼女はあまり「オンナ」って感じじゃないなあ」
「だろ? こないだなんか、柏木が誕生日だって言うから、十八禁モノ差し入れてやろうか、って話してたら、『柏木くん、アクセサリー好きなの?』だぜ? 信じられるか?」
「俺にしてみれば、女子のいる前でそんな話題をふる方がどうかと思うが」
「女子つったって、志……有馬だぜ?」
「あー、はいはい。好きなコほど、ちょっと困らせたくなるよねー」
「……! 違ぇよ!!」
 
 一人密かに化学準備室で、朗は頭を抱えていた。一応は恋敵と言えるかもしれない相手の、あまりの幼稚さに頭痛を覚えて。
 だが、それは決して不快なものではなかった。むしろ、ある種の懐かしさすら感じさせられるほどの……。
 
 遠い記憶が、校舎のあちこちから染み出してくる。
 そうだ。放課後の教室、はにかんだように恋愛相談を持ちかける友人相手に、経験者を気取ってもっともらしい事をうそぶいていた事もあった。その後、友の反撃を受け、二人で派手に自爆し合った憶えがある。
 
「悪かったよ、茶化して」
 先程までとうって変わって真面目そうな珊慈の声に、朗の意識が現実に引き戻される。
 大きな溜息は、嶺のものだろう。
「とにかく、さ。まだまだあいつはコドモなんだよ。男と女の違いなんて、生物学的なシステムでしか認識してないと思う。そんな奴を無理矢理こちらのペースに引きずり込むなんて事、出来るわけないだろう?」
 
 
 その瞬間、細い、針のようなモノが、朗の胸を貫いた。
 
 
「……本当に彼女の事が大切なんだな」
 そう嶺に静かに返す珊慈の声は、とても柔らかい。だが、その声さえもが、朗にとってはやいばのようだ。
「ば、ばばば馬鹿野郎! 違うつってるだろ! あいつに振り回されて疲れるのが嫌なんだ!」
 
 胸に突き刺さった針は、朗の痛みを吸い上げて、ゆっくりとその太さを増していく……。
 
「ふぅん。それなら、相談主に『取扱注意』と念押しておけば良いってわけだ? あいつ結構イイ奴だから、有馬さんの事、それはもう大事にしてくれるだろうしー」
「おい! 珊慈ィ!」
 
 針はいつしか杭と化していた。息苦しさに襟元を緩めども、胸の傷は絶え間なく朗を責め立て続ける。
 おのれの醜さを。
 …………非道さを。
 
「観念しろよ?」
「お前、その相談主とやら、フカシじゃねえだろうな」
「いや、それはホント。ただ、これを機会に、ちょいと嶺の本音を聞いとこうかなーって思ってさ」
「……志紀とは、付き合ってなんかねえよ。まだ」
「まだ?」
「悪いか?」
「べっつにぃ? でも、その気があるなら、さっさと告っちまえよ」
「……近過ぎンだよ。色々、あまりにも、さ。正直なところ、ヘタを打って俺自身も傷つきたくないし、それに……、あいつを傷つけたくない」
 
 やめてくれ。もう沢山だ。
 耳を塞ぐも、声々は容赦なく朗のもとへと届けられる。
 
「でも、いつまでもそうやっているわけにはいかないだろ?」
「……まぁな。そうだな、卒業したら……」
「チキン野郎」
「うるせえ! とにかく、俺は言ったぞ。これで満足か」
「ああ、しかと聞いた。相談主の方にゃ、適当に言っとくさ」
「……悪ぃ」
「ま、頑張れよ。応援してるからさ」
 ほどなく、廊下側から複数人の賑やかな話し声が響いてきた。時をおかず、ガラガラと引き戸の開く音がする。
「あれ? 今日は先輩達だけですかー?」
「おー」
「もう、校長の話、なんであんなに長いんスかねー」
「ところで、先輩、…………」
「ああ、そりゃ…………」
「…………」
「…………」
 先客の二人が窓際から離れたのだろう、生徒達の話し声はゆっくりとフェィドアウトしていく。
 
 
 どこのどいつだ。先手を打ったなどとほくそ笑んでいたのは。
 ……つい先程まで朗を満たしていた満足感は、腹立たしいまでの敗北感にその席を譲り渡してしまっていた。
 
 お前は、自分の事しか考えていない。
 朗の中で、誰かがそう糾弾する。
 彼女の事など微塵も思い遣っていないくせに、と。
 彼女の気持ちなどお構いなしに、ただおのれの快楽を追求しているだけではないか、と。
 朗は下唇を噛んだ。自分は、原田には勝てないのだろうか。
 
 仮にそうだとしても、おめおめと負けを認めるわけにはいかない。
 くらい光が、朗の瞳に静かに灯る。
 恐怖でも良い。快楽でも良い。どんな動機付けだろうと構わない。要は、志紀を絡み取り、縛り付け、逃さなければ良い話なのだ。
 今現在、彼女を手にしているのは、他の誰でもなくこの私なのだから。
 
 そうだ。彼女は私のものだ。
 
 朗はポケットから携帯電話を取り出した。メールの着信を示すライトが小さく点滅している。
 これまでの「お誘い」は、全て部活中に直接行われていた。朗が志紀に符丁めいた声をかけ、志紀は微かな身振りでそれに返答する。メールを使うのは、早めに退出した彼女に人払いが完了した事を伝える時に限られていた。
 だから、これが志紀から届く初めてのメールだった。先刻朗が送信したメールに相応しく簡潔な、『了解』の二文字が朗の目を射る。
 
 他の男から告白を受け、動揺しているであろう彼女を、どう料理するか。朗の瞳に灯った火は、その光量をいや増していった。
 ……そして、遂には自らの台詞によって、その炎は臨界点に達する事になる。
「そいつも断ったのか。原田のために」
 
 だが、それでも。彼女は私のだ。
 薄暗い化学準備室、隅のくらがりよりも更に深い闇に飲み込まれ、朗は志紀を貪り続けた。ただひたすら、嗜虐的な衝動のままに。