ノックの音に朗が応えると、準備室のノブがそっと回転した。
殊更に平静を意識して、朗は講演会の資料の束をステープルでとめていく。躊躇いがちに扉を閉めた志紀が、おずおずと朗の方へと歩みを進めてきた。
「……先生、何か手伝いましょうか?」
「いや、もう終えるところだから。構わない。気にしないでくれ」
あんなにも一方的に抱かれて――いや、あれはもはや犯されて、と言うべきかもしれない――、それでも彼女が大人しく自分に呼び出されるというのは、一体どういうわけなのだろうか。
胸の内でそう問いかけながらも、その答えを考察する勇気が今の朗には、無い。
そして、回答を棚上げにしているにもかかわらず、朗の胸中、深淵にも似た昏 い部分からは次から次へと新たな衝動が湧き上がってくる。その内なる声に身をゆだね、朗は志紀との狭間に更なる溝を掘り込んでしまうのだ。
「これ、来週のサイエンスダイアログの分ですよね? ちょっとだけ、見てみていいですか?」
朗が軽く頷くと、志紀は目を輝かせて出来上がった小冊子に手を伸ばした。綺麗に切り詰められた桜色の爪が、折り目をつけないように慎重にページを繰る。
「わ、わ、凄い。この図って先生が? きっちりしてますねー。まるで本屋に並んでいる本みたい」
「パソコンを使えば、今日びこのぐらいは誰にだって出来るさ」
「でも、去年のなんか、普通にわら半紙にリソで、物凄く手作り感に溢れていたから……。少し印刷ズレてたりしたし」
「そうは言っても、肝心なのは中身だからね」
「それはそうなんですけど……、でも、やっぱり凄いですよ。見易いし」
志紀はそう言って、屈託のない笑顔で小冊子を机に戻した。ささやかな仕事を思いもかけずに評価され、朗の口元が緩む。
ふと、自分の胸中がいつになく凪いでいる事に朗は気が付いた。
ついさっきまであんなにも殺伐としていた精神状態が、まるで嘘のようだ。自分がこんなにも単純なスイッチを持っているという事に驚きながら、朗は静かに志紀を見つめた。その視線に気が付いた志紀が、少し頬を赤らめて僅かに目線を逸らせる。
「……なんか、久しぶりですよね、話すの。先生、最近ずっと忙しそうだったから」
「そうだったかな」
そうとぼけてみせたものの、志紀の言葉が正しい事は、朗自身も充二分に認識していた。
三週間前の、あの一方的な情事以来、朗は志紀に対する態度を考えあぐねていたのだ。
飴を使うか、鞭を使うか。そもそも鞭にしても、遣り様によっては幾らでも甘くなる。煮えきらないおのれ自身を持て余しながら、朗は志紀と対峙する事を避け続けていたのだった。
にもかかわらず、週に一度の呼び出しだけは忘れず欠かさず行っていた、自らの業の深さに、朗は独り密かに苦笑を漏らす。朗のそんな様子に気付く事なく、志紀は両手を腰に当てて、少し大げさに憮然とした表情を作った。
「そうですよー。先々週から、実験日だって、忙しいって言ってパスしてたじゃないですか。会話らしい会話なんて先週の……」
そこまで一気に語ってから、志紀は、しまった、という表情で黙り込んだ。
色事に関わる事になると、どうして彼女はこんなにも迂闊なのだろうか。
朗の内部で、熱いものが鎌首をもたげ始める。
「先週の……? 先週の、何かな?」
志紀の顔が、耳のところまで真っ赤になるのを、朗は多大なる満足感とともに眺め続けた。
「……先週の、あの、時、以来……です」
「あの時?」
獲物を追い詰める、快感。
理由はどうあれ、彼女はこの部屋にやってきてくれた。今は、それだけで充分ではないか。
朗を苛み続けていた有象無象が、本能の渦に沈んでいく。朗の牡の部分が覿面に反応し始めた。
「……えっと、この部屋で、先生と二人で逢った時、です」
「上手く逃げたな」
言うや否や、朗は志紀の手首を掴んで手元へと引き寄せた。突然の抱擁に慌てる志紀の両頬を押さえ、唇を重ねる。
「二人で逢って、何をしたっけな?」
「何、って……」
朗の腕の中で、志紀の薄い肩が小さく震えた。
「言ってみ給え」
「そ、そんな……」
両の掌で頬を固定されては、顔を逸らす事も出来ない。朗の視線から逃れようとして、志紀は固く両目を閉じた。
その、ささやかなる抵抗が、さらに朗の嗜虐心に火を点ける。
「言えないのなら、代わりに言ってあげようか?」
びくん、と身体を震わせた後に、さらに固く瞑られる瞼、引き結ばれる口元。
強情だからこそ、羞恥心が強いからこそ、苛め甲斐があるというものだろう。貝の如く閉じられた志紀の薄い唇を咥え込むようにして、もう一度朗が口づける。柔らかい感触を確かめるようにして舌先で上下の唇をなぞり、それから無理矢理にこじ開けるべく舌を合わせ目に潜り込ませる。
また、びくん、と志紀が肩を震わせた。
行く手を阻む歯列を、歯茎を、朗の舌は嬲り続ける。彼の口元に浮かぶ笑みは、この先の展開を確信してのものだ。
ぬるり、ぬるり。
唇の裏側を這い回る柔らかな感触が、堅固な閂を溶かしていく。
吐息が志紀の唇から漏れると同時に、遂に朗の舌は目指す場所へと入り込んだ。
未練がましくも少しだけ抵抗の素振りを見せた志紀だったが、抗議のうなり声はすぐに甘さを増していく。彼女の体温が確実に上昇を始めているのを掌で感じ取り、朗は喉の奥で満足そうに笑った。
絡み合う、粘膜。
彼女も随分とキスが上手くなったものだ。そう胸の中で独りごちながら、朗はおのれを更に昂ぶらせていく。
今はまだ早過ぎるだろうが、そのうちに彼女には別な舌使いを教え込んでやろう。
根元まで口に含ませ、幹に絡ませるように舐め上げ、筋を辿り、くびれの部分をぐるりとなぞり、先端を穿ち。
張り出したえらが、あの唇に何度も扱かれるのだ。考えただけで背筋がぞくぞくする。
過去を振り返れば、こちらから頼まなくとも口淫に積極的な女か、その気配すら拒否する女か、そのどちらかのタイプしか朗は知らなかった。
手取り足取り性技を教え込んでいく、という考えは、非常に魅力的だった。朗は興奮のままに、深いキスを貪りながら、熱を持った部分を志紀の腰に押し付ける。
志紀が、ほんの僅か腰を引いた。だが、やがて躊躇いながらも彼女は朗の動きに応える素振りをみせ始めた……。
そうだ。教え込む、など、今更改めて考える事ではなかった。
これまでもそうだったではないか。何も知らなかった志紀を、これほどまでに反応の良い、感度の良い身体に仕立て上げてきたのは、この自分なのだ。
……志紀を、仕込む。
私好みのセックスを教え込み、私以外の男では満足出来ない身体に、仕込むのだ。
そうすれば、もう……
志紀の身体が大きく傾 いで、朗の夢想は中断した。崩れ落ちようとする彼女を咄嗟に抱きとめて、朗は大きく安堵の溜息をつく。
「感じてくれるのは嬉しいが……もう少し堪 えられないかい? 危ないじゃないか」
「だ、だって……」
荒い息で顔を上げたその表情が余りにも切なそうで、朗はなおもおのれの血がたぎるのを自覚した。
「まだキスだけだというのにね」
「…………」
恥じ入るように下を向く志紀を胸に抱いたまま、朗は歩き始めた。
大人しく従う彼女の動きが、いつもの長椅子を通り過ぎたところで、微かな抵抗に変わった。
「どうした?」
「え? だって、」
本棚の前に志紀を立たせ、丁度彼女の目と同じ高さの棚に華奢な両手をかけさせる。
「身体を支えるところが必要だろう?」
「え、でも、あの……、それだったら……」
志紀の視線が長椅子に向けられた。
「椅子でヤるのが、いいのかい?」
前後のシチュエーションを無視してこの台詞だけを抜き出すなら、なんとも刺激的な言い回しである。だが、志紀は躊躇う事なく小さく頷いた。朗の口角が吊り上がる。
「そうか」
原田よ。
お前の言う「お子様」な彼女は、椅子でのセックスがお好みらしいぞ。
二人きりで逢える場所がこの部屋しかない現状では、閨での情交など叶いようのない事だったが、朗は敢えて頭の中でそれを曲解させた。普通の場所では物足りない、と、より刺激を求めて腰をうねらせる志紀の姿を脳裏に思い描く。
「いやらしい娘 だ」
「え……?」
朗の独り言に、志紀が振り返ろうとした。それを阻むべく、朗は、本棚にかけた志紀の両の手をそれぞれ背後から押さえつけた。そのままの体勢で、唇を彼女のうなじに滑らせる。
「あ……、せ、先生……」
潤んだ視線が、朗と長椅子とを数度往復する。その懇願するような表情に気が付かないふりをして、朗は極上の微笑みを志紀に返した。
「どうしたね?」
幽かに息を呑んでから、志紀は静かに俯いた。おそらくは抵抗しても詮無い事を理解したのだろう。
「……いえ……なんでもないです」
「そうか」
満足げに目を細めてから、朗は志紀の両手を解放した。そして、自由になった両手で彼女の胸を撫で始めた。