The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第六話 折返

 
 
 
「正面きって向き合う事を逃げてたら、いつかきっと後悔するよ?」
 
「もたもたしている間に、君が完全にアイツのものになってしまうぐらいなら、いっそ」
 
「お前は自分の世界に帰れ。ここはお前の居るべきところではない」
 
 
 
「先生は……、私を、どう思ってらっしゃるのですか?」
 
 
 
    第六話   折返
 
 
 
 休んで、しまった。
 ズル休み、してしまった。
 
 自室のベッドの上で布団にうずまりながら、志紀はぼんやりと天井を眺めていた。
 
 大きな声では言えないが、志紀が学校をサボるのはこれが初めてではない。好きな映画を封切り直後に見たいから、という取るに足りない理由で、友人達と試験休みを勝手に繰り上げたのが一度。遠足の行き先が僅差で「学校の裏山」に決定してしまった時に、同様に「近所の公園」が行き先となった隣のクラスの友人も一緒に、八人ほどで自主遠足のハイキングを決め込んだのが一度。
 その両方ともに、しっかりと担任に「体調が悪くて」などと断りの電話を入れているあたり、サボりと言うには児戯にも等しい可愛さである。そして、両親はその日娘が学校を休んだ事実を知らない。
 
 だが、今日のは仮病を使っての、謂わば親公認の欠席だ。先程、お粥を部屋まで運んできてくれた母の心配そうな表情に、志紀の良心がちくちくと痛む。
 ――お母さん、ゴメン。心配かけて。
 熱がある、と言うのは完全な嘘だった。けれども、頭痛がするのも、気分が悪いのも、間違いなく真実で、志紀は大きく溜息をつくと、掛け布団を巻き込みながら寝返りをうった。
 
 昨日の事を……、いや、これまでの先生との事をお母さんが知ったら、きっと、もっと心配するだろう。多分、泣かれるかもしれない。
 自己憐憫の涙が、枕にまた新しい染みを作った。
 
 
「好きだ」と言ってくれたのも優しくしてくれたのも、全部が嘘だったんだ。すっかりのせられて、舞い上がってしまった自分が、馬鹿みたいに思える。
 
 ようやく枯れ始めた涙を手の甲で拭って、志紀は鼻をすすった。ティッシュペーパーを探して身を起こし、耳が痛くなるのも構わずに、勢い良く鼻をかむ。
 見上げた壁掛け時計の針は、まだ昼までは程遠い。学校に行っていると一時間なんてあっという間なのに。志紀はまた一つ溜息を漏らして、ベッドサイドに置かれたお盆からりんごジュースの紙パックを取った。
 まだほんのりと冷たさの残る液体が、喉の奥へと流れ込んでいく。もう一度鼻をかみ、人心地ついたところで、志紀はぼんやりと窓の外に目をやった。
 
 世の中には、お相手の「若さ」をステータスとする人間がいると聞く。先生もそうだったのかもしれない。
「女子高生」を抱きたい、と。単にそういう欲求の捌け口として、手ごろだと思われたのだろう。いや、もしかしたら、私が無知なだけで、なにか無意識に先生を誘っていた事があったのかもしれない。性差の認識が弱かった自分なら、充分にありえる事だ。
 そうでなければ、先生が私みたいな「お子様」を本気で相手にする事なんて無い筈だ。先生ならば、望めば簡単に恋人も手に入るだろうに。
 
 そこまで考えて、志紀は愕然とした。
 自分が知っているのは、多賀根朗と言う人物のほんの一面だけである、という事実に気が付いて。自分にとっての先生は、あくまでも「先生」としての……それも自分が観測しうる「先生」としての一部分でしか過ぎないのだ。
 
 もしかしたら……いるのかもしれない。決まった人が。本当に私は単なる遊び相手で。
 遊び相手。
 その言葉を切欠に、志紀の脳裏に幾つもの映像が一瞬にして去来した。
 
 後ろ手にタイで拘束されて、無理矢理に犯された、最初の日。
 神社の木の陰では、皆が来るぎりぎりまで嬲られた。
 恥ずかしい言葉を言わされ、いやらしい言葉で責められ、自分から求めさせられて。
 立ったままでの――、鏡に映る――、そして、電話をしながらの――。
 
 朗の背徳的な態度が、止めどなくフラッシュバックする。
 およそ、巷に聞くラブストーリーとはかけ離れた行為の数々は、客観視すればするほどに妖しく、アンダーグラウンドな香りがした。
 
 そう、遊び相手ですらなかったのかもしれない。
 例えるならば……、玩具?
 
 ――どこへなりとも行き給え――
 全てを、志紀を、拒絶する背中を思い出して、志紀の胸が、ずきん、と痛む。
 そうだ。反抗するような玩具は要らないに決まっている。
 
 再び、熱い塊が志紀の中をせり上がってきた。じん、と鼻の奥が痺れ始め、溢れ出した熱が涙に変わる。
 要らない。
 要らないのか。
 だから……、だから、先生は……。
 
 静かな部屋に、志紀の嗚咽がかそけく響き始めた。
 
 
 
 玄関のチャイムの音に、志紀の意識はゆっくりと覚醒した。
 時刻はいつしか夕刻を過ぎ、赤みの帯びた陽光が柔らかく室内に差し込んでいる。ふて寝と言うべきか、泣き寝入りと言うべきか、仮病の癖に意外としっかり眠れるものなんだなあ、と妙なところに感心しながら志紀が起き上がるのと同時に、部屋の扉が控えめにノックされた。
「志紀、起きてる? 今、理奈ちゃんがお見舞いに来てくれたんだけど」
「理奈が?」
 理奈の家は、志紀の家からは駅を挟んで反対側に有る。バスか自転車か、どちらにしても、そうそう気軽に訪れる事の出来る距離ではない。
 現に、春先に志紀が大風邪をひいて三日学校を休んだ時は、諸々の用件は、理奈から隣のクラスの嶺を経て志紀に届けられたものだった。
「大丈夫? 上がってもらう?」
 今日に限って、一体、何故。
 わざわざ来てくれたという申し訳なさとも相まって、志紀は小さく「うん」と返答した。今はあまり他人と顔を合わせたくない、というのが本心ではあったのだが。
 階段を足音がパタパタと降りていき、ややあって玄関の扉の開閉する音が聞こえてくる。
「お邪魔しまーす」
「わざわざありがとうね。さ、あがってちょうだい」
 
 泣きはらした目はどうしようもないにしても、せめて寝癖だけでも直さなくては。
 志紀は少し慌てながら、手櫛で髪の毛を整え始めた
 
 
「志紀ー、大丈夫ー? って、うわ、凄くやつれてるじゃん。まだ、熱あるんじゃないの?」
「ううん、もうかなり下がってきたと思う。こんなカッコでゴメンね」
 敢えて弱々しく返答してしまうのは、ズル休みの後ろめたさのせいだろう。
 一方、理奈は、志紀が快方に向かっていると聞き、ぱぁっと顔を綻ばせた。いそいそと志紀の机から椅子を引っ張り出してきて、志紀と向かい合うようにして座る。
「センターまでもう二ヶ月ちょいなんだから、気を付けなきゃ。ほれ、今日の分のノート、コピーしといたぞー」
「ありがと。でも、週明けでも良かったのに」
「まあまあ、気にしないで。アールエフのパフェのためなら、たとえ火の中水の中、ってね」
「は?」
「いやさ、原田君が、志紀の事えらく心配しててさぁ。代わりに見て来てくれっつーから、ここは一つアールエフの抹茶パフェで手を打たないか、ってね。バッチシ二人分要求しといたから、元気になったら一緒に食べに行こーよ」
 親指を立てて得意げに胸を張る親友の姿にふき出しそうになりながらも、志紀は気になった言葉をオウム返しに口にのぼしていた。
「代わり?」
「うん。『俺、なんか避けられてるみたいだから』っだってよ。喧嘩でもしたわけ?」
 
 昨日の、携帯電話のスピーカから聞こえる屈託の無い嶺の声が、まだ志紀の耳に残っている。
 
「別に、喧嘩なんてしてないよ」
「だよねぇ。昨日も普通に喋ってたりしてたもんね。何言ってんだろ、アイツ」
 
 
 
 あの時、スカートのポケットで携帯電話が震えだした瞬間、志紀は電話を鞄に入れておかなかった事を激しく後悔した。
 そして、危惧した。
 
 水をさされた朗が、この行為をやめてしまうのではないか、という事を。
 
 折しも、絶え間ない抽迭がしばし中断している時だった。じんじんと疼く身体を持て余しながら、志紀は朗を振り返った。
 やめないで、と。
 朗が電話を取り出した時も、オンのボタンを押した時も、志紀はただひたすらその言葉を心の中で呟いていた。
 朗の指が、再び彼女を乱し始めるまでは。
 
 
 聞かれる。
 聞かれてしまう。
 電話の向こうに対して必死で態度を取り繕いながらも、志紀の身体はいつもにも増して感度を上げてしまっていた。
 いやらしい事をしている音が、感じてしまっている声が、他人に聞かれてしまう。
 こんなところで、こんな事をしているのが、バレてしまう。
 
 自分に襲い掛かる、凄まじいまでの官能。
 電話をどうやって切り抜けたのかも定かではないほどに朦朧とした意識のもと、唯一つの懸念が志紀の頭の中をぐるぐると回っていた。
 
 先生との事を、知られてはいけない。
 知られたら最後、この関係は終わってしまう。
 もう二度と、話す事はおろか、会う事さえ出来なくなってしまうだろう……!
 
 
 そして、終わりは唐突に訪れた。
 自分を拒絶する広い背中に、志紀は語るべき言葉を見つけられなかった。溢れそうになる涙を抑えるのに精一杯の状態で、志紀は準備室を後にした。
 最後まで、朗は振り返らなかった。
 
 
 化学室の片隅、壁にかかった薬品会社の名前の入った鏡の前で、志紀は服装を整えた。
 立ったまま、だったのが幸いしたのだろう、制服もそんなに皺にはなっていなかった。夕闇の迫りつつあるこの時刻、誰かに不審に思われる事はないだろう。上気した頬や、情事の遺薫も、駅まで歩いている間に落ち着いていくに違いない。
 
 ふと、準備室への扉を振り返る。
 朗が出てくる様子は、微塵も見受けられなかった。
 
 熱い塊が、胸の奥からせり上がってくる。雫が零れてしまわないように、志紀は潤みかけた瞳を必死で見開いた。
 泣くのは、家に帰り着いてからだ。
 誰かに涙を咎め立てられたら、どうする。
 
 知られてはいけない。
 先生との事を、知られるわけにはいかない。
 
 おまじないのように何度もそう呟きながら、志紀はおのれの心を静かに凍らせていった。