The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第六話 折返

 
 
 
 あの後、靴箱で待っているであろう嶺をかわすために、志紀は彼にメールを打った。現在地を食堂前だと偽って。自販機の前にばら撒いてしまった小銭を拾い集めている、という文面に、嶺は『ばーか。一割よこせよ』とだけ返信をよこしてきた。
 きっと彼は慌てて現場に駆けつけてくれたに違いない。口は悪くとも、根はとても人の良い奴なのだ。
 良心の呵責にさいなまれながら、志紀は独り下校した。それ以上言い訳をするのが苦しくて、あれから携帯の電源は切ったままになっている。
 
 喧嘩なんてしていない。でも、確かに嶺の事は避けている。
 アノ声を聞かれてしまった。
 声の正体には気付いてないにしても、一体どんな顔をして嶺と話せば良いのか、解らない……。
 
「ちょっとおちょーし者だけど、イイ奴じゃん。ま、私の趣味じゃないけど。ね、いいかげん、付き合っちゃわないわけ?」
 
 どうして嶺なんだろう。理奈も、柏木君も、……先生も。
 一緒の時間を過ごす事が多いのは事実だけれど。ちょっと気になる存在だったのも確かだけれど。
 でも、私達は単なる幼馴染。ヘンな噂を立てられたら、嶺だって困ってしまうだろう……。
 いや、そもそも――
 
「付き合う、って、一体どういう事なんだろう」
 志紀が、ぽつり、と漏らした言葉に、理奈は目を丸くして絶句する。
「何? 志紀、アンタ、そこから始めなきゃなんないわけ?」
 深刻そうな表情で黙りこくる志紀を、呆れたと言わんばかりにねめつけてから、理奈は少し大げさに落胆してみせた。
「これだから、理系人間は面倒臭いのよねー」
「理奈だって理系じゃん」
「何事も、限度ってモノがある、って話。パソコンの仕組みが理解出来るまでは使わない、って、そんな馬鹿な事言わないでしょ、普通」
 と、そこで、理奈の眉がひそめられた。「……いや、でも、ある程度のレベルまでなら、そう言いかねないよね、あんた……」
 思わず苦笑を浮かべた志紀の目の前、理奈が腕まくりをする。
「いいよ、解ったよ。とことん付き合ってやろうじゃないのさ!」
 彼女はそう言って、スカートである事に頓着する事なく椅子の上で胡坐をかいた。
 
 
 珈琲を運んできた志紀の母が「ゆっくりしていってね」と退出していく。よそ行きの顔で丁寧に礼を言って、それから理奈はもう一度胡坐をかき直し、志紀に向かって大きく身を乗り出した。
「とにかく、さ。男女が『付き合う』つったら、やっぱ、好きだから一緒にいよう、って事じゃないの? 始終一緒には居られないとしても、俺はお前を優先するから、お前も俺を優先してくれ、ってカンジ? お互いをキープしておこう、って事でもあるかなあ」
「キープ?」
「そ。お互いのイチバンの座をキープし合うわけよ。だから、『私、付き合っている子がいるから』ってのが、告白の断り文句になるんじゃない?」
 
 ああ、そうか。
 志紀は、七月に入ってすぐの朗との会話を思い出していた。まだ、今の関係が始まる直前の、部活の顧問と部員としての無邪気な会話を。
 あれは、何を話題にしている時だっただろう、朗は事も無げにこう志紀に問いかけてきた。「彼氏、いるんじゃないの?」と……。
 
「好きだから……って、でも、その、キープってったって、ほら、例えば、好きじゃなくっても、下心があって、とか……」
 我ながら、支離滅裂な事を訊いているような気がする。そう思いつつも、今度ばかりは志紀はおのれを取り繕う事を諦めた。
 何か少しでも、ほんの僅かでも、この暗闇に道筋は見つからないだろうか。そう思って、ただひたすら理奈の言葉を待つ。今を逃せば、全てが手遅れになる、そんな焦燥感にかられながら。
「下心って、そんなの、ある意味当たり前だよー」
 これまた、小気味良いほどにスッパリと、理奈は断言した。
「あたり前?」
「あー。当ったり前、当たり前。特にオトコって奴ぁね。って、オンナだって突き詰めたらそうだと思うよ? そもそも、恋愛感情って、生物学的には子孫繁栄に直結してるわけだしー」
 至極真面目な表情で演説をぶる理奈の動きが、そこで唐突に止まる。
「え、何、志紀、下心……って、もしかしてアイツ、あんたに何か馬鹿な事をしたわけ!?」
「な、ないない! それはない!!」
 掴みかからんばかりに詰め寄ってくる理奈に対して、志紀は目を白黒させながら、慌てて疑惑を否定した。
 一方、理奈はと言えば、今ひとつ釈然としない様子で志紀をじっとすがめている。
「……ほんとぅ? ま、そう言うのなら、そういう事にしておくけど……。
 一応、奴の事フォローしておくけどさぁ、オトコノコってさ、そのテのスイッチ入っちゃうと、なかなか冷静に戻れないらしいから。特に、アイツみたいに、『オレは志紀にとって特別な人間なんだぜ!』みたいな自惚れなんてあった日にゃ、もう、本能が理性ぶっちぎって帰ってこれなくなること間違いなし!」
「何、その、自惚れ、って?」
 今度は、志紀が眉をひそめる番だった。
 嶺のそんな発言など、志紀は聞いた事がなかった。事あるごとに志紀をからかったり、突っかかってきたり、「ガキ」だの「小猿」だの、そう言っては意地悪く笑う彼が、一体どういう場面で、どんな事を言ったのか……。
 
 ふと、志紀が我に返ると、眼前では理奈が盛大に頭を抱えて唸り続けていた。
「ああああー。本気で気が付いていないわけー?
 奴を見てたら一目瞭然じゃんか。他の男子に対して牽制しまくりな態度とかさぁ。あとは、ほら? 好きな子を苛めたくなるっての? なんつーか、バレバレなんだけどさ、アイツってば」
「ば、バレバレ?」
「それはもう、この上もなく」
 
 それで、嶺だったんだ。理奈も、柏木君も、……先生も。
 おのれの視野狭窄ぶりに、志紀は密かに肩を落とした。いくら、このテの話と縁が無いといっても、鈍感にもほどがある。あまりにも周りが見えていないではないか。
 
 ……いや、違う。
 見えていない、のではない。見ていなかった、のだ。
 
 その一瞬、志紀の視界が、ぐるり、と広がった。
 
 彼と真正面から向き合う事を恐れ、目を逸らしていたのだ。余計な期待をせずにすむように、自分に自分でしゅをかけていたのだ。
 ただの幼馴染だから、と。
 小さい頃から慣れ親しんだ仲だから、と。
 そう思い込んでおけば、もしもの時に……傷つかずにすむ。ただ、それだけのために、目を閉じ、耳を塞ぎ、櫂の無い小舟で漂っていたのだ。いつか、どこかに漂着出来るだろうと期待して。何もしなければ、舟が沈む事はないだろう、そう信じて。
 
 
 志紀は、大きく息を呑んだ。
 逃げていたんだ、私は。
 そして、逃げている。
 
 
「ま、何かおイタがあったにせよ、許してあげなよ。愛ゆえに……ってね!」
 流石は演劇部、理奈は心持ち目を潤ませながら、天を振り仰いで悦に入っている。
「いや、だから、何もないってば……」
「いいから、いいから。気にしない、気にしない。
 でもね、下心あって当然、って言ったけど、それだけを目当てに付き合うのって、多分割に合わないと思うよ? 相手のご機嫌をとったり、話を合わせたり、そんな苦労しなくても、こう、相手さえ選ばなきゃ、もうちょっとイージィだったりするじゃない? 極端な話をすれば、お金さえ払えば……ってね」
 もしかしたら、ウチのガッコにも、エンコーとかしてる子がいるのかなぁ、あれは絶対モッタイナイと思うんだけど。そう脱線しておいてから、理奈は少しだけ居住まいを正して、椅子に普通に座り直した。
「色々面倒でも、それでも相手と折り合いつけて『付き合う』わけでしょ? それは当然お互い、相手の存在自体に何か価値を見出だしているって事じゃないかな? そんなに構える事じゃないと思うよ」
 
 理奈が言葉を紡ぎ出せば出すほどに、もやもやとした何かが志紀の記憶の奥底から沸き出でてくる。
 ガラスのように澄んだ遠浅の海、白砂の海底で舞い立つ砂煙のように。ひらりひらりと尾びれを翻しながら、何かがその陰から姿を現そうとしている……。
 
「いやあ、良かった良かった。志紀とこういう話が出来て、あたしゃ嬉しいよ」
 老婆のような口調で茶化しながらも、理奈の瞳はとても優しい光を湛えていた。
「好きかも、って思うから悩んでるんでしょ? 恋愛って、自分をさらけ出してナンボだからね。志紀って、そういうところ慎重過ぎるきらいがあるからさ」
 
 そうだ。どうでも良い事ならば、悩む事なぞ無かったのだ。
 いつものとおりに、頭の中のリセットスイッチをオンにすれば良いだけの話。
 だが、そうする事が出来なかった……。
 
「変化を嫌う気持ちは解らんでもないけどね。現に、あんたら確かに、ある意味仲が良いもん。中途半端なりに落ち着いちゃってるから、まぁこれでいいか、みたいに思っちゃうのも仕方ないと思うけど」
 
 ただひたすら、眼前で光るあの眼差しに縋って、流されるままに漂流していた。
 視野狭窄の比ではない。思考を停止させる事で、危ういままに安定しようとしていたのだ。
 目隠しさえ取らなければ、たとえ其処が奈落に臨む絶壁の縁だったとしても、恐れる事は何一つ無い。断崖に目が眩む事もなければ、恐怖に足が竦む事だってないだろう。かりそめの平穏の許、ただ無邪気に歩き続ける事が出来るというものだ。
 
 足を踏み外す、その瞬間までは。
 
「でもさ、正面きって向き合う事を逃げてたら、いつかきっと後悔するよ? 彼の傍に自分以外の女が立つのを想像してご覧よ。どうよ?」
 いつになく穏やかな理奈の声が、志紀の胸の奥へと染み入っていく。
 しばしの間、志紀は身じろぎ一つする事も出来ずに、握りしめた両の拳をじっと見つめ続けた。