The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第六話 折返

 
 
 
 次の日からの連休を、志紀は、病み上がりを口実に家に引き籠もって過ごした。
 そして、明けて翌週。
 気がつけば暦も霜月、だがその気色けしきは先週までと何も変わらなかった。強いて言うならば、庭の広葉樹の梢が少々寂しくなり始めているといったところだろうか。だが、そういった変化さえ、決して断続的なものではない。
 緩やかに、繋がっているのだ。
 ヒトが暦を作り月日に名前をつけたのは、時の流れを管理するために他ならない。しかし、名を与えた事によって、ヒトはその言葉によって逆に縛られ始める……。
 ――言葉の、定義の、呪縛……か。
 そんな事をつらつらと考えながら、志紀は玄関の姿見の前に立つ。身だしなみをチェックするのと同時に忘れ物が無いかと頭の中を探る。
 ふと、鏡の中の自分と目が合った。
 考えなければならない事は山積している。自分の気持ちも、とても整理出来たとは言えない状態だ。それでも、もう逃げてしまってはいけない。仮に手遅れだったとしても、ならば尚更、今日は学校を休むわけにはいかない。志紀は決意を瞳に込めて、玄関のノブに手をかけた。
 
 先生の態度には何か……、齟齬がある。
 それが一体何なのか。知りたい。
 
 どん底まで落ち込んだ以上は、これ以上は沈み込みようがない筈。
「当たって砕けろ! って、砕けない程度に当たるってのが一番だけどね」そう豪快に笑う友の顔を思い出しながら、志紀は眩い秋の朝日の中に一歩を踏み出した。
 
 
 
 連休明けだから、というよりも、スーパーサイエンスの講演会当日だからなのだろう。妙に浮ついた空気が、朝一番から楢坂高校を満たしていた。
 会場となるのは、体育館兼講堂。直接出席するのは二年生だけだが、その様子は各教室に中継される事になっている。学内LANを利用して、音声のみではあるが一年生も三年生も質疑応答に参加する事が可能だ。
 放送局員の他、各クラス委員と理科系部員は講演会の準備にかり出され、朝から校内を走り回っていた。
 
 悲愴な面持ちで登校してきた志紀だったが、生憎と彼女は化学部員であるばかりか十組のクラス委員でもあったために、色々思い悩む間もなく、そのお祭り騒ぎの真っ只中に放り込まれる事となった。
 資料の配布に、中継の準備、進行の打ち合わせ。今日ほど、「生徒主導」という楢坂高校のモットーが恨めしく思った時は無い。割り振られた仕事をこなせばこなすだけ、新たに増える作業に、志紀は何度も溜息をついていた。
 朗に会いたい。
 会って、話をしたい。
 もっとも、言いたい事も訊きたい事も、未だあまりに漠然としていて、明瞭な形を成してはいない。放課後までには多少気持ちの整理もつくだろう、と、半ば出たとこ勝負に賭けていた志紀だったのだが、現状では落ち着いて思いをめぐらせる事すら不可能な有様だ。
 
 それに、問題はそれだけではなかった。
「おい、し……有馬」
「ゴメン、今、ちょっと、向こうに呼ばれているから」
 朝から、事ある毎に嶺が話しかけてくる。志紀を見かける度に、話をしようと駆け寄って来てくれるのだ。
 
 いつも私の事を気に掛けてくれる、私の大切な……幼馴染。
 だからこそ、いいかげんな気持ちで向き合いたくはない。きちんと応対出来る余裕が出来るまで、待っていて欲しいのに。
 精神的な要因を時間的なそれにすり替えてしまっている事に気が付かないままに、志紀は嶺をかわし続けるのだった。
 
 
 
 南校舎の西の端から、さらに西側に向かって体育館への通路が伸びている。その渡り廊下で、とうとう志紀は嶺に捕まってしまった。
「あ、ゴメン、今、これを体育館に持って行くところだから……」
「俺も手伝うよ」
「いいよ、大丈夫だから。それより嶺、あっちにまだ運ぶものが沢山あるよ」
「いいからいいから、遠慮するなって」
 視線を逸らし続ける志紀に気が付かないのか、彼は無邪気に彼女の抱えていた段ボール箱に手を伸ばそうとする。志紀は心持ち歩く速度を上げた。
 
 理奈の事だから、おそらく、「避けられてなんていないって。誤解よゴカイ。ヘンに気にせずに普通どおり話して来なよ」なんて嶺に報告したに違いない。志紀には、親友の口調から身振りまでが、目に浮かぶように想像出来た。
 そう、嶺は何も悪くない。でも、やっぱり嶺とは物凄く話し辛い。
 
 
 気付かれてはいない筈だった。電話越しの彼の声は、最後までいつもと変わる事なく、わざとらしいほどにぶっきらぼうを装いながらも、申し訳ないぐらいに志紀の事を気遣ってくれていた。
 そう。紛れも無く普段どおりの、日常がそこにあった。
 
 だが。電話のこちら側は、まさしく異界だったのだ。
 嶺の声が発せられる携帯電話を支えているのは、志紀の手ではない。背後から伸びる男の両手は、無機質な電話のボディを志紀の頬に押し付ける一方で、彼女の身体を容赦なく嬲り続けていた。
 そして、遂に志紀の中に侵入を果たす熱い塊。
 朗に激しく揺さぶられ、何度も最奥を突かれ、ただひたすら声を押し殺して快感に喘ぐ志紀の耳元を、嶺の声が震わせるのだ。まるで、すぐそばに彼が居るかのように。
 恐怖と嫌悪と、それを上回る官能に、志紀は何度も気を失いそうになった。ありえない事だと解っていながら、彼女の脳裏で妄想が枝葉を広げていく。
 
 先生とこんな事をしている私を、嶺が見ている……。
 嶺が見ている前で……先生が……。
 こんな……、嶺に見られながら……。
 
 荒唐無稽な白昼夢が、朦朧とした意識を侵食していく……。
 
 
 駄目だ。駄目だ駄目だ、思い出しちゃ駄目だ!
 四日前の記憶を振り払うべく、志紀は大きく頭を振った。
 先生の行為は、常軌を逸していると思う。でも、私自身も、それと同じぐらいかそれ以上に、変、だ。
 自分で勝手にいやらしい想像をして、それで余計に興奮するなんて。これでは、先生を責める事なんて出来やしない。
 そして、あろう事か、私はその罪悪感を嶺へ転嫁しようとしている。
 唐突に志紀は、嶺に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。思わず足を止めて、少し左後方を歩く嶺の方を振り返る。しかし、息苦しいほどの圧迫感を胸に感じ、志紀は再び前に向き直った。
 嶺の顔を直視する事が、彼女にはどうしても出来なかった。
 
「おい、志紀」
 黙って歩き始めた志紀を、嶺の声が打つ。その声音は、少しばかりの怒気をはらんでいた。
「何か言いたい事があるんだったら、言えよ」
 体育館まではあと数メートル。中では放送局員達が機材の最終チェックを行っている筈だ。一方、オープンエアーな場所とはいえ、今この渡り廊下にいるのは自分達二人きり。
 志紀は足を止めた。
「俺、何かお前を怒らせるような事をしたか?」
「別に怒ってなんかないよ」
「嘘つけ。じゃあ、なんでこっち向かないんだよ? 人にケツ向けて喋るなよ、馬鹿」
「ゴメン」
 もっともな彼の言い分に、志紀は素直に従った。視線だけは僅かに外して、嶺の方を向く。
「お前、この間から変だぞ。どうしたんだよ」
「そうかな?」
「俺の事、避けてるだろ」
「別に、そんなつもりじゃ……」
「嘘つけ」
 腕組みをして仁王立ちになる嶺は、志紀がこれまで見た事もないほどに威圧感を放っていた。
「今朝だって、お前、わざわざ電車一本見送ってただろ」
「そ、それは、ちょっと、あの時、気分が悪かったから……」
 苦し紛れな言い訳にもかかわらず、嶺は一瞬だけばつの悪そうな表情を作った。少し顔を伏せて「そうか。悪かったな」と、小さく呟く嶺の声に、志紀の良心がまたちくちくと痛む。
 しばしののち再び嶺が勢い良く顔を上げた。
「けど! 木曜日のアレは一体なんだったんだよ! 俺、学食前まで行ったんだぜ?」
 胸の痛みを押し殺しながら、志紀は、ただ黙って頭の中の抽斗を探る。
 嶺があの日の事を追求してくる事は容易に想像出来た。だから志紀はこの連休中、それに対する言い訳をずっと考え続けていたのだ。
「んじゃ、誰もいねえしよ。あんな短い時間で、ばら撒いた小銭拾い集めれたって言うのかよ」
「だって、一割渡すのイヤだったから……、必死で慌てて拾ったんだよ」
 志紀の想像した通り、嶺は先ず絶句し、それからなんとも情けない表情を浮かべて肩を落とした。
「お前なー、冗談と本気の区別もつかないのかよ……。俺はタカリか? そうなのか? 誰がそんな小銭の一割を本気でぶん取るってんだよ……」
「だって、そうメールしてきたの、嶺じゃん」
 掌にかいた汗が気持ち悪い。ダンボール箱がふやけてやしまわないだろうか。
 必死で平静を装うも、志紀の鼓動は早鐘のようだった。
「……分かったよ。小銭の件は俺が悪かった。でもよ、やっぱりお前、俺を避けてただろ?」
「別にそういうわけじゃ……」
「じゃあ、なんで普通に帰らない? すぐに追いつくだろ、って思ってたら、どこまで行っても見当たらねえし。駅まで走って帰ったか、それかわざわざ他の道を通ったか」
 学校から駅までは、距離はそこそこあるものの、見事なまでに一本道。嶺の疑問は至極もっともだ。
「ケータイも繋がらねえし、辺りはどんどん暗くなるし……」
 そこで嶺は大きく息を吸って、それから少し視線を逸らした。「……すっげ、心配したんだぞ」
「……ごめん」
 本当に、ごめん。
 心の底から頭を下げながら、志紀は言葉を搾り出した。
 嶺が大きな溜息をついて、それから静かに語りかけてくる。
「な。一体どうしたんだよ」
「…………ごめん」
「ごめん、じゃ、解らねえよ」
「………………ごめん」
「だから、それじゃ全然解らねえって。なあ、志紀、一体何があったんだ?」
「……何も、ない」
「嘘つくなよ!」
 
 遂に一転した嶺の剣幕に、志紀は思わず顔を上げた。
 二人の視線が、ここで初めて真っ向からぶつかった。怒りに彩られた攻撃的な嶺の瞳、そのさらに向こうに深い悲しみの色を読み取って、志紀の胸がズクン、と疼く。
 お願いだから、これ以上心配しないでほしい。
 もう、私の事は放っておいてほしい。
 嶺に優しくされる資格なんて、自分には無い。おのれの事しか考えていない、こんな酷い人間の事なんか、捨て置いてくれたらいい。何故かこみ上げてきた涙を必死でこらえながら、志紀はそう心の中で叫んでいた。
 そっと目を伏せ、非道を承知で一言を吐き出す。
 
「嶺には関係ない」
 
 ……これで良いのだ。いくら嶺が、小さい頃から私の我侭に付き合わされ続けて慣れてしまっているにしても、これで呆れ返るに違いない。
「…………ああ、そうかよ! 分かったよ!」
 苦渋の声色が怒りを帯びている。捨て台詞めいた言葉ののちも、嶺はしばらく逡巡しているようだったが、やがて舌打ちの音とともに上履きの音が足早に立ち去っていった。
 
 
 自分から突き放しておきながら、どうして涙が出てくるんだろう。
 あんな棘だらけの台詞を吐いておきながら、一体何を悲しむというのだろう。
 辛い思いをしたのは、私じゃなくて嶺の筈なのに。
 目尻から零れそうな雫を手の甲で拭ってから、志紀は顔を上げた。嶺の姿はもうどこにもない。
 切り替えないと。
 今は、自分に課せられた仕事をきっちりとこなさなければならない。悩むのはその後だ。
 
 体育館の中は音響の最終調整の真っ最中だった。上へ下への大騒ぎの中、志紀は誰にも涙の跡を見咎められる事無く隅の会議机の上に段ボール箱を置き、そそくさとその場を退出する。
 問題は、化学室に戻ってからだ。目にゴミが、で、皆を誤魔化せるだろうか。それとも、一旦トイレにでも避難した方がいいかもしれない。
 一度顔を洗って、気持ちを切り替えて、それから……。
 
「有馬さん、手が空いてるなら、こっちを手伝ってくれないかな?」
 驚いて志紀が顔を上げた先、渡り廊下の中央に柏木陸が笑顔で佇んでいた。