The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第六話 折返

 
 
 
 志紀の返答を待つ事なく、陸は渡り廊下をゆっくりと歩き始めた。是、とも非、とも応える事が出来ないまま、志紀は取り敢えず彼の後を追う。
 陸も、志紀と同じくクラス委員であり、化学部員でもある。いや、全理科系クラブを制覇している「兼部キング」な彼だから、そこらの一般部員よりも沢山の仕事を背負い込んでしまっている可能性は高い。手伝ってくれ、と名指しで言われた以上は、それに従うべきだろう。
 だが、つい先月、自分に告白してきた陸をフった志紀としては、どうにも彼の傍は居心地が悪くて仕方が無かった。
 恋破れたにもかかわらず、まるで何事も無かったかのように平気に振舞う陸に対して、フったこちらが変に意識をしてしまうというのは、とても失礼な事だろう。だから志紀も極力これまでどおりに彼に接するように努めていたが、心の奥底には依然として、なんとも言えない気まずさが澱のように溜まったままだった。
 
 やっぱり、教室に戻ろうかな。
 何の手伝いかは知らないけれど、別に私じゃなくとも構わない筈。
 そう思って口を開こうとした志紀の心を読んだかのように、陸が絶妙のタイミングで彼女を振り返った。
「講演会まで、もうあと三十分ほどだよ。急ごうか」
「あ……、うん……」
 完璧に出鼻を挫かれた形になった志紀には、最早曖昧に頷く事しか出来なかった。再び歩き始めた陸の背中に向かって、小さく溜息をつく。
 乾ききった涙で引きつれる目尻を袖口で擦り、志紀は気持ちを切り替えて、小走りで陸の後を追った。
 
 
 北校舎を左手に見ながら渡り廊下を直進すれば、さっき志紀が出てきた南校舎の開口部に到達する。その三メートルほど手前に渡り廊下の分岐点があった。
 南に向かって枝分かれした渡り廊下が向かう先には、図書室と視聴覚教室が入った特別棟があり、陸はそちらに向かって悠然と歩を進めていく。ひらけた校庭から一転して植栽が生い茂る中、この辺りの地名の由来と謂われるミズナラの巨木を回り込むようにして、二人は特別棟の玄関に到達した。
 ゆっくりとガラス扉を押し開いた陸に続いて、志紀も薄暗い校舎内へと足を踏み入れる。
 人気のない特別校舎。振り返れば、野趣溢れる植え込みが視界中に広がり、ミズナラの陰へと消える渡り廊下の構造物がなければ、ここが人里であることをうっかり失念してしまうほどだ。
「こっちだよ」
 上空から降ってくる声に急かされて、志紀は慌てて階段を上り始めた。
 
 特別棟の二階は、「メディアセンター」と名づけられており、オーディオ機器を備えた大、中、小、三つの教室が並んでいる。もっとも、名付け親の意向に反して生徒達はこの部屋の事を、「AV部屋」と、わざわざ思わせぶりな名称で呼んでいるのが常だ。
 陸は、ポケットから取り出した鍵を手に、一番奥まったところにある大教室へと向かう、……と、思いきや、彼はその手前の扉の前で立ち止まった。
「え? なんで? あっちのドアの方が近いのに」
 小教室の、階段から遠い方の扉を開けようとする陸に、志紀が当然の疑問を呈する。それに対して、陸は事も無げに返答した。
「こっちの方が都合が良いからね」
「都合?」
 ガチャリ、と金属質の音が廊下にこだまする。眉根を寄せる志紀を顧みる事なく、陸は一人さっさと教室に入っていく。
 
 そうだ、仕事、仕事。あまり時間が無いんだっけ。
 そう思い返した志紀は、少し歩調を速めて、陸同様に小教室の扉をくぐった。
 敷居を越えたと思う間もなく、引き戸が勢い良く閉じられる。何事、と戸口を振り返った志紀の左手首がむんずと掴まれ、そのまま彼女は扉脇の壁のところに磔よろしく押さえ込まれてしまった。
 壁にぶつかった肩甲骨が、押さえつけられた両手首が、疼くように痛い。一体何が起こったのか理解する事が出来ないままに、志紀は目の前に立つ上背のある影を見上げた。
 陸の笑顔には微塵の曇りも無く、志紀をただひたすら優しく見下ろしていた。
 
 
 これは一体、どういう事だ?
 驚愕のあまり停止してしまった思考に必死でエンジンをかけながら、大の字に壁に縫い止められた状態で、志紀は眼前の陸の端正なおもてを見つめ続けた。
「負け戦に固執するつもりはなかったんだけど、あんな喧嘩を見せ付けられちゃ、俄然やる気が出てくるな」
 にっこりと微笑んだその表情はあくまでも無邪気で、志紀は一瞬自分が置かれた状況を見失いそうになる。
「原田なんか、やめちまえよ。イイ奴なのは確かだけれど、有馬さんには似合わないと思うよ?」
 
 口の中に溢れてくる唾を飲み込みつつも、それでも志紀は必死で平静を装おうとした。
 冷静に、冷静に。
 もしかしたら、何かの冗談かもしれない。これからアクロバティックに話が講演会に繋がるのかもしれない。ヘタに刺激しないように、冷静に……。
「な、何か、手伝うんじゃなかったっけ? 手を離して貰わないと、何も出来ないんだけど……」
 わざとらしい溜息が、陸の口から漏れる。それでも、志紀の両手首を押さえる彼の手は一向に緩む気配は無い。
「そうだなあ、強いて言うなら、僕の気持ちを落ち着かせる手伝いをして欲しい、ってところかな」
「へ?」
「こんなに乱れた精神状態じゃ、仕事も何も出来やしないから……ね」
 掴まれた手首が、熱い。
 淡々と言葉を紡ぎ出す様子とは裏腹に、陸の掌はじっとりと湿り気を帯びていた。その熱気が手首を伝って、志紀の体温をも上げていくようだ。
「……ど、どういう事?」
「さて、どういう事だろうね」
 陸が悪戯っぽく口のを上げる。手首のいましめは、微塵も揺るがない。
「手を、放して」
「それはちょっと出来ない相談だね」
 そう言って、陸は更に志紀の眼前へと迫ってきた。
「ちょっと、やめて! やめてったら、柏木君!」
 肩幅よりも広く足を開かされた体勢、両手を押さえられ重心移動のままならない状態では、蹴りに力を込める事は難しい。それでも志紀は必死で足を交互にばたつかせる。
 
 彼の瞳。
 この視線は、先生と同じだ。絶対に逃さない、という決意を秘めた、暗い光。
 このままでは、危ない。なんとかして逃げなければ……!
 
 意を決すや否や、志紀は両足を同時に振り上げた。当然の如く、拘束された手首に全体重がかかり、さしもの陸もそれを支えきれずに手を放してしまう。自由を取り戻した志紀の身体が、そのまま床へと落下した。
 咄嗟に両膝を曲げてすんでのところでしりもちだけは免れたものの、壁にぶつかった背中と肩に衝撃が集中する。だが、痛みにぼやいている隙は無い。志紀は即座に身を起こそうとした。
「いや、流石は有馬さん。すっかり意表をつかれたよ」
 陸の大きな掌が、志紀の額を押さえ込む。勢い余った志紀の両手が大きく宙をかいた。
「ここを押さえられると、立ち上がることが出来ないんだよ。知ってた?」
 ならば。
 志紀はさらに身を沈め、陸の手から逃れようとする。
 舌打ちの音とともに志紀の額を押さえていた手が消え、その代わりに今度は両手が志紀の肩を鷲掴みにした。予想外の痛みに、志紀の全身から力が抜ける。
「やっぱり。無理をするからだよ。筋でも痛めたんじゃない?」
 頭を壁にもたせかけて半ば床に横たわる志紀を跨いで、陸は膝をついた。そのまま覆いかぶさるようにして、志紀の顔を見下ろしてくる。
もっとも、この体勢の方が、色々とありがたいけど」
 
「……何を、する気?」
 虚勢をはろうとしても、声が微かに震えてしまう。それでも、このまま大人しく彼の言いなりになるわけにはいかない。恐怖と怒りをない交ぜにした瞳で、志紀は思いっきり陸を睨みつけた。
「そんな感じで、アイツを突っぱねたわけ?」
 志紀の視線に怯む事なく、陸は涼しげな表情で語りかけてくる。「確か、近所同士なんだよね? アイツの家で? それとも君の家で? ホテルに連れ込む勇気がアイツにあるとは思わないし……」
「な……!?」
「でもね、アイツは大人しく引き下がったかもしれないけれど、生憎と僕はそんなに紳士じゃない」
 両肩に食い込む陸の指に力が込められる。志紀は愕然と、眼前の彼の顔を見つめ続けた。
 
 本気だ。
 彼は、本気で、私をものにしようとしている。
 
 今は授業中で、この特別棟にやってくる生徒はいない。ましてや、次の三校時からは年に一度の講演会だ。司書の先生も中継を見るために職員室に戻ってしまっている可能性は高い。
 そして、志紀と陸の姿が教室に欠けていても、化学室にいるのだろうとクラスの皆は考えるだろうし、化学室側では、二人は教室に戻ったのだろうと考えるに違いない。
 つまり、陸は誰に咎められる事もなく、志紀をこの場所に監禁する事が出来るのだ。それも、たっぷり二時間もの間。
 
 そんな、学校で、ありえない。何を考えているんだ、自分。色ボケするにもほどがある。
 志紀の大部分が恐怖におののく中、僅かな部分が必死に現実逃避をしようとしている。しかし、楽観が過ぎる考えは、次の瞬間に粉々に打ち砕かれてしまった。
 急速に接近する、陸の顔。思わず目を瞑る志紀。
 そして、彼女の唇が柔らかいもので塞がれた。
 
 
 キスされている、という事に気が付いたのは、陸の舌が志紀の唇を割って入ろうとしたからだった。志紀は、反射的に歯を食いしばる。
 陸の、やけに手馴れた口づけは、ともすれば場所と相手を志紀に錯覚させてしまいそうになる。呑み込まれまい、絡め取られまいと、志紀は必死で意識を眼前の陸から逸らそうとした。
 歯列に行く手を阻まれた舌は、我慢強くも歯茎を、唇の裏を蹂躙し続けていた。ねっとりと嬲るような舌先の動きに、堅固な城壁が微かに震えている。ありったけの力をふりしぼって、歯を強く噛み合わせる志紀の肩に、陸が突然爪を立てた。
 痛みと驚きとで志紀の口元が一瞬緩み、そこをすかさず柔らかい感触が狙い打つ。陸の舌が自分の内部に入り込んだ事を知り、志紀の全身が総毛立った。
 
 いやだ。来ないで。
 柏木君じゃ、駄目……!
 
 
 弾かれたように、陸が顔を離した。大きく肩で息をつき、それから挑戦的な瞳で志紀をねめつける。
「……今、本気で噛もうとしただろ」
「…………」
「原田には、キスを許したんだ?」
 
 違う。嶺でもない。
 志紀は小さく息を呑んだ。
 
 彼女の両目に涙が溢れてくる。
 こんなにも、先生が特別な存在だったなんて。こんな目にあって初めてその事が解るなんて、本当に私はどうしようもない。
 滲み始めた視界すらも、悔しさをかき立てるものでしかなかった。頬を伝い落ちる雫とともに、今まで志紀に纏わりついていた靄が溶けるようにして消えていく……。
 
「女の子を泣かす趣味は無かった筈なんだけど……、その表情、無茶苦茶そそられる」
 熱に浮かされたような陸の瞳に、志紀の背筋を震えが走った。
 両肩を壁に押し付けられ、両足は陸の脛でそれぞれ動きを封じられ、志紀はさながら展翅板の上の蝶のようだった。だが、おめおめと標本にされるのを待つわけにはいかない。
 出来る限りの抵抗を。ともすれば漏れそうになる嗚咽を押し殺しながら、志紀は陸を睨み返した。
「……無理矢理こんな事したら、嫌われる、って考えないわけ?」
「リスク・マネージメントだよ。もたもたしている間に、君が完全にアイツのものになってしまうぐらいなら、いっそ……ってね」
「それで嫌われたら、元も子もないでしょう!?」
 肩を掴む陸の両手を振り払おうとするも、肩口に痛みが走り腕が充分に上がらない。そんな志紀の様子を、至極満足そうに見下ろして、陸はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
 
「いいや。君は僕を嫌わない」
 
 思いもかけない彼の台詞に、志紀の目が見開かれた。
「僕と君は同類だ。心よりもまず頭で恋をする。同じ式を構築してやれば、同じ解が導き出される。式が違っていたとしても、変数を調整すれば、出てくるのはやはり同じ答えだ。って、本当ならこんな無粋な解説なんてしたくないんだけど、君には必要だろう?」
 ごくり、と志紀の喉が鳴った。
「式を触ろうか、変数を触ろうか。君の『解答』を原田から僕に変えてみせよう」
 本能的な恐怖感が、ひしひしと志紀に押し寄せてくる。それでも、挫けそうな心を必死で引き起こして志紀は足掻き続けた。
「機械じゃあるまいし、そんな事、出来るわけが無い!」
「経験からね、判るんだよ、気配が。僕が見る限り、普段の君は限りなくニュートラルな存在だ。だからこそ心の奥底では、何処かに、誰かに、所属……いや、隷属したい、と思っている。違うかい?」
 陸の顔が至近に迫る。耐えきれずに志紀は顔を横へ向けた。
 その耳元に、熱い息がかかる。
「自覚していないのなら尚更、そのスイッチを入れてあげるよ、僕が」