The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第六話 折返

 
 
 
 生暖かいものが、ねっとりと耳たぶを這い回り始めた。生き物のように蠢く陸の舌が、卑猥な水音を響かせる。
 志紀の首筋を、ぞわぞわと痺れが這い登っていく。嫌悪感と同時に身体が熱くなるのを感じ、志紀は無我夢中で頭を振りたくった。
「い、いや……っ、やめてっ! 私の本心が何だか知らないけれど、だからって、どうしてこういう事になるわけ!? 変な理由つけて正当化しないでよ!」
「心外だなあ。したい、ってだけなら、幾らでも他で済ませるよ。その方が後腐れも無くて気楽だしね」
 首を振って暴れる志紀を呆れ顔で見つめて、それから陸は唐突に彼女の両肩を解放した。
 驚いた志紀の動きが止まる。思わず顔を上げた先、陸と真正面から視線が合った。
「君が、欲しいんだ。他の誰かじゃない、有馬志紀を僕のものにしたい」
 
 たっぷり一呼吸の間、志紀は動けなかった。
 見たこともないような、真摯な陸の表情。その瞳は、無限を謳われた淵のようで、志紀の魂をずるずると奈落へと引きずりこんでいこうとする。
 
 駄目だ!
 違う。彼じゃない。
 ようやく巡り始めた思考の元、志紀は両手を突っぱねて陸を押しのけようとした。
 だが、陸は易々とその手を掴み取った。志紀の両手首を束ね、そのまま志紀の頭上の壁に左手一つで縫いとめる。
「……痛……っ!」
「自分の行為のリスクぐらい、充二分に理解しているさ。理解したうえで、賭けに出てるんだよ。それこそ、いいかげんな気持ちで抵抗されたくないな」
 陸の右手が、志紀の顔へと伸びてきた。熱を帯びた指が手触りを確かめるかのように、つうっと頬を撫でる。
 頬から顎へ、顎から首へ。素肌の感触を存分に楽しんでから、その指はブラウスの上を滑り始めた。襟元からタイをなぞって胸元へ……。
 遂に陸の掌が、そっとふくらみを捉えた。思わずびくんと身体を震わせる志紀に、彼の口角が微かに上げられた。
 
 息が、あがってくる。
 押さえつけられた手首が、足が、痛い。両肩もずきずきと疼いている。なのに、それを上回る別な感覚が、胸から全身に広がりつつあった。
 まるで生き物のように、陸の指がブラウスの上を這い回っている。柔らかい感触を楽しむように軽く揉んでみては、掬い上げるようにしてこねる。時折先端を掠める指使いに、つい声を漏らしてしまい、志紀はきつく唇を噛んだ。
「状況が許すなら、もう少しスマートな手段を選びたかったけどね」
 志紀の反応に気を良くしたのか、陸は胸の頂点を集中的に撫で始めた。指先で探るようにして、敏感な箇所を何度も何度も刺激する。声を出すまいと、志紀は必死で歯を食いしばり続けた。
「それに、ね。有馬さん。君みたいに誰かに支配されたがっている人間がいるように、世の中には誰かを支配することに喜びを感じる人間がいるんだよ」
 目を閉じていても、陸の声音に溢れる喜色は鞭のようにしなって志紀の心を打つ。ねっとりとした熱の塊が、身体の内部で蠢き始める。
「そう。好きな相手にこういう表情をさせたくて仕方がない、そういう人間が、ね」
「……ん……っ!」
 服の上から先端を抓られて、志紀の身体が大きく波打った。
 陸の目が、更に細められる。
「すっごく気持ち良くさせてあげるよ。最初は抵抗あるかもしれないけれど……、大丈夫。すぐにやみつきになるさ……」
 
 
 突然、麻布を引っ掻くような耳障りな雑音が、部屋中に響き渡った。
 天井近くに備え付けられた校内放送のスピーカーが吐き出すその音は、やがて、マイクを人の息が掠める音にとって代わられる。導入のチャイムが鳴らなかったという事は、職員室からの放送なのだろう。
「えー、三年八組の柏木君、三年八組の柏木君。至急地学室まで来てください」
 山口教諭の淡々とした声が、同じフレーズを三回繰り返して、スピーカーは再び黙り込んだ。
 
 陸の動きが止まり、志紀はそっと瞼を上げた。
 彼は何かを考え込んでいるようだった。志紀の両手両足を拘束したまま、どこでもない一点をじっと見つめて、黙り込んでいる。
 一筋の光明が差し込むのを感じて、志紀は祈るような視線を陸に注ぎ続けた。
 
 ……だが、陸は再び志紀の胸を弄び始める。
「か、柏木君……!?」
「大丈夫。呼び出される理由なんて考え付かないし、それに、もう講演会が始まる時刻だ。先生も僕の事に構っている余裕なんてすぐに無くなってしまうさ」
 静けさを取り戻した室内、絶望のあまり志紀は大きく息を呑む……。
 
 
 それは、微かな音だった。
 何かが打ち合わされるような硬質な音。志紀はこの音に聞き覚えがあった。先刻、陸の後についてこの校舎に入った時の、玄関のガラス扉が閉まる音。
 舌打ちの音に意識を前に戻せば、忌々しそうな表情で陸が身を起こすところだった。同時に、志紀の身体が自由を取り戻す。
「くそ。あり得ない」
 闖入者は、靴音も高く階段を上ってくる。血の気を失うほどにきつく唇を噛みながら、陸はすっくと立ち上がった。
「……有馬さん、立てる?」
 差し出された手を思わず掴んでしまって、志紀は激しく後悔した。
 そうだ、思いっきり睨みつけて、この手を引っ叩いてやれば良かったのだ。この期に及んで、どうして私はこんな風に状況に流され続けているのだろう。不甲斐無いにもほどがある……。
 諾々と陸に引き起こされながらも、志紀はおのれの情けなさに腹が立って仕方が無かった。が、そんな彼女の気持ちなど欠片かけらも意に介せずに、陸はご丁寧にも志紀のスカートの皺を伸ばして埃まではたいてくれている。臆面もなく「大丈夫?」などと微笑みかけてくる。
 靄に包まれていた思考が徐々に冷静さを取り戻し始め、それと同時に、志紀の胸中で憤怒の炎が火勢を強めてきた、その時。扉を叩く音が辺りの空気を問答無用に震わせた。
 
 
 
「誰かいるのか? ここを開けなさい」
 静かな、だが容赦のない誰何すいかの声は、朗のものだった。
 怒りに震えていた志紀の全身から、一挙に力が抜けていく。
「前の方の扉が開いていますよ、先生」
 いつの間にか戸棚の前に移動していた陸が、いつもと変わらぬ調子で、扉の向こうの影に語りかける。
 成る程、わざわざ遠い扉を使ったのは、ほんの僅かでも時間稼ぎをするためだったんだ。すっかり気の抜けてしまった頭で、志紀はぼんやりと考える。ひとけのない教室の扉を施錠して何をしていたんだ、と咎められる事もなく、かといって、秘め事の最中にいきなり扉を開かれる事もなく。小賢しい事この上ない。
 朗の影は、心持ち小走りでさらに廊下を進んできた。勢いよく扉を開き、それから大きく溜息をつく。
 志紀の胸の奥に、熱いものがこみ上げてきた。安堵のあまり泣き出しそうになるのを必死でこらえ、志紀は朗に向かって小さく一歩だけ踏み出す。
 一方陸は、一束の電源ケーブルを戸棚から取り出すと、にっこりと朗に微笑みかけた。
「これを取るには、こっちの扉の方が近いですからね」
 いけしゃあしゃあ、とはまさしくこういう事を言うのかもしれない。「講堂の設営に足りないかもしれないと思って取りにきたんですけど、もう必要無いのかな。それよりも、どうして先生はここに?」
「ここの鍵が一つ足りない事に気が付いたから、確認に来た。柏木、山口先生が呼んでいるぞ」
 そう言って、朗は部屋の中へと歩を進める。能面のようなその表情からは、何の感情も読み取る事は出来ない。
「ええ、知ってます。今から向かおうとしていたところです」
 陸のポーカーフェイスも、決して負けてはいなかった。ズボンのポケットから視聴覚教室の鍵を出すと、すれ違いざまに朗に手渡す。さっきまでの出来事が幻だったかの如く、彼は涼しげな表情で扉をくぐっていった。
 
「柏木」
「なんですか?」
 廊下で振り返った陸に、朗は事も無げに言葉を投げた。
「女遊びはほどほどにしておけ。本命が泣くぞ」
 その言葉に、みるみるうちに陸の頬に朱がさす。普段の彼からは想像もつかないほどに動揺した瞳で志紀を振り返り、それから拳を固く握りしめた。
 次に陸が朗に投げつけた視線には、凄まじいまでの怒りが込められていた。たっぷり数秒の間、彼は微動だにせず朗をねめつけ続ける。
 
 やがて、陸は大きく肩を落とすと、静かに瞼を閉じた。
「あーあ」
 大きな溜息。それからゆっくりと目を開き、陸は志紀に笑いかけた。生気の抜けた瞳があまりにも痛々しくて、志紀は思わず息を呑む。
「じゃ。……さよなら、有馬さん」
 
 悄然とした背中が、扉の向こうへと消えていく。志紀は身動き一つする事が出来ずに、ただ黙って遠ざかる足音を聞いていた。
 
 
 
 三校時が始まるチャイムが、鳴り響く。
 カーテンの開けられた化学準備室、梢が寂しくなり始めた広葉樹の枝の隙間から、体育館へと向かう二年生の列が見えた。視線を巡らせば、あの特別棟へ連なる渡り廊下の分岐も、植栽の陰に見通す事が出来る。
 志紀は、じっと窓の外を見つめたまま、静かに口を開いた。
「助けに来てくれたんですね、先生」
 ゆるりと室内に戻った彼女の視線の先では、朗が本棚から取り出した専門書を開いて、ただ黙ってページを繰っている。志紀に背を向けたまま。
 
 陸が視聴覚教室を退出した後、朗もまた無言でその場から立ち去っていった。独り取り残された志紀は、どうすればよいのか解らないままに、慌てて白衣の背中を追いかけ……、そして今、二人はいつものこの部屋にいる。
 陽の光が差し込む、明るい、化学準備室に。
 
「……視聴覚室の鍵を返しに行かなければ」
 沈黙を守り続けていた朗が、独り言のように呟いた。まるで志紀の姿が見えていないかの如く、一顧だにせず、彼女の前を通り過ぎる。
 志紀が黙って見守る中、化学室へと通じる扉の手前で朗は足を止めた。
「さっさと教室に帰れ。原田が心配するぞ」
 朗の意識がようやく自分に向けられた事に、志紀は素直に顔を綻ばせた。そうして、微かに憂いを込めた瞳で朗の背中を見つめる。
「先生、どうして、そんなに嶺の事を気にするのですか?」
 しばしの間、朗は身動き一つしなかった。
 完全なる静寂の中、微かに朗の拳が握りしめられ、それから振り返る事なく言葉を搾り出す。
「あいつは……、お前の事が好きなんだそうだ」
 志紀は、そっと瞼を閉じた。
 志紀の脳裏に、得意げな笑みを浮かべる理奈の顔が浮かび上がる。結局のところ、周りが見えていなかったのは私一人だけだという事なのだろうか……。
 自嘲の念に苛まれつつ、志紀は外界に再び意識を戻す。
「それは、幼馴染として……」
「本気でそう思っているのか」
「はい。そう思っていました」
 大きく嘆息して、朗はようやっと志紀の方に顔を向けた。
「……普通は見れば解りそうなものだがな。奴はお前を女として欲している。お前の事を、本当に大切に思い、お前を傷つけまいと自制しているのだ」
 それだけを一気に言い切ってから、朗はもう一度溜息をつく。
 
 チタンフレームの奥の深茶の瞳。いつになく穏やかな色を湛えるその眼差しを覗き込もうとして、志紀は朗が自分を見ていない事に気が付いた。
 朗の視線は自分を通り過ぎて、どこか遠くに注がれていた。物理的な距離ではなく、もっと精神的な、いや、時間すら超越した、志紀の知らない遼遠の彼方あなたに。
 それは、あの時と同じ眼差しだった。合宿は夜の神社での逢瀬にて、学生時代の思い出を楽しげに語っていた、あの時の朗と同じ眼差し……。
 
「そういう事だ。お前は自分の世界に帰れ。ここはお前の居るべきところではない」
 僅かに視線を逸らして、朗はそう吐き捨てた。
「さっきので、もう、懲りただろう? 柏木も、私も、大して変わりはない。いや、まさしく同類だ。泣いて『嫌だ』と訴えるお前を、無理矢理犯すような……、な」
 
 
 志紀の胸の奥で、コトリ、と何かが転がった。転がって……、それは最奥のに、コトン、と嵌り込む。
 
 自分は酷い男だ、と。
 一緒に居ては良くない、と。
 だから、もっと大事に扱ってくれる人間を選べ、と。朗はそう言っているに他ならない。
 それは、とりもなおさず、私を大切に思ってくれているという事ではないのだろうか……?
 
 ――君が、欲しいんだ。他の誰かじゃない、有馬志紀を僕のものにしたい――
 陸の囁き声が耳に蘇る。
 視聴覚教室の窓の外のミズナラを背景に、志紀に注がれるあの瞳。暗い情熱を秘めたあの光の向こうに、志紀は朗の姿を思い描いていた。
 
 ――柏木君って、先生に似てますよね――
 朗自ら「同類」と言わしめた、同じ気配を持つ二人……。
 
 
 志紀がゆっくりと背筋を伸ばした。
 大きく息を吸って、真っ直ぐに朗を見る。
「先生は……、私を、どう思ってらっしゃるのですか?」
 りん、と空気を震わせたその声にいざなわれるようにして、朗が志紀を見やる。
 驚いているのだろうか、呆れ入っているのだろうか。これまで、志紀はこんな無防備な表情を浮かべる彼を見た事がなかった。静かに志紀が見つめる中、朗はしばしの間、ただ無言で立ち尽くし続ける。
 
 やがて、再び朗は志紀からおもてを逸らせた。
 何も答えないままに、ドアノブへと手を伸ばす。
 何も――否定の言葉を――発しようとしないままに。
 
 それで充分だ。
 
「先生……、答えをいただく代わりに、一つだけ私のお願いを聞いてもらえますか?」
 錆付いた機械の如く、ぎこちない動きで朗が振り返る。
 溢れる涙を拭おうともせずに、志紀は静かに彼に微笑みかけた。
 
 
 
< 続く >