The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第七話 終点

 
 
 
 外部から切り離されて造り出された世界。「内」と「外」の境界にある空間。
 それは彼岸と此岸しがんを分かつあの川に似ていた。
 
 だが、「ここ」は流れ去ることなく容れ物としてこの場に留まり続けている。
 よどみのように。
 
 
 
    第七話   終点
 
 
 
 一体、どういうつもりなのだろうか。
 あの日以来、朗は何度もこの問いを胸のうちで反芻し続けていた。
 
 二週間前。
 底知れぬ自己嫌悪にさいなまれたあまりに朗が選び取った選択肢は、諦める、というものだった。
 有馬志紀を、諦める。
 彼女から手を引けば、全ての苦しみから逃れる事が出来るだろう。交わす言葉に、触れる肌に、そしてあの瞳に、もう千々に乱される事もない、以前の通りの安穏な日々に戻る事が出来るのだ。
 逃げている、そういう自覚は朗自身にもあった。だが、彼はそれ以上思考を掘り下げようとはしなかった。志紀という存在に全てを転嫁させて、更なる考察をオミットした。何が、自分を悩ませているのか。何が、自分を苦しめているのか。何故、自分は悩み苦しんでいるのか。それらを考える事を無意識のうちに放棄してしまっていた。
 それこそが逃避に他ならなかったが、その事実にすら朗は気付いていなかった。
 
 あの翌日、志紀が学校を休んだ事を知り、朗の胸は痛んだ。
 志紀の欠席は間違いなく自分のせいだろう。だから、こんなにも心苦しいのだ。……朗の自己分析はそこで停止した。
 これ以上はだ、考えるな。微かな内なる声にいざなわれるままに、朗は結論付けたのだ。「志紀を諦めよう」と。ならば、こんなにも辛い思いをする事もなくなるだろう、と。
 
 
 一体、彼女はどういうつもりなのだろうか。
 愛車――と言うには少々みすぼらしい、学生時代に知人から安く買い受けた古い車――に乗り込みながら、朗は本日既に何十回目となる独白を漏らしていた。
 
 ――一度、学校の外で会えませんか?――
 はらはらと涙を流しながら、志紀は朗にそう言った。自分を散々弄んだ挙句に放下ほうげしようとする男に対して、彼女はただそれだけを要求してきたのだ。
 最後の思い出作りとでもいうのだろうか。志紀がそんなに感傷的な女だとは、思ってもみなかった。いや、そもそも彼女に、この私に対して何か思い入れがあろう筈がない。
 胸に浮かび上がった淡い期待を即座に一蹴しつつも、朗は頷いた。
 
 休みの日で良いか。
 勿論です。
 来週は大学に顔を出さなければ。
 先生の都合の良い時でいいです。
 ならば、再来週に。
 
 淡々と重ねられた会話ののちに、二人はそれぞれ化学準備室を後にした。それ以来、彼らが二人きりで言葉を交わす機会は、一度として訪れなかった。
 
 
 日時を記した送信済みメールを確認して、朗は携帯電話を閉じた。大きく息を吐き、イグニッションキーを回す。
 本当に彼女はどういうつもりなのだろうか。今度ばかりは、本当に訳が解らない。彼女の意図を推し測ろうにも、どうやっても思考が袋小路に行き着いてしまうのだ。
 
 ふと。
 アパート前の狭い駐車場、ゆっくりと車を発進させながらも、朗は引っかかるものを感じて、再度思索の糸を手繰り寄せた。
 
 ――……今度ばかりは?
 
 そうだ。今度ばかりは、本当に訳が解らない。答えを出そうとしていないのではなく、答えが出てこないのだ。
 
 ――答えを出そうとしていない?
 
 不愉快な結論に至るであろう考察を回避するのは、自己防衛として当然の事ではないだろうか。
 だから、打ち切った。
 だから、停止させた。
 答えが出ないように、考える事を止めたのだ。
 
 朗の右足に思わず力が入り、徐行していた赤いコンパクトカーは跳ねるようにして急停車した。駐車場の出口付近の歩道で、犬を散歩させていた中年の男が、酷く驚いた身振りでこちらを振り返っている。
 朗は、ハンドルを握るおのれの手を、愕然と見つめ続けた。
 
 
 
 随分、気合が入っているじゃない? そう揶揄する母を適当にかわしながら、志紀は最後のチェックに玄関の姿身の前に立った。
 気合といっても、服装自体は至極普段通り。黒のジーパンにチャコールグレイのカットソー、胸元にはお気に入りのフィッシュモチーフの銀のペンダント。昨日奮発したばかりの、所謂いわゆる「新作」ジャケットを早速着込んでいるからか、それともいつもよりも少し濃い目のリップを見咎められたのか、我が母の慧眼に少し畏れを抱きつつ、志紀は鏡像の自分としばし睨み合った。
 
 
 ――お前は自分の世界に帰れ――
 そう突き放した以上は、先生は多分何も応えてはくれないだろう、そう志紀は考えた。たとえ気まぐれだったにせよ、本当に遊びだったにせよ、もしかしたら……本気だったにせよ、袂を別つと決めた以上は、絶対に。
 だから、朗から否定の言葉が返ってこなかったという事だけで充分だったのだ。
 確かに、志紀に残された命綱は僅かそれだけであったが、彼女はその頼りない一本のロープにしがみ付く事にした。全身全霊の力を込めて、それを上っていく事を決めたのだ。しつこい女だ、と思われているかもしれない。でも、この綱から手を離すわけにはいかない。ここで離してしまったら、本当に全てが終わってしまう。
 
 二人で逢っているところを誰かに見られたら、先生は途方も無い窮地に立たされる事になるだろう。それでも、今日、二人で会う事を承諾してくれたという事は……。
 
 こんなリスクを負うに値する価値を自分に見出だしてくれている。そう思うと、志紀の胸の奥は燃えるように熱くなった。
 それに、志紀はどうしても朗とゆっくりと話がしたかったのだ。朗に自分の気持ちを伝えたかった。たとえ、何も応えが返ってこないのだとしても。
 
 他人の心を試してしまったという嫌悪感と罪悪感は、心の奥底でずっとくすぶり続けている。それでも、志紀は今日という日を素直に喜ぶ事にした。
 よし。当たって砕けろ、だ。鏡の中の志紀が大きく頷いてみせる。
 玄関の扉を押し開けば、からっ風が勢い良く家の中へと吹き込んできた。あわてて手櫛で髪を整えてから、志紀は晩秋の空気の中へと一歩を踏み出した。
 
 
 
 志紀の家から少しだけ離れた、駅行きとは違う路線のバス停。マイナーな路線らしく、休日は日に数えるほどしか便数が無い。その鄙びたバス停に、小柄な赤い車が停まっている。
 
 運転席のシートに身を預け、朗はおのれの頭の中をひたすら探り続けていた。掘っても掘ってもさらさらと崩れ戻る砂地を相手にするような、まるで手応えの無い徒労にも似た作業を。
 自分は、志紀を手放したくないと思っている。そこまでは簡単に発掘する事が出来た。その先に壁がある。いや、壁と言うよりも、何か複雑に絡まりあった木の根のようなものが行く手を阻んでいるのだ。とても深い、遠いところから伸びている、古い根張りが。
 表層的な解答は、いくらでも帰納的に導き出せるだろう。例えば、こうだ。「私は有馬志紀を欲している」……と。
 だが、それでは結局は思考停止と何ら変わりが無い。その周囲にもやもやと纏わり続けるなにものか、その正体を……。
 
 
 窓ガラスをノックする音で、朗の夢想は破られた。
 助手席の窓の向こうに、志紀が立っている。おそらく本人は何気ない風を装っているつもりなのだろうが、とってつけたように周囲を警戒する様子があまりにも微笑ましくて、朗は思わず小さく笑みを漏らしてしまった。
 
 そうだ。私は、今日のこの日を、心密かに楽しみにしていたのだ。
 
 行く手を阻む網の目が、一つ、ほぐれた。
 微かに頬が緩むのを自覚して、慌てて朗は助手席から顔を背ける。そこへ志紀が風とともに滑り込んで来た。
「先生、おはようございます」
 
 会いたい、と彼女の方から言い出したという事は、ほんの僅かであれど自分は彼女に必要とされているのだろう。
 どんな形であれ、求められているという事実があるのなら、もう、それでいい。それ以上を求めるから、傷つくのだ……。
 
「おはよう、志紀」
 一つ、一つ、心が解きほどかれていく。
 改めて意識をおのれの外部に向け、朗はゆっくりと志紀に視線を戻した。
 
 
「さて、どこに行こう?」
 問いかけられた志紀は、刹那目を丸く見開いて、それから少しばかりばつの悪そうな表情を作った。
「……どこでもいいです。先生の都合の良いところで」
「君の意図が解らない事には、決めようがないのだが」
 平静を装ったものの、朗の掌はじっとりと汗をかいていた。二週間前におのれが吐いた言葉を心底後悔しながらも、今更それを取り繕う事も出来ずに、ただ黙って志紀の次の言葉を待つ。
 志紀は、少しだけ何かを逡巡し、そして頬を赤くして俯いた。
「その……、あの部屋だと、落ち着いて話す事も出来ないから……」
 自分から別れを切り出しておきながら、彼女の言葉がそれに準ずる言葉ではなかった事に、朗は心から安堵した。溜息をなんとか押し殺しながら、そっと深呼吸をする。
 彼女がどういうつもりなのかは依然として解らないが、今はこの逢瀬を楽しむ事にしよう。
「そうか?」
「そうです」
「……そうだな」
 ふむ、と大げさに考え込んだ朗の脳裏に、ふと懐かしい記憶が浮上してくる。
 木々を抜け、吹き渡る風の音。
 確かあれは、丁度今の季節の事……。
 
 今日一日ぐらいは、感傷に浸るのも悪くないだろう。
 朗は姿勢を正すと、車のエンジンをかけた。後方を確認しながら、注意深く車を出す。
「乗物酔いは心配ないか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「少し、遠出をする」
 車の流れに乗った赤いボディが、ほんの少しスピードを上げた。