The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第七話 終点

 
 
 
 市街地を抜けた朗の車は、隣県へと進路を向けた。片側二車線の立派な国道が、県境の山肌に緩やかなカーブを描いている。
 車窓を走る景色を、志紀は無言でぼんやりと眺めていた。
 
 実に二週間ぶりの、二人きりの時間。
 部活や授業で言葉を交わす事は何度もあった。しかし、他人を交えての「教師」と「生徒」の会話など、たかが知れている。
 もっと話がしたい。朗と視線が交差する度に、志紀はそう思わずにはいられなかった。
 触れ合えなくてもいい。傍にいて欲しい。
 私の傍らで、私だけを見つめて、そして……、笑いかけてくれたら……。
 
 叶わないと思えば思うほど、想いは募り続ける。これまでの人生からは信じられないほどのロマンチストぶりを発揮する自分と、朗に対する気持ちを周囲に悟られないように必死で表を取り繕う自分。そのギャップを持て余しながら、志紀は煩悶たる二週間を過ごしてきたのだった。
 もっとも、嶺をして「解り易過ぎ」と評されるだけあって、どんなに平生を装おうとも、自分が何か落ち込んでいるらしい事は、理奈をはじめとする身近な友人――特にクラスの女友達数人――にはどうやらバレバレのようで、放課後、数日おきに誰かが志紀に声をかけてきてくれた。雑誌で紹介されていたというケーキ屋でタルトを頬張り、カラオケで熱唱し、小洒落た雑貨屋を冷やかし、「受験生もたまには息抜きしないと!」とうそぶきながら、自分を気遣ってくれている友人達の存在が、志紀は愛おしくてたまらなかった。
 何か言いたそうにしながらも、何も聞こうとしない理奈達。自分が今置かれている状況を、彼女達に隠し通さなければならないという事に、志紀は後ろめたさを感じずにはおられない。
 でも、言うわけにはいかない。知られてはいけない。
 
 せめて理奈には、いつか本当の事を話したい。
 来るのだろうか、そんな日が。
 仮にそんな日が来たとして、その時自分はどんな顔をして理奈に話すのだろうか。辛い過去を振り返りながら? それとも……。
 
 
 峠の手前で、車が急に減速した。物思いに耽るあまり弛緩しきっていた志紀の身体は、大きく前へ倒れこむ。
「わわっ」
「すまないね」
 前を見つめたまま、朗が詫びの言葉を漏らした。そして、再び沈黙。
 つられたように志紀が前を見れば、車の列が上り坂の天辺を越えるようにして繋がっていた。渋滞なのかな、と眉を顰める間もなく、前方からブレーキランプの赤い光が消えていく。単なる信号待ちだったようだ。
 再び動き始める窓の外から視線を外し、志紀はそっと右を向いた。
 
 出発して以来、朗は無言でハンドルを握っている。
 機嫌が悪いのかな、それとも何か気まずく思っているのかな、と最初は少しどぎまぎした志紀だったが、その表情が決して険しいものではない事に、彼女はひとまず安心する事にした。
 眼鏡のフレームの陰から覗く瞳は、真っ直ぐ前を見つめている。その視線が、時折近景や手元にシフトしては再び遠くへと注がれるのを、志紀は黙って見つめていた。肩のラインは随分リラックスしているように見える。
 多分、運転と同時に何か考え事をしているのだろう。
 実験中、生徒から投げられた質問に答えるほんの一瞬に、朗はこんな表情を見せる事があった。手元の作業に注意を払いつつ、次の手順を考えながら、更に質問の答えを模索しているのに違いない。
 今、先生の頭の中では何人の先生が働いているのだろうか、そんな事を志紀はよく思ったものだった。どんな問いにも、先生は即座に明確な答えを返してくる。多分、私なんかよりもずっと、頭の中が整理されているのだろう、と。パラレルに存在する複数の思考に対して、役割分担がきっちりとなされているのだ。
 なんて凄い人なんだろう。志紀が朗をそう評価し始めたのは、いつの頃からだったか。筋道立てて物を考える事だけが取り得の、すこぶる効率の悪い頭、と自認していた志紀にとって、朗は尊敬と憧れの対象であった。だから、化学部の部長に選ばれた時は本当に嬉しかったのだ。彼の傍で彼の手伝いが出来る事を、誇らしくさえ思っていたのだった。
 
 敢えて乱暴な言い方をすれば、楢坂高校には「落ちこぼれ」はまず存在しない。どんなに成績が悪くとも、本人がそれを「落ちこぼれ」と認識する事は稀だった。別に数学が出来なくても良いじゃないか、自分には他の教科がある。芸術やスポーツ、はたまた高校生クイズでもいい、中には根拠の無いものも混ざってはいるが、とにかく彼らは不必要なほどに自信に満ち溢れていた。そのあたりが、楢坂生が周りに「変人」と称される一因かもしれない。
 なんにせよ、そんな変わり者が多い環境では、問題児も問題児足り得ない。そんな訳なので、教える側としても、生徒指導に躍起になるような先生は皆無に等しかった。
 自分の研究分野をちょっと生徒におすそ分けする学者先生、退官間近で趣味で教鞭を握っているとしか思えない老先生、などなど、教師陣の大部分がベテランで占められる中、若手の教諭は男女関係無く生徒達に人気であった。尤も、そこには「教師」というよりも「先輩」という感覚が存在しているようだったが。
 
 朗は、その中では少し特殊だった。決して「教師」の枠から踏み出そうとしない朗の態度は、多くの新入生を一学期の間にふるい落としてしまう。化学部の幽霊部員のうちの何割が、そうやって朗の見た目につられた結果なのだろうか。
 
 つらつらと思考を迷走させながら、志紀はなんとはなしに朗の横顔を眺め続けていた。
 意志の強そうな眉、涼しげな眼差し、すっと通った鼻、引き締まった顎。
 眼鏡の位置を直す時の指使いも、微笑む直前に少し口角を上げる仕草も、もう目を瞑っていても思い起こす事が出来る。
 
 不思議なものだ。
 訊きたい事、喋りたい事があんなに沢山あった筈なのに、こうやって二人の時間を手に入れる事が出来た途端に、どうでも良くなってくるなんて。
 つい、当初の意気込みを忘れそうになってしまう志紀の脳裏で、理奈の声が響き渡る。
 ――彼の傍に自分以外の女が立つのを想像してご覧よ――
 
 そんなのは、絶対に嫌だ。
 もしも叶わぬ望みだったとしても、それでも気持ちだけは伝えたい。迷惑だとしても。エゴでしか過ぎなくとも……。
 
 でも。
 もう少しだけ。
 今は、このまま穏やかな時間を過ごしたい。許されるのならば今日一日、ただ傍にいたい。
 志紀は再び、流れ行く窓の外へと視線を戻した。
 
 
 
 山を越えて隣県に入った車は、市街地を抜け更に先へと進み行く。いつしか進路は国道を逸れ、車通りの割りに綺麗に整備された県道を辿っていた。
 ところどころに田圃の広がるのどかな風景の中、カントリー調の洋食屋へ昼食に立ち寄った後は、特にどこかへ寄り道する事も無く、朗はひたすら赤い車を走らせ続けている。
「どこへ行くのか、訊かないのかね?」
「だって、教えるつもりがなかったら、訊いても絶対に教えてくれないでしょ? で、教えるつもりがあるならば、もうとっくに先生の方から言ってくれていると思うし」
「……違いない」
 先程のランチが思いのほか美味しかったためだろうか、いつの間にか二人の口は幾分軽くなっていた。当たり障りのない会話とはいえ、微かな笑い声も時々交ざり始めている。
 何事も無かったかのような、平和なひととき。
 ほんの少しでも均衡が狂えば崩れ落ちてしまいそうな、バランスゲームの半球に積まれた積木の如く危なげな気配を孕みながらも、二人は静かにお互いとの距離を測ろうとしているようだった。
 
 
 出発してから二時間近く走り続けただろうか、いつしか道路の両側には木々が生い茂り始めた。緩やかな勾配の山道を、車は走る、走る。
 ゆったりと蛇行するアスファルトにいざなわれる事、十五分。唐突に目の前が明るくなり、目の前に広大な空間が広がった。
 
 四方を低い山に囲まれたそこは、大きな公園だった。
 ぐるりと見渡せる谷全体が、野芝の敷き詰められた草地となっている。ところどころに植えられた広葉樹の落ち葉と、そこかしこで咲く小さな野草の花とが、色あせた藁色の芝生に彩りを添えていた。
 花崗岩を敷き詰めた駐車場には、数台の先客が停められていた。それらから少し離れた位置に車を停めて、朗はゆっくりと志紀の方に向き直る。
「ここだ」
 開いた車のドアから、風が勢いよく吹き込んできた。
 
 
 公園の入り口に据えられた大きな石には、ぞんざいな書体で「風渡りの谷」と刻まれていた。
 心持ち人里よりも冷たい風に、志紀はジャケットの前をかき合わせながら少しだけ背中を丸め、それでも物珍しげに辺りをきょろきょろと見回している。
 二人の立つ位置から少し下った谷底の広場に丸太で組まれた遊具が幾つかある他は、草地を分け入る遊歩道が斜面を縫ってあちこちに伸びているだけの、広さに似合わぬとても簡素な公園だった。ハイシーズンなら、さぞかしピクニック客で賑わう事だろう。だが、冬の足音が聞こえ始める今の季節、公園は酷く閑散としていた。遊具で遊ぶ僅か数組の子供達の歓声だけが、思い出したように風に乗って来ては耳をくすぐっていく。
「なんだか、隠れ里ならぬ隠れ公園ですね」
「そうかな?」
「山道から、こう、パッと視界が開けた瞬間、凄く幻想的でしたもん」
「地図で見れば、そうでもないんだがな。そこの山のすぐ向こうには、特急の止まる駅があるぞ」
 へぇー、と感心したように呟く志紀の動きが止まる。
「……あれ? あの上の方でなんか光ったような」
 彼女が見上げた先、向かいの山の尾根に小さく瞬く銀色の光が見えた。
 その瞬間、朗の瞳が微かに揺れる。
「ああ。あれは、だ」
「笛?」
「行ってみるかい?」
 大きく頷く志紀に、どこか虚ろな笑みを返して、朗は歩き始める。
 来し方へ向かって。