The one who treads through the void

   [?]

CONTRADICTING BLOCKS 第七話 終点

 
 
 
 は、頂上から天に向かって突き立てられていた。たかだか数メートルのステンレスの槍が、風車に向かう道化の如く大空へと伸びている。
 これを初めて見たあの時も、朗は酷くシニカルな感想を抱いたものだった。十年以上の歳月を経てもおのれの感受性に何も進歩が無い事に、朗は思わず失笑する。
 一足先に天辺へ登りきった志紀が、風に乱される髪を押さえながら辺りを見渡している。大した標高ではないものの、山頂からはそれなりに雄大な景色が望める筈だった。案の定、志紀は目を輝かせて遥か下界を眺め続けていた。
 
 朗が頂に到達すると、志紀はすぐに傍へと駆け寄って来た。大きな身振りで空を振り仰ぎ、地表から鉛直に立ち上がる七本の銀の柱を指し示す。
「これが、笛なんですか?」
「そうらしいね」
 びょお、と一陣の風が二人の上着の裾をはためかした。と、同時に、彼らの頭上で、肉食獣の咆哮にも似た低い唸り声が響き渡る。
「カルマンの渦だ」
「……って、なんでしたっけ、それ」
「瓶の口を横から吹いたら音が出るだろう? あれと同じだ。この一本一本がそれぞれドレミを奏でるように調整されているらしいが、どこまで真面目に設計されているのか、甚だ疑問だな。航空学科の連中に解析を頼んでみたいところだ」
 そう言う間にも、風は何度も山頂を掠めていき、その都度笛は空気を震わせ続けた。
 
 どうして、私はここに来ようと思ったのだろうか。
 びりびりと身体の芯が痺れるような重低音の中、朗は独りごちた。
 答えは、すぐそこにある。行きの車の中で考え続けていた疑問に対する答えと、おそらくは同じ場所に。薄皮を隔てたすぐ向こう側に、それは厳重に封印されたまま転がっているのだ。
 
 また、風が身体の脇をすり抜けていく。
 十一月も中旬を過ぎれば、もう冬はすぐそこだ。風の吹きすさぶ山頂なれば、空気の冷たさもひとしおである。朗の傍らで、志紀が小さくくしゃみをした。
 ――そうだ、受験生に風邪をひかせるわけにはいかない。
 大義名分を手に入れた朗の心が、再び暗部へと潜り込もうとする。答えを目前にしながら、またもその手前できびすを返そうと言うのだ。
 だが、帰ろうか、と朗が言うよりも早く志紀が口火を切った。
「先生は、ここへは、何度も来ているんですか?」
 屈託の無い志紀の声が、あの日の情景にやけにオーバーラップする。
 朗は目を閉じた。
 
 自分の中の何ものかが、ここへとおのれをいざなった。それに何か意味があるのなら……、今は、素直に成り行きに身を任せてみよう。
 
 観念したかのように大きく息をついてから、朗はゆっくりと瞼を開けた。
「いいや。昔に一度だけだ」
「じゃあ、思い出の場所なんですね?」
 そこで、ほんの一瞬志紀は躊躇いを見せた。「彼女とデート、だったりして」
 冗談めかせてそう言った志紀の瞳が、口調を裏切って切なそうに震えているのを見てとり、朗は小さく満足の笑みを浮かべた。
 成る程、過去の女性関係を気にする程度には、彼女は自分に執着してくれているのだろう。
「いや、生憎と叙情的な世界とは縁の無い性格なんでね。もっと即物的、享楽的なデートばかりだったさ」
「じゃ、ご家族と?」
「いや、……友人と二人で、だ」
 言葉にしてしまうと余計に、あの日の映像がまざまざと目の前に蘇ってくる。
 風に舞う木の葉、銀色の柱にもたれ立つ頼りなげな影、腹の底に重く響く風切り音。
 そして、笛が鳴るのを祈るような心地で待っていた、自分……。
「高校三年の時だった。丁度、君達と同じ歳だな。片道二時間、電車とバスを乗り継いで、我々はここに来た」
 それはちょっとした小旅行気分を味わうには、充分に長い行程だった。気安さと同時に、それに相反する緊張感にも支配されながら、旅の間中二人はお互い軽口を叩き合っていた。
「ニュースか何かでこの公園の事を知ったらしい。運が良ければ、ちょっとした合奏がきけるかも、と、そう彼女は言っていた」
「彼女……?」
「友人だよ、あくまでも。少なくとも向こうはそう思っていた筈だ」
 
 心の奥、小さな抽斗のが取り払われる。
 最深部にうずもれていた記憶は、卒業以来一度として掘り起こされた事がなかったにもかかわらず、少しも色褪せてはいなかった。
「先生は……、その人の事が好きだったんですね」
 男女二人きりで学外で会う、という事。双方ともに、そこにある種の期待があったのは間違い無いだろう。
 だが、彼女は朗に何も言わなかった。思わせぶりな態度をとる事もなく、至極普段通りに冗談を言い、朗に笑いかけてきた。
 だから、朗も何も言う事が出来なかった。風と戯れる彼女の背中を、ただ黙って見つめながら、想いを伝える事を諦めた。
 ……今ある関係を壊してしまう事が怖かったからだ。
「告白しなかったんですか?」
「ああ」
「へぇー、なんだか意外ですね」
 心の底からそう思っている、と言わんばかりの志紀の表情に、朗は苦笑を浮かべた。
「意気地無しの憶病者も、歳を重ねれば、いくらでも厚顔無恥になれるさ」
 
 本当は、告白しようと思っていた。
 一か八か、風の笛が奏でられれば。
 
 
 窓の外の夕日を背負った友人が、素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと待てよ、二人っきりで出かけて、手ェ握る事もしなかったわけ?」
 ひとけのない放課後の教室。恋愛相談を持ちかけられた筈だったのに、カマをかけられてつい漏らした一言に、友はしっかりと喰らい付いてきた。
 しまった、と舌打ちしながらも、心のどこかで愚痴を吐き出したく思っていた事を自覚して、朗は大きく肩を落とした。
「そういう雰囲気じゃなかったんだよ」
「なんだよ、お前、偉そうに経験者ぶっておいて」
「声もかけられない奴が、何を言う」
「そうだけどさ、オトモダチ付き合いと、どっちが良いかって言ったら、……結構難しくね?」
 
 
 この手を伸ばせば、境界を越えられる。
 そう思いながらも、朗の両手は上着のポケットに仕舞い込まれたままだった。
 伸ばしたこの手を振り払われてしまったら。そうなれば、自分はもう元いたポジションに立つ事すら出来なくなるだろう。友人としてふざけ合う事も、忌憚無く言葉を交わす事も、全てが叶わなくなるに違いない。
 ならば、このままで良い。
 風に震える銀の筒が、吼えている。
 笛は鳴らなかった。奇跡は起こらなかったのだから。
 
 あの、夕焼けの放課後の風景が、先月に化学準備室で耳にした嶺と珊慈の会話に被る。
 ああ、そうか。
 朗はようやく今、理解した。何故、これほどまでに自分が原田嶺という存在にこだわっているのか、その理由を。
 
 
 胸の最奥に立ち塞がっていた垣根が、吹き払われる。
 頑なに引き篭もっていた「おのれ」が、「おのれ」の中へと溶けていく。
 ――融合する。
 ――――ひとつに、なる……。
 
 
 うしおが引いていくように、朗の視界が急速に広がっていった。そこに、外部の映像が怒涛の如くなだれ込んでくる。
 澄み渡った空、風にたなびく雲、遠くへと連なる連山、遥か眼下に霞む街並み、生い茂る木々、葉を落とした梢、潅木、ススキ、枯れ始めた下草、遊歩道の石畳、そこから立ち上がる幾本もの銀色……。
 眩暈を感じて、朗は思わず傍らの笛に手をついた。まだ微かに揺れる視界の端、志紀がこちらを見ている。
 その唇が、綻んだ。
 
 何も……聞こえない。
 声が聞き取れない。いや、彼女の声ばかりか、襟元をはためかす風の音すら耳に入ってこない。
 朗の呼吸が、一気に荒くなった。パニックに陥りそうになるのを必死でこらえながら、視線を落として、おのれの手を、足を、確かめようとする。額に噴き出した嫌な汗を手の甲で拭って、喘ぐように息を継いだ、――その時。
 何かが背後から迫り来る気配を感じて、朗は勢い良く振り返った。山の裾野を駆け上がってくる何ものかの、凄まじいまでの圧迫感。
 次の瞬間、轟音とともに突風が朗の顔面を打った。咄嗟に両腕で顔を庇ったものの、砂塵が眼鏡のレンズにぱらぱらと打ち当たる。
 聴覚が回復したと思う間もなく、今度は全てが風の音に乗っ取られてしまった。ごうごうと吹きすさぶ烈風の中、固く目を瞑る朗の耳に聞き慣れない音が飛び込んでくる。
 
 ……最初は、海鳴りかと思った。だが、それはすぐに周波数を上げて、朗の鼓膜を振るわせ始めた。
 和音となって。
 
 荘厳、と呼び表す以上に相応しい言葉は無かった。
 朗は呆然と空を見上げた。
 決して明瞭ではない、どこかくぐもったような、だが間違いなく音階を持つ楽音。それらは、風が逆巻く度に幾つも重なっては、時に絡まり合い、ときほぐれ、遠くへと流れ去っていく。
 
 笛が、鳴っている……。
 
 ふと我に返って、朗は辺りを見回した。依然として激しく吹き荒れる風の中、志紀の姿を探す。
 少し離れた所に立つオリーブグリーンのジャケットが見えた。風上であるこちら側に背を向けて、襲い掛かる木枯らしをやり過ごそうとしている。
 安堵の溜息を漏らした朗の足元、突如として風が渦を巻き、一斉にあたりの落ち葉を舞い上げる。志紀の姿を覆い隠すようにして。
 響き渡る、笛の声。朗の眼前が枯れ葉に閉ざされる。
 志紀の姿が、消えていく――
 
 
 突風は、その名の如く、始まりと同様唐突に終息した。
 笛のはあっという間に色を失って、再び元の風切り音に戻っていく。
 開けていく視界の中、はらはらと舞い落ちる木の葉を背景に、驚きの表情を浮かべた志紀が振り返っていた。こちらに伸ばされた彼女の左手を掴み取っているのは、他でもない、朗自身の手。
「……先生?」
 
 ――消えていく。どこかへ消え去ってしまう。
 咄嗟に差し伸べた手は、全てを突き抜けて……到達した。志紀の許へ。
 
「……降りよう。これ以上ここにいては、風邪をひいてしまう」
「はい」
 俯き加減に小さく頷いた志紀の頬が、少し赤みを増している。それに気が付かないふりをして、朗は遊歩道を下り始めた。
 志紀の手を握ったまま。
 
 
 
 黄金色の空が、みるみるうちに藍色に置き換えられていく。つるべ落としの夕暮れの中、帰途についた朗の車は混み始めた県道をゆっくりと辿っていた。
 自分は一体何から目を背けていたのか。あれほど御大層に記憶の奥底に仕舞い込まれていたくせに、いざ白日の下に晒されてしまうと、それは酷く独りよがりで滑稽なものでしかなかった。
 
 青臭い言葉を使うならば、高校三年間はまさしく朗の「青春」だったのだ。
 囲われた狭い世界で、自分達が手厚く保護されていると自覚することなく、ステロタイプである事に反抗し、スタンダードを嫌い……そうして、彼らは一つの型に嵌っていくのだ。強固で排他的な、楢坂生という枠組みの中に……。
 あの熱情をどんなに懐かしもうと、朗はその中に入る事が出来ない。自分は教師であり、大人であり、彼らを見守る側の人間なのだ。彼らが排除しようとする存在なのだ。
 
 入り込めない。
 私は、「ここ」に来るべきではなかったのだ。
 ならば、彼女と出会う事だってなかったのだ。
 そして、ここまで醜い自分に気が付く事だってなかっただろう。
 
 だが、もう遅い。
 朗は「ここ」に戻ってきてしまった。
 彼女と出会い、傍観者でいる事に我慢出来なくなった。
 
 志紀が色事に疎いという事など、少し観察すればすぐに解る。興味が無いわけではなかっただろうし、何も知らないというわけでもなかっただろう。が、彼女にとって性差は生物的な「仕組み」以上のものではなかった筈だ。ほんの四ヶ月前までは。
 そんな彼女を無理矢理にでも抱けばどうなるか。そんな事、充二分に解っていた。いや、解っていたからこそ、犯したのだ。
 まさしく、カタルシスだ。無理矢理リセットをかけられた心に「快楽」が上書きされる。その代償として、彼女の心が「愛」を錯覚するであろう事すら期待して。
 
 自分の行為を言い訳する気もなければ、後悔する気もない。私は、彼女がどうしても欲しかった。出会ってしまって、手に届くところに存在する以上は、どうしてもそれを手折って自分のものにしたかった。
 
 
 フロントガラスの前方、薄闇に赤いテールランプが連なり始めた。
 山越えの幹線道路の渋滞を避けて、朗はわき道に車を乗り入れる。
 
 笛は、奏でられた。
 繋いだ手は、振りほどかれなかった。
 
 信号が青に変わる。暗さを増した峠道へと、朗は静かにアクセルを踏んだ。