The one who treads through the void

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CONTRADICTING BLOCKS 第七話 終点

 
 
 
 緩やかなカーブが延々と暗闇の中を伸びている。右に左に、車体を気だるく揺らしながら、車は坂道を登り続けていた。
 コンソールパネルのパイロットランプだけが幽かに浮かび上がる漆黒の車内は、まるで常世のようであった。時折窓の外を通り過ぎる、申し訳程度の街灯とまばらな対向車のヘッドライトだけが、二人を辛うじて現実世界に繋ぎとめている。
 ふと訪れた沈黙に、志紀はつい自分の手元に視線を落とした。
 
 初めて、手を繋いだ。手を繋いでもらえた。
 
 掌で感じる朗の手は、とても暖かだった。力強く、それでいて優しく志紀の手を握りしめ、彼はゆっくりと歩き続ける。その背中を見つめながら、志紀は嬉しさのあまり溢れ出しそうになる涙を必死でこらえていた。
 自分を大切に思ってくれていた。もうそれだけでいい。今はそれを素直に喜ぼう。そう、……今だけは。
 
 別れの時間が迫りつつある事を思い出し、志紀の眉がそっとひそめられた。
 手を繋いで車に戻ったあの時に、自分の気持ちを言うべきだったのかもしれない。しかし、志紀の中の酷く臆病な部分がそれを却下した。思い上がるな、と。せめて……せめて、今日という日が終わるまでは、このままデート気分を満喫しよう……。たとえ形だけのものだったとしても。
 そう心に決めた後は、志紀はひたすらこの逢瀬を楽しむ事にした。途中に見かけた小さな美術館に立ち寄って芸術の不可解さをたっぷりと堪能した後は、手作りケーキの看板に釣られて絶妙な味わいのモンブランに舌鼓を打ち、腹ごなしと称して小川の川べりを散歩した。
 再び手を繋いで歩く事は無かったが、せわしなくあちらこちらへと興味を向ける志紀に、朗はただ黙って付き合ってくれていた。先生の事だから、本当に嫌だと思ったらば、こうやってついてきてくれる筈が無い。こんな風に黙って振り回される事などないだろう。
 
 
 学校の話、友達の話。勉強の話の時ばかりは少しばかり説教モードに入ってしまったものの、朗はとても良い聞き役だった。ほどよいタイミングの相槌と、的確な受け答え。誘われるがままに志紀は会話を楽しみ続けた。
 最近読んだ本の話、テレビの話、映画の話。水を向ければ意外と饒舌だった朗が、しばらく前から黙りこくっている事にようやく気付き、志紀はおそるおそる顔を右へ向けた。
「先生? どうしました?」
「いや? 少し考え事をしていただけだよ」
 ちょっと浮かれ過ぎていたかもしれない。しまった、という表情を浮かべた志紀が謝るよりも早く、朗が言葉を継いだ。
「門限は大丈夫なのかい?」
 今はまだ六時前。この先どんなに道が混んでいたにしても、まだ門限を気にする時刻ではない。
 ……もしかしたら、先生も別れを惜しんでくれているのだろうか。そう思った途端に志紀の心は再び風船のように軽くなった。
「晩御飯食べて来るって言ってあるから、それぐらいまでは大丈夫ですよ」
「話の解る親御さんだ」
「日頃の行いの成果です」
 大げさにすましてみせれば、朗が小さく笑った気配がした。ただそれだけなのに、志紀は胸の奥が、じん、と熱くなるのを自覚した。
 
 ああ、本当に私、先生の事が好きなんだ……。
 
 志紀はそっと眼を閉じた。そして、静かにシートに身を沈ませる。
 タイヤを軋ませながら、車は上り坂最後のカーブを曲がり始めた。
 
 
 
 眼下に広がる地上の星々は、本当に「宝石箱をひっくり返したような」という表現そのものだった。あの灯り一つ一つの許に誰かが存在しているという事、あれらの灯りを作り出すために沢山の人々が携わっているという事。そんな事を考えるだけで、志紀の内部を言い知れぬ感慨が満たす。
 
 峠を越えた朗の車は少し横道へと進路を逸れ、夜景を一望出来る広場へと到達していた。
 バスの待合室らしい東屋が、見事なまでに荒れ果てた状態でポツンと建っている。鄙びた峠道、ここに来るまでバス停を見かける事は一度として無かったから、きっとここのバス路線は廃止されてしまったに違いない。
 もう何年も訪れる者などいない中、この廃屋は夜景を眺め続けていたのだろう。ゆっくりと朽ち果てながら、独り静かに。
 
 車を停めたものの、朗は一向に外へ出ようとはしなかった。受験生に風邪をひかせてはいけない、と、気を遣ってくれているのだろう、そう志紀は考えた。
 広場はまるで展望台のように見晴らしが良く、車の中からでも充二分に夜景を楽しむ事が出来る。受験を控えた大切なこの時期に、わざわざ寒風に身を晒して体調を悪くするというのは、愚の骨頂以外の何ものでもない。
 それでも、志紀は密かに夢想していた。風にざわめく木々の囁きを。夜風に吹かれながら壮大なパノラマに酔いしれる、そのひと時を。
 受験が終わったら。もっと暖かい季節になったら。もう一度ここに来られたらいいな……。
 他愛も無い雑談を交わしながら、志紀はちらりと朗の方を盗み見た。
 
 訊いてみようか。春になったら、またここに二人で夜景を見に来ませんか、と。返答が「是」でも「否」でも、最後の告白に対する心の準備になるかもしれない。そう、一種の試金石だといったら、少し打算的過ぎるだろうか。
 自分のは、依然として朗と会話を重ねている。その一方でともいえる部分は、いつまでもいじいじと思考を空回りさせていた。
 
 やっぱり、訊いてみよう。言ってみよう。
 ……でも、どのタイミングで、切り出そうか。
 意識が片側に集中し、中途半端なマルチタスクが一瞬だけ綻びる。その刹那、何かが志紀の首を、つい、と撫でた。
 驚く志紀の瞳に、朗が、志紀の首筋をねっとりなぞる朗の指が、映る。熱の篭った視線が自分に注がれているのが、見える。
 どくん、と志紀の心臓が一際大きく鼓動を刻んだ。
 動けない。
 まるで魔法をかけられてしまったかのように、志紀は指先一つ動かす事が出来なかった。次第に上気していく頬を意識しながらも、志紀は何も出来ずにただじっと朗の指先を受け入れ続ける。
 肌に触れるか触れないかという距離を動き回る、男の指。にもかかわらず、その熱さは志紀の首筋にダイレクトに伝わり、さらに彼女の身体中へと広がっていく。まるで何かの毒のように、運動中枢ばかりか、言語中枢までもが麻痺させられていく……。
 
 先生に、言わなきゃ。
 もう一度、二人で、この場所に……
 
 志紀が必死で掘り起こした意識は、あっけなく吹き飛ばされてしまった。朗の口づけによって。
 
 
 
 志紀と二人きり、気の向くままに会話を重ねる。ただそれだけの事の、なんと心安い事か。
 どこであろうと、いつであろうと、彼女は変わらない。余計な気を遣う様子もなく、志紀は実に楽しげに語り、その瞳を好奇心に更に大きくして朗の話に聞き入っていた。
 
 志紀が自分に笑いかけてくる度に、朗の内部はどんどんと熱を孕んでいった。
 誰の目も届かない、密室。しかも適度に開放的で、彼女の羞恥心を刺激するにはもってこいのシチュエーションだ。だが、たぎり始める欲望に反比例するようにして、彼の心はどんどんとその冷たさを増していった。
 快楽の果てに芽生えた「それ」を、人は「愛」とは呼ばないだろう。こうやって疑問を呈してしまっているあたり、この自分でさえも、所謂恋愛信仰にどっぷりと浸かっているわけなのだから。
 だが、志紀は違った。彼女はあまりにもまっさら過ぎた。
 
 
 自業自得としか言いようがない。闇に煌く夜景を背景に志紀の唇をついばみながら、朗は独り毒づいた。
 おのれのしたことは、到底許されるものではないだろう。
 柏木に、原田に、先手を取られる、先を越される。それは単なる言い訳にしか過ぎない。普通に考えるならば、もっと真っ当な解決策だってあったのだ。告白から始めて、順を追って気持ちを伝える事だって出来た筈だ。ニュートラルな彼女の事だから、立場の違いに惑わされる事なく、至極当たり前のように朗を彼らとともにスタートラインに並べてくれたであろう。
 
 だが、朗はそうしなかった。
 彼女が欲しい、その肉欲のままに彼女を陵辱した。彼女の尊厳を踏みにじってまで、おのれの快楽を優先した。
 まだ誰も踏み入っていない雪原が、そこにあったのだ。その邂逅は奇跡に近い。今、彼女をものにすれば、彼女の「女」の部分全てを一気に自分に向けさせる事が出来るだろう。それは途方もなく甘く魅力的な誘いだった。
 
 
 そうだ。心を求めようとしていなかったのは自分の方だ。掴みどころの無い不明瞭なものを嫌って、身体さえ確保しておれば良い、と。短絡的にそう考えたのは、間違いなく自分なのだ。
 誰に文句を言えようか。
 そうやって絡め取った相手が、おのれに心を向けていなかったとしても。
 
 それでも、彼女はこの手を振りほどかなかった。
 
 もしかしたら、彼女も私に心を寄せてくれているのかもしれない。
 惰性で、初めての男の言いなりになっているだけなのかもしれない。
 ひょっとしたら、彼女も私を本当に求めてくれているのかもしれない。
 独りでは得る事の出来ない快楽に、溺れているだけなのかもしれない。
 
 それを確かめたいと思うのは……、あまりにも傲慢が過ぎるというものだろう。そもそも強姦犯がその被害者に対して、これ以上何を期待する事が出来るというのだ?
 朗は皮肉の笑いを口元に刻みながら、眼前の快楽にあっさりと身を投じた。
 
 
 
 久しぶりに間近で感じる、朗の体温。柔らかい感触がぬるりぬるりと志紀の唇を出入りする感触に、志紀の身体が、ぞくん、と震えた。
 微かに朗が笑うのを感じて、志紀は自分が反射的に口づけに応えてしまっている事に気が付いた。その瞬間に、彼女の身体は更に熱を帯びる。
 それは、志紀がこれまで経験した事のないほどに、深くて長いキスだった。志紀の全てを貪り喰うかの如く、朗は何度も何度も舌を絡ませてくる。
 
 違う。絡ませているのは、私。
 
 差し入れられた肉塊の動きを辿るように、追うように。もはや、どちらが主体でどちらが客体なのか解らないままに、志紀は朗と唇を合わせ続けた。
 
 
 久方ぶりの刺激が、じわりじわりと志紀の中の官能を呼び起こしていく。だが、ここはあの部屋ではない。人通りが無いとはいえ、あくまでもオープンな往来の、透明な窓ガラスで仕切られただけの車の中なのだ。
 心の奥底に湧き起こった欲望を、志紀は必死で否定しようとしていた。だが、そんな苦労を嘲笑うかのように、突如として彼女の全身を鮮烈な快感が貫く。
 朗が、志紀の胸を愛撫し始めたのだった。
 
 驚きのあまり、志紀はまず硬直し、次に慌てて抵抗を始めた。
「あ、だめ」
 なんとかして両手で朗を押しやろうとするものの、志紀の方へもたれかかるようにして重心を傾けている朗の身体は、びくともしない。
「何がだめなんだい?」
 胸を揉みしだかれる快感を、彼の低い囁き声が増幅する。
「え……だって、ここ、車の中ですよ。誰かが通りかかったら、見ら……」
 抗議の言葉は、最後まで言う事を許されなかった。
 
 先程にも増して激しい口づけに、志紀の心は次第に溶かされていく。身を捩ろうとしても、のしかかる朗の身体はまるで枷のように、容赦なく志紀の自由を奪っていた。
 布越しに与えられる刺激は適度にソフトで、それでいて身体の一番奥の部分を恐ろしいまでにびりびりと震わせる。志紀の喉から迸る喘ぎ声が二人の舌に絡みつき、くぐもった唸り声と化して、朗の喉へと幾度となく飲み込まれていった。
 息苦しさと気持ち良さのあまり志紀の意識が朦朧とし始めたその時、ようやく唇が解放された。急激に肺に流れ込む新鮮な空気に、靄が一気に晴れていく。だが、志紀が安堵の溜息を吐き出す間もなく、朗は更に身を乗り出すと彼女のカットソーの裾に手をかけた。そして勢い良く捲り上げる。
「や……っ、先生、こんなところで……」
 あまりの出来事に志紀はパニック寸前だった。反射的に目を瞑り、必死で朗を押しのけようとする。
「なら、ここじゃなければ、良いんだ?」
 朗の指が、肌を滑って胸に到達した。それはふくらみをなぞるようにして、ゆっくりと這い上り、遂にはブラの上から胸の頂をこねるようにして撫で始める。
「どこなら、良いのかな? 車の…………外で?」
 耳元にかかる朗の息が、熱い。志紀の身体が彼の言葉に反応して、びくん、と震えた。
 何故だろうか、志紀にはその光景が手に取るように思い描く事が出来た。野外、車のボンネットに両手をつき、背後から朗に貫かれる自分の姿を。あられもなく悶えながら、朗に揺さぶられるおのれの影を。
「だ、だめっ……っ」
「仕方が無いな。それなら、車の中で我慢するとしよう」
 言うや否や、朗はブラの中へと手を差し入れた。そのまま柔らかなふくらみを掬い上げ、カップを押し下げて外へと零れさせる。
 思わず目を開いた志紀の視界に、身を屈めていく朗の姿が映った。次の瞬間、彼女の露になった胸の先端に息がかかり、次いで生暖かい感触が敏感な部分をねっとりと包み込む。
 派手な水音を立てながら、朗は何度も志紀の胸を舐め上げる。吸い付くようにして口に含んでは舌で弾く。
 志紀はなすすべもなく彼の舌戯に悶え続けた。狭い車内、足があちこちにぶつかるのも構わずに、大きく喘ぎながら身体を波打たせる。朗が彼女のジーパンを剥いていくのにも気が付かないままに。
 
「…………濡れているね。凄く」
 ずらされたパンツの隙間から手が差し入れられる。下着の上から割れ目をなぞる指の動きに、志紀は抵抗する力が吸い取られていくのを自覚した。
「やだ……」
「こういうところの方が、感じるのかな?」
「……そんなこと……ない……」
 頼りなげな志紀の反論に、朗が口角を吊り上げた。
「嘘を吐く子には、お仕置きが必要だな?」
 身体の奥底が、痛いぐらいに疼いている。志紀は観念して瞳を閉じた。