あわいを往く者

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九十九の黎明 第二章 王都へ

  
  
  
   第二章  王都へ
  
  
「ありがとうございました」
 羊皮紙の束の入った大きな鞄を手に、ウネンは礼を言って工房を出た。
「いやいや、こちらこそこれからもよろしく頼むよ。カォメニの紙のお陰で、先行きが不安でね。あんたンとこがこうやってウチを使ってくれるお陰で、なんとか生きながらえてるって感じでね」
 戸口まで見送りに出てくれた羊皮紙職人のセナが、大きな溜め息を吐き出す。ウネンは、勤め先の写本工房の使いで、注文した羊皮紙を受け取りに来ていたのだ。
「耐久性や見栄えを考えたら、羊皮紙しかないだろう、って親方が言ってました」
「ま、そこらの砕木紙と比べたらそうだろうけどさ。でも、カォメニは国全体で紙の製造に力を注いでいるっていうじゃないか。質もそこまで悪くないし、これで値段が安くなったら、俺達は店を畳むしかねえわ」
 イェゼロが属するチェルナ王国の、東南にあるカォメニ王国は、製紙業が盛んな国だ。この地方に自生する幾つかの種類の木がどうやら紙の原料に非常に適しているらしく、カォメニ紙の登場は「上質な獣皮紙、粗悪な草木紙」というそれまでの印象を一新するものであった。チェルナはカォメニ紙を輸入に頼っているが、もしもこの紙と同等のものを国内で生産できるようになれば、セナの言うとおり羊皮紙職人の多くが苦境に立たされることになるだろう。もっとも、紙の原料についての詳細ならびにその持ち出しは、国家機密としてカォメニ王国によって厳重に管理されており、そう簡単に他国に真似できるものではなかったのだが。
 セナのぼやき声に見送られながら、ウネンは帰途についた。町の目抜き通りを、大きな鞄の底を地面で擦らないよう、えっちらおっちら慎重に進んでいく。
「お持ちしましょう、お嬢さん」
 馬鹿丁寧な言葉とともに、ウネンの手から、ひょい、と鞄が取り上げられた。驚いて振り返れば、人懐っこい碧眼と漆黒の髪が出迎える。先週の測量行にて、七人もの暴漢を一人で行動不能にさせた、魔術師のモウルだ。
「鞄が歩いてるみたいで、見ていられなくってさ。これ、仕事場まで運べばいいの?」
 鞄が歩いている、との一言に、申し訳ないという気持ちを吹き飛ばされ、ウネンは遠慮なく「ありがとう」と鞄をモウルに任せることにした。
「どういたしまして。それよりも、何か僕にもできる仕事ってないかな? 何しろ、尋ね人の手掛かりが途切れちゃったから、しばらくどこへも動けなくてね。でも、じっとしてるにも宿代はかかるし、そもそも暇で死にそうだし、困ってるんだよ」
 あまり困ってなさそうな口調で、モウルが滔々と語る。必要なことしか喋らなかったオーリとは大違いだ。
「仕事、沢山あるんじゃないの? 〈双頭のグリフォン〉に仕事を取られたって、ぼやいている人がいたよ」
「その二つ名はヤメテ」
 誰だよこんな恥ずかしい綽名つけたのは、と、モウルが盛大な溜め息をつく。
「荷馬車を襲った夜盗を一瞬にしてこの世から消し去ったって聞いたけど」
「へー、そりゃー凄いなあ。どんな神に仕えたらそんなわざが使えるようになるのか、僕のほうこそ教えてほしいよ」
 実際の出来事がどのようなもので、どういうふうに尾ひれがつけばこんな噂になるのか訊いてみたい気もしたが、先ずはそれよりも気になった言葉について、ウネンは質問することにした。
「神様によって、わざが決まる?」
「そうさ。神様にも得意不得意があるからね。我が神が司るのは、風」
 そう言ってモウルが人差し指を軽く振った。その動きにいざなわれるようにして、そよ風がウネンの髪を揺らす。
 同時にウネンの中で微かに響く、あの、声ともつかない、〈囁き〉。
「火焔を放てたのは、炎の呪符を使っていたからなんだ。余所の神様のお力をちょっと拝借していた、ってわけ」
 この〈囁き〉は、魔術に関係があるのだろうか。しかし、三年前までは、〈囁き〉を感じた時に誰かが魔術を使っていたようなことは一度としてなかったはずだ。ウネンは黙ってモウルのあとを歩きながら、過去の記憶をあなぐり続ける。
「そういえば」と、屈託のない声がウネンの物思いを容赦なく突き破った。
「例の地図って、もう出来上がったの?」
 例の、というのは、測量中にチェルヴェニー側に襲撃された、あの西の境界線の地図のことに違いない。ウネンは「あともう少し」と言葉を返した。
 先週の襲撃のあと、ウネン達は暴漢達とは別の馬車でバボラークの城に連れていかれ、領主に直接、事の顛末を報告させられた。全員の発言は書記によって事細かに記録され、チェルヴェニーとの話し合いに使用されるとのことだった。状況によっては解決を王の裁きにゆだねることになるかもしれず、その際はウネン達も王都で直接証言することになるらしい。チェルヴェニーがごねた場合に備えて、境界の地図はしっかりと完成させてくれ、と、ウネンはあらためて領主に依頼されたのだった。
 後ろ盾も何も無い十五の小娘が、領主に直に頼まれ事をされるなど、普通ではあり得ないことだろう。その時のことを思い出すたびにウネンは高揚した。そして、自分に機会を与えてくれた全てのものに感謝した。
「それにしても、どうして君は地図を作るようになったんだい?」
 今まさに思いを巡らせていたことを問われて、ウネンは至極自然に口を開いた。
「一年前に、ミロシュさんが、兄弟喧嘩の仲裁を頼まれたことがあったんだ。なんでも、お父さんが亡くなられて、兄弟で土地を分けることにしたんだけど、農地の広さの認識が兄弟間で全然違ってしまってるらしくってね。話し合いすらできない、ってミロシュさんが困ってたから、先ずは正確な地図を作ってみたらどうか、って、ぼくが提案したんだ」
 手詰まりだったミロシュは、すぐにウネンに地図を作ってみるよう言い、ウネンはなんとか在り合わせの道具を使って、兄弟の家の土地の測量を行った。
 出来上がった地図は、最初は懐疑的な眼差しに迎えられた。だが、「信用できない」と言って兄のほうが精霊使いを引っ張ってきたことによって、地図の評価は百八十度ひっくり返ることになる。
 イェゼロの町に住む、ただ一人の精霊使いは、鳥を使役することができた。「鷹の眼」で空から兄弟の土地を「視た」精霊使いは、感嘆の叫びとともに、ウネンの作った地図が「そのまんま」だと高らかに言った。「わしのは『鷹の眼』だが、チビちゃんのは定めし『雀の眼』だな」とも。
 それでもまだ納得のできない兄が、土地を端から端までくまなく歩測したことによって、ウネンの地図の評判は確かなものとなった。そして、それ以来ウネンの元には、地図制作の依頼が時々舞い込むようになったのだ。
「それにしてもさ、測量の方法が帳面に書いてあったとして、独学でそれを自分のものにできたっていうのが、凄いよね」
 ウネンの話を聞き終えるなり、モウルがウネンに笑いかけてきた。
「読み書きだけでなく算術もできるんだね。本当に君って凄いな」
 モウルの目が、すうっと細められる。
 ウネンの心臓が跳ね上がった。落ち着け、落ち着け、と、心の中で繰り返し、ウネンはゆっくりと息を吸う。
「大きくなったらしっかり稼げ、って、父が取引相手から貰った本をくれたから、それで勉強した」
「行商をしていたという親父さんが?」
「うん」
 なるほどね、と、一応は納得した様子でモウルが頷く。しかし。
「ミロシュさんも、凄いなあ」
 モウルは、またも空々しい笑顔を浮かべた。
「だってさ、正確な地図を作るなんて難しい仕事を、君みたいな子供に頼んじゃうんだもんね。なかなかできることじゃないよ。人を見る確かな目があってこそだよね」
 ここでようやくウネンは気がついた。先刻からのとりとめもないモウルとの会話は全て、モウルによって「語らされていた」のだということに。
 ウネンの背中を、一筋の汗がつたい落ちる。
「子供じゃないよ。もう十五だ」
「一年前なら、十四でしょ」
「大して変わらない」
「そうかなあ。僕が十四の時って、笑っちゃうぐらいコドモだったけど」
 モウルは、続けて「今、僕は二十三で、オーリは二十二ね」と、訊かれてもいない自己紹介を付け加える。
 ウネンは、これ見よがしに溜め息をついてみせた。
「測量方法が書いてあった折本が、ヘレーさんのものじゃなければ、ミロシュさんも地図を作るなんて考えもしなかったと思う。そして、それを読んだことがあったのが、たまたまぼくしかいなかった、というだけのことだ」
「へえ。随分と信頼されていたんだねえ、ヘレーって人は。っと、あそこだよね、目的地」
 椅子に座って本を読む黒づくめの女性の看板を、モウルが指し示した。プラジャン写本工房、ウネンの勤め先だ。
「やっぱり『書庫の魔女』の看板なんだね」
「書物の守り神だからね」
 風や水、炎に土、大きな森から一本の草まで、この世には八百万やおよろずの神が存在すると謂われている。書物の神もそのうちの一柱で、昔語りなどでは、黒衣黒髪の女性としてえがかれてきた。『書の神』ではなく『書庫の魔女』と称されるのは、そういった昔話の影響であろう。この看板を見るたびに、ウネンは自分が女に生まれたことを、ほんの少しだけ誇らしく思えるのだった。
「鞄、持ってくれてありがとう」
 礼を言って、ウネンは羊皮紙の入った大鞄を受け取った。
 またね、と手を振ってきびすを返したモウルが、しかしまたすぐにウネンを振り返る。
「ああ、そうそう、君の腕前を見込んで、僕も地図制作を依頼したいんだけど、いいかな?」
 地図作りの実績が欲しいウネンにとって、これは本来ならば、一も二もなく飛びつきたい話のはずだった。だが、モウルの、一見爽やかな笑顔の奥を見通すことができずに、ウネンは返事を躊躇する。
「ここからちょっと距離があるんだけど……。でも、世界地図を作る手始めに、どう?」
 そんなウネンの様子を一向に気にしたふうもなく、モウルは話し続けた。
「ロゲン、っていう荘園なんだけど。ここから北西の方角にある。大山脈の麓、大樹海の近くの」
 ロゲン。
 ウネンはその町を知っている。
 口の中に溢れてきた唾をモウルに悟られぬように呑みくだし、ウネンは静かに口を開いた。
「無理だよ。そんな遠くには行けない」
「おや、随分と諦めが早い。世界地図作りたいんでしょ?」
 この男は、一体何をどこまで知っているのか。鞄の持ち手が、ウネンの手汗で湿っていくのが分かる。
「謝礼、弾むよー。僕らが護衛すれば、人件費も要らないしー」
「親方が待ってるから、もう行かないと」
 無理矢理会話を打ち切って、ウネンは工房の扉をくぐった。
 背後を振り返る勇気など、どこにもなかった。