「魔術師がいるな!」
しわがれた声が、石の床や壁に反響する。
扉のところには、齢八十はくだらぬであろう小柄で皺くちゃな老人が、杖を振り回しながら立っていた。その髪は、量こそ減じてはいるものの、見事な漆黒、魔術師だ。
「さては、タジ国の差し金だな! 我が炎で消し炭にしてくれるわ!」
「タジの魔術師など、どこにもおりませんよ」
穏やかな声で諭すように、クリーナクが老人に話しかける。
「そんなはずはなかろう! 風が儂に囁いておるのだ! ここに確かに〈かたえ〉が居る、と!」
ウネンは老人の顔を注視した。風が囁くとは、まさか、この人にもあの〈囁き〉が聞こえているというのか、と。
「儂には確かに……、何だって? 古い、古い、友人だと? ああそうか、あの時の! 盾となりし、古い、古い……」
「トゥレク」
クリーナクの呼びかけに応えて、トゥレクが老人の前に立った。いたわるような手つきでその肩を支えながら、ゆっくりと戸口へ連れていく。
「おお、トゥレク、もう夕飯の準備か? 今日は何を手伝えばいい?」
扉が閉まり、老人の声が聞こえなくなるのを待って、クリーナクが大きく肩を落とした。
「申し訳ない。彼は、先々代の王の時分から我が城に仕えてくれている魔術師なのだ。『紅蓮のジェンガ』という名を聞いたこともあるのではないだろうか、七十年前の、東のタジ王国との戦では、チェルナ軍の救世主とまで呼ばれた男なのだが、いかんせん、百歳を過ぎてからは、少し話が合わぬことが増えてしまってな……」
百歳、という信じられない数字に、ウネン達の間にざわめきが走る。
「術が暴走するようなことはないのですか?」
モウルが微塵も躊躇わず、直接王に向かって問いかけた。ウネン以下オーリまでもが、ぎょっとした顔でモウルを見たが、当のクリーナクはなんら頓着した様子もなく、「その点は大丈夫だと思う」と首を縦に振る。
「幸いにも翁は、厨房の竈や灯明などに火を入れる術以外は、忘れてしまっているようなのだ。今のように、相手が魔術師と見るや大騒ぎはするが、実際に術をかけることができた試しがない」
ジェンガ翁が去った扉を見つめ、クリーナクは静かに続けた。
「翁は、我が国の危機を救ってくれた大恩人だ。礼をもって見送ろうと思っている……、が、翁のお陰で新しい魔術師が居つかなくてな……。まあ、今は周辺国も落ち着いているから、構わないと言えば構わないのだが」
「この国が、特に陛下の御 身の周りが、平和で住みよいからこそ、なのでしょうね」
モウルの言葉に対し、クリーナクが問いかけるように眉を上げた。
「僕達魔術師は、神の恩恵を賜っているせいか、肉体的には結構丈夫なんですよ。少なくとも、魔術師になる以前よりは。なのに、世間にはあまり高齢の魔術師はいない。それは、このちからのせいで、面倒事に巻き込まれることが多いからなんだと思います。翁が長生きなさっているのは、陛下の人徳のなせるわざでしょう」
「それが本当なら、嬉しい限りだ」
クリーナクの藍の瞳が、ほんのりと緩んだ。
と、その傍らで、補佐官ハラバルが少し躊躇いがちに咳払いをする。
「陛下、そろそろ本題に入りませぬか」
「そうだな。長旅の疲れもあるだろう、さっさと話を済ませてしまうとするか」
クリーナクはそう言うと、半歩下がってハラバルに場を譲った。
「では、わたくしも陛下に倣って『ざっくばらん』と参りましょう」
クリーナクから話を引き継いだハラバルは、小脇に抱えていた書類入れを手に持った。
「ウネン殿、これは、あなたが制作したものですか」
そう言ってハラバルが取り出したのは、一枚の荘園の地図だった。半年前、冬のさなかに寒い思いをして測量をした記憶が、ウネンの中に甦る。
ウネンが肯定の返事をするより早く、右方からモウルが口を挟んだ。
「その前に、どうして陛下がこんなにも早く彼女を王都へ呼びつけることができたのか、教えていただけませんか」
モウルの言葉を聞き、ウネンはハッと彼を振り返った。
チェルヴェニーとの諍いが起こったのが十一日前。ウネン達が王都まで来るのに五日。スィセル達がイェゼロまで馬を飛ばしてきたのだとしても、二、三日はかかるだろう。となると、残った僅か四日に満たない間に、王は今回の二封臣のいざこざのことを知り、ウネンを王都まで呼び出すことを決めたということになる。
クリーナクは、すうっと目を細めると、「いい質問だ」と笑みを浮かべた。
「一度、父――先王の時代に、チェルヴェニーとバボラークが派手にやらかしたことがあってな。相当きつく先王に叱られたのだろう、今回の騒ぎが持ち上がるなり、チェルヴェニーが翌日には早馬を寄越してくれたのだ。
曰く、私は国内の平和を乱すつもりは毛頭ない、今回のことは家人 が先走って勝手にやった、でも、誰だってこんな鳥の眼で自分の庭先を勝手に覗き見されそうになったら穏やかでいられるはずがない、だからバボラーク側にも原因がある、とまあ、言い訳の羅列にこの地図を添えて、な」
ハラバルの手から地図を取ったクリーナクは、ためつすがめつ隅々までをねめまわした。
「なるほど、実に繊細かつ緻密だ。だが、我々には、これが単なる絵画であるか、真に地図であるのかが判らない。それゆえ、制作者をお呼びして詳しい話を聞こう、というわけなのだ」
クリーナクの、鋭い視線が真っ向からウネンを射抜く。
地図を手にした王達が、間を置かずウネンを呼び出したということの意味を、ウネンは明確に理解した。そう、オーリも初めて会った時に言っていたではないか。「自分の土地にするために、地図を作ることもある」と。詳しい地勢、地相、どうやって守るか、どこから攻めるか、相手国の正確な地図があれば、そういった情報を国に居ながらにして把握することができる。今は周辺国は落ち着いている、とのことだが、それでも王は地図の重要性を充分に認識しているのだろう。
『知識は、ちからだ。そして、不必要に大きなちからは、それだけで災厄を引き寄せる――』
ウネンの耳元に、いつぞやのオーリの言葉がこだまする。
具眼卓識の君子が、静かな声でウネンに問うた。
「この地図を作ったのは、君か」
「はい」
一音一音を噛み締めるようにして、ウネンは返答した。
「では、その方法を教えてくださいませぬか」
と、ハラバルが真剣な表情で身を乗り出してくる。
ウネンは腹の底に力を込めた。
「商売上の秘密です」
ウネンの声が、静かな室内に響き渡った。
「こいつはいい!」
クリーナクが、眉を跳ね上げ、両手を打つ。「確かに、不用意に製法を漏らして商売敵を作るような真似は、したくなかろうな!」
「陛下、笑いごとではございませぬぞ。それでは、この地図の、いいえ、この者の腕前の真贋が判らないままではありませぬか」
あてつけめいたハラバルの言葉に、ウネンは思わず眉を寄せた。
彼の思惑に乗りたくはないが、地図の価値を疑われるのは困る。ウネンは、「では、ざっくりと説明します」と宣言してから、少し早口で問いに答えた。
「地点ごとに距離と方位角を測定しました」
この言い方で意図が解るというのなら、ウネンが口をつぐむ意味は最初から無かったというものだ。解らないならば……、秘密は保たれる。
ハラバルの目が、燃えるように熱を帯びるのがわかった。
「それでは、土地の起伏は記せまい」
「水平角を測って辺の比で求めます」
二人は、しばし互いに挑戦的な眼差しを交わし合った。
「ええと、ちょっといいかな」
ずっと黙ってやり取りを聞いていた、優男の封臣ヴルバが、小さく右手を上げて発言を求めた。
「これ以上話が長くなるようだったら、続きは明日にして、今日のところはゆっくりしてもらったほうがいいと思うんだけどね。遠いところをわざわざ呼びつけた上に、休む間もなく尋問するというのは、どうかと思うんだ」
水を差されて露骨に鼻白むハラバルに、クリーナクが苦笑を向ける。
「ああ言われてしまうと、なんだか我々が悪人になったみたいだなあ」
ハラバルが、これ見よがしに大きな溜め息をついた。
「……そうですな。ウネン殿、申し訳ありませぬが、また明日もよろしくお付き合い願います」
「あ、はい」
ひとまずウネンは心の中で胸を撫で下ろした。次いで、礼を言うべきか悩みつつヴルバを見た。
良かったね、と言わんばかりの表情で、ヴルバが微笑む。その、柔らかい碧の眼が、記憶の中のあの瞳に重なって、ウネンは懐かしさに思わず息を詰まらせた。
* * *
枯れ草色の髪が、汗でべったりと額にへばりついている。眉間の皺はもうずっととれることはなく、その目元には疲労が隈となって染みついてしまっていた。だが、暗い影差す眼窩では、碧い瞳が輝石のごとく強い光を放っている。一人でも多くの命を助けなければ、との、痛々しいほどの使命感を燃やしながら。
イェゼロの町を中心とする一帯を、突然襲った大地震。「私は、もう逃げない、と決めたんだ」と自らに宣言したのち、ヘレーは、不眠不休の勢いで、ミロシュとともに怪我人の治療にあたっていた。
「ミロシュ、脈はどうだ」
処置の手を止めることなく、ヘレーが問うた。口元を覆う手拭 いのせいで、くぐもってしまっているが、その声は張り詰めた糸のように緊張している。
また一滴、汗の玉がヘレーの瞼に差し掛かるのを、ゾラが脇から手を伸ばして手巾で拭きとった。
「なんとか持ち直した、かな」
「呼吸は」
「正常だ」
カチャリ、と、皿の上に何か器具を置く音がして、それからヘレーの溜め息が聞こえた。
「まだ楽観視はできないが、一つの大きな山は越えたと言えるだろう。このまま朝まで容体が落ち着いているようなら、なんとか助かるかもしれない」
ヘレーの言葉が終わりきらないうちに、ゾラがへなへなとその場に崩れ落ちた。滂沱と涙を流して、シモンの名を繰り返し呼ぶ。
部屋の入り口で事の成り行きを見守っていたウネンの背後、治療の順番を待つ人々の列からも、大歓声が沸き起こった。
薬が効いているのだろう、シモンは依然として穏やかに眠り続けている。
息子の脈をとりながら静かに涙を流しているミロシュを見て、ウネンは思った。ミロシュも、そしてゾラも、二人とも本当にシモンのことを大切に想っているんだな、と。
自分がシモンの立場だったら、母はどうしただろう。ウネンはつらつらと考えた。たぶん、不具の娘は要らない、と、見殺しにされたのではないだろうか。
「ウネン、次は君の番だ。痛いだろうに、よく我慢して待っていてくれたね」
ヘレーがウネンの前にやってきて、微笑んだ。その碧の瞳があまりにも優しくて、ウネンは泣きそうになった。
ああ、この人が、本当のお父さんだったらよかったのに。