あわいを往く者

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九十九の黎明 第二章 王都へ

  
    * * *
  
 ウネン達は、王城の主館から渡り廊下を渡った、小ぢんまりとした離れの塔に案内された。入り口階段のある二階の客間がオーリとモウルに、三階の部屋がウネンとイレナにそれぞれあてがわれ、一同はようやっと人心地つくことができた。
 夕食は、ウネン達四人だけで、この塔の二階の広間でとることになった。旅の疲れも取れないうちに慣れぬ顔とテーブルを囲まなければならないのは大儀だろう、とヴルバが王に進言してくれたのだという。
「その代わりに、明日みょうにちの晩餐は是非とも主館の食堂でご一緒に、と、陛下が仰ってました。私も、皆様とまたテーブルを囲むのを楽しみにしております」
 そう言って、スィセルが満面に笑みを浮かべて一同を見まわす。
 ウネンはとうとういたたまれなくなって、「あの」とスィセルに話しかけた。
「どうしてこんなに親切にしてくださるんですか?」
 ぼくは地位も身分も無いただの庶民なのに。そう小声で付け加えると、スィセルがそっと目を細めた。
「ウネン様は陛下のお客様ですからね」
 そうは言っても、陛下は陛下、この国を統べる君主である。たかが田舎町の地図屋一人、わざわざ客として招かずとも強引に呼びつければ済む話ではないだろうか。そんなウネンの心の声が聞こえたか、スィセルは鷹揚に――まさに王の近侍に相応しい余裕を持って――微笑んだ。
「それに、ハラバル先生が常々仰っておられます。知識もまた素晴らしい財産である、と。ならば我々は、身分や土地と同じように知識持つ者にも敬意をはらうべきであろう。陛下もそう考えておられるはずですから」
 その瞬間、どくん、とウネンの心臓が高鳴った。身体がカッと熱くなり、両頬が一気に上気する。
 と、モウルの飄々とした声が、ウネンの高揚に容赦なく水を差した。
「明日の晩餐、って、もしかして、さっき広間で一緒だった、あの……、遊びに来ているという、赤っぽい髪の……」
 話の途中で覿面てきめんに言いよどむモウルに、スィセルがおずおずと助け船を出す。
「ヴルバ様、ですか?」
「そうそう。そのヴルバ様もご一緒することになるのかな?」
「はい」と頷いてから、スィセルがにっこりと微笑んだ。
「遊びに、と仰ってましたが、実際は違うのですよ。ヴルバ様治めるスハーホラには、国営の金山がありまして、年に一度の報告書を、ヴルバ様手づから陛下のもとへ届けにいらっしゃったのです」
 すっかり平静に引き戻されたウネンは、そっと息を吐いて意識を切り替えた。ヴルバが軽佻浮薄を気取っている、とは、こういうことだったのだな、と胸の内で呟く。
「では、また、お食事が終わった頃に、食器を下げに参ります」
 明日はともに晩餐を、ともう一度念を押すように繰り返してから、スィセルは空いた鍋を抱えた使用人達とともに、戸口の向こうに姿を消した。
  
  
 イレナは剣を携えると、夜の闇に沈む離れの塔を出た。
 夕方、部屋に案内してもらった際に、どこか剣の鍛錬ができる場所はないか、とスィセルに相談していたのだが、夕食も終わってそろそろ寝る時間という段になって、ようやく「中庭をご自由にお使いください」との返事が彼女のもとにもたらされたのだ。
 こうも真っ暗では打ち込み稽古は無理だろう、せめて剣の素振りだけでも、と溜め息を道連れに渡り廊下を歩いていたイレナは、角を曲がるなり我が目を疑った。中庭を取り囲むように十もの篝火が用意され、そして、少し向こう側では、既にオーリがくうを相手に剣捌きの練習を行っているところだった。
 オーリのかたは、イレナが子供の頃から慣れ親しんだものとは少し違っていた。勿論、突きや切り、巻きといった、一つ一つの基本の動作は変わらないのだが、組み立て方が独創的なのだ。イレナの父親ならば、「邪道だ」と目を剥くに違いない。チェルヴェニーと一戦交えたあの時も、オーリの攻撃は、まさに変幻自在ともいうべきものだった。
 イレナは、オーリの動きに全神経を集中させた。彼の足運びに合わせて拍子をとり、彼の剣を目で追う。オーリを模倣するように頭の中で自分を動かし、そうして……、内側から、綻び、を探す。
 考えるよりも先に、イレナの足が地を蹴っていた。オーリが右足を踏み出すよりも早く、その懐へと踏み込んでゆく。
 互いのやいばが交わる寸前で、二人は見事な制動で剣を止めた。
 オーリが、挑戦的な眼差しで口角を上げる。
「やるな」
「これでも私、自警団団長の娘だからね」
 もうお馴染みとなった名乗りではあるが、オーリが、ふと何かに思い当たったかのように微かに眉を上げた。
「自警団員というわけではないということなのだな」
 そうあらたまって問われてしまうと、イレナには苦笑を浮かべることしかできなかった。「女は引っ込んでろ、ってやつよ」と、思いきり息を吐き出してから、イレナはオーリを見上げた。
「だから、あんたが最初に酒場で、私とウネンを間違えた時、ちょっと嬉しかったわ。地図職人を探すのに、年齢は考慮しても、性別ではふるい分けしないんだな、って」
「嬉しかったという割りに、見事な足払いを喰らわしてくれたわけだが」
「それとこれとは別問題。胡散臭い余所者からウネンを守らなきゃ」
 イレナは、芝居がかった調子で両手を腰に当てて、胸を張った。
 そこに、土を踏みしめる三人目の足音が聞こえてきた。
「何故、君は、そんなにあの子のことを気にかけるわけ?」
 モウルが、篝火の明かりの中へと歩みを進めてくる。頬を照らす橙の炎も、「魔術師の黒」の前にはどこまでも無力だ。
「親兄弟でもないのに、ちょっと過保護なんじゃないかな、って不思議に思ってさ」
「そんなのあんたに関係ないでしょ」
 イレナは、思うさま眉間に皺を刻んだ。
 だが、モウルは刺々しい声音にも一切怯む様子を見せない。顎に手をやって、ふうむ、と何やら考え込んでいる。
「過保護、というよりも、むしろ、小動物を愛玩するみたいな……? ああ、それか、自分の引き立て役が欲しいとか、そういう……」
「それ以上言ったら、この剣で切り刻んで豚の餌にするわよ」
 怒りのあまり震える右手を、左手で必死に抑えながら、イレナは吐き捨てるようにしてモウルの言葉を遮った。
「モウル」と、オーリがあきれかえった声を発する。「質問に答えてほしいのなら、もっとやり方を考えろ」
 オーリの言葉を聞き、イレナは驚いて今一度モウルの顔を見つめた。
 篝火を映して、モウルの瞳がぎらぎらと光っている。たとえるならば、獲物が罠にかかるのを待つ、狩人の目。欲しい情報を得るために、モウルはわざとイレナを煽っていたのだ。
 イレナは、モウルに対して真面目に応対していた自分が、なんだか無性に馬鹿らしくなってきた。深い深い溜め息一つ、それから諦めの境地で口を開いた。
「シモンがね」
「誰?」
 即座に問いを投げかけてくるモウルに、オーリが、嘆息とともに注釈を入れる。
「ウネンが世話になっている医者の息子だ。金の髪の」
「ああ、彼ね」
 もしかしなくても、モウルは他人の名前を覚えるのが苦手なのだろう。もしかしたら、そもそも覚える気すらないのかもしれない。どこまでも傍若無人な人間なんだな、と、イレナはそっと肩を落とした。
 とまれ、さっさとこいつを黙らせて、剣の稽古に戻らねば。イレナは気を取り直して顔を上げる。
「三年前の地震で、彼、右足を失くしてね」
 その瞬間、当時のことが閃光のようにイレナの脳裏を走り抜けた。
 瓦礫の下から五人がかりで救出されたシモン。とめどなく流れる鮮血。絶叫。悲鳴。
 誰もがシモンの死を覚悟した時、見知らぬ男が彼を抱きかかえたのだ。首の後ろで三つ編みにした枯れ草色の長い髪を揺らし、血で衣服が汚れるのも構わずに、ただ一言「助けるぞ」と、悲壮な決意を碧の瞳にたたえて。
「彼ね、頭はいいわ前途有望だわ見た目も格好いいわってんで、以前は求婚者の引きも切らない人気者っぷりでね。それが、震災以降は、ぱったりで」
 過去の記憶を振り払うべく、おどけた身振りを交えて、イレナは話し続けた。
「それまでモテモテだったシモンにとっては、男として役に立たない人間だ、と、宣告されたも同然で、それで、いっときすっかり自暴自棄になっちゃってね。私も、何て慰めたらいいのか分かんなくて。そんな時に、ウネンが言ったのよ。『失くした足だけにシモンの価値があったわけじゃないよ』って。『足が好きだった人のことなんか放っておいて、シモンの足以外も好きな人のことだけ考えたらいい』って」
 黙ってイレナの話を聞いていたモウルが、愉快そうに眉を上げる。
 イレナも、その時のことを思い出して、少しだけ楽しくなった。
「その言葉を聞いた時の、シモンの顔ったら、もう……」
「『もう』、何?」
「え、や、あの、その」
 イレナは辛うじて気がついた。ここから先は何をどう取り繕っても「惚気のろけ」になってしまう、ということに。覿面てきめんに熱を持ち始めた頬を、咳払いで誤魔化して、イレナはモウルを正面からねめつけた。
「と、とにかく、それ以来、ウネンは、私達にとっては、とっても、とっても大切な人なの。分かった?」
「分かった。物凄く納得した」
 モウルが真顔で応えるものだから、イレナはますます恥ずかしくなるのだった。
  
  
 夕食に供された、塩漬け肉を惜しみなく使ったパイの味を脳裏で反芻しながら、ウネンは塔を出た。剣の鍛錬に出ていったイレナが一向に戻ってくる様子がなく、少し心配に……いや、心細くなったからだ。
 主館へ向かう渡り廊下を進むと、植え込みの向こうに、篝火に照らされたイレナ他二人の姿が見えた。
 剣士二人はともかく、何故にモウルが剣の稽古の場に居合わせているのか。ウネンが眉間に皺を寄せたその時、風に乗って主館のほうから声が聞こえてきた。
 曲がり角で立ち止まり、声のしたほうをそうっと覗いてみると、主館の出入り口のすぐ脇で、クリーナク王と補佐官ハラバルが中庭を見つめて佇んでいた。
「誰に言われなくとも、自ら自分を律する。頼もしい若者達じゃないか」
 お世辞でも皮肉でもない、本心からそう思っているであろう口調で、クリーナクが呟く。
「ああいった若者がいる限りは、我が国の将来は安泰だな」
「左様ですな」
 ウネンは柱の陰で、一人密かに思いっきり頬を緩ませた。
 中庭に目をやれば、隅っこにしゃがみ込んだモウルを捨て置き、イレナとオーリが模擬戦を始めている。
「ところで、ハラバル。さっき、あの魔術師と何か話し込んでいたようだが」
 再び聞こえてきた会話の内容に、ウネンは驚いて王達のほうを振り返った。
「戦争を始めるのか、と問われました」
「まさか!」
「ええ、そうお答えいたしました」
 ハラバルの声は、どこまでも平坦だった。
「それだけ、正確な地図、というものが、重要だということです」
 淡々と事実を述べる補佐官に対し、王は大きな溜め息で応えた。
「お前はそう言うがな、正直なところ、私にはそこまでのものとは思えないのだ。仮に他国と戦をすることになったとして、あそこまで正確な地図がなくとも、必要な情報は集められるだろう?」
「文字を発明する以前の我らの先祖達に、手紙というものの必要性を問えば、おそらく、今の陛下と同じような答えが返ってくることでしょうな」
 ぐ、と、クリーナクが言葉に詰まる気配がした。
「あの娘の知識は、本物です。このままにしておくのは危険でしょう」
 これ以上ハラバルの話を聞いていたくなくて、ウネンは静かにきびすを返した。音をたてないよう気をつけて、自分達にあてがわれた塔へ戻る。
 渡り廊下を歩きながら、ウネンは奥歯を強く噛み締めた。
 このわざが、チビの小娘には不相応なものだという意見は、聞き飽きた。
 知識は、翼だ。イェゼロの町の精霊使いの、「鷹の目」に匹敵する高みから世界を見つめることができる。たとえウネンのように、非力で貧弱な取るに足りない人間でも。
 こぶしを固く握りしめて、ウネンは星のまたたく空を見上げた。
 もっと高く、もっと遠くまで翔んでいって、いつか世界を手元に写しとってやる。そうすれば、きっと――
『世界は、君の前に開かれている』
 ウネンの脳裏に、懐かしい声がこだました。