トゥレクの報告を聞き終えるなり、ヴルバが憂いとともに口を開いた。
「最近、私の領内でも、子供のかどわかしが増えているようなんだよ。組織立って行われているのか、それとも個々人での犯行なのか、まだはっきりと判らなくて困っているんだけれど、まさか王都でも、とはね」
「面目ない」
クリーナクが悲痛な表情を浮かべた。
ヴルバが慌てて慰めにまわる。
「いや、どこにでも悪い奴はいるものだからね。不運な出来事ではあったが、ここにおれば大丈夫。陛下が守ってくださるからね」
「お前は、人を上げたいのか下げたいのか、どちらなんだ」
クリーナクの溜め息を、ヴルバがきょとんとした表情で受け止める。
「上げるも下げるも何も、城下での出来事は、クリーナクには何の責任もないだろう?」
確かに、イェゼロでも町の治安維持は、町民自らが組織する自警団の仕事だった。街の規模が違うとはいえ、王都も同じようなものに違いない。
大きな溜め息が、またもクリーナクの口から零れた。
「そうだな、我が客人においては、この城におられる限り、何も心配はいらない。どうか存分に寛いでいただければ」
そう言うクリーナクの声音には、どこか口惜しさが滲んでいた。
クリーナクがトゥレクを連れて退出するのと入れ替わりに、スィセルが昼食の準備ができたことを告げに来た。
離れの塔に戻るのかと思いきや、ウネン達が連れてこられたのは、なんと主館の食堂だった。とうとう城の人々とテーブルを囲むことになるのか、と緊張の面持ちでウネンはスィセルに従って扉をくぐった。
予想していたとおり食堂はとても広かった。そして予想とは違って、そこには誰もいなかった。ウネンは安堵半分、拍子抜け半分の心地で、周囲をぐるりと見まわした。
ミロシュの家と診療所を足したぐらいはありそうな広い部屋には、十人は座れそうなテーブルと長椅子の組が縦向きで三列二行並んでいた。天井の高さは一般の家屋とあまり変わらず、一番奥の壁には大きな布が飾られている。向かって左手奥には開口部があり、そこから使用人と思しき人が湯気の立つ鍋を持って入ってきた。
「食事後も、ハラバル様が城に帰ってこられるまで、ウネン様にはこちらでお待ちいただくよう、とのことです」
「あの……、ぼく達だけなんですか?」
広い部屋を見まわすウネンに、スィセルはにっこりと微笑んだ。
「皆さんが用事をなさっている間にお先にいただきましたので、お気遣いなく」
「じゃあ、モウルも先に食べたのね」
イレナがこれ見よがしに胸を撫でおろした。「お腹がすいて死にそうだとか、待ちくたびれたとか、嫌味を言われるところだったわ」と。
ふと、城に戻ってきて以来モウルの姿を一度も見かけていないことに気がついて、ウネンは怪訝に思った。彼なら嫌味を言うよりも先に、何があったのか直接問い質しにやってきそうなものなのに。だからスィセルの次の言葉に、ウネンは驚くよりも先に納得をした。
「それが……、モウル様は、皆様がお出かけになられてすぐに、少し体調が優れないと仰って、お部屋でお休みになっておられるのです」
「え? 大丈夫かな?」と、イレナが気遣わしげな声をあげた。更に小声で「殺しても死ななそうな性格してるのに」と付け加える。
「レディに心配をかけるなんて、魔術師殿も罪作りだね」
芝居の一幕か何かかと思わせる台詞に、一同が驚いて声のしたほうを振り返れば、悪戯っぽい笑みを浮かべたヴルバが、食堂の扉のところに立っていた。
「容態はいかがなのだろう。私の医者をお貸ししようか?」
流石は一領国の主 、王都へやってくるに際し、お抱えの医者も一緒に連れてきているようだ。人が少なくて不自由していると言っていたが、恐らくは、ウネンが考えているよりも多くの家人 を引き連れているのだろう。
「ヴルバ様のところのお医者様は、この城のお医者様の先生にあたる方なのですよ」
スィセルが、そう言って満面の笑みをウネン達に向ける。
「モウル様のご容態ですが、少し前に薬湯をお召し上がりになって、先ほどお食事のお伺いに上がった時はよく眠っておられるようでした。お目ざめになった時にでも、またヴルバ様にご相談させていただけますか?」
「構わないよ。力になれるなら、喜んで」
ヴルバが、優雅な動きで胸に手を当てた。こういった芝居がかった仕草も、彼の手にかかれば、とても自然なものに見える。
「ところで、ヴルバ様は、どうしてこちらに……?」
怪訝そうなスィセルの問いかけに、ヴルバが僅かに言いよどんだ。
「ああ、いや、賑やかで楽しそうだな、と思ってね」
「給仕の者に、ヴルバ様の分だけでも、こちらにお食事を運ぶよう申しましょうか? それとも、ジャルト殿もご一緒に?」
「いや、少し覗きに来ただけだから、いいんだ。それじゃあ、皆さん、楽しいひとときを」
にこやかな笑みを残して、ヴルバは去っていった。
「ジャルトという人が、お医者様?」
初めて聞く名前を、ウネンが問う。
スィセルが朗らかに「いいえ」と答えた。
「お医者様のお名前は、ヅイと仰ります。ジャルト殿は、ヴルバ様の近侍であられます。今朝、客間でヴルバ様の傍に控えてらっしゃった方ですよ。陛下が、今夜の晩餐会にて皆様を主だった方々にお引き合わせしよう、と仰ってましたので、ヅイ様ともその時にお会いできるのではないでしょうか」
「晩、餐、会」
イレナが真っ青な顔で呟いた。
「どうしよう、ウネン、晩餐会に出られるような服なんて持ってきてないわ。いや、そもそも持ってないわ」
「ああっ、どうかお気遣いなく……! あくまでも内輪の集まりですから、ええと、ほら、私も、この服装で臨みますから!」
「ぼくも、この服が一張羅だし。オーリは?」
「まだ大して汚していないから、着替えるつもりはない」
「そう? でも、本当に大丈夫かな、この服で大丈夫かな」
それでもまだおろおろとするイレナに、スィセルが力強く頷いた。
「大丈夫ですよ。王妃様も姫様も、昨夜、剣の稽古をなさるイレナ様をご覧になって、口々に『格好いい』とべた褒めなさってましたから。むしろ、普段どおりの服装のほうが、お喜びになるかと思います」
「見られてた!」
イレナが、今度は顔を真っ赤に染める。いつもは頼もしい友人の、可愛らしい様子に、ウネンは笑みが零れるのを禁じ得なかった。
ハラバルが食堂に姿を現したのは、ウネン達が食後のお茶を楽しんでいる時だった。
控えめなノックの音に続けて、厳めしい表情の補佐官が、物音一つ立てずに室内に滑り込んでくる。
「お食事はお済みですかな」
場に慣れ幾分緩んできていた皆の空気が、あっという間に引き締まった。
「ウネン殿、約束したとおり、少しあなたと話がしたい」
「……はい」
ウネンは、目の端にオーリを意識しながら、ゆっくりと立ち上がった。
午前中の誘拐未遂事件の際、オーリは、ウネンに怖い思いをさせたことを謝っていた。
それは、たまたまウネンが攫われる場に居合わせ、あまつさえ救出まで行った者が、口にする言葉ではない。つまり、オーリは、ウネンが災厄に見舞われる可能性を把握していた上で、人知れずウネンを護衛していた、ということになる。
誰が何のためにウネンを狙ったのか。ウネンが狙われることをオーリはどうして知ったのか。モウルは本当に臥せっているのか。そして、目の前のハラバルは、どういうつもりで、意味のない会談をウネンに求めてくるのか。
果たして、これらの謎には、互いに関わり合いがあるのかどうか。そもそも――
「では、参りましょうか。ウネン殿、こちらへ」
返事に詰まって、ウネンはちらりとオーリに目を落とした。
――そもそも、オーリもモウルも、本当にウネンの味方なのだろうか。
「心配するな」
聞こえるか聞こえないかの小さな声が、オーリから発せられた。
「俺達が守ってやる」
簡潔に、一言だけ。そして、何事も無かったかのように、オーリはカップを口に運ぶ。
ウネンは、静かに目をつむると、胸一杯に息を吸い込んだ。
オーリとモウルのことをどこまで信用して良いのかは、ウネンにはまだ分からない。だが、オーリの、この言葉は信用できる。「怖い思いをさせて、すまなかった」と、秘密裏の護衛について自ら明かすことになるにもかかわらず、悲痛な表情でウネンに頭を下げた、オーリの言葉なら。
それに、何より彼は、これまでもウネンのことを、その宣言どおりに守ってくれていたではないか。
「ウネン殿?」
「あ、はい。今行きます」
頑張ってね、との能天気なイレナの声に見送られながら、ウネンはハラバルに従って食堂をあとにした。
問題の櫓塔は、主館の北、城の内郭はおろか城下の街すら一望できる、一番の高台にあった。
ハラバルの先導で、暗くて長い螺旋階段をのぼり、屋上へ出る扉を開く。
途端に、物凄い勢いの風が、ウネンの顔面を打った。耳元で逆巻く風の音は、まるで肉食獣の咆哮のよう。
塔の屋上は、壁が大人の腰までの高さしかない矢狭間と、大人が頭まで隠れることのできる小壁体の、でこぼことした繰り返しでぐるりを囲まれていた。屋上の中心部分、階段への入り口のすぐ脇には旗台がしつらえられており、遥か頭上ではチェルナの国旗が、青空を背景に誇らしげに風に泳いでいる。
旗台の傍に立つウネンには、壁の向こうに空しか見えなかった。もう少し背が高ければ、全周の地平線を見ることができたのかもしれない。自分は今、真に鳥の眼に近いところにいるんだ、と、ウネンはごくりと唾を呑み込んだ。
「ウネン殿、こちらへ」
ハラバルが、矢狭間から下界を見下ろしながら、ウネンを手招きした。
「御覧なさい」
ウネンは、ハラバルから少し距離を置いた、隣の矢狭間の前に立った。
眼下には、木切れか小箱かといった風情の小さな家々が一面に広がっていた。視線を更に手元に寄せれば、城を取り囲む第一の城壁と、街並みに見られるよりも少し大きな屋根が幾つか。それから、第二城壁の城門塔。主館、中庭、離れの塔。
「ここからだと、周囲が良く見えるでしょう」
ハラバルは、視線をウネンに向けると、ゆっくりと一音一音、言葉を噛み締めるように、語りかけてきた。
「つまり、逆に言えば、周囲からここは丸見えだ、ということでもあるのです」
ハラバルの言葉が終わりきらないうちに、ウネンの耳が鋭い風切り音を捉えた。
間髪を入れず、ウネンの身体を空気の塊が打つ。
衝撃でよろめき、胸壁に取りすがるウネンの耳元、風の音に交じる……〈囁き〉。
ウネンのすぐ傍の小壁体、その外側に、何か固いものが勢いよく突き当たる音がした。
一体何が起こっているのか。ふらつきながら身を起こそうとしたウネンに、今度はハラバルが突進してくる。
ハラバルは、ウネンに覆いかぶさるようにして、そのまま胸壁の陰に身を伏せた。
直後に、ウネン達の頭上の矢狭間を抜けて、階段入り口の扉に突き刺さる、矢。
また、〈囁き〉が聞こえた。今度はよりはっきりと。
階段扉の脇には、いつの間にかモウルが立っていた。矢の飛んできた方角を好戦的な眼差しで見据え、悠然とした態度で右手を振る。
風の音と、〈囁き〉とが、ウネンの耳元で乱舞した。視線を塔の外へと転じれば、三射目の矢が失速して中庭へと落ちてゆくのが見えた。
モウルは、ウネンとハラバルが隠れている矢狭間まで進み来ると、今度は少し目線を下へ向けた。
途端に〈囁き〉がその調子を変える。
「オーリ、城門塔から東に二つ目の城壁塔だ」
呟くようなモウルの声を、すかさず風が攫っていった。
慌ててウネンが矢狭間から下を覗くと、モウルが指示した塔へと駆け込むオーリの姿があった。
塔の上に目をやれば、人影が一つ。床の上に弓矢を投げ捨て、階段に駆け込もうとしたものの、慌てて身を引き、銀色に光る剣を抜く。
耳の奥を爪で引っかかれたかのような風音に遅れて、また〈囁き〉がウネンを震わせた。
微かな悲鳴と朱 とを撒き散らして、塔の上の男が膝をつく。チェルヴェニーとの一戦で、イレナとオーリを取り囲んでいた男達の手に傷を負わせた、あのわざだ。
「よし、捕 ま え た 」
得意げなモウルの声を聞き、ウネンはぎょっとして彼を見上げた。
ぎらぎらと鈍い光を放つ目が、獲物を追い詰める狩人の目が、そこにあった。
その視線の先では、塔の屋上に到達したオーリが曲者を拘束している。
ウネンは、口の中に溢れてきた唾を嚥下した。彼女は、今、あらためて思い出したのだ。モウルとオーリ、彼らがなんのためにウネン達の前に姿を現したのか、ということを。
伝説の魔術師が遣わした、手練れの追っ手。この二人なら、狙った獲物を逃すことなどないだろう……。
* * *
満月が、西の空に傾き始めている。まだ空が白み始めてすらいない朝まだき、診療所の裏に立つ、大小三つの人影。
「どうしても、行くのか」
ミロシュが、絞り出すようにして掠れた声を漏らした。「追っ手だか何だか知らんが、町の皆で追い返せば済む話じゃないのか」
ヘレーが、力無く首を横に振った。
「それは出来ないんだ。どうか分かってくれ」
何度か何かを言いかけたのち、ミロシュが苛 立たしげに頭をかきむしった。
「『黙って出て行かせてくれ』に『理由は聞かないでくれ』か。全く、誰だよ、『今までのお礼に〈三つの願い〉を聞いてやろう』などと気の利いたこと言ったつもりになってたのは」
俺かよ、と、未練の滲む声が、ミロシュの口から吐き出される。
「三つ目の願いも……」
「分かってる。例の小芝居も完璧にこなしてやるから、安心してどことなりとでも行っちまえ」
やけっぱちな調子で、ミロシュがヘレーから視線を背けた。
「ありがとう、ミロシュ。それから、ウネンも」
黙って大人二人のやり取りを聞いていたウネンは、一縷の望みを胸に、ヘレーを見上げた。
「どこへ、行くんですか?」
だが、ヘレーはその問いには答えず、曖昧に微笑んだだけだった。大きな鞄を背に負い、「じゃあ」と右手を小さく上げる。
「ヘレーさん!」
思わず呼び止めてしまったものの、ウネンは、何を言えば良いのか分からなかった。行かないでほしい。まだここに居てほしい。もっと沢山のことを教えてほしい。それが無理だというのならば、いっそ、ウネンも、ともに……。
ヘレーが、ウネンを振り返った。それから、じっとウネンを見つめた。
「いいかい、ウネン。世界は、君の前に開かれている。そのことを決して忘れてはいけないよ」
どうあっても彼は一人でゆくつもりなのだ。そうウネンは心の底から悟った。
ならば、自分が今言うことのできる言葉は、一つしかない。ウネンは、渇ききって引き攣れる喉を叱咤して、「行ってらっしゃい」と絞り出した。
行ってきます、の言葉は、無かった。ヘレーはただ無言で背を向けた。
ヘレーの姿が見えなくなるまで、ウネンはじっと見送った。見送り続けて、もうどこにもあの恩人の背中が見当たらなくなって、そこでようやっとウネンは気がついた。自分が、彼に、きちんとお礼を言えてなかったということに。