夜が明けて、塔の広間で朝食をいただいたウネン達は、近侍スィセルに連れられて主館へとやってきた。目的は、言わずと知れた「昨日の続き」、ウネンがハラバル達の試問を受けるためだ。
昨日クリーナクに謁見した大広間の横を通り過ぎ、廊下を折れた手前側の扉をスィセルがノックする。意外なことに、中から聞こえてきたのは、あの食客 の声だった。
「どうぞ」の声に誘 われスィセルが扉をあけると、光に満ち溢れた部屋が一同を出迎えた。扉を入った正面には、出入り口かと見まがうばかりの大きな窓があり、その向こうには綺麗に手入れされた坪庭が見える。窓は北を向いているため、これだけ明るくても室内はひんやりしていた。宿泊した部屋もそうだったが、厚みのある石造りの壁が、日差しがもたらす熱を遮っているのだろう。この城にいると季節を忘れてしまいそうになるな、と、ウネンは胸の奥で独りごちた。
「よく眠れたかい」
長椅子で寛いでいたヴルバが、右手を上げて挨拶をした。その少し後ろには、まだ少年のあどけなさを残した端正な顔立ちの若い男が、静かに立って控えている。
スィセルの目配せを受けて、ウネンは、「はい。おかげさまで」とヴルバに挨拶を返した。
「それは良かった」
ヴルバはにっこりと微笑んでから、得意げに口の端 を引き上げてみせた。
「こちらの客間は、私のお気に入りでね。あの堅苦しい補佐官殿とやり合わなければならない君達が、少しでも寛げるように、と、ここを使ってもらうように陛下に頼んだんだよ。どうだい、明るくて快適だろう?」
まるで我がことのように、ヴルバが誇らしげに両手を振り広げる。
「それでいて、外よりもずっと涼しいというのだから、まさに天国だね。流石は陛下、そのご威光は、夏の日差しをも屈服させる」
芝居がかった調子で胸に手を当て目を閉じるヴルバに、スィセルが屈託のない笑顔を向けた。
「そういえば、ヴルバ様がこの季節に王都でゆっくりなさるのは珍しいですね」
「我が領地は避暑にもってこいだからねえ。黄金を抱 く山に囲まれた、清涼の地、スハーホラ。君達もどうだい? 招待するよ」
「冬場は寒そうですね」
モウルがさらりと言ってのけた、その肯定的とは言い難 い発言内容に、ウネン達は一様に息を詰める。
「なあに、寒くなったら、王都へ逃げ込めばいいさ」
だが、ヴルバは全く機嫌を損ねた様子もなく、朗らかに返答した。「胡散臭い」の一言を根に持った誰かさんとは大違いだ。
「そうか、避暑があれば避寒もありですね」
モウルは、なるほど、と相槌を打ったのち、事も無げに言葉を継いだ。
「逃げ込むって、ここへ、ですか?」
「ヴルバ様は、城下にお屋敷を所有しておられるんですよ」
と、注釈を加えたスィセルが、「陛下が居候なんて仰るから」と笑う。
「夏の間は屋敷にあまり人を置いていなくてね。それに今回は、こちらへは殆 ど人を連れてこなかったので、不自由で仕方がなくて。それで、クリーナクの厚意に甘えさせてもらっているというわけなんだ」
「美しき友情、ですね。憧れるなあ……」
ねえオーリ、とモウルが相棒を振り返った。
表情一つ変えないオーリの代わりに、ウネンとイレナが冷ややかな眼差しをモウルに突き刺す。
冷たい視線を全く意に介した様子もなく、モウルは再度、朗らかな笑顔をヴルバに向けた。
「つまり、今回のご滞在は、予定外のものなんですね」
「素敵なお客様がお見えになる、と聞いて、お目にかかりたく思うのは当然だろう?」
ヴルバが、同意を求めるように背後を振り仰いだ。
どこまでも控えめな態度で、彼の侍従が静かに頷く。
「川の流れや丘の形すら紙の上に写しとる、鳥の眼を持つ、類い稀なる地図職人。チェルヴェニーの使者がそう言っていたよ。しかも、それが、年端もゆかぬ可憐な少女と聞けば、興味を持たないわけがない。そうだろう?」
可憐な少女、などと言われた上に、真正面から見つめられて、ウネンは思わず身体を硬くした。どう反応すればよいのか分からず、棒っきれのように立ちつくす。
「昨日言っていた、土地の起伏まで記すことができるって、本当かい?」
ヴルバの問いかけが終わりきらないうちに、部屋のもう片隅の扉が開 いてハラバルが姿を現した。
「お集まりのところ、まことに申し訳ないのですが、話の続きは午後にしていただいても構いませぬか。実は、所用で少し出かけなければならなくなってしまったので」
突然の話に、ウネン達は勿論のこと、この部屋に案内してくれたスィセルまでもが、ぽかんとしてハラバルを見やる。
ヴルバもまた、不思議そうな表情を浮かべて、ハラバルに問うた。
「出かける、って、クリーナクもかい?」
「いえ、陛下は城におられますが、陛下には、学問的なことはよく解らぬゆえ、ウネン殿との会談は全てお前に任せよう、とのお言葉をいただいております」
そこでハラバルは一同をゆっくりと見回して、念を押すように語りかけてきた。
「そういうわけですので、申し訳ありませんが、わたくしが戻ってこられるであろう昼食後に、あらためてお付き合いいただけますか」
意向を問われたところで、ウネンには「分かりました」と答えることしかできない。
「それと、申し訳ありませぬが、この部屋は、ウネン殿と測量技術の話をするには、少し不適当ゆえ、場所を変えたいと思います」
「何故だい」
ヴルバが柳眉をひそめるが、ハラバルは表情一つ変えなかった。
「書きものができる机のある図書室か、さもなくば……そうですね、実際に外の景色を見ながらのほうが、分かり易くて良いかもしれませんな……」
しばし考え込んでから、ハラバルは何か納得したように頷いて、一同をゆっくりと見回した。
「ええ、そうですね。この主館の北にある櫓塔にいたしましょう。屋上があまり広くありませぬので、ウネン殿以外の皆さまには、どうかご遠慮いただけたら。都合がつき次第、呼びにまいりますので、それまで自由になさってくださいませ」
ハラバルが退出したのち、さてどうしたものか、と、皆で顔を見合わせていると、ヴルバがやや遠慮がちに口を挟んできた。
「時間が余ってしまったのなら、街を散策してきたらどうだい?」
それはとても魅力的な考えだったが、同時に、叶わぬ望みのようにも思えた。自分達の立場では、勝手に城を出るわけにはいかないだろうし、かといって天下の国王陛下に「暇なので遊びに出たいのですが」とお願いするなど、畏れ多過ぎるというものだ。
目と目を見交わして逡巡するウネンとイレナに、ヴルバが「よし」と胸を張ってみせた。
「私が、クリーナクにお伺いを立ててきてあげるよ。しばらくここで待っていてくれるかい?」
「あ、ありがとうございます」
ウネンとイレナの声が、見事に一つに重なった。
「ねえ、ウネン、あれ、何て書いてあるの? 何のお店?」
イレナがキラキラと目を輝かせて指さす先、鋏を振りかざすカニの絵が描 かれた看板があった。その上に添えられた店名は、
「『アーチェカ理髪店』だって」
「へえー。私はてっきり、カニ専門のお店かと思ったわ」
「それは、料理を出すほう? それとも材料を売るほう?」
「料理に決まってるでしょ!」
決まってるかなあ、と、内心首をかしげつつ、ウネンは懐から地図を出した。出がけにスィセルがしたためてくれた、街の簡単な案内図だ。「ウネン様に私が地図を書いて差し上げるなんて」と随分恐縮していたが、主要な街路を中心に、街の見どころや主な商店などを簡潔に記した、とても分かり易い地図だった。
別段、地図というものは、精密であればあるほど良いというものではない。使用する目的や使用者の状況に応じて、記載する情報を的確に取捨選択してこそ、「良い地図」というものなのだから。ウネンの地図にしても、出来るだけ正確に地形を写しとるように努めてはいるが、その一方で、地質や植生といった情報は完全に抜け落ちてしまっている。勿論それらは、制作者であるウネンが「必要ない」として切り捨てた情報なのだから、地図に記載されなくて当然ではあるのだが。
「ねえ、トゥレクさん、次、この、市 が立っているという広場に行ってみたいんですけど」
ウネンの手元を覗き込みながら、イレナが、つかず離れずの位置に控えている近衛兵のトゥレクに話しかけた。
街を散策するにあたって、オーリもモウルも「王都は初めてじゃないから」と、城に残ることを選んだのだ。その代わりに、と、トゥレクがウネン達の護衛を務めてくれている。あまり大袈裟にならないよう、トゥレクは兵装を解いているが、見るからに頑丈な体躯に厳つい顔は、都会の雑踏を切り進んでゆくに際して、とても心強い存在だった。
トゥレクの案内で、ウネン達は角を曲がった。地図にはない細い道だが、ここからだとこれが一番の近道ということだった。
人通りの少ない路地に、弾むイレナの声が響く。市 にどんな店が出ているのか、どんな物が並んでいて、どんなものが人気なのか。イレナに質問攻めにされているトゥレクを助けるべきか否か悩みつつ、ウネンも二人のあとをついてゆく。
ふと、朝方に客間でハラバルが言っていたことを思い出し、ウネンは眉を曇らせた。
城の櫓塔の屋上で、実際の風景を見ながら話をしたい。それも、ウネンと二人きりで。
昨夜、ハラバルと王の会話を立ち聞きしたかぎりでは、ハラバルは、ウネンの測量技術が本物であると認めてくれていた。ならば、今更一体何の話をしようというのだろうか。そもそも、話をするにあたって、狭い櫓にわざわざ上って実際の風景を見る利点など、どこにもないというのに。
夜のしじまをぬって聞こえてきた、静かな声音が、ウネンの脳裏に甦る。
『あの娘の知識は、本物です。このままにしておくのは危険でしょう』
まさか――
ウネンの中で、のそりと鎌首をもたげる不吉な考え。だが、それは、突然背後から口を塞がれたことによって、強制的に中断させられた。
何者かの手が、瞬時にウネンの口に何かごわごわとした布を噛ませた。
驚きのあまり両手をばたつかせるも、布ごと頭を後ろにぐいと引っ張られ、ウネンはあえなく体勢を崩した。即座に別な手がウネンの腰にまわされ、そのままウネンを脇道へと引っ張り込む。
考え事をしていたせいで、イレナ達から少し遅れてしまっていたのが良くなかった。ウネンは何とかして二人に異変を知らせようと、口元の布をむしり取ろうとした。だが、逆に布を後頭部できつく縛り上げられたばかりか、両手を下へと引き戻され、何か大きな袋のようなものを、勢いよく頭からかぶせられてしまった。
間髪を入れず、何者かが袋ごとウネンを担ぎ上げた。
抵抗しようにも、足の先まですっぽりと布に包まれてしまっては、身体を曲げたり伸ばしたりすることぐらいしかできない。そして、どんなに頑張って身体を跳ねさせたところで、ウネンを軽々と持ち上げるような人物相手には、何の効果もないだろう。叫び声をあげようとしても、口に食い込む布が邪魔をして、くぐもった唸り声が漏れるだけ。
しかし、それでもウネンは必死に暴れ続け、唸り続けた。イレナではなくとも誰か他の人が、人攫いの存在に気づいてくれないだろうか、と、祈りながら。
二度目の角を曲がった、と思った次の瞬間、ウネンの身体を衝撃が襲った。運び手が急に止まったのか、それとも何かにぶつかったのか、怪訝に思う間もなく、ウネンは大きく二度ほど前後に揺さぶられ、そのまま何か固いものの上に転がされた。
間を置かずに聞こえてきたのは、入り乱れる複数の足音に、金属と金属が擦れる鋭い音。
今しかない。限られた空間の中、ウネンは無我夢中で手足を動かした。足元に風を感じるや、全身を使って布を少しずつ頭上へたくし上げていき、なんとか足から袋を脱出する。
猿轡を緩めながら顔を上げたウネンは、すぐ目の前に、見慣れた背中を見た。剣を構え、ウネンを守るようにして立つ、広い背中。
「オーリ!」
ウネンの声に、オーリの向こうに立つ二人の覆面男の注意が、一瞬逸れる。
すかさずオーリが、懐から小さな光るものを取り出した。口に軽く咥えるや、驚くほど鋭い音が辺りに響き渡る。
オーリがもう一度銀色の呼子を吹き鳴らすと同時に、後ろのほうから騒がしい足音が近づいてきた。「ウネン!? ウネンなの!? ウネンどこ!?」と、鬼気迫るイレナの声も一緒に聞こえてくる。
覆面男二人は、派手な舌打ちとともに背を向けて、そうして脱兎のごとく逃げていく。
男達が見えなくなったのを確認してから、オーリが溜め息とともに剣を収めた。
「ウネンってば、急にいなくなるから、びっくりしたじゃない! 一体何があったの? ていうか、なんであんたがここにいるの?」
息せき切って駆けつけてきたイレナが、ウネンとオーリを交互に見ながら、矢継ぎ早に問いかけた。そうこうしているうちに、横の路地からトゥレクも飛び出してきて、やはり「何があったのですか?」と青い顔で訊いてくる。
ウネンは、身体のあちこちが鈍く痛むのを誤魔化し誤魔化し立ち上がった。
「いきなり、後ろから口を塞がれて、横道に引っ張り込まれた」
「ええっ!」
イレナとトゥレクが覿面 に血相を変えた。やはり、ウネンが攫われたことに気づいていなかったようだ。
「この袋をかぶせられて、ここまで運んでこられたところで、オーリが助けてくれた、んだよね?」
ウネンが傍らを見上げると、「ああ」と、事も無げな返事が降ってきた。
「え? なに? 私達のあとをつけてたの?」
眉をひそめながら詰め寄るイレナに、ぶっきらぼうな声が言葉を返す。
「たまたま通りがかっただけだ」
「ええええ?」
オーリの答えに、イレナとトゥレクが声を揃えて目を剥いた。
「たまたま? 通りがかったの? この広い王都で?」
「ああ」
「何か……どなたかの指図で動いておられたというわけでは……?」
「偶然だ」
見事な仏頂面の前に、イレナもトゥレクも、疑いの眼差しはそのままに不承不承口をつぐむ。そんな三人の様子を見て、ウネンは思わずふき出した。
ほっとしたせいか、それを皮切りにあとからあとから笑いが込み上げてくる。いつしかウネンは、身体を折り曲げて、声を出して笑い転げていた。
「……大丈夫か」
心配そうなオーリの声が聞こえるが、笑うのを止められなくて返事ができない。
肺の中の空気が全て絞り出されて、からからに渇いた喉がひゅうひゅう音をたてても、胃の辺りの震えは一向に収まらず、また新たな風が喉の奥へと吸い込まれていく。けたたましい笑い声をどこか他人事のように聞きながら、ウネンは、まるで水車に繋がれたふいごのように、胸を膨らませては萎ませた。何度も何度も。途切れることなく。
と、身を屈めて笑い続けるウネンの視界にイレナの靴が飛び込んできた。
引き寄せられ、抱き締められ、背中をとんとんと叩かれる。
「怖かったよねえ。でも、もう大丈夫だから。大丈夫だからね」
優しい声が、すとん、とウネンの腑に落ちた。ああそうだ、怖かったんだ、と。
本当に、本当に、怖かったんだ。
視界を、身体の自由を奪われ、どことも知れぬ場所へと運ばれようとしていたあの時、心のどこかで、もう皆のところへは戻れないんじゃないか、と思っていた。助けを求めるためというよりも、恐ろしい未来を認めたくない一心で、ウネンは暴れ続けていたのだ。
イレナの体温が、こわばってしまっていたウネンの身体をゆっくりと溶かしてゆく。ウネンを笑いに駆り立てていた恐怖の残滓が、ようやく那辺へと引いていった。
「怖い思いをさせて、すまなかった」
ウネンが落ち着くのを待って、オーリが苦渋の声を漏らした。
ウネンは、たっぷり一呼吸の間、じっとオーリを見つめ……、それから「ううん」と、首を横に振った。
「助けてくれて、本当にありがとう」
オーリが、不意を打たれたかのように一瞬たじろいだ。そうして、眉間に皺を刻んで、ウネンから視線を逸らした。