あわいを往く者

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九十九の黎明 第三章 逃げる者、追う者

  
  
 地震が起きた日から二週間が経った。
 日ごとに、帰らぬ者を探す人々の姿が減り、帰らぬ人を送る者達は増え続けた。弔いの鐘の音が、町の空に延々と鳴り響き続ける中、ミロシュの診療所は、押し寄せる怪我人や病人で相変わらず混み合っていた。
 地震が起こったのが冬や夏といった厳しい季節だったらば、今、診療所に列を成す人々の中からも、何人もの更なる死者が出てしまっていたことだろう。だが、幸いにも今は艶陽えんよう、花咲き乱れる晩春である。家を失った人々が寒さに凍えることもない。
 それに今回の地震では、水害や日照りと違い畑や果樹には大した被害が出なかった。今は食料が不足していても、もう少し我慢すれば、小麦の収穫の季節もやってくる。依然として余震は続いていたが、人々は、一人、また一人と俯いていた顔を上げ、少しずつ前へと進み始めた。
 ヘレーとウネンはあの日以降森へは帰らず、ミロシュの家に泊まり込んでいた。ヘレーはミロシュとともに怪我人の手当てを、ウネンはゾラの手伝いを、それぞれ自分にできる精一杯の仕事を、日々確実にこなしていった。
 その日も長い一日が終わり、ウネンは診療所の奥にあるミロシュの家の居間で、ゾラと遅い夕食を摂っていた。
 ミロシュよりも一足先に仕事を切り上げたヘレーが、シモンを診に二階へあがる。
 ゾラ達がヘレーの分の食事を食卓に並べ終えた時、どかどかと乱暴な足音とともに、ミロシュが居間へと飛び込んできた。
「どういうことだ、ヘレー!」
 声を荒らげたはいいが、室内に肝心の本人の姿が見えないことに気づいて、ミロシュはばつの悪そうな表情で口をつぐむ。
「ヘレーさんなら、さっき、シモンを診察しに上へ行ってくださったわよ」
「あ、ああ、そうか」
「何があったの? そんな怖い顔をして」
 咎めるようなゾラの問いを受けて、ミロシュがきまり悪そうに頭をかいた。「いや、その、なんだ」と、口ごもりながら、視線を宙に彷徨わせる。
 しばしのち、階段の軋む音が上のほうから聞こえてきた。
 ミロシュは、再び眉間に深い皺を刻んだ。居間に下り立ったヘレーの前へと大股で進みゆき、仁王立ちになってその進路を塞ぐ。
「ヘレー、お前、アムに子供のことを訊かれて、地震で死んだ、と答えたそうだな。さっきアムの奥さんから、お悔やみを伝えてくれと言われたぞ」
 驚きの声を漏らすゾラの横で、ウネンは静かに記憶の糸を手繰った。三年前に小屋を修繕してくれた大工さんが、確かアムという名前だったはず、と。
 ミロシュは、ヘレーをじっと睨みつけ、殊更に低い声で凄みをきかせた。
「どういうつもりか知らんが、勝手に死んだことにされたウネンの気持ちを考えてみろ」
「ウネンはもう承知してくれている」
「なんだって?」
 素っ頓狂な声ののち、ミロシュがウネンを勢いよく振り返った。
 ウネンは、ミロシュにゆっくりと頷いてみせる。
 わけが解らないという顔で呆然と突っ立つミロシュをよそに、ヘレーは、独白にも似た調子で、淡々と話し始めた。
「独り身を装うことができればよかったのだが、子供の存在を知っている人がいる以上、それは無理だというものだろう。だが、幸い、君達一家以外に、ウネンの顔や名前をはっきりと認識している者はいないようだから、今ならまだなんとかなる」
「どういうことだ」
 ミロシュの険しい眼差しを、ヘレーは真っ向から受け止めた。
「ミロシュ、これからは、ウネンと私とを、互いに赤の他人として扱ってほしい」
「だから、どういうことだと言ってるんだ!」
 再びミロシュが声を荒らげるも、ヘレーの表情は僅かとも揺るがない。
「どうして私達が町へ出てこないのか、君は再三に亘って訊いていたな」
「……ああ」
 話の行く先が読めないのだろう、心持ち不安げにミロシュが首肯する。
 ヘレーはそっと目を伏せた。
「私は……かつての仲間から追われているんだ」
「追われている?」
 おうむ返しに聞き返してから、ミロシュは大きく両の眉を跳ね上げた。
「って、お前がここに来たのは、六年も前だろう。これだけ月日が経っても、まだ追われているというのか?」
 ヘレーが、無言のままに顔を背ける。
 ミロシュが大きな溜め息をついた。
「一体お前は、何をやらかしたんだ」
 ウネンは、ミロシュとヘレーとを交互に見つめた。
 先刻ヘレーが言ったとおり、ウネンはミロシュに先んじて、既にヘレーからこの件について告げられていた。だが、全ての発端である「何故ヘレーが追われる身となったのか」については、ヘレーは一切教えてくれなかったのだ。
 もしかしたらヘレーは、ミロシュにならその理由を語るのではないか。ウネンの期待もあえなく、ヘレーは静かに目を伏せただけだった。
 そんなヘレーを、ミロシュはしばし黙って睨みつけていた。そうして、もう一度深い溜め息を吐き出して、そっと眉間の皺を消した。
「俺も、それなりに人を見る目はあるつもりだ。お前が悪い奴じゃないのは、見てて分かるさ」
 ありがとう、と、掠れた声が、居間の空気を揺らした。
 ミロシュは、仕切り直しとばかりに大きな動作で両手を腰に当て、ヘレーの顔を覗き込む。
「で、その追っ手に見つかるかもしれない、と、お前は考えているんだな」
「かもしれない、ではないんだ。ひとところでこれだけ派手に活動すれば、間違いなく私は捕捉されるだろう。あとは、もう、時間の問題だ」
 ヘレーは、今まで見たこともないぐらいに切羽詰まった表情を浮かべて、ミロシュを正面から見つめ返した。
「私は、君達を、何よりウネンを、この面倒事に巻き込みたくない。君達なら、私とは単なる商売上の付き合いしかなかった、と言い張ることができるだろう。だが、ウネンの場合はそうはいかない。だから、どうにかして私とウネンの結びつきを隠す必要がある」
「ヘレー、まさか、お前……」
 ミロシュが、大きく息を呑む。
 ヘレーが、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「ミロシュ、君はこの間、三つの願いを聞いてくれる、と言ってくれたね」
 シモンの命を助けてくれた礼をしたい、とのミロシュの申し出を、ヘレーは頑なに辞退していた。「俺の気が済まない」と何度も訴えかけるミロシュに対し、ヘレーがあまりにも頑固に首を横に振るものだから、ついにはミロシュは、冗談めかせて童話をもじるに至ったのだ。
 おそるおそる首を縦に振るミロシュに、ヘレーは右手の指を一本ずつ順に立ててみせた。
「一つ目、追われている理由について、もうこれ以上詳しいことを訊かないでほしい。二つ目、時が来たら黙って出て行かせてほしい。そして、最後の一つは……、どうかウネンを、君のところに置いてやってくれないだろうか。ウネンのために町に出てこい、と言っていた君ならば、私が何を考えてこの結論に至ったか、理解してくれるだろう?」
 ミロシュは、しばらくの間、微動だにしなかった。ただ無言で、ヘレーを見つめ続けた。
 やがて彼は、ふらついた足取りでテーブルのほうへあとずさると、糸が切れた操り人形のように、傍らの椅子にがくりと腰をおろした。
「どうあっても、一人で出て行く、と、そういうことなんだな」
「ああ」
 静かに頷いて、それからヘレーは、懐から袋を取り出した。
 ウネンには、その袋に見覚えがあった。旅をしていた頃から、いつも鞄の底に大切に仕舞い込んであった、非常用の革袋。先刻、二階のシモンの部屋でミロシュの声を聞いて、部屋から持って降りてきたのだろう。
 ヘレーは、テーブルの上にその中身をあけた。
 幾つもの輝石や、黄金色の貨幣が、ランプの光を反射して部屋中に光を振り撒いた。
「こんなものではとても足りないだろうが、これをウネンの養育費に……」
 ヘレーが終いまで言いきらないうちに、ミロシュが「要らねぇよ」とぶっきらぼうに口を開いた。
「俺を見くびるなよ、ヘレー。そんなものが無くったって、子供の一人や二人、余裕で養ってやるさ」
 ミロシュの瞳には、もう一片の迷いも見られなかった。
 とはいえ、ミロシュはすぐに何かに思い当たった表情を浮かべ、少しだけ遠慮がちに、「構わないよな」とゾラに同意を求める。
 ゾラは、にっこりと微笑むと、傍らに立つウネンの肩を力強く抱き寄せた。驚きのあまり硬直するウネンに、悪戯っぽい表情で片目をつむってみせる。
「勿論よ。二人目は女の子がいいなあ、って、ずっと思ってたから、願ったり叶ったりだわ!」
「それに、ウネンはお前から色んなことを教わってるんだろ? シモンの奴よりも頼りになりそうじゃないか。大歓迎だ」
 そう言って、ミロシュはウネンに笑いかけた。
 ウネンは、ゾラに肩を抱かれたまま、ミロシュに心から「ありがとうございます」と礼を言った。
 勿論、来るべきヘレーとの別離を考えるだけで、ウネンの胸は万力に締め上げられたかのようにぎりぎりと痛んだ。だがそれでも、自分という存在が、そしてヘレーの望んだことが、ミロシュとゾラに受け入れられたという事実は、闇夜にまたたく星のように、ウネンの心をほんの少しだけ明るくしてくれたのだ。
「ありがとう、ミロシュ、ゾラさん。ウネンも……私の我が儘に付き合わせてしまって済まないな……」
 ヘレーが、ほっと安堵の溜め息をついて、一同をゆっくりと見回した。
 ウネンは、返すべき言葉をすぐに見つけられず、ただ一心に首を横に振った。
  
 四人で相談した結果、「ウネンは行商人の子供で、たまたまイェゼロの町に来ていた時に震災に巻き込まれ、両親を亡くしたため、親の友人であるミロシュに引き取られた」という物語が出来上がった。これから先は、この筋書きを積極的に町の人間に広めていくことになる。
「追っ手が来るぎりぎりまで、全力で君の手伝いをするよ」
「馬鹿言え。どう考えても、俺がお前の手伝いをしている状況だろうが」
 ミロシュの、見事なまでに不貞腐れた表情を見て、ゾラがふき出した。つられて、ヘレーとウネンも、そしてミロシュ本人までもが顔をほころばせる。
 四人の笑い声が、しばし夜の帳を揺らめかせた。
  
  
 それから二箇月と半分が過ぎ、とうとう別れの日がやってきた。
 余所者がやってきたら教えてくれ、と頼んでおいたミロシュの知人の一人が、隣領で見知らぬ二人組がヘレーのことを聞き込んでいたことを教えてくれたのだ。
 その日のうちにヘレーは出立の用意を済ませ、翌朝、まだ暗い中、ミロシュとウネンの二人に見送られて、診療所をあとにした。
「いいかい、ウネン。世界は、君の前に開かれている。そのことを決して忘れてはいけないよ」
 それが、ヘレーが残した最後の言葉だった。
「行ってらっしゃい」
 微かな期待をかけて、ウネンはヘレーに呼びかけた。行ってきます、と、またここへ帰ってくるための言葉を期待して。
 ヘレーは、刹那、目を見開き、それから少し寂しそうに笑って、何も言わずに去っていった。