あわいを往く者

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九十九の黎明 第三章 逃げる者、追う者

  
    * * *
  
 夜風がウネンの頬を優しく撫でる。
 満天の星に見守られながら、ウネンは静かに言葉を継いだ。
「地図制作の依頼が町の外からも舞い込むようになって、ぼくは思ったんだ。こうやって少しずつ範囲を広げていって、いつか世界地図を作るようになったら、そうしたらまたヘレーさんに会えるかも、って。そうして、今度こそ、きちんとお礼を言いたかった。ぼくを引き取ってくれて、育ててくれてありがとう、って」
 足元に置かれたカンテラの光が、周囲を淡く照らしている。時折揺らめく橙色の炎だけが、今が確かに今であることを示してくれているようだった。
 ここは、クージェの城で一番見晴らしの良い櫓塔、昼間にウネンが矢での襲撃を受けた屋上だ。晩餐会が終わるなり、ウネンはモウルとオーリとともにこの塔の屋上へとあがってきた。ここならば誰に盗み聞きされる心配もないだろう、とのモウルの言葉どおり、見渡す限りの夜空の下に、ウネン達三人の他にひとけはない。
 全てを語り終えたウネンは、残る二人を交互にゆっくりと見やった。
「ヘレーさんは、自分を追っているのは『かつての仲間』だと言っていた。そして、夕方、あの部屋でオーリは、『里』って言ったよね」
 主館二階の控えの間にて、「君が、死んだはずのヘレーの子供でしょ?」とモウルがウネンに問いかけた時、オーリが即座に異議を唱えたのだ。「それじゃあ年齢が合わない」と。
『あんたは今十五歳なんだろう? あいつが里を出たのも十五年前だ』
 オーリの言葉を今一度頭の中で復唱して、それからウネンは声に力を込めた。
「約束どおり、ぼくは本当のことを言った。だから、そっちも本当のことを教えて」
 はあ、と、大きな溜め息ののち、モウルがオーリをねめつけた。それから、眉間の皺を緩めて、肩をすくめた。
「血の繋がりが無いであろうことを敢えて伏せて煽った僕が悪かったよ……」
「煽っていたのか」
「まあ、あれだ。新しい伴侶を得て、子供をもうけて、ってなふうに、第二の人生を謳歌していたわけじゃなかった、ってことさ」
 オーリに苦笑を投げかけてから、モウルはウネンのほうに向き直った。そして、いつものあの得意げな眼差しで、右の口のを引き上げた。
「ちなみに、僕は、君の生まれ故郷こきょうがロゲン近郊じゃないか、と踏んでいる。どう、当たってる?」
「ヘレーの足跡そくせきが一度完全に途絶えたのが、そのあたりだったからな」
「種明かしが早過ぎるよオーリ!」
 抗議の声をあげるモウルに、涼しげな表情で視線を逸らせるオーリ。二人とも、いつになく機嫌が良いように見えるのは、きっと、ウネンから新たな情報を聞き出すことができたからだろう。
 君がヘレーの子供でしょ、との指摘に対し、無理にとぼけることもできなくはなかったが、ウネンは、正直に話す、という選択肢を選んだ。ウネンの持つ情報と引き換えに、彼らにも「嘘」を手放してもらうために。そして何よりも、彼らが敵か味方かはっきりしない現在のこの状況に、ウネンはすっかり辟易してしまっていたからだ。
「『ロゲンの地図を作って』って言ったのは、ぼくに揺さぶりをかけていたんだね」
「ご明察」
 モウルが、実ににこやかな笑みを浮かべた。
「まさか彼が子供を連れているなんて、誰も思っていなかったからね。それで、ロゲンで一旦追跡の糸が途切れてしまったんだろうね」
 そう言って、モウルは傍らのオーリを見た。「そうだな」と言う相棒の相槌を得たのち、再びウネンと視線を合わせてくる。
「でも、彼が医業を行う限り、再び捕捉されるのは時間の問題だっただろう。そういう意味では、君を連れて一年で、森の中に引き籠もったのは、大正解だったと思うよ」
 人里と距離を置き、ひっそりと隠れ過ごした六年間。ウネンにとっては、申し分のない楽しい日々であったが、ヘレーにとっては、どうであったのだろうか。そんな疑問があらためて胸の中に湧き上がってきて、ウネンは奥歯を噛み締めた。最終的にヘレーがたった一人で町を出ていった事実を考えると、間違いなくウネンの存在は、彼の足枷となっていたに違いない。
「それにしても、まいったなあ。ここまで赤裸々に語ってもらったからには、僕らもそれなりにお返しをしなきゃならないような気がしてきたぞ」
 ふう、と大きく肩を落として、モウルは、苦笑とも巧笑ともつかない笑みを浮かべた。傍らのオーリを見やって、「どうする?」とでも言いたげに両眉を上げる。
 オーリが、大きな溜め息を吐き出して、一歩前に出た。
「俺達とヘレーは同郷だ。彼が無断で里から持ち出した秘伝の書を取り戻すために、彼を追っている」
 口が達者なモウルではなくオーリが語り始めたということに、ウネンは少し驚いたが、すぐに気持ちを切り替えて、オーリに問いかける。
「伝説の魔術師『ノーツオルス』の依頼というのは嘘だったんだ」
「……全部が嘘、というわけではない」
「じゃあ、どこまでが本当なわけ? そもそも、ぼくが聞いたことのある『ノーツオルス』と、君の言う『ノーツオルス』って同一人物なの? それ以前に『ノーツオルス』って本当に存在するの?」
 しばらく待ってみても、オーリは何も答えなかった。相変わらずの仏頂面で、口を横一文字に引き結び、眉間に深い皺を刻んでいる。
 ウネンは、これ見よがしに溜め息をついた。
「ぼくを監視してる、って言ったよね」
 ウネンの言葉を受けて、先刻とは逆に今度はオーリがモウルを睨みつけた。
 モウルが、白々しいすまし顔で、明後日の方角を向く。
 オーリは、しばらくの間冷ややかな目つきでモウルを見つめていたが、やがて諦めの表情でウネンに視線を戻した。そうして、一音ずつに力を込めるようにして、静かに語りかけてくる。
「知識は、ちからだ。そして、不必要に大きなちからは、世にいらぬ軋轢を生む。今回のヴルバのことがいい例だ」
「でも、ヘレーさんは、ぼくが知る限り何も揉め事をおこしていない。それどころか、沢山の人を助けてくれた」
 そこで言いよどむオーリに代わって、モウルが静かに口を開いた。
「今のところは、ね」
 それはどういう意味なのか。ウネンの表情を読んだか、彼女が問うよりも先に、モウルが説明を付け足した。
「この先も彼が善い人であり続ける保証はどこにもない。それに、彼が良かれと思ってとった行動が、裏目に出ないとも限らない」
「それは、誰でも――ぼくは勿論のこと、たとえ君達でも――同じことだ。そして、ぼくには、君達のほうがヘレーさんよりも胡散臭く思える」
「そりゃあ、この間知り合ったばかりの奴よりも、何年も一緒に暮らしてきた人間のほうが、信用おけて当然でしょ」
 やれやれ、と、これ見よがしに肩をすくめるモウルに、ウネンは思うさまムッとした表情をしてみせた。それから、腹の底に気合いを込めて、ここぞとばかりに切りつける。
「そういう問題じゃない。君達が未だ嘘を言っているからだ」
 その刹那、オーリが、ぐ、と息を詰めた。
 ウネンを見つめるモウルの目が、僅かに細められる。
「君達の目的は、秘伝の書を取り返すことだけじゃない。だって、ヘレーさんに勉強を教わったぼくも監視対象になるんだからね。それに、さっきモウルは『知識の拡散を防ぐ』とも言った。ということは、秘伝の書と一緒にヘレーさんも連れ戻す必要があるはずだ」
 ウネンは、主館の控えの間で聞いたモウルの言葉を思い返していた。臓腑が冷えるほどの恐怖に再び襲われながら、気力を振り絞って、話を続ける。
「なのに、君達はそのことをまったく考慮してないように見える。加えて、君達の前任者の、『お前を決して許さない』という言葉……」
 そこで一旦言葉を切って呼吸を整えてから、ウネンは二人を交互に睨み据えた。
「正直に答えて。君達はヘレーさんを殺す気だね」
 一際強い風が塔の屋上を走り抜け、カンテラの炎が三人の影を大きく揺らめかせた。
 モウルも、オーリも、何も言わなかった。無言のまま、身動き一つせず、静かな眼差しをウネンに注ぐ。
 沈黙の指し示すもの。それが何か理解したウネンは、精一杯眉を吊り上げると、二人に向かって宣言するように言い放った。
「ヘレーさんを、殺させやしない」
 息苦しいほどの静けさが、しばし辺りを支配した。風の音と揺れる炎だけが、過ぎ行く時を刻み続ける。
 唐突に、オーリが深く嘆息した。
「明確に『殺せ』という命は受けていない。ただ、状況によっては、それもやむなし、とは言われている」
 淡々と言葉を返すオーリの横で、モウルが、「言っちまった」と言わんばかりの表情を浮かべて、右手で額を押さえる。
 オーリは、表情一つ変えずに、更に語り続けた。
「だが、俺も、ヘレーを殺すつもりはない。奴には果たすべき責任がある。生きて里に戻ってもらわなければならん。罪をあがなうのはそのあとだ」
「罪? 貧しい娼婦の子供に勉強を教えたことが? 怪我人や病人の命を助けたことが!? 知識が災厄を引き寄せるとか言うけど、ぼくにとっては君達こそが災厄だ!」
「そのせいで人の世が滅ぶかもしれなくとも、か!」
 オーリが語気を荒らげた瞬間、突然のあの〈囁き〉が、ウネンの胸でぱちんと弾けた。
 ウネンが息を呑むのとほぼ同時に、オーリが、頭を押さえて上体を折る。
「大丈夫か! オーリ!」
 モウルが血相を変えてオーリの傍に駆け寄った。
 相棒の手を支えに、オーリがゆっくりと顔をあげる。大きく肩で息を繰り返して。
 モウルに助け起こされるオーリを見下ろしながら、ウネンは思い出していた。
 旅の途中、そして、森の中、ヘレーがウネンに勉強を教えてくれている時にも、今と同じようなことが何度もあった。ふとした拍子にウネンの耳元を声なき〈囁き〉が震わせたかと思えば、そのたびに、ヘレーは僅かに顔をしかめ、痛みをこらえるかのように頭を押さえていた。
「大丈夫か」
 モウルが、もう一度同じ言葉を繰り返した。その表情からは、いつもの飄々たる余裕が、きれいさっぱり削ぎ落とされている。
「大丈夫だ」
 苦笑とともに応えるオーリの声に、かつての、「大丈夫だよ」と微笑む声が重なる。
 しかし、懐かしい記憶は、オーリの次の言葉によって、粉々に打ち砕かれた。
「ヘレーは、逃亡の際に、何の罪もない一人の人間を殺めている。それが、奴の犯した罪だ」